7月31日の説教要旨 「神の国に生きる」 野村 信 先生(東北学院大学教授)

ヨエル書3:15 ルカ172024

 はじめに

私は、近頃、忙しい日々を過ごしていますが、幸いを感じて働いています。御言葉を説き明かす人間として喜んで働いています。以前には、なかった感覚ですが、最近は「神の国」が見える感覚があります。「神の国」が感じられるとも言えます。それで、「神の国」について、聖書の御言葉から説き明かしていきたいと思います。

 「神の国は見える形では来ない」

今日の新約聖書箇所(ルカ17:20-24)には、ファリサイ派の人々が常に議論していたことが書かれています。「神の国はいつ来るのか」そして、「神の国の人々はどんな生活をするのか」と。それについて、イエス様ははっきりおっしゃいました、「神の国は見える形では来ない」と。ここの「見える」という言葉の元々の意味は「観察する」です。指し示せるものではありません。イエス様は続けて言われました。「神の国はあなたがたの間にある」と。ここから4つのことを学びたいと思います。

 ①信仰を持って神の国を見る

「神の国」は肉眼では見えません。イラストで描いたりできません。ただ、イエス様は「神の国」について、多くの例え話をなさいました。この例え話から「神の国」を類推するように、私達信仰者は求められています。「信仰を持って神の国を見る」ことが求められています。「神に対する信仰・希望・愛と持ちながら、また、聖霊の力によって、霊的まなざしによって『神の国』は見える」と言えます。

 ②「神の国はあなたがたの間にある。」

この「ある」という動詞はギリシア語の現在形で書かれています。「神の国は、今、あなたがたの間にある!」とおっしゃっています。さて、マルコによる福音書の初めには「時は満ち、神の国は近づいた」という御言葉があります(1:15)。この「近づいた」という動詞はギリシア語の完了形です。すでに来た!すでに神の国は広がっているとキリストはおっしゃっています。信仰者は「神の国」、すでに来ている「神の国」を見ている、または、見ることができるというのです。

 ③「神の国は、人間と人間の間にある」

信仰者は、神と私との関係、私は救われているかという問題を大事に考えますが、主の御言葉によると、「神の国」は「人と人の間」、つまり、共同体的であり、複数的に広がっていると言えます。マタイによる福音書18:20には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」という御言葉があります。イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えられたと同時に「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37-39)とおっしゃっています。ですから、共同体の救いを重んじられていることがわかります。共同体とは、教会の中にあります。教会において「神の国」が広がっているのです。

 ④未来に完成された「神の国」が来る

今、「神の国」が来ていると話しましたが、完全な形の「神の国」は、未来にやって来ることも私達は知らされています。信仰者は、死んだ後に神の許に生きると保証されています。その完成された「神の国」は、地上に広がっている「神の国(教会)」を通しておぼろげに見ており、未来には、完全な「神の国」を、顔と顔を合わせて見る(Ⅰコリ13・12)ように、はっきりと見ることができると使徒パウロは伝えています。

 「神の国が見える」とは?

イエス様はヨハネによる福音書で、神の国が見えること、または、神の国に入ることについて、こうおっしゃっています。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(3:3)。」続いてこうあります。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(3:5)」このことは、逆に言えば、このように言い変えることができます。「人は新たに生まれれば、水と霊とによって生まれれば、神の国に入れる。」と。「神の国が見える」とか「神の国に入る」ことは、端的に言って難しいことではありません。信仰を持って神と共に生きている時、信仰者は「神の国」を見ていると言えます。

 信仰はどんなふうに神の国を感じるのか。

「信仰者はどんなふうに神の国に生きていると感じるのか」という問いに対しては、まことの命の賦与者である神を愛し、人を愛することを通して、神の国を感じていると言えます。つまり、信仰を持って「神の国」を見ているのです。歴史上、そのような信仰者は無数にいます。教会の歴史を振り返れば、たくさんいます。キリストの弟子もそうですし、パウロ、アウグスティヌス、ルター、パスカルなどの証しが多数あります。東北学院大学も「神の国」を見た人々により造られたと言えます。特に、3校祖の押川方義師、ホーイ師、シュネーダー師はそのような方達です。彼らの働きを見てもわかるように、「神の国」を見た人々が行うことは、「神の国の建設に参与し、その道具となること」です。「神の国」は今あり、そして、未来に向かって生きているものであり、神が先に立って導いておられるとも言えます。信仰者は信仰を持って見つめるのです。「神の国」は今もう始まっており、信仰者は、未来の完成された「神の国」を心に刻み、努力していくものです。

 「霊的働き」

先ほど「水と霊とによって生まれれば、神の国に入れる」という説明をしました。「水」とは「洗礼」を指しています。では、「霊」は何か?それは「神様の働き」です。これを霊的まなざしをもって見続けることが求められます。そのような霊的働きをどうしたら受けられるのでしょうか。それは、神様を深く心に留め、その恵みと一人一人への働きかけを感謝して受け止め、自分の原点とすることです。特に、イエス様の十字架と復活を神様に感謝し、祈り、礼拝し、それだけでなく、人々のために祈ることに取り組みたいものです。

 霊的働きを最も受けること=聖書を読むこと

最も霊的な働きを受けるためには、聖書をしっかり読むことが大事です。聖書は神の教えに満ちています。聖書をしっかり読む点について、プロテスタント教会がしっかりすべきです。西方のカトリック教会では、聖像や聖遺物に対して神の恵みを感じとろうとする傾向があります。東方のロシア正教会は「イコン」という聖人の絵をお守りのように身に着け、霊的働きを感じようとします。が、これは十戒の第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」に反しています。私達プロテスタント教会は、霊的働きを感じることは聖書でできると主張します。聖書を読むことを怠ると霊的な取り組みのための営みが足りなくなるということです。

 聖書の読み方

プロテスタント教会では、聖書を教理的(知的、理性的)に読もうとします。霊的な聖書は霊的に読むことが、大切だと思います。大事だと思えるところだけピックアップして読むだけのものではありません。カルヴァンは「聖書のイコン読み」(野村先生の命名)をしました。毎朝行う説教で与えられた聖書箇所の一字一句を逐一読んで、その奥にある世界、つまり、イエス様や神様の働きを思い起こし、しみじみ味わい、現代に広がっていることを語りました。(これによって、カルヴァン自身は、霊的な力を得たのだそうです。そして、この説教を集めたものが、理知的な書物でもある「キリスト教綱要」です。)ですから、聖書全体を深く読むことをしないで、パラパラめくって読むのは、間違った方法です。聖書は本来巻物ですから、全体やその流れを聞き、その世界を追体験するものです。プロテスタント教会で主張される「聖書のみ」とは、聖書をイコン(聖画像)のように大切に読み、しかも、皆で感動し、聖書を語り合い、神様の恵みの中へ喜んで押し出されていくということをも指しているのです。

 「聖書の分かち合い」

今日の旧約聖書ヨエル書3章では、「すべての人にわが霊を注ぐ(1節)」とあります。すべての人々が霊的に満たされるのです。そして、「息子、娘」といった未熟な者達でさえ聖書を説き明かすことができ、老人が夢を持って生き生きとし、若者は将来に希望を持ってビジョンを描き、奴隷としてひどい目に遭っている人が霊的に満たされて立ち上がることが預言されています。これは、聖書を分かち合うという霊的恵みの予告の箇所です。そして、「主の日」という終わりの日には、完成された「神の国」が来ることを予告しているのです。

 「神の国」

「神の国」は、ルカによる福音書17章では、「今、私達の間にある」とイエス様が言われたことを知らされました。また、それだけではなく、「神の国」の完成形は遠くにあって(未来)、私達は、今すでにある「神の国」から、希望をもって未来へと歩んで行けることを知らされました。私達は喜びと感謝をもって、「神の国」を見、人々に尽くしていくということを続けていきましょう。

以上

5月15日の説教要旨 「約束の聖霊が降る」 牧師 平賀真理子

 はじめに

今日はペンテコステ礼拝の日です。「ペンテコステ」とは「50番目の」という意味で、ユダヤ人が大事にしていた過越祭の50日後に当たる五旬祭のことを指します。私達イエス様を信じる者達が思い出すべきことは、約2千年前の過越祭の時に、イエス様が十字架にかけられて亡くなったことです。そして、その時の五旬祭の時に、今日の新約聖書箇所の「聖霊が降る」出来事が実際に起こったのです。(そして「教会」が誕生しました!)

 重要なことを前もって教えてくださる「主」

イエス様は、御自身が苦難の死の果てに復活なさることを、事前に預言されたと4つの福音書に共通して記されています。重要な出来事について、イエス様は弟子達に前もって教えてくださった御方です。そして、御自身に起こる出来事だけでなく、御自分がこの世を去った後の弟子達に起こる出来事「聖霊降臨」も、預言してくださったのです。神様は、お選びになった人間に重要なことを事前に預言される特性をお持ちです。

 「聖霊降臨」についての預言

ヨハネによる福音書14章に、イエス様から弟子達へ「聖霊降臨」の預言がなされたことが記されています。十字架にかかられる直前に、イエス様は、御自分の定めを知り、御自分がこの世を去った後には、弟子達は「聖霊」という神様からの霊によって守り導かれると教えてくださっていました。生前のイエス様だけでなく、十字架に付けられた後、3日目に復活されて、40日間弟子達を教え導いた「復活の主」も、やはり「聖霊が降る」ことを弟子達に預言してくださっていました。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる。」(使徒言行録1:5)

 「聖霊が降った」様子

イエス様の弟子達の上に、主の預言どおりに約束された聖霊が初めて降った、それが「ペンテコステの出来事」です。

今日の箇所は、心を一つにして祈っていたと思われる弟子達に、本当に聖霊が降った出来事について述べています。まず、激しい風が天から吹いてくるような音と表現されています。そして、その音が弟子達の居た家中に響きました。その後は、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)と書かれています。人間の様々な感覚を使って、神様が起こしてくださった「聖霊降臨」の出来事を伝えたいという思いが込められています。

 「舌」に含まれる意味

聖霊が降る様子の核となる言葉が「舌」ですが、この言葉は、「言葉」とか「国語」という意味もあります。そのような「舌」が、「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)とは、一人一人がそれぞれに与えられた国の言葉で、聖霊によって、神の偉大な業を語るようになることを暗示しているとも読み取れます。

 「聖霊降臨」の証人とされたエルサレムの人々

当時の国際都市エルサレムの多くの人々は、天からの大きな音に驚き、「聖霊降臨」が起こった家に集まって来て、「ナザレ人イエス」を信じる者達が自分の故郷や暮らしてきた地域の言葉で話しているのを目の当たりにしました。彼らは、聖霊が降った弟子達が語る言葉が、意味のない「外国語の音マネ」ではなく、神の偉大な業を証しする福音であるとの内容を聞き取って証明する「ペンテコステの出来事の証人」とされたのです。

 神の偉大な業を肯定的に受け取ろうとする人々と否定的に拒否する人々

この出来事の証人とされた人々は2つのタイプに分かれたことが書かれています(12-13節)。天からの出来事としか思えない出来事を体験して、それを真剣に受け止めようとする人々と、自分の考えの範囲を変えずに、体験したことを誤解だと否定する人々です。約2千年前のこの時だけでなく、福音を聞くことになった人間の反応は、いつの時代にも、このように2つに大別されます。

 聖霊降臨の直後に起こることは、神の偉大な業を語ること

今回、特にお伝えしたいのは、聖霊が降った信仰者にまず起こるのは「神の偉大な業を語ること」だということです。強制的に語らせられるのではなく、内側から語りたいという熱意によって喜んで語るようになるのです。弟子達が自分の能力では話せなかった外国語で福音を語ったことは、聖霊により、自分の能力を超えた範囲までに用いられるようになることを示しています。私達も聖霊をいただいて神様の偉大な業を語る恵みを受けるために、神様に心を向けて祈り、御言葉を蓄える学びを続けられるよう、更に聖霊の助けを祈り求めましょう。