「主イエスを知る」 加藤秀久神学生
*はじめに
「主にあって喜びなさい」(口語訳フィリピ3:1)。私達は本当に、日々主にあって「喜びの生活」を送っているでしょうか。
本日お読みした詩編100編は、主を感謝すべき方として歌うことを奨励しています。
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(100:1) この詩編は、イスラエルにおいて、神殿に入場する時、神殿に集まった人々は主の門に進み出て、賛美を持って祝い歌われたと考えられています。又、礼拝式文の中でこの詩編が朗読され、神さまの「御名」と「恵み」と「真実」とが会衆に知らされました。この詩編は、神さまへの喜びを表し、この喜びこそ、私たちが、心を神さまに向ける信仰の活力になるのです。礼拝は、神さまへの喜びが大きく表現される場であり、同時に、主の民の喜びが湧き上がる場でもあります。
*「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」
詩編は、私たちにこのように呼びかけています。礼拝は、神さまをほめ称(たた)え、賛美を歌うことから始まります。そして、神さまへの喜びの叫びは、主の前に集う人々の間だけに留まることなく、全地に、また世界中に響きわたって行くのです。人々は、この呼びかけに導かれて、神さまの御前に集うすべての者と結ばれて、信仰における神の家族としての大きな一体感を味わいます。
また2節の「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」との礼拝へのうながしは、神さまの臨在(りんざい) (見えない神が、その場に存在すること。そこにおられること) の素晴らしさと、そこから来る喜びに憩(いこ)い、与(あず)かるようにとの呼びかけが含まれます。礼拝の真の喜びは神様の存在を知り、その場所に立つこと、神さまの臨在に触れることです。神様を礼拝するために集まってきた人々は、神様に心を向けながら喜びと賛美をもって、神様のおられる場所に少しずつ近づいていきます。 礼拝は、私達人間が神様に出会い、神様への喜びに自分自身を委(ゆだ)ねる場であります。
*造り変えられていく喜び
また私たちは礼拝において、私達人間は、確かに「神さまから造られた者」であるとの認識、意識を持つことが出来ます。神さまの前に立つ時、私達はもはや「自分自身がどうありたいか」ではなく、神様が私達一人一人を、それぞれ違う形で造られたことを知らされます。そして私たちは、神さまのご計画に従って造り変えられていくことに、喜びと確信を持つことが出来るのです。 「感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」(4節)。これが、喜びにあふれる真の礼拝です。
*「主において喜びなさい」
さてパウロは、今日のフィリピ書3章1節で「主において喜びなさい」と言いました。なぜ「主において喜びなさい」と言ったのでしょうか。彼は獄中にいました。パウロはフィリピの教会の人達に直接会って神様のみ言葉を宣べ伝えて共に祈りたかったと思います。しかし出来ませんでした。そのような自分の思いが叶(かな)わないという状況の中で、パウロは「主において喜びなさい」と語っているのです。
私たちは日々の様々な生活・状況の中で、自らをその流れに任せて淡々と毎日の決まりきった行動をしていないでしょうか。そうであれば、私たちは、そのような中で果たして本当に「主において喜ぶ」ことができるのでしょうか。「主において喜ぶ」とは、今日お読みした詩編100編のような礼拝を通して神さまに出会い、神さまに触れることだと思います。一人一人、感じ方の違いがあるかもしれませんが、神様を礼拝する「思い」や「態度」が重要だと思います。
*パウロ(フィリピ書の著者)と神様との出会い
パウロの神さまとの出会いは、彼がキリスト者を迫害するために、ダマスコという場所へ向かう途中、十字架につけられて復活したイエス・キリストの声を聞くことから始まりました。
パウロは三日間、目が見えなくなり、その間、食べることも飲むことも出来ませんでした。しかしその後、パウロはアナニアという弟子によって手を置いて祈られると、目が見えるようになるという経験をしました。そしてパウロは洗礼を受けた時に、神様からの力・聖霊の力を得たような体験しました。これがパウロの、主の霊に満たされた瞬間であったに違いありません。パウロは主イエス・キリストの霊を、身近に体験することによって神様を感じ取り、イエス様を知ることで自らを神様に委ねていく信仰を得ました。それはきっと、不思議な出来事であり、生きたイエス・キリストを見るような感覚であったに違いありません。このような生きた神様と共に歩むことで、すべてにおいて神様に感謝して喜ぶことができました。(使徒言行録9章参照)
「主において喜びなさい」と言った後「これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と続けて言っています。
そうです。「喜ぶ」ことは私達にとって神様から守りを得ることなのです。
*真の割礼
「あの犬どもに注意しなさい」(2節)。2節で「犬」という表現が使われています。犬はユダヤ人にとって汚れた動物であるため、異邦人に使われていましたが、パウロはここで「契約のしるしである割礼(かつれい)を強調するユダヤ主義者」を指すために使っています。(割礼=生後八日目に男児の包皮を切る宗教的慣習)。そして肉を頼みとしない「私たちこそ真の割礼を受けた者です。」と宣言しています(3節)。コロサイ書に「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」(2:11)とあります。つまり私達は、洗礼によってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神様の力を信じて、キリストと共に復活させられたことこそが「割礼」なのだと書かれています。パウロは、もし目に見えるしるしや正しい行いが大切なのであれば、パウロ自身も誰にも負けないくらい誇れるものを持っていると言っています。
*肉に頼ろうと思えば・・
パウロは生まれて8日目に割礼を受けました。これが意味することは、彼が生まれた時から律法を大切にする家系に生まれて、パウロ自身も、生まれた時から律法を守っていると考えることができると思います。「イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人」(5節)は、アブラハム・イサク・ヤコブの流れの正統派家系に属する者であり、その中でも特別な地位を持つとされるベニヤミン族出身であり、純粋な血統を持つだけではなく、旧約聖書の言葉であるヘブル語を話すことができるヘブライ人でもあると言っているのです。
*「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者」
ファリサイ派には「分離されたもの」という意味があります。神様の掟を守るために、普通の生活から分離して、律法に従う生活を送っている人々のことです。パウロはその一員であったと語っています。また、旧約聖書の教えでは、熱心であるという事は特に尊敬されるべきことでしたので、その点でも、パウロは律法を守らない教会の人々への迫害に携(たずさ)わるほどに熱心でした。彼は、律法を守ることに関しては非の打ちどころがない者だったと自ら告白しています。
*しかし・・
しかし7節で、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった。」とあります。キリストを知ることによって、ほかの全てのものを「損失」とみなしたのです。さらに続けて8節で、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくたと見なしています。」と語っています。
この「主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさ」とは、どういうものなのでしょうか。そして、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とは、一体どういうことなのでしょうか。私たちには、パウロのような主キリスト・イエスを知ることが出来るのでしょうか。 私は、出来ると信じています。
*私の体験
少し私のイエス様の体験談をお話したいと思います。
私はかつて、日本基督教団ではない教派に属する教会の礼拝に出席していました。私はその教会で、イエス様を私の救い主として受け入れました。その後は「神様のために何かをしなければならない、神様のために何かをするべきだ」という私自身の感情や考えから、教会の奉仕や仕事に一生懸命に取り組み、毎日の生活を送っていました。私はその日々の生活で、自らを忙しくする中で、次第に教会の礼拝に出席するのにも疲れを覚えていきました。それと同時に、神様に感謝する心を忘れていきました。
なぜそのようになったのか今、想い起こして考えてみますと、神様との交わりの時間、一対一の時間を作り、静まり、祈るということをしないでいたからだと思います。当時の私は、神様との交わりの時間を作ることが、その気になれば簡単に出来たはずでしたが、あえて日々の忙しさの中に身を置き、神様との時間を作るという選択をせずに、神様との関係作りをおろそかにしていました。これは、悪魔に攻撃されやすい、自らを否定しやすい環境に身を寄せていたことでもありました。いつのまにか私は、パウロと同じような習慣、神様との交わり<神様に祈り・委ねて・聞くということ>をしないでいたということでありました。
しかしそのような中で、ある時、私は兄に誘われて、ある伝道集会に出席しました。私はその集会で、集会に参加した人達と共に声を合わせて祈り、神様を賛美していると、今まで体験したことのない「神様がそばにいて下さる」という神様の臨在感を感じました。それは神様の圧倒的な存在感で、神様が一方的に私の方へ迫って来て、神様を拒むことすらできない、一方で、神様を受け入れることが当然のような不思議な感覚があり、神様が大きな愛で私を包んで抱きしめて下さっている、私がその場所に立っていることが出来ないほどの臨在感、その場にやっと立っていることが出来るような神様の臨在体験でした。私は神様が本当に今も生きていて、その生きた神様の大きな愛に触れることができた瞬間・体験でありました。
私は、この時の神様の臨在体験が、パウロが体験したような、神様に対する感謝の気持や素晴らしさを知ることができた体験だと思います。まるでパウロが言っていた、神様の存在感・ご臨在を味わうことは、この世の中で起こっている出来事がどうでも良いように感じてしまうような同じ体験だったと思います。(「・・すべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくた(くず)と見なしています」(8節)
それはまさしく、今朝の詩編100編(喜びの叫び)のようでした。私は、この体験がきっかけで、少しずつ神様との交わりの時間を作り、聖書の御言葉に耳を傾けるという時間を作り始めました。
*神から与えられる「義」
9節後半に「義」と言う言葉が繰り返して使われていますが、簡単に説明しますと、自分が正しいことをするという、自分の行いの正しさではなく、神様との正しい関係を私たちは持っているという信仰によって、神様から「義」が与えられているということです。
*主イエスを知る
最後の10節11節においては、「キリストを知ること、復活の力を知ること、キリストの苦しみにあずかりながら、死者の中からの復活に達したい」と、パウロの熱い思いが溢れ出ているところです。私たち人間は、試練に会えば会うほど全てを投げ出したくなります。しかし、パウロは、イエス様を信頼して、イエス様と共に歩むことで、神様からのゆるぎない力を受けたのだと思います。
私たちも今直面している問題を、主に全て委ねて求めていくことをしたのなら、1節にあるような「主において喜ぶ」ことができて、主による平安を感じることができるのだと思います。
それゆえ、今週一週間、主を覚えつつ、主と共に喜んで歩みましょう。