2023年10月15日の説教要旨 創世記6:5-8 フィリピ1:1-11

           「神の力を知り、見抜く」    加藤 秀久牧師

*はじめに

フィリピの信徒への手紙は、西暦61年頃パウロがローマで拘束されていた間に書かれたと考えられています。フィリピは重要なローマの植民都市で、この地方にはユダヤ人はほとんどおらずユダヤ教の会堂もなかったと言われており、パウロがヨーロッパで宣教した最初の都市でした。パウロがかつて伝道したフィリピの信徒達に、今は監禁されている中で喜びに溢れて神様の言葉の素晴らしさ、嬉しさをひたすら伝えようとしています。

*喜びのみなもと

 1~2節は、フィリピの信徒達に、神様からの恵みと平和があるようにと願いを込めた祈りで、11節までは、パウロがこれ迄の信徒達についての報告を聞いて、パウロが喜びにあふれている様子を知ることができます。その喜びとは、彼らが今日まで福音に与(あずか)っていること、神様が彼らに近い将来、神様の大きな業、祝福を現して下さることの確信が与えられていること、そして彼らがパウロと共に、恵みに与る者とされていることを心に留めているからです。このことは、パウロにとって、感情が高ぶり胸がドキドキすることでもあり、フィリピ教会の人達と神様の働きを体験し、共有したいと願っているからです。

*パウロの執り成し(とりなし)の祈り

知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉(ほま)れとをたたえることができるように。」(9~11) 

「知る力」とは、「正しい教えを知る力・真の知識・認識力」です。「見抜く力」とは、霊的な事柄の真相を、とぎすまされたするどい感覚をもって洞察力を得ることです。これは、私達の肉体から起こる痛みを「痛み」として感じる感覚と同じようなもので、仮にこの感覚が鈍くなってしまうと、神様を信じることに無頓着になってしまうのではないかと思います。

今日、私達はこのように教会に集まって神様を礼拝することは、礼拝を通して神様から知る力と霊の見抜く力が与えられ、私達の心の中で、神様についての感覚が徐々に敏感になり、成長していくことによって、毎日の生活の中で神様との個人的関係がよりいっそう深く、生きたものとなっていくと思います。

*「あなたがたの愛が豊かになり(9節)

神様の言葉を正しく理解し、行動が伴う時、私達は、(人との交わりのように)神様との人格的な交わりに導かれ、神様の御意志(愛すること)を知るのです。ここで「豊かに」とあるのは「洪水のようにあふれて流れ出す」意味があります。愛は最も尊いものでⅠコリント書の 13:13に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」とあります。又、本日の創世記では、地上には常に悪いことばかりを考えている人達がいて、神様は、人間を造ったことを後悔し、滅ぼすことを決意します。が、その中で、ノアと家族だけは、神様の好意を得ることができました。それはノアが、神様を信じる無垢な人(純粋に神様を求めて、従った人)だったからです。

*「本当に重要なことを見分けられるように。」(10節)

私達の人生の歩みにおいて、はっきりとした善悪の区別をつけることのできないものがあり、決めなければならないことや決断を求められることがあります。そして時間やお金の使い方とか、思いやりのない人との向き合い方、或いは助けを必要としている人との向き合い方など、多くの事柄に目が行き過ぎて迷うことも、生活の中で起きるかと思います。パウロはそのような日々を送る信徒達に、10節で、「本当に重要なことを見分けられるように」と祈っています。何が重要で、何が大切なことかを見分けて選ぶことにより「キリストの日(終末・再臨)に備えて、とがめられるところのない者となり、イエス様によって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神様の栄光と誉れとを称えることができるように」との、この祈りは、同時に私達自身の日々の祈りでもあります。