2023年12月3日の説教要旨 イザヤ書52:1-10・ロマ書11:13-24

           「主の来る日を待つ」      加藤 秀久牧師

*はじめに

待降節 第一週に入りました。

今年も、色々な出来事が私達の身の回りに起こったと思いますが、その中で私達は、しっかりと周りで起こる事柄に目を留め、それらの状況に対応しながら神様に祈り、神様に解決策を聞きながら一年を過ごしてきたかと思います。

本日の旧約聖書のイザヤ書は大きく三つに分けられ、40章から55章までは著者である預言者の名前が知られていないために、第二イザヤと呼ばれています。(56章以降は第三イザヤ)。第二イザヤは、バビロン捕囚時代の終り頃から、故郷エルサレム帰還への先頭に立った預言者であり、本日の52章1節では、異国に荒らされたエルサレムに、今や、主なる神が王として帰って来られるとの預言を語り、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオン(全エルサレムおよびその住民)よ。輝く衣をまとえ、エルサレムよ。」と、捕囚からの解放へ準備の勧めの言葉となっています。3節には、「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」とあり、神様の恵みが告げられます。神様のお働きは、日常的な価値観や判断基準で行われるのではなく、神様独自のご計画、進め方があることを教えられます。

*良い知らせを伝える者の足

7節には、「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とあります。旧約聖書で「美しい」は、神様の動きの中で示されるものと考えられ、中でも「平和、恵みの良い知らせ、救い」は神様が王となりエルサレムの人々が解放される出来事に繋がり、喜ばしい良い知らせを伝える者の足は美しいと、ロマ書にも引用されています。「主の名を呼び求める者は誰でも救われるところで信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(10:15)

神様は、「神様の時」に私達の前に現れます。この喜ばしい知らせを聞いた者たちが神様の訪れを伝える者とならなければなりません。遣わされる者たちは、伝えるべき言葉を正しく理解して神様との愛と信頼の良き交わりのもとに、「足」という言葉で捉えているようにも思います。

*折り取られたオリーブの木の枝と、野生のオリーブの接ぎ木

本日のロマ書では「救いの恵み」について、もともと神様から選民として選ばれていたユダヤ人と、それまで神様を知らなかったユダヤ人以外の異邦人との違いについて「オリーブの木」を用いて説明されます。本来救いの恵みにつながる枝であったユダヤ人が、不信仰の為に、枝が切り落とされてしまい、その代わりに野生のオリーブであった異邦人が本来の木に接ぎ木されて、根から豊かな養分を受けるようになっている現状をパウロが語っています。重要なことは、神様が栽培される本来のオリーブの木につながっているか否か、ということです。私たちはこのたとえを通して、神様の「慈しみ」と「厳しさ」を見なければならないことをパウロは告げています。そして、(不信仰の為に)木の枝が切り落とされてしまったユダヤ人でも、もし彼らが悔い改めるならば、野生のオリーブの接ぎ木よりもたやすく接ぎ木されると語っています (23, 24節)。

*主の来る日を待つ

このことから、神様が選ばれたすべての者は、切り落とされてどのような状況にあろうとも、神様のところに戻る時、神様の慈しみは、再びつぎ木によって、根から豊かな養分を受けられることを教えています。私たちはどのような所にいようとも、いつでも神様の所へ、神様のおられるこの伝道所に帰ることができることを心に刻みたいと思います。 イエス様の誕生日を待ち望む待降節のこの時、旧約時代のイスラエルの民が、長かった捕囚から、故郷エルサレム帰還への希望の預言を聞いて、その時を待ち望み続けた日々を思い起しつつ、私たちも、救い主イエス様の誕生の日(=良い知らせ)を伝える者として、心をはずませ、待ちつつ、今週も一週間、共に歩んで参りましょう。