2019年9月1日の説教要旨

列王記下5:9-16・ロマ書6:1-14

「キリストに結ばれた『恵み』」      平賀真理子

*はじめに(前回8/4の礼拝説教のまとめ)

 前回招かれた礼拝(8/4)の説教では、ガラテヤ書3章26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」を中心にお話ししました。キリスト教会が果たすべき役割は「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることですが、パウロは手紙の読者である教会員も「神の子」と言えると主張しているのです。その根拠について、次の27節で「洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と続いて述べています。「キリストを着ている」教会員は、キリストの救いの恵み、人間を救いたいという「神の愛」を身にまとうことを許され、イエス様と同じように「神の子」と呼ばれ得るという大変大きな恵みが語られている箇所です。

*「洗礼」は聖霊(神様の霊)の導きを受けた証し

教会員は洗礼を受けた者です。洗礼を受ける前には、イエス様を自分の救い主と信仰告白しました。多くの信仰者は、そこに至るまでに(精神的または霊的に)格闘したと感じておられると思いますが、パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない(Ⅰコリ12:3)」と述べています。人間は自分の人生は自分で勝ち取ったと思いたがりますが、「何か自分でない者に導かれた」と後で気づく経験がある方も多いでしょう。「洗礼」「信仰告白」という主の救いに与る恵みを受ける経験は、実は、私達の人生に神様が働いてくださった証しでもあります。

*パウロが教会員に伝えたい「洗礼の意味」

パウロは、今日の新約聖書箇所ロマ書6章3節で「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」とローマの教会員に教えています。ここには、そのような意味を理解せずに、洗礼後も、それ以前の罪多き生活を変えようとしない教会員がいたことを暗示していると読み取れます。

 「洗礼」の本当の意味、それは、この世の罪に染まった自分、神様に近づけない自分を霊的に死なせることです。教会員は「洗礼の恵みの源は主の死であり、自分も共に死ぬ定めを負った」ことを忘れてはなりません。勿論、決して罪を犯されなかったイエス様は、人間の罪を贖う意味で死の定めを負ったわけで、各々の教会員は、イエス様を死に追いやった自分を、受洗時に一度死に追いやる覚悟が求められたことを想起せねばなりません。そうして、死という定めを主と共にするからこそ、復活の主と同じ定め、即ち、永遠の命という新たな生が始まると自覚したいものです。人は苦悩は受け取らず、恵みだけを欲しがりますが、これも「罪」の様相の一つです。主の恵みを自覚した者は、昔の罪の生活を続けることはできないはずです。

*洗礼を受けた教会員は「罪の支配下」ではなく、「恵みの支配下」にいる

 ところが、今日の新約聖書箇所の冒頭やその直後には、パウロの教えまで曲解して、以前の自分、罪に染まった自分を変えようとしない教会員がいたことが記されています。人間の罪は何と根深いのでしょう!手紙で、パウロが何度も教えているように、洗礼を受けたという「神様主体の出来事」を身に受けた者は、本人の自覚の有無にかかわらず、もう既に恵みの下にいるのです。それは霊的に厳然たる事実です!そのことに気づかないのは、実にもったいないことです。この世の人間としての私達は、時間的にもエネルギーの上でも有限だからです。この世にいる間に罪の自分を霊的に死なせた上で、その後は「神の民」として、この世とは違う次元での命をもって生かされていることを、私達教会員が自覚して生きるならば、その言動は主の恵みの証しとなって、主の福音伝道に用いられるのです。

*主の救いの素晴らしさを本当に知る者は、その証し人となる

今日の旧約聖書箇所では、異邦人ナアマン将軍が自分の皮膚病を癒されて「イスラエルの神」の力を知り、信仰に導かれたとあります。主の預言者が伝えた御言葉に従い、神が「聖」と定めたヨルダン川で、水の清めを受けたナアマンが、主なる神様の力の偉大さを知って、信仰告白へと導かれました。私達も、洗礼を通して、イエス様と同じ定めである「死と復活」を霊的に再現するように神様に導かれ、今は「神の子」と呼ばれる恵みを得ていることを再び思い起こしましょう。主の自己犠牲の愛を受けた私達は、今度は、自分を主なる神様に献げる番です。主の恵みの下で生きる素晴らしさを自分の体による言動で証しできるよう、聖霊の助けを祈りましょう。