2020年11月1日の説教要旨 イザヤ書44:6-17・ローマ書3:21-28

「神への信仰」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

イザヤは紀元前8世紀の後半に召命を受けて活躍した預言者です。本日の旧約聖書では、「神様はイスラエルの民にとって贖(あがな)い主である」                      

  *注 <贖い=犠牲を伴う罪の赦し・罪のつぐない・和解> 

ことが強調されています。神様はイスラエルの民を選び、贖って下さる方であるにもかかわらず、イスラエルの民が無力な役に立たない偶像を作っている、しかも偶像の材料となる木は、料理や暖房に使われて、その同じ木で偶像を作り、それにひれ伏すことの虚しさを神様は忠告し、捕囚前のイスラエルの罪が「捕囚」を招いたこと、彼ら自らが破滅の道に向かっていることを指摘します。

*不信心と不義に対する神様の怒り

本日読んだロマ書3章の前では「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(1:18)とあり、さらに、「神様の怒り」を他人事のように考え、自分だけは正しいと考える人は、神様の裁きを免れることはできないと語っています。

ユダヤ人は、神様から選ばれ、律法を与えられている者だから、異邦人とは違い神様からの怒りを受けることはないと考えていました。その考えに対してパウロは、ユダヤ人が異邦人と変わらずに人として守るべき道から離れていることを指摘し、3章前半で、「裁き」はすべての者に当てはまるのであり、とりわけ、義を熱心に追い求める者、自分自身の義を立てようとする者に向けられていることを語っています。ユダヤ人のように、律法のわざによって「自分自身の義」を立てようとすることこそ、「神様の義」を立てることに逆行してしまうからです。

*「ところが今や」(3:20)

本日の箇所は、「ところが今や」から始められ、1-2章の続きになっていて、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」とあります。

当時の人達にとって、この考え方は、思いもよらないものだったでしょう。

神様は真実なお方で正しいお方です。そして神様は私達にもその正しさを求めます。しかし私達人間は、神様からの求めにきちんと向き合い、応えることが出来ず、神様の怒りを受けるべき存在です。私達は人生の中でどのようにしたら神様と正しい関係になれるのでしょうか。

神様は、このような負の状態にある私達に、ご自身を正しいお方として、なお、かつ、私たち罪人を義と認める道を示して下さいました。

*「不義」を「義」と変えて下さる神様の愛

このことを教えてくれるのがロマ書です。1:17では、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と告げています。ですから私達が、神様からご覧になって正しい者になりたいというその気持が、まず初めに大事なのではないでしょうか。そして今までは「律法に従う」ことによって正しさを求められていたものが、「今や」・「ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:24)

*神様の義

神様はそれまでの人間の罪を忍耐深く見逃してこられましたが、イエス様を「罪の身代わり」として立て、その流された血潮により罪をつぐなう供え物・贖いの業を通して人間の罪を赦すことで、「神の義」を最後まで貫き通されました。このイエス・キリストによる贖いの業を通して、罪人であった私達が、罪の奴隷(罪の支配下)から解放されることなり、神様の恵みにより「無償で義」とされたのです。

*わたしたち

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。 私達はイエス様を知って受け入れた時から、信じた時から、その名前を呼んだ時から義(正しい)とされている者達です。私達にはいつも義なる神様、イエス様が共いて励まして下さいます。どんなことにもあきらめずにイエス様を信じて歩んでいる限り、イエス様は、私達の主であり、私達はその子供です。