2022年4月24日の説教要旨 詩編27編・ヨハネ15:1-10

主の内にとどまる」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

一つの事を主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り(住んで・口語訳)主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを

 本日の詩編27編は、神様を信じる者たちが心を静めて、力強い主との深い関係を思い描き、主の素晴らしさに思いを巡らし、主の家に住まわせてほしいと祈り、心を神様に留めることで、神様と会話をする心での詩になっていると思います。又、この詩は、私たちが自分自身を見つめ直し、神様に造られた自分という個人が、神様との関係作りの中にあって、主の内に留まる、主の家に住むことができる、主の考えていることや主の語りかけを理解することができる場所(私と神様との隠れた祈りの場所・拠り所)を持っているかどうかを、私達に考えさせてくれる信仰告白の詩です。

主はわたしの光、わたしの救い」(1節)

この「光」とは、創世記1章の、天地創造の第一日目に、たった一つの出来事として、混沌とした闇の中から「光あれ」と、光とやみを区別され、光だけを良しとされた その光であり、私たち(神様に造られ、神様に愛された者たち)に照らされる光、救いの光です。

この詩編の作者ダビデは、神様に彼の思いを集中させ、沈黙の世界の中に神様との交わりの時を持ちたい、その場に、その空間に、留まりたいと願っていたのです。私達もダビデのように、この光、神様から照らされる場所、その場所を個人的に落ち着く場所、神様に出会い、神様と会話をする所を探し求める必要があります。そしてその主の霊に満たされることによって、主を畏れ、敬い、主の家、主の宮に住みたい、留まりたい、神様が好きで好きでたまらなくなるのです。皆さまは、神様に思いを寄せて特別に出会える場所、その隠れ家はどこにあるのでしょうか。ダビデはまだ若く、羊の世話をしていた頃、神様に選び出されて、羊に対する羊飼いのような恵みと憐れみを豊かに受けて、主の素晴らしさ、主の麗しさを体験しました。神様は、私達をも人々の中から選び出し、神様の霊を注ぎ、この世界に存在する意味を教えて下さっています

*今年度の仙台南伝道所の御言葉 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 本日の、ヨハネによる福音書15章1-10節には、「つながる」の言葉が10回も出てきます。「つながる」には、他に「とどまる、滞在する,泊まる,居続ける,住み着く,住む」という意味があります。ここには、詩編27編とのカギとなる言葉が使われています。

 イエス様は私たちに、「主の内に留まりなさい、居続けなさい、住み着きなさい、と、ここでも伝えているのです。

ダビデは、主の霊が存在する所に、神様との関係作りが作れる所に、住み続けることを望みました。そしてヨハネ福音書で、イエス様は、イエス様に繋がっていなければ、私たちは良い実を結ぶことはできないし、何もすることが出来ないと、語られています。

*わたしたち

 私達は、「イエス様を信じます」と告白し、受け入れた時に、目には見えない油という主の霊(聖霊)が注がれ、私達の内に神様というお方が住まわれました(「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(Ⅱコリ6:16)。

 このようにして、私たちがこのお方の名前を呼ぶ時に、神様は私達の内に現れて下さり、神様との関係作りが始まるのです。それは、私たちがどこかに、神様との関係作りをする特別な建物や部屋を作らなければならないということではありません。私たちが神様に一対一で祈ることのできる環境、空間があればいいのです。ただ、それだけのことです。

 もしくは、私たちが、二人でも三人でも、思いを寄せることのできる、祈りあえる仲間がいれば良いのです。私達が神様に思いを寄せることのできる仲間たちと共に、その場所で、主の御名を呼び、静まり、祈る。その中に神様の現われ、神様の存在を感じ取る空間ができるのです。

今週も、主の霊に満たされて歩んで行けますようにお祈り致します。