「信仰のあかし」 加藤 秀久牧師
*はじめに
サウル王から始まったイスラエルの王国は、ダビデ王、ソロモン王と続きましたが、ソロモン王の死後、国は北と南に分裂し(B.C.922年)、北はイスラエル王国(首都サマリア)、南はユダ王国(首都エルサレム)となり、それぞれ王を立て、預言者も、北と南のそれぞれで活動を続けました。
本日お読みしたアモスは、北王国のヤロブアムⅡ世(前792年-前740年)の時代に、預言活動を行なっていました。
*「わたしを求めよ、 そして生きよ」
アモスの使命は、イスラエルの人々が犯してしまっている罪を語り、その罪のために、近い将来、主が民に裁きを下すので、イスラエルの人々を正しい主の道に帰るように告げることでした。けれどもイスラエルの人達は、神様との契約の多くを守ってきたことに誇りを持ち、誇り高ぶりがありました。アモスは、もう一度 主に立ち返り、悔い改めて生きるようにと告げています (5:1-17)。そしてアモスが伝える、主の言葉/「わたしを求めよ、 そして生きよ」(4節)は、聖書全体を通しても何度も繰り返し語られています。このことは又、私達聖書を読む者に向けて真実の神は誰であるか、創造主である神は誰なのか、信仰の原点を尋ねているようです。
*主の日
本日のアモス書5章18節―24節の中で、アモスは、「主の日」という主が定めた日に目を留めています。「主の日」は、旧約聖書の預言書においては広く使われていて、主が究極的に敵に勝利し、諸国の民の前に、主御自身が主の支配を現わす日、確立する日を指して用いられています。このことは明らかに、イスラエルの多くの人々にとって、希望のしるしとして待ち望んでいました。主の日は、よき訪れの日であり、良い知らせ、救いの日であると考えられていたのです。けれどもアモスは、そうでないことをイスラエルの人達に宣言しています。
主は、イスラエルの人達に困難や災いを与え、それによって彼らは嘆き、苦しむだろうと告げており、このことは、他のすべての者をも同じように裁き、「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。」(同20節)と語ります。主の日は、神様によって整理される日、神様は正義を全うされ、物事を秩序正しく変えていきます。「主の日」の預言は、その時が近づこうとしていることを知らせます。その時間がある内に、人々が神様に向き合い、神様に聞くことをすること、それは、自分の好きなことや欲望によって妨げられてはならないと教えます。
この預言は、私達の信仰を築き上げ、信仰の証しとなっていきます。
*「聞くに早く、話すに遅く、怒るに遅く」
本日のヤコブ書は、私達信じる者が、神様の言葉を聞いて、どのように自分の心の中の欲望や思いから克服できるかを述べているように思われます。19節「・・よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」は、生きるすべての人々に必要な言葉で、重要で捉えるべき言葉になっています。
本日のヤコブ書でも「よく聞きなさい(2:5・4:13・5:1)」と3回も出てきます。イエス様はしばしばたとえ話をされる時に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、それは、神様の真実の言葉を聞くことも示しているのではないでしょうか。
直前の18節に「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んで下さいました。」とあります。私達にとって重要なことは、神様から与えられた霊の部分において、心の深いところの場所で神様の言葉を聞くということ、神様を絶えず求めていくということです。私達が神様に何かを訴える前に、まず初めに神様の言葉を聞くことを優先させるということです。私達人間は神様に造られ、神様に栄光を帰す存在として、又、地上で御国を築き上げていく者として生きていくことだと思います。神様は私達がこの地上にある全てのものを見て神様を感じる時(自然の素晴らしさ・壮大さを感じる時、人間の技術の中に神様の与えた知恵を見る時、生命のはかなさや大切さを知る時、仲間や家族の素晴らしさを知る時など)、私達の想いが神様に向かう時、神様はいつも共にいて下さいます。