2023年8月20日の説教要旨 アモス書5:18-24・ヤコブ書1:19-27

            「信仰のあかし」        加藤 秀久牧師

*はじめに

 サウル王から始まったイスラエルの王国は、ダビデ王、ソロモン王と続きましたが、ソロモン王の死後、国は北と南に分裂し(B.C.922年)、北はイスラエル王国(首都サマリア)、南はユダ王国(首都エルサレム)となり、それぞれ王を立て、預言者も、北と南のそれぞれで活動を続けました。

本日お読みしたアモスは、北王国のヤロブアムⅡ世(前792年-前740年)の時代に、預言活動を行なっていました。

わたしを求めよ、 そして生きよ

アモスの使命は、イスラエルの人々が犯してしまっている罪を語り、その罪のために、近い将来、主が民に裁きを下すので、イスラエルの人々を正しい主の道に帰るように告げることでした。けれどもイスラエルの人達は、神様との契約の多くを守ってきたことに誇りを持ち、誇り高ぶりがありました。アモスは、もう一度 主に立ち返り、悔い改めて生きるようにと告げています (5:1-17)。そしてアモスが伝える、主の言葉/「わたしを求めよ、 そして生きよ」(4節)は、聖書全体を通しても何度も繰り返し語られています。このことは又、私達聖書を読む者に向けて真実の神は誰であるか、創造主である神は誰なのか、信仰の原点を尋ねているようです。

*主の日

本日のアモス書5章18節―24節の中で、アモスは、「主の日」という主が定めた日に目を留めています。「主の日」は、旧約聖書の預言書においては広く使われていて、主が究極的に敵に勝利し、諸国の民の前に、主御自身が主の支配を現わす日、確立する日を指して用いられています。このことは明らかに、イスラエルの多くの人々にとって、希望のしるしとして待ち望んでいました。主の日は、よき訪れの日であり、良い知らせ、救いの日であると考えられていたのです。けれどもアモスは、そうでないことをイスラエルの人達に宣言しています。

主は、イスラエルの人達に困難や災いを与え、それによって彼らは嘆き、苦しむだろうと告げており、このことは、他のすべての者をも同じように裁き、「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。」(同20節)と語ります。主の日は、神様によって整理される日、神様は正義を全うされ、物事を秩序正しく変えていきます。「主の日」の預言は、その時が近づこうとしていることを知らせます。その時間がある内に、人々が神様に向き合い、神様に聞くことをすること、それは、自分の好きなことや欲望によって妨げられてはならないと教えます。

この預言は、私達の信仰を築き上げ、信仰の証しとなっていきます。

*「聞くに早く、話すに遅く、怒るに遅く」

本日のヤコブ書は、私達信じる者が、神様の言葉を聞いて、どのように自分の心の中の欲望や思いから克服できるかを述べているように思われます。19節「・・よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」は、生きるすべての人々に必要な言葉で、重要で捉えるべき言葉になっています。

本日のヤコブ書でも「よく聞きなさい(2:5・4:13・5:1)」と3回も出てきます。イエス様はしばしばたとえ話をされる時に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、それは、神様の真実の言葉を聞くことも示しているのではないでしょうか。

直前の18節に「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んで下さいました。」とあります。私達にとって重要なことは、神様から与えられた霊の部分において、心の深いところの場所で神様の言葉を聞くということ、神様を絶えず求めていくということです。私達が神様に何かを訴える前に、まず初めに神様の言葉を聞くことを優先させるということです。私達人間は神様に造られ、神様に栄光を帰す存在として、又、地上で御国を築き上げていく者として生きていくことだと思います。神様は私達がこの地上にある全てのものを見て神様を感じる時(自然の素晴らしさ・壮大さを感じる時、人間の技術の中に神様の与えた知恵を見る時、生命のはかなさや大切さを知る時、仲間や家族の素晴らしさを知る時など)、私達の想いが神様に向かう時、神様はいつも共にいて下さいます。

2021年11月7日の説教要旨 創世記15:1-18・ヤコブ書2:14-26

「神に選ばれた民」         加藤秀久 伝道師

*はじめに

本日お読みした創世記には、神様がアブラハムに希望を与え、勇気づけることが記されています。

神様は、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と語られましたが、アブラハムは主に尋ねました。「わが神、主よ。わたしに何を下さるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」と答えています。エリエゼルはアブラハムの家の僕であり、古代文書によれば、当時、子供のいない家庭では所有していた奴隷を養子にして主人夫婦の世話と埋葬を条件に、財産相続の制度があったようです。※(アブラハムの名前はこの時は、まだ、アブラム「高められた父、高貴な父」という名前でしたが、17章に入ると主からアブラハム「諸国民の父」という名前が与えられました)。

*「あなたから生まれる者が跡(あと)を継ぐ」(4節)

神様は、アブラハムの家を継ぐのは僕のエリエゼルではなく、アブラハムから生まれる者であること、12章では「あなたを大いなる国民とし」(2節)、13章で「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(16節)、本日の15章では、「天を仰いで、星を数えて見るがよい。あなたの子孫はこのようになる」(5節)と約束されました。

続く6節で「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。「主を信じた」の元の言葉では「主によって信じさせられた」となります。アブラハムは、これから起こることに対する神様への期待感、将来への希望を持つことができ、神様のわざに同意することで信じたのです。アブラハムの偉大な信仰は、神様の言葉を素直に信じたところにあります。神様に出来ないことはないと素直に信じたアブラハムの信仰は、神様から「義」と認められた(神様の前に正しいと認められ受け入れられた)のです。(さらに7節で)、神様は、ご自分がアブラハムをカルデアのウルから導き出したことを告げ、この土地を与えて継がせると約束されました。

*約束の保証を求めたアブラハム

 神様の、土地を継がせるとの約束に対してアブラハムは「何によって(そのことを)知ることができましょうか」と約束の実現の保証を求めました。神様は、その求めに応じられ、契約の儀式に必要な「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひな」を持って来るように命じられ、アブラハムは、それらの犠牲を、契約の内容に沿う形でささげました。(エレミヤ書34:18-20参照)。

 このあと、アブラハムは深い眠りに襲われ、神様の声を聞きます。それは、アブラハムの子孫に将来起こる出来事(エジプトでの奴隷時代および出エジプト)の予告です。そして17節で、暗闇におおわれた頃「煙を吐く炉と燃える松明(たいまつ)」が、用意された動物のいけにえの間を通り過ぎたことで、神様との契約が結ばれたことが記されています

*信仰が行(おこな)いと共に働く

本日のヤコブ書には、アブラハムのことが記されています。

アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められたという聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれた」(23節)とあります。著者は、アブラハムが息子のイサクを献げたという行(おこな)いを取り上げて「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」(22節)と伝え、行いの伴う信仰こそ生きた信仰であると述べます。

*召天者記念礼拝

 本日は、11月第一聖日にもたれる召天者記念礼拝でもあります。前に飾られた写真の方々の信仰を思い起こしつつ共に集まり、礼拝を献げる日でもあります。信仰の先輩達は、信仰の歩みを続けていく時、ここにいる私達と同じように、神様の前で悩み、苦しみ、恐れ、神様を見失いそうになったこともあるでしょう。しかし、そのような中にあっても、周りの人達を思いやり、気にかけ、お祈りに覚えて下さり、イエス様と同じような眼差しで私達を見ていて下さいました。先輩達は神様を見続け、顔を上げて前を向き、神様に感謝の気持を持ち続けていました。私達も同じように、神様に望みを置き、今週の歩みを始めて参りましょう。

2021年9月12日の説教要旨 創世記45:1-15・ヤコブ書2:8-13

「心 遣 い」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の創世記では、家族や兄弟を思うヨセフの心遣いが記されています。ヨセフは父ヤコブから非常に愛情深く育てられていましたが、ある時自分の見た夢を兄達に話したことで兄達から反感を買い、商人に売られ、その後エジプトへ奴隷として売られてしまいました。時が経ち、カナン地方にいたヨセフの兄達は、飢饉ためエジプトへ食糧の買い付けに行きましたが、そこで司政者として穀物の販売の監督をしていたのが弟のヨセフでした。

*銀の杯

 ヨセフの兄達は、監督が弟とは気付かず、二度目に食糧を求めてエジプトに行くと、ヨセフは身を明かさないまま彼らと食事を共にした後、家来に、末の弟の袋に代金を戻し、さらに銀の杯をも入れるように命じました。兄達が帰ってまもなくヨセフは再び家来に、袋に入れた銀の杯を持って来るよう命じました。家来は兄弟達の後を追い、銀の杯が無くなり、彼らが監督の好意を踏みにじったと言いました。兄弟達は驚き、もし誰かの袋に銀の杯が見つかったら、その者は死罪、他の兄弟達も奴隷になると告げて袋を開けましたが、末の弟から銀の杯が見つかり兄弟達は引き返しました。

*ユダの嘆願

ヨセフは戻って来た兄弟達に、「銀の杯を見つけられた者だけが奴隷として残り、他の兄弟達は父親のもとへ帰るように」と命じます。しかし末の弟を今回の旅に同行させた責任者の兄、ユダがヨセフに嘆願します。このまま弟を残して帰ったら、父は悲しみのあまり死んでしまう。この弟の代わりに私を奴隷として残して欲しいと願い出ます。このユダは、かつてヨセフを商人に売り、エジプト人の奴隷になるきっかけを作った人物です。しかし今は心に大きな変化が現れています。それはヨセフがいなくなった後、すっかり意気消沈した父親の姿を、長年身近に見て、いなくなったヨセフの代わりに父親がどんなに末息子に愛情を注いできたかを見てきたからでしょう。今、ヨセフの前で弟を必死に守ろう、助けようとしていたユダの行動は、ヨセフと兄達との和解へとヨセフを動かしたのでしょう。

*ヨセフの信仰

 ユダの言葉を聞き、ヨセフは自分の身を明かします。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」 兄弟達は驚きのあまり、答えることが出来ませんでした。ヨセフは彼らに、過去にヨセフにしたことで悔やんだり、責め合ったりしないようにと言い、「神が私をあなた達より先にお遣わしになったのは、・・あなたたちイスラエルの民を生き永らえさせ、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなた達ではなく、神です。」と、ヨセフがエジプトに来たのは神様のご計画によるものであるとの信仰を告白しています。

*神様の御計画

 神様は、ヨセフを先に送り出したように私達一人一人(それぞれ立場の違う人達)をここに集められ、私達は神様を礼拝しています。それは、これから行なわれる神様の業(わざ)を私達が共に行ない、神様のご計画を共に体験するためです。私達は神様に養われる家族として集められ、共に助け合い、生きるようにとの神様の願いがあるからです。近い将来、私達の伝道所がどのような道へ進むかは分かりませんが、ただ、神様というお方を信じ、求め、委ねながら、「今」というこの時に、私達が共に神様に呼ばれ、神様のみ声に従いながら日々の歩みを進めています。

人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり・・(9節)」 本日のヤコブ書で、教会の人々がイエス様を誉め讃えて礼拝しているにもかかわらず、人を、社会的地位やその人の身なりで差別していることが指摘されます。互いを思い合い助け合い、隣人への心遣いがあってこそ隣人愛の実践であり、神様の意志に適(かな)う者とされます。私達はここで神様の栄光に満たされて力を受け、神様を称え、その輝きを家族や友人や職場の人達や子供達に自然な形で分け与えているのです。

 これが本当の神の家族の姿、隣人への愛を示す姿と言えるのではないでしょうか。神様は今週も私達の前を進まれます。いつも私達の道しるべ、 支えとなり、私達と共にあることを覚えて歩めるように祈りましょう。