2023年9月17日の説教要旨 創世記37:1-11 ・コロサイ書3:1-17

           「神の愛を身につける」      加藤 秀久牧師

*はじめに

 私達はイエス様を、この身につけているのでしょうか。

イエス様の誕生の話をどこかで聞いた時、不思議に思い、人間から神様の子供が生まれるの?と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかも本日の説教題を見た時、「神様の愛を身につける」などということが この地上に生きる私達全ての者に果たして出来るのでしょうか。

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ書3:1)

 本日の、この御言葉は、神様を信じる者、復活したイエス・キリストを信じる者、そして天に昇られたイエス様を信じる者、それからイエス様が再びこの地上に戻ってくることを待ち望む者、そのことを信じる者たちが教会や一つ所に集まり、神様を礼拝し、神様を称えている姿を映し出しているようです。それだから、「上にあるもの、天にあるものを求めなさい。イエス様がその所におられるのだから...」と述べられています。

*神の国に入る者

「神の国」に入るには、狭い門(マタイ福音書7:13~14)、狭い戸口(ルカ福音書13:24)から入るように、とイエス様は教えています。なぜなら「滅びの道」に通じる門は広くなっていて、その道を多くの人達が進んで行っている現状があるからです。「滅びの道」とはイエス様が救いの道を与えて下さっているのに聞いてもその道に入ろうとせず、暗闇の世界(ねたみや不和・利己心など・・ガラテヤ5:19参照)、負の世界の中に生きることです。かつての私達もこの滅びの道に通じる門へと歩み、(たとえば初詣の参道に並ぶように)他の人達と同じように歩んでいた一人だったかもしれません。

「神の国に入る狭い門」へと至る道は、イエス様と出会い、イエス様を知って、信じる道です。イエス様は「その門はなんと狭く、その道も細いことか。(マタイ)」と言われます。多くの人達は、広い門に行くことが出来る広々としている道が楽だと思ってしまうのかもしれません。

*イエス様の御命令

 イエス様は、私達が狭い門をただ見ているのでなく、又、門が狭すぎるとか、難しすぎるとか、入るには時間が必要だ、と考えるのではなく、狭き門の向こう側で待っておられます(待ち焦がれているのです)。

そこでは素晴らしい出来事が待っています。イエス様は、創造主である神様に目を向けようとする人達に、過去の罪、今ある罪を悔い改めて狭い門から入るように!と命令されているように思われます。もしご命令と考えることが出来るなら、他の人の目を気にすることなく、今日、イエス様の招きに応えて、狭い門をくぐり、中に入る決断へ!と、進むことが出来るでしょう。

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。(3:2~3)」

 全てのことはイエス様を信じることから始まります。天には父である神様がおられ、そこには永遠の世界があり、神様との完成された交わり、信頼関係があります。一方、私達の住む地上では、私達に肉体があることで私達を自由にあやつる闇の世界、悪の力が支配する社会があります。この暗闇のような世界に光を当てて下さったのがイエス様です。イエス様は私達人間と神様との関係が悪魔によって壊された為、元に戻す(和解)ために自ら十字架にかかり、死んで陰府(よみ)の世界に下り、そこからよみがえらされたお方です。私達がこの悪の力の支配から自由になるために、神様は独り子イエス様を送られ、イエス様は人々の為に死なねばなりませんでした。私達はイエス様の死を通して罪が赦され、それにより狭き門を通ることで私達はイエス様のものとなり、見ている世界から神様のおられる世界に目を向けることが出来るようになりました。

何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行い(3:17)」 

狭き門から入った私達はイエス様とつながり、神様はいつも私達の足元を明るく照らして下さるので、私達は「上にあるものに心を留め」て、希望を持って前を歩いていくことができるのです。

2021年4月18日の説教要旨 列王記上17:8-24・コロサイ書3:1-11

「新しい命」      加藤秀久伝道師

*はじめに

 列王記上17章の始めには、エリヤが紹介されています。エリヤは、アハブ王に“干ばつ”を預言した預言者です。主の言葉がエリヤに臨みます。

今まで住んでいる所を離れ、ヨルダンの東にあるケリトという川のほとりに行き、身を隠せ」との言葉です。エリヤは住んでいる所を去り、その場所へ行き、とどまりました。エリヤは主の語りかけに答え、行動しました。彼は主の御心にかなった人でもありました。主はエリヤに、ケリト川の水と、数羽のカラスを送って食べ物を運ばせ、彼を飢えから守り、その後、飲み水であった川が涸れた時、主は再びエリヤに語りかけます。

*サレプタの一人のやもめ

 本日の箇所は、主の言葉から始まります。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。そこでエリヤが町の入り口まで来ると一人のやもめが薪(たきぎ)を拾っていました。エリヤはやもめに声をかけ「器に少々水を持って来て、私に飲ませて下さい。」と頼み、さらに、「パンも一切れ、手に持って来て下さい」と言いました。しかし彼女はエリヤに、「私には焼いたパンなどありません。ただ壺(つぼ)の中に一握りの小麦粉と、瓶(かめ)の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と息子の食べ物を作るところです。私達は、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と答えました。エリヤは心配しないように告げ、先ずエリヤの為に小さいパン菓子を作り、そのあと自分達のために調理するようにと伝え、さらに主の言葉も伝えました「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と。私達だったらどうするでしょうか。このやもめは、その言葉通りに作り、与えました。するとエリヤの語った言葉通り、壺の粉も瓶の油も尽きることなく、彼女もエリヤも彼女の家の者も、食べ物を食べることができたのでした。

*息子の死

 ところがその後、息子が病気にかかり、病状は非常に重く、ついに息を引き取りました。やもめにとって、かつて死を覚悟したもののエリヤとの出会いにより奇跡がもたらされ、家の者達も生き延びることができたにもかかわらず一人息子が死ねば、これ迄生き延びたことは返って昔の不幸や、 それに伴う罪責が思い起こされ、結局は息子の生命を奪うためにエリヤが来たことになる・・と、やもめはエリヤに訴えました。

*「あなたはまことに神の人。あなたの口にある主の言葉は真実。」

エリヤは母親から息子を受け取り、自分のいる階上の部屋の寝台に寝かせて祈りました。そして子供の上に身を重ねてから「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」と祈りました。しかも一度だけでなく、三度も神様に訴えています。この身を重ねて祈る祈り方は、エリヤの祈りの切実さと、身を重ねることによって心臓の鼓動が亡くなった子供に直接伝わることで、エリヤの癒しの願いの真剣さがそこにあることを伺うことができます。主は、エリヤの祈りを聞き入れて、命を戻されたので子供は生き返りました。母親は、エリヤがまことに神の人であり、エリヤの口にある主の言葉は真実である、と、告白しました。

*「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:1-2)

 本日のコロサイ書は、神様を信じること、神様がなさることに目を  とめることを私達に教えています。私達がどんな状況にあろうとも目に見える今の状況に左右されることなく、真実を見ようとすること、神様の言葉を信じること、神様に思いを寄せること、神様を求めること、神様に祈ることです。私達は、神様との交わりを通して日々新たにされなければ、この地上で神様との正しい関係を築き上げていくことはできないと思います。私達はこの地上に存在し、この地上には誘惑されるものが沢山あります。それゆえ私達は、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と、うながされているのです。