「神の愛を身につける」 加藤 秀久牧師
*はじめに
私達はイエス様を、この身につけているのでしょうか。
イエス様の誕生の話をどこかで聞いた時、不思議に思い、人間から神様の子供が生まれるの?と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかも本日の説教題を見た時、「神様の愛を身につける」などということが この地上に生きる私達全ての者に果たして出来るのでしょうか。
*「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ書3:1)
本日の、この御言葉は、神様を信じる者、復活したイエス・キリストを信じる者、そして天に昇られたイエス様を信じる者、それからイエス様が再びこの地上に戻ってくることを待ち望む者、そのことを信じる者たちが教会や一つ所に集まり、神様を礼拝し、神様を称えている姿を映し出しているようです。それだから、「上にあるもの、天にあるものを求めなさい。イエス様がその所におられるのだから...」と述べられています。
*神の国に入る者
「神の国」に入るには、狭い門(マタイ福音書7:13~14)、狭い戸口(ルカ福音書13:24)から入るように、とイエス様は教えています。なぜなら「滅びの道」に通じる門は広くなっていて、その道を多くの人達が進んで行っている現状があるからです。「滅びの道」とはイエス様が救いの道を与えて下さっているのに聞いてもその道に入ろうとせず、暗闇の世界(ねたみや不和・利己心など・・ガラテヤ5:19参照)、負の世界の中に生きることです。かつての私達もこの滅びの道に通じる門へと歩み、(たとえば初詣の参道に並ぶように)他の人達と同じように歩んでいた一人だったかもしれません。
「神の国に入る狭い門」へと至る道は、イエス様と出会い、イエス様を知って、信じる道です。イエス様は「その門はなんと狭く、その道も細いことか。(マタイ)」と言われます。多くの人達は、広い門に行くことが出来る広々としている道が楽だと思ってしまうのかもしれません。
*イエス様の御命令
イエス様は、私達が狭い門をただ見ているのでなく、又、門が狭すぎるとか、難しすぎるとか、入るには時間が必要だ、と考えるのではなく、狭き門の向こう側で待っておられます(待ち焦がれているのです)。
そこでは素晴らしい出来事が待っています。イエス様は、創造主である神様に目を向けようとする人達に、過去の罪、今ある罪を悔い改めて狭い門から入るように!と命令されているように思われます。もしご命令と考えることが出来るなら、他の人の目を気にすることなく、今日、イエス様の招きに応えて、狭い門をくぐり、中に入る決断へ!と、進むことが出来るでしょう。
*「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。(3:2~3)」
全てのことはイエス様を信じることから始まります。天には父である神様がおられ、そこには永遠の世界があり、神様との完成された交わり、信頼関係があります。一方、私達の住む地上では、私達に肉体があることで私達を自由にあやつる闇の世界、悪の力が支配する社会があります。この暗闇のような世界に光を当てて下さったのがイエス様です。イエス様は私達人間と神様との関係が悪魔によって壊された為、元に戻す(和解)ために自ら十字架にかかり、死んで陰府(よみ)の世界に下り、そこからよみがえらされたお方です。私達がこの悪の力の支配から自由になるために、神様は独り子イエス様を送られ、イエス様は人々の為に死なねばなりませんでした。私達はイエス様の死を通して罪が赦され、それにより狭き門を通ることで私達はイエス様のものとなり、見ている世界から神様のおられる世界に目を向けることが出来るようになりました。
*「何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行い(3:17)」
狭き門から入った私達はイエス様とつながり、神様はいつも私達の足元を明るく照らして下さるので、私達は「上にあるものに心を留め」て、希望を持って前を歩いていくことができるのです。