6月18日の説教要旨 「赦してくださる御方」 牧師 平賀真理子

イザヤ書54410 ルカ福音書12812

 はじめに

今日の新約聖書箇所の直前の段落で、イエス様は、人間の目より、悠に重要な「神様の目」を第一に考えるべきだと教えてくださっています。御自身も、父なる神様の御心を成し遂げること(人間に対する救いの御業)を第一として歩まれました。そして、権力はあっても人間に過ぎないファリサイ派などの思惑に左右されることはありませんでした。しかし、同時に、福音がこの世に広まることが神様の御旨であればあるほど、この世の長として人間を利用するサタンの反撃は大変激しくなると予見なさいました。御自分と同じように、弟子達も反対派の反撃を仕掛けられることが、主はお分かりになっていました。権力者や世間が反対する中、神の御子・救い主イエス様の弟子として、自分の立場を公けに発言しなければならない弟子達を、主は事前に励ましておられるのです。

 イエス様の弟子であると公けに信仰告白すること

人々の前でイエス様の弟子であると言う場が与えられて、そのように言えるならば、人の子=イエス様も、その弟子を「神の天使たちの前で」自分の仲間であるとおっしゃいました。そして、逆も真なり、人々の前でイエス様を知らないと言う者は、神の天使たちの前で言われるとおっしゃいました。本当の弟子であるならば、つまり、揺るがぬ信仰を与えられた者は、人の目や人の評価を気にせず、イエス様の弟子であると公けに宣言できるでしょう。そうできれば、人目、つまり、この世を恐れず、本当の救いをくださる神様を第一に生きていることを天地に宣言することになり、神様を喜ばすことができると示されています。

実は、私達はイエス様の弟子であることを、一度は公けに、既に宣言しています。洗礼を受けた時です!まだあります。毎週1回は宣言しています。礼拝で「使徒信条」を高らかに信仰告白しているわけです!しかし、キリスト教の歴史の初めの頃、つまり、直弟子達やそれに続く信仰者達は、命を掛けるような厳しい状況に置かれることを、イエス様はわかっておいでだったと思われます。そのような信仰者達に対して、イエス様御自身や父なる神様、神の天使たちまでが、見守っているから、信仰を告白できるように!と主は励ましておられると思います。

 主を知らないという者は、主に知らないと言われるのか、赦されるのか

それでも、人の子=イエス様を知らないという信仰者もいることを主は御存じでした。そのような者は、神様の御前で知らないと言われるとおっしゃった9節の直後の10節で「人の子の悪口を言う者は皆赦される」と言われました(「悪口を言う」とは、原語ではその関係を否定するという意味があります)。9節と10節では、イエス様への信仰を公けに告白できない者に対し、主が全く逆の対応をなさるとのことです。この流れの中で、何が起こったか、2つ考えられます。

一つは、同じ内容を記したマタイによる福音書と比べてわかることです。今日の段落は、その見出しにあるように、マタイ福音書の10章を中心に3箇所に分かれて書かれています。福音書は、イエス様の直弟子やその次の世代が、主の歩みや御言葉について、後代のために、聖霊に導かれて記録したものです。主の御言葉を弟子達はよく記憶していたとしても、その時の状況については少しずつ記憶が違っていたのかもしれません。ルカによる福音書では、厳しい状況の中、イエス様の弟子であると公言する重要性と、それを乗り超えるためには、聖霊の助けがあるという神様の恵みに焦点をあてて、伝えられていると思われます。

もう一つは、この時に弟子達(特にペトロ)が視界に入り、彼らが御自身との関係を公けに言えないという出来事を、もう既にイエス様はおわかりになっていたのではないかということです。事実、この後、イエス様の裁判の時、ペトロはイエス様の弟子ではないかと人々に問われたのに、その関係を全く否定したことが福音書にあります。信頼に値しないペトロに対し、イエス様は復活された後、彼を赦し、御自身の方から会いに来られ、神様の霊=聖霊を送ってくださいました(使徒言行録2章)。聖霊を受けたペトロは、別人のように変えられ、「人間が十字架で殺したイエス様を、神様が救い主となさった」と証しし、主の復活の証人であると公言して、厳しい状況の中、福音伝道のために、力強く、喜んで働きました。聖霊を受けた者は全く変えられ、神様の御用のために豊かに用いられます。この世に来てくださり、人の心を見抜く御方であるイエス様だからこそ、御自身への信仰告白を望んでおられても、告白できない人間の弱さを知っておられ、赦してくださり、父なる神様に執り成して聖霊をくださる御方なのです!

6月11日の説教要旨 「畏れるべき御方」 牧師 平賀真理子

イザヤ書51714 ルカ福音書1217

 はじめに

教会暦では、聖霊降臨節に入りました。3月1日からの受難節に入る前に読み進めていたルカによる福音書を再び学んでいきたいと存じます。

 ファリサイ派や律法の専門家達の偽善を指摘なさったイエス様

今日は12章からですが、その前の11章では、ファリサイ派や律法の専門家達の間違った生き方をイエス様が明確に指摘なさったと記されていました。彼らは外側だけ清いように見せかけることに熱心でしたが、内側、つまり、心の中では、神様の御心に適ったように生きてはいないと指摘なさいました。内側の心には「強欲と悪意」(39節)が満ちているのに、外見だけ装い、内側が「正義の実行と神への愛」(42節)で満たされているように振舞っていたのです。真の意味で、彼らは、心を神様に明け渡していなかったので、神の御子イエス様を認めることができず、最終的には、救い主を十字架にかける罪を犯すことになりました。

 ファリサイ派と私達プロテスタントの共通点

ファリサイ派は、元々宗教的権威者だったサドカイ派から、神様への信仰を「民衆」が主体的に実践できるようにしようと起こったグループです。その精神は私達プロテスタント教会も同じです。それまでの権威ローマ・カトリック教会が独占した御言葉や礼拝を、プロテスタントの人々は「民衆」が主体的にできるように改革しようとしました。ファリサイ派とプロテスタント教会、共に最初は少数派ですが、やがて認められて、多数派へ発展します。そうなると「腐敗」が始まり、主流派に対抗していた緊張感を失い、内側は怠惰になっていきます。一方、人々からは、最初の精神を求められます。彼らは、外見だけ、宗教的に立派だと見せかけることに熱心になり、「偽善」に染まります。ファリサイ派の偽善は、私達プロテスタント教会の者も、気を付けねばなりません。

 ファリサイ派のパン種=彼らの「偽善」

ファリサイ派への厳しい指摘の直後、イエス様は、まず、弟子達に、彼らのパン種、即ち「偽善」に注意しなさいと教えてくださいました。パン種とは、パンが発酵して豊かに膨らむもとになるものです。良いパン種であれば、食べ物がたくさん増え、「発酵」します。一方、同じような過程を取りながら、逆の結果を生み出すのが「腐敗」です。悪いパン種が食べ物の中に入り込み、食べ物の方が傷み、悪いパン種の方が増えます。イエス様の弟子達は、福音書を読む限り、知識も少なく、純朴な者達が多いようです。注意していなければ、弟子達は、狡猾なファリサイ派の「偽善」を本物の「善」と誤解し、被害に遭うかもしれないとイエス様は配慮されているのだと思います。

 神様を軽視し、人間からの見方にばかり気を取られる罪

もう一つ注意したいことは、ファリサイ派に限らず、人間の逃れ難い罪からくるものです。神様を軽視して、人間からの見方にばかりを気にしてしまうという罪です。罪の長サタンは狡猾に、人間に罪を気付かせないまま、闇に引きずり込むのです。警戒せずに、罪の罠にかかれば、弟子達でさえ、ファリサイ派のように「強欲と悪意」に満ち、かつ、外側だけは「義と愛」に満ちているように偽善的に生きてしまうかもしれない、そんな生き方に染まらないよう、主は、事前に弟子達に教えておられるように思います。

 この世を越えた、すべてを支配する権威をお持ちの「畏れるべき御方」

人間は、なぜ神様の目でなく、人間の目を気にするのでしょうか。それは、人間がわかる範囲=「この世」に在っては、人間の目(権力者の目や世間体)にどう映るかによって、社会的評価が決まり、いい思いをするか、または、ひどい目に遭うかが決まってしまうからでしょう。後者の極致が、罪がないのに有罪とされて殺されてしまうことです(主の十字架がそうです!)。それでも、イエス様は、人間の体を殺せる権威を持つ権力者も、所詮は体を殺す権威しかない人間に過ぎないと勇気づけてくださいます。体を殺されるのは人間には恐いことですが、しかし、私達の主イエス様の御生涯を見れば、この世の人間の支配とは次元の違う御方がこの世を越えた所ですべてを支配しておられることは明らかです。この世で殺されたイエス様が、最高の権威を持つ「父なる神様」によって生き返らされて「復活」なさったのです!父なる神様は偽善者を「地獄に投げ込む権威」(5節)がありますが、一方、御心に従った者には、深い憐れみにより「天の国に迎える」権威をお持ちの御方です。だから、私達は、この御方をただ恐がるのでなく、畏敬の念を持つという意味で「畏れるべき御方」として慕うことが許されています。

6月4日の説教要旨 「キリストはわたしの主」 有馬味付子先生(成増キリスト教会協力牧師)

創世記112  フィリピ書2111

 はじめに

本日はペンテコステ礼拝と仙台南伝道所の開設13周年記念感謝礼拝を献げる日です。大切な礼拝に用いていただき、感謝いたします。昨年伺った時は、この伝道所の最長老の佐藤博子姉が御存命でした。その十日後に博子姉は天に召され、今はこの世にはいらっしゃいませんが、博子姉の存在が確かにあると感じます。すべてのことは神様のご計画であり、「神のなさることは時にかなって美しい。」(コヘレトの言葉3:11・新改訳)という御言葉のとおりだと思います。

この伝道所は、神様が佐藤牧師に開拓伝道の思いを与えてくださり、皆様と一緒に形成されたのですが、その志と力を与えてくださったのは「聖霊」であり、皆様の後押しをしてくださるのも聖霊の働きなのです!

 ペンテコステ=ヘンテコなものを捨てる日

さて、ペンテコステは「ヘンテコなものを捨てる日」と、教会学校の教師から学びました。「ヘンテコなもの」とは、 人を憎む心・イエス様に従わない心・神様に反抗する心であり、別な言い方をすれば、「罪」とも言えます。「罪」は私達の心にへばりついていて、自分では決して捨てられません。それは、イエス様によって捨てられるのです。

 罪を悔い改めて、新しく生きる

「ヘンテコなものを捨てる」とは、「自分の罪を深く悔い改め、新しく生きる」ことでもあります。「悔い改め」をするには、「罪の自覚」が無ければ出来ません。「罪の自覚」をさせてくださるのも、「聖霊」のなさる業であり、この罪の自覚によって、人は洗礼へと導かれるのです。

「悔い改めて、新しく生きる」とは、「自己中心を捨てて、イエス様中心に生きる」ことです。イエス様に従うことで、罪の奴隷である自分から解放されるわけです。自分から解放される時、喜びに満ち溢れ、感謝の思いが沸き上がります。更に「平安」「安心」が与えられます。

 困難・艱難(かんなん)

とは言うものの、私達の主イエス様は十字架の道、即ち、困難・艱難を経験されましたから、イエス様に従う道では、困難・艱難が増えることになります。自分の好きなように生きるか、イエス様に従って生きるかが、自分の生活の上でも、また、色々な社会問題(貧困や差別問題、子育て等)でも問われてきます。

 聖霊による助け

イエス様に従う者は、困難な道、厳しい道を歩くことになりますが、しかし、聖霊による力づけ・助けをいただくことができ、必ず勝利します!なぜなら、イエス様は復活された御方だからです。そして、私達も主にあやかって、「復活する」=「永遠の命をいただける」ことが約束されています。

 聖霊が降ると「奇跡」が起きる

今日は聖霊降臨日ですが、聖霊を受けた弟子達は、語らずにはいられませんでした。そうして、男の数だけで3千人、女の数も入れると、たぶん6千人も、洗礼を受けることになったのです(使徒2:41)。それはまさしく「奇跡」です。聖霊を受ける時に、イエス様を信じる者は「奇跡」を起こせるのです!教会は「聖霊を受けた人、またはこれから聖霊を受ける人の集まり」です。

「聖霊を受ける」ことについては、「体験すればわかる」ものです。そして、それは、個人個人に働くだけでなく、イエス様の体である教会に働くと言えます。私達は、聖霊を与えられるように祈ることができます。

 「創世記」=イスラエルの人々の信仰告白

今日は、旧約聖書箇所として、創世記1章1-2節を読んでいただきました。創世記は、今から約2600年前に、イスラエルの人々がバビロニア帝国の侵略を受けて多くの指導者達がその都バビロンに連れていかれた時、多神教を信仰するバビロニア人と区別して、自分達のアイデンティティーを守るために記録した「信仰告白」と言えるものです。神が創造者であり、私達人間は造られたものであること、私達の命を支配なさっているのは神様であることを宣言しています。つまり、私達人間は神様の前に謙遜であるべきだと示しています。しかし、これが私達には難しいのです。ついつい思い上がって、自分が神になるのです!

 教会一致のために、利己心や虚栄心を捨てる

今日の新約聖書の箇所は、フィリピの教会に宛てて書かれたものです。この時、フィリピの教会では、問題が起こっていました。一つは、2人の婦人達が何かの勢力争いをしていたこと、もう一つは、偽教師が出現して、福音から人々を離そうとしていたことです。この教会分裂の危機的状況の時、パウロは牢獄に繫がれていて、フィリピに直接行くことができずに、代わりに手紙を書きました。パウロは「わたしの喜びを満たしてください」(2:2)と記していますが、これは、自分勝手な喜びでなく、イエス様を喜ばすことに留意するよう、熱望しています。教会の人々の思いが一つになることを願ったのです。この時、この教会が一つになれない原因が2つありました。一つは利己心(3節)=自己中心の心です。自分が正しいと考え、押し通そうとすることです。熱心のあまり、自分の思うとおりに教会がならないとやってられないと思う心でもあります。もう一つは虚栄心(3節)=人に尊敬されたい、または目立ちたいと願う心です。二つとも「自分が、自分が」という心ですし、「清められていない心」とも言えます。信仰者は自分が褒められるのでなく、神様がほめたたえられるように、教会に仕えていくことが求められています。

 教会一致のために必要な「謙遜」の源

そのために、私達には「へりくだる」=「謙遜」が求められています。自分は神様に造られた者であることを忘れないでいる必要があります。このように自分を低くできれば、他の人を上に置くこともできるでしょう。謙遜の逆の「傲慢」は罪の現われです。パウロは「謙遜」の源について、「イエス様が究極なまでに御自分を低くされたこと」を挙げています。イエス様は神の御子であられるのにもかかわらず、神の栄光を捨てて人間となられましたし、更には、「僕の身分」(7節)=奴隷の立場になられました。人間は誰もこれほどまでに謙遜にはなれないでしょう。

 「わたしの主はイエス・キリスト」

主の謙遜の極致の「十字架の死」は、神様のご計画ではありましたが、「この杯(十字架の運命)を取り去ってください。」と主は祈った後に、「御心のままに」と祈られました(ルカ22:42)。この従順ゆえに、神様はイエス様に「あらゆる名にまさる名」(フィリピ2:9)をお与えになりました。それは「主」という名です。「主」とは、神様・生きている者の支配者・所有者との3つの意味があります。「イエス・キリストは主である」が私達の信仰です。つまり「わたしの主はイエス・キリスト」なのです。

5月28日の説教要旨 「主の昇天」 牧師 平賀真理子

ホセア書6:1-3 ルカ福音書24:44-53

 はじめに

先週の木曜日5月25日は、教会暦において特別な日=「主の昇天を覚える日」でした。事前にお知らせできずに申し訳ありませんでした。来週の日曜日がペンテコステ(聖霊降臨)なので、今回はその前に「主の昇天」のことを深く学んでおきたいと存じます。

 復活の主の御姿

ルカによる福音書の最終章24章には、イエス様は十字架の死の後、復活なさり、その事実を弟子達が次第に理解していく様子が記されています。「弟子たちに現れる」という見出しの段落では、「復活の主」との出会いを体験した弟子達が話し合っていると、そこへ復活したイエス様が現れたことが証しされています。ここで改めて思わされたのは、復活の主は肉も骨もあり、食事もできたことです。主の御言葉から、復活の御姿は、私達の知識を越えた存在であることが推測できます。

 「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」(46節)

理解の範囲を越えた「復活の主」と出会い、「うろたえ、心に疑いを持ったりした弟子達」に、イエス様は御自分のことを証しなさいました。即ち、十字架に至る御受難と、この時点で起こっている復活について、それは聖書に預言された「神様のご計画」どおりであることをもう一度伝えているわけです。この告知を、十字架の前に、イエス様は3度も弟子達になさっていました。でも、聞いた当初、弟子達は、あまり理解できなかったと思われます。でも、そのとおりのこと=「十字架と復活」が起こった直後ならわかるだろうとイエス様は思われて、弟子達に、忍耐強く、更に教えようとなさっていると感じられます。主の十字架と復活は、私達の信仰の要です。だから、説教の中でも、強調されてきたことです。ただ、それを聞くことに慣れてしまってはならないと思います。罪のない主が、私の為に大変な痛みと苦しみを代わりに担われたことを痛感し、心静めて掘り下げる必要があります。

 罪の赦しを得させる悔い改めを、全世界に宣べ伝える役割の弟子達

更に、復活の主は、この時新たな内容を告げられました。それは47節の前半の御言葉=「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。「イエス様の十字架(贖いの御業)と復活(神様から賜った栄誉)を『自分が罪赦されて救われる為に行われた』と信じること」が、ここで言われている「悔い改め」です。それによって、神様から「罪の赦し」をいただける、そして、そのような「主の御名による救い」が全世界に広がる、そして、その役目を弟子達が任せられるようになる、そこまでが「神様のご計画」に入っていると、復活の主は新たな真実を知らせてくださったのです。そのような弟子達に対し、「あなたがたは(救いの御業の)証人となる」(48節)とおっしゃいました。「証人」とは裁判用語ですが、ここでは第三者として語るだけではなく、「当事者」、しかも、神様の救いのご計画の一部を担う者としての「当事者」であることを意味しています。

「弟子達を祝福されたイエス様」と「主を初めて伏し拝んだ弟子達」

50節からは、「主の昇天」が証しされています。イエス様は手を上げて弟子達を祝福されました。そして、弟子達は、この時初めて「イエス様を伏し拝んだ」のです。復活だけでなく、昇天の御姿をお見せになることにより、弟子達はイエス様の偉大さを更に思い知ったのでしょう。弟子達は、この後、大喜びで神様をほめたたえる生活をすることになりました。そうしながら、主の御命令のとおり、「父が約束されたもの聖霊(神の霊)」を待っていたのです。

昇天後のイエス様と弟子達

昇天後のイエス様については、私達が礼拝で信仰告白している使徒信条に「天に昇り、全能の父なる神の右の座し」ておられるとあります。神様と同じ存在になったのです。しかし、イエス様はそこに安穏と座っておられる御方ではなく、信じる者が助けを祈るなら、この世に必ず働きかけてくださいます。イエス様は「聖霊」を送って、この世の人や出来事を動かせる力をお持ちです。

一方、弟子達は、集まって祈る日々を過ごし、今後の福音伝道の準備を行った(12人目の使徒の選定)と使徒言行録1章にあります。2章では、五旬節(ペンテコステ)に初めて「聖霊」が降った出来事が記され、福音伝道が開始されました。信仰者は心が祈り等によって神様の御心と一致した時、神様のご計画に用いられます。私達も主の御心に自分の心を合わせられるよう、祈りましょう。

5月21日の説教要旨 「永遠なる大祭司」 牧師 平賀真理子

レビ記917ヘブライ人への手紙72228

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、「ヘブライ人への手紙」から与えられました。この書簡は、恐らく、紀元80年~90年代に、ローマにいるユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものだろうと言われています。著者は、宛先の人々と同じくユダヤ人キリスト者であり、かつ、ユダヤ教の神学的な内容に精通していて、自分の確信を情熱をもって語れた人だろうと言われています。この書簡の中には、迫害を経験したか、または、これから起こるであろう迫害を前に不安になった故に、キリスト教信仰を捨てようとする人々に対し、救い主イエス様の恵みが、ユダヤ教からの恵みとは比べものにならないほどに、より大きくて、いかに確かなものであるかを伝えようとする著者の思いが溢れています。

 大祭司イエス様

「ヘブライ人への手紙」は、1章から6章までが導入部分と言えます。はじめに、著者は、イエス様が天使やモーセよりも優れた御方であり、完全な救いを成就してくださった御方だとあります(小見出し参照:1章「御子は天使にまさる」、2章「救いの創始者」、3章「イエスはモーセにまさる」)。

次に、3章1節で初めて、「イエス様が大祭司である」という考え方が表わされています。そして、4章14節で「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」という励ましのメッセージが述べられます。「大祭司」という言葉については、5章1節に明確に説明されています。「大祭司はすべての人間から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。また、5章4節には、この大祭司という任務は「アロンもそうであったように、神から召されて受ける」とあります。

 アロンとその子孫が受け継いだ「大祭司」という職務

今日の旧約聖書箇所に、ユダヤ人が敬愛するモーセが、その兄弟アロンに初めて「祭司」の職務を行うように言ったと記されています。祭司としてアロンに、アロン自身とユダヤの民の罪を贖う儀式を行うように、主が命じたと、モーセが告げたことが重要です。祭司の職務は、神様が命じられる(直接介入される)ほど重要です。ユダヤ教では、神様に従うことと背くことの基準は、「神様からいただいた律法を守るか、守らないか」でした。ユダヤ人達は律法を守れなかったら、罪を犯したことになります。その罪を神様に赦していただくには、贖罪のためのいけにえを屠り、その血を祭壇に注ぐという贖罪の儀式を、アロンの子孫であるレビ族出身の大祭司に取り行なってもらう必要がありました。

 血統を越えた「新しい救い」=預言された「永遠なる大祭司」 

ところが、イエス様はユダ族出身だったので、ユダヤ教の常識を捨てられないユダヤ人キリスト者にとって、イエス様が、新しい大祭司だとすぐには受け入れ難いことでした。だから7章では、昔、レビ族ではない「メルキゼデク」という祭司がいて、ユダヤ人達の信仰の祖として尊敬されているアブラハムもこの人に献げ物をした事実を挙げ、掟を越えたことが歴史上、既になされていたことを指摘しました。その上、神様は「以前の掟を廃止して、もっと優れた希望をもたらそう」(7:18-19)としていると説明しています。同時に、神様は、ずっと昔に預言した「メルキゼデクのような『永遠なる大祭司』をこの世に送る(詩編110編4節)」という約束(20節では「誓い」という言葉)を守ってくださった結果、来られた「永遠なる大祭司」がイエス様であると21節までで説明しています。同じことを22節では「イエス様は いっそう優れた契約の保証となられた」と表現しています。大祭司イエス様がなぜ、今までの大祭司よりずっと優れた御方なのかの根拠の一つが23節から25節にあります。人間である大祭司は死を越えられないので、代替わりが必要です。一方、イエス様は「神の右の座にお着きになった」(1:3)ので、神様として時空を超えた御方です。永遠に生きて、信じる者達への執り成しを永遠にしてくださるので、完全なる救いがおできになります!

 ただ一度の尊いいけにえ=「主の十字架」

イエス様の十字架が、私達の完全なる救いのためのただ一度の尊い犠牲であるということは、私達の信仰の核心部分です。このことを「ヘブライ人の手紙」では、3回もはっきり主張しています(7:21、9:28、10:10)。イエス様による「罪の贖い」の完全さを証しした上で、伝えられた人間がどうすべきかが、10章19節-20節に記されています。「イエス様の贖い」を信じることで聖所に入れるとか、イエス様の肉を通って(犠牲を通して)新しい生きた道が開かれたと述べています。そして、これ以降には、信仰者に必要な内容が次々と記されています。11章では「信仰」、12章では信仰に必要な「主の鍛錬」、13章では「神に喜ばれる奉仕」など、キリスト者にふさわしい信仰生活についての記述が続きます。

 キリスト教の外側でなく、内側「主の贖いの御業」を一人一人が信じる

かつてのユダヤ教のように、自分の罪の赦しを、大祭司に委ねて償ってもらう時代は終わりました。イエス様の偉大で完全な贖いの御業を、知らされた一人一人がそのまま信じるかどうかが問われています。ヘブライ人の手紙は、そのことを明らかにして、信仰者達を励まそうと書かれています。更に、使徒パウロも、同じ内容を記しています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ書3:23-25)キリスト教や教会が提供する行事や芸術や雰囲気という外側が素敵だから信じるではなく、内側=核心「イエス様の十字架が私の罪の贖いのためである」ことを信じ、神の民とされる幸いを受け取ることが許されている喜びに溢れ、信仰を保ち続けましょう!

5月14日の説教要旨 「主は道、真理、命」 牧師 平賀真理子

詩編9819 ヨハネ福音書14111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が反対派によって逮捕されて十字架に付けられるという出来事の直前に、弟子達にお語りになった「告別説教」の一部です。言わば、イエス様の遺言であり、とても重要なことを語られました。今日の箇所の内容を考える前に理解しておくべきことが2つあります。1つは、イエス様御自身が、御自分の近い将来の死(この世から去って、天に帰るということ)をおわかりなっていて、弟子達に予告しておられるということです。2つ目は、イエス様の御言葉を受け、弟子達が大きな不安に陥っているということです。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

だから、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)とおっしゃったのです。そして、これが、この箇所で、イエス様が弟子達に一番伝えたかったメッセージです。この後の2節から11節までは、このメッセージの理由を述べているのです。

 「弟子達を決してみなしごにはしない」(14:18)

イエス様は、弟子達を父なる神様の御許に迎える用意をするために、天に帰る必要があり、その用意ができたら、戻って来て、弟子達を迎えると約束されました。それを「わたしのいるところにあなたがたもいることになる」と表現されました。イエス様は死んで弟子達には見えなくなるけれども、それは一時的で、永遠の別れでもないし、弟子達を主は決してみなしごのように一人きりにしないことを約束してくださり、そのような絶対的な信頼を寄せてよいと保証してくださいました。

 「十字架」という道を通って、「天に帰る」イエス様

イエス様は御自分がどこに行くのか、また、その道をも弟子達は知っているとおっしゃいました(4節)。御自分が天から来て、今や天に帰ること、そして、それは、人々の罪の贖いのために、最もへりくだった死(十字架)という道を通ることを、弟子達は教えられていたにもかかわらず、実際は、理解できていなかったことが、5節の弟子トマスの言葉でわかります。「主がどこへ行かれるかも、その道もわかりません。」弟子達のこのような無理解に対し、イエス様は更に御言葉を重ねて教えてくださいました!

 「わたし(イエス様)は道であり、真理であり、命である。」(6節)

①「わたしは道である」この直後に「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節b)と説明されています。救い主イエス様の重要な役割は、父なる神様の御心を行うことです。では、「父なる神様の御心」とは何でしょうか。ヨハネ福音書6章40節にあります。「わたしの父の御心は、子(イエス様御自身)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だとイエス様が語っておられます。「子を見て信じる」とは「何を信じるのか。」というと、イエス様を救い主だと信じることです。救い主として最も大きな役割は人間の罪の「贖い」=「身代わりに償うこと」です。神の御子ならば、人間のように「罪がある」わけではないのですが、イエス様は、人間の罪の贖いのために「神の御子の死」という尊い犠牲を引き受ける必要がありました。その結果、神様と人間を隔てていた罪が埋め合わされ、人間が神様に至る「道」ができました。だから、人間にとって、イエス様の十字架は自分の罪の贖いだと信じることが、神様に繋がる「道」となるのです。

②「わたしは真理である」ここでの「真理」とは、神様に関わる文脈で使われていて、科学や哲学で使われる「真理」とは次元が違います。この「真理」とは、元々のギリシア語では「アレテイア」という言葉で、「隠されていたものが明らかになる」という意味があります。「隠されたもの」とは神様のことです。8節の弟子フィリポのお願い「父なる神様を見せてください」に対する、イエス様の御言葉「わたしを見た者は、父を見たのだ」にも答えが暗示されています。ここでの「真理」とは、人間の目には見えない、隠された父なる神様が、この世で、人間として明らかになったのが、イエス様御自身のことだというわけです。

③「わたしは命である」イエス様は、自分達も死ぬかもしれないという弟子達の不安を取り除きたいと思われたのでしょう。御自分を救い主として信じて従うことは、父なる神様に繋がることができる、即ち、「永遠の命」をいただける、大いなる希望の道であると伝えたかったので、御自分を救い主と信じる者達は、心を騒がせるなとおっしゃったのです。私達も時空を超えて「弟子達」の一人一人と言えます。ですから、偉大な救い主イエス様への信仰を貫きましょう!

5月7日の説教要旨 「主は復活と命」 牧師 平賀真理子

ダニエル書1213 ヨハネ福音書111727

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、死んで4日も経ったラザロという男をイエス様がよみがえらせた話の一部から与えられました。この話は、ヨハネによる福音書だけに記された話です。ラザロには、マルタとマリアという2人の姉妹がいて、マリアは、主の十字架の前に、その死を予感して、生前のイエス様に香油を塗った女性として知られています(マタイ26:6、マルコ14:3、ルカ7:36)。また、ルカ福音書10章38節からの段落では「マルタとマリア」と言う小見出しで、対照的な行動をする姉妹としても描かれています。

 イエス様に愛されたラザロ達

ユダヤ地方のベタニア(エルサレムから約3㎞)に住んでいた、この3人の兄弟は、これ以前に、イエス様と良い交わりをしていたと思われます。2人の姉妹がラザロの病気を主に報告する際に「あなたの愛しておられる者が病気です。」と言っているからです。しかし、イエス様は、ラザロの出来事は「神の栄光」のためであるとおっしゃり、すぐには出発されませんでした。一行がベタニアに到着した時には、ラザロは既に死後4日も経っていました。そこで、イエス様を先に出迎えたマルタがイエス様と交わした会話が、今日の箇所です。

 マルタの言葉にならない願いを汲み取り、かなえてくださる主

兄弟を失ったマルタは、イエス様がそばにいてくださったら、兄弟は死ななかったでしょうと、その御力を信頼しています。しかし、次の「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」とは、一体どういう意図で言ったのでしょうか。それは、次のイエス様の言葉から理解することができます。「あなたの兄弟は復活する」(23節)という御言葉です。人の心を見抜くイエス様が、マルタの心に秘めた願い「今からでも遅くないなら、神様に願って、ラザロを生き返らせてほしい」という、マルタの心の底にある思いを汲み取ってくださったのでしょう。主と良い交わりを重ねてきた この姉妹の思いをかなえるために、この後に働いてくださることを予め知らせておられるのだと読み取ることができるでしょう。

 「復活」について

主が深い憐れみによる御言葉をくださったにもかかわらず、マルタは、その意味をすぐに正しく理解できませんでした。「終末の日に、死者がいっぺんに復活する。」というのが、ユダヤ人の常識でした。ユダヤ人達は伝統的に「死んだ者が生き返る」ということにあまり関心がなかったようです(今日の旧約聖書箇所は、「死者の復活」を述べた、数少ない箇所の一つです。)。従って、「ラザロが生き返るのは終末を待たねばならない。」とマルタは考えていて、イエス様の御言葉が自分達の身にすぐに実現するのだとは全く期待していなかったでしょう。

さて、一度死んだ人間がどうしたら生き返るでしょうか。それは、命を取り去ることのできる御方が、同じように、命を与える権限を持って、その人に働きかけるという行為がなされなければなりません。その権限を、神の御子であるイエス様が持っているので、「わたしは復活であり、命である」とおっしゃることができ、しかも、御言葉のとおりのことが、ラザロを通して起こったのです。

「わたし(イエス様)は復活である」という中の「復活」とは「立ち上がらせる」という意味が原語にはあります。「死んだ人間を死の世界から立ち上がらせる、生き返らせる力がわたしにはある、その権限を持っている」ということです。

 「命」について

「わたしは命である」とは、「命を生み出し、与える権限がわたしにはある。」とイエス様が宣言なさったわけです。聖書では、この世のすべてのものに命を与えられるのは、神様だけというのが大前提です。その創造主なる神の御子だからこそ、イエス様は、死んだ人間に再び命を与えることがおできになるのです。

また、生物学的な「生」と「死」を越えた次元で、聖書では、「命」がある状態とは「神様と正しい関係にある」状態だと考えます。イエス様を救い主と受け入れて信じるだけで、罪ある人間が神様と繋がることができ、「永遠の命」の状態に入れられるのです!マルタはイエス様の御力の偉大さを「知って」いましたが、イエス様が最終的にマルタに確認なさったのは、イエス様が命をつかさどる神様の権限を持つことを「信じるか」ということでした。マルタのように、私達も御子イエス様への信仰を成長させていただけるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

4月30日の説教要旨 「主の復活の恵み」 牧師 平賀真理子

イザヤ書651719 コロサイ書3111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は「コロサイの信徒への手紙」から与えられました。「コロサイ」の場所は聖書の後ろにある地図9で見ると、真ん中より少し東側であるとわかります。主が十字架にかかったエルサレムから直線距離でも800㎞も離れた この町にも、この手紙が書かれた頃(紀元60年頃)には、主を信じる人々がいたのです。ところが、その群れの中に、当時流行していた「グノーシス主義」という、知識偏重の考え方が入り込んできて、それを心配したパウロが、福音の本来の正しい教えに帰るように、コロサイの信徒達に勧めているわけです。

 「キリストに結ばれて歩みなさい」(2:6)

今日の箇所は、2章20節からの「日々新たにされて」の段落の一部です。一つ前の段落「キリストに結ばれた生活」の段落の冒頭の6節には「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」とあります。これがこの手紙の主題です。更に、その後の12節では(あなたがたは)洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」とあります。これを踏まえ、2章20節からの「日々新たにされて」の段落は、話が進められていきます。

 「キリストと共に死んだのか」

 2章20節から23節は、まず、信徒達がキリストと共に死んだということが大前提になっています。この「死」は、勿論、肉体的に死ぬということではありません。「この世の考え方や教えに支配された人間として、神様から離れた霊的存在の自分が一度死んだのか」と問われています。この手紙の内容から見て、コロサイの信徒達は、この世の考え方や流行していたグノーシス主義に左右され続けていたので、それは違うと著者パウロは言いたかったのでしょう。信仰者となる前と後とが変わらないならば、それはイエス様と共に死んだわけではないということです。これは、コロサイの信徒達だけに言われているのではなく、時空を超え、私達を含む、信徒達全員に問われていると読み取れます。

 「キリストと共に復活させていただける」

ただ、私達、主を信じる者は、イエス様と共に死ぬのであって、孤独に放り出されるわけではありません。この世で霊的に一度死んだ後に、今度は「復活したイエス様」を信じている故に、その恵みをいただいて、「神の国の民」として、霊的に復活させていただけると言えます。「主と共に」です。このことこそが、本当に大きな恵みをいただいていると言えるのだと思います。

 恵みをいただく前に、この世の考え方や生き方を脱ぎ捨てる

イエス様の十字架の意味=「私の罪の贖いのために神の御子・救い主が命を犠牲にされた」ということが本当にわかっているならば、それまでの考え方や生き方すべてを捨てていいと思えるのが、本当に主に出会った人の姿勢だと思います。私達日本人の中には、何かに一生懸命になっていることを見抜かれることを好まず、信仰者となっても以前の姿とあまり変わらないで過ごしたいと考えるクリスチャンが多いように思います。しかし、今日の聖書の箇所では、そうであってはならないと警鐘を鳴らしているのです。

 主と共に復活させられるだけでなく、終末の時には主と共に現れる

 キリストと共に確かに死んだ者は、「キリストと共に復活させられる(3:1)とパウロは語っています。それだけでなく、復活後に天に帰ったイエス様は、今や、神様と同じ存在になっておられ、今、私達には見えないけれども、歴史が終わる終末の時には現れてくださり、その時に、私達信じる者達も神の国の民として共に現れるようになれると、霊的な目を持っているパウロは保証しているのです。

 「古い人」を脱ぎ去り、「新しい人」を身に着け、日々新たにされる

この世では許容される「性的な乱れ」や「自分の欲望に引きずられて他人を軽んじる行為」を、信徒達はやめるように、更には、その源となる、悪い心や悪い言葉さえも、捨て去るように!とパウロは指導します。グノーシス主義では、天の秘密の知識さえあれば、この世で悪い言動をしても構わないとされたので、対照的です。主を信じる者達は、この世の言動と心根を持つ「古い人」を脱ぎ去り、造り主の姿に倣う「新しい人」を身に着けるように教えられています。しかも、洗礼の時の1度きりではなく、日々新たにされることで成長すると言われています。キリストだけを見つめて成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

4月23日の説教要旨 「主の復活の証し」 牧師 平賀真理子

詩編16311 使徒言行録132631

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、ルカによる福音書の続編と言われる「使徒言行録」から与えられました。この書の1章3節からは、主が復活されて40日間も弟子達に現れたと書かれ、続いて、主の昇天が記されています。そして、2章では、ペンテコステ、つまり、主が約束なさった「聖霊降臨」が本当に起こったと証しされ、直後に、イエス様の一番弟子のペトロが説教したとあります。イエス様が救い主としてこの世に来られ、十字架と復活の御業によって、人々の罪を肩代わりしてくださったこと、このことを信じる者達が救いの御業の恵みをいただけるようになり、神様と繋がることができるようになったとペトロは説教しました。

 もう一人の重要な弟子パウロ

使徒言行録では、8章までは、だいたい、ペトロを中心とした使徒達が福音を告げ知らせて、主の恵みを拡げていったことが証されています。そして、9章になって初めて、サウロ(後のパウロ)と呼ばれる人と、復活の主との出会いが書かれています。パウロは、イエス様の教えは間違っていると思い、弟子達を逮捕する任務の途中で、主からの呼びかけを受けて180度の方向転換=回心し、今度はイエス様こそ約束の救い主であり、福音の素晴らしさを人々に伝える使命を果たしていくようになります。しかし、それまでのパウロの考えや動きを知っていたユダヤ人達は、信じられずに、パウロの命を狙うようになり、宣教活動を控えなければならなくなりました。再び、パウロの活動が記されるようになったのが13章からです。しかも、アンティオキア教会の指導者の中に名前が挙げられています。彼らが礼拝し、断食していると「バルナバとサウロを選んで派遣する」という聖霊のお告げがありました。

 ビシディア州の町アンティオキアのユダヤ教の会堂で

パウロの第1回目の宣教旅行が始まりました。今日の聖書の箇所は、ビシディア州のアンティオキアという町のユダヤ教の会堂で、パウロが話したことの一部です。恐らく、会衆のほとんどがユダヤ人だったことでしょう。パウロは、ユダヤ人の歴史を述べて、神様に選ばれた民としての誇りを会衆に思い起こさせようとしているのではないでしょうか。

 「救いの言葉」=「十字架にかかり、復活なさったイエス様」

26節の「この救いの言葉」とは、「十字架と復活」という救いの御業を成し遂げたイエス様のことを指しています。イエス様が、ユダヤ人達の歴史の中で預言として語られてきた「救い主」であることをパウロは懸命に証ししようとしていると感じられます。「救い主」と言えば、ローマ帝国の支配を終わらせ、自分達の国を作ってくれるような政治的リーダーをユダヤ人達は求めていたのですが、預言は、実は、そのように語ってはいなかったのです。預言では、「救い主」は「栄光の主」というよりも「苦難の僕」の姿を取る御方であり、それが、まさに「十字架にかかったイエス様」であったとパウロは述べています。

 「復活したイエス様が自分に現れてくださった!」

人間の知恵の範囲ではつまずきでしかない「十字架にかかる救い主」が、実は、敗北でなく、神様のご計画であり、その御計画を実現させたイエス様に対して、「復活」という栄誉を父なる神様が与えてくださったとパウロは語っています。この当時、復活のイエス様に出会った人々が数多く生き残っていました。Ⅰコリント書15章では、そういう人が使徒以外にも500人以上いたと証しされています。キリスト教を広める役割をした人々の多くは、恐らく、死んだイエス様が復活して「自分に現れてくださった!」と大感激したのでしょう。「この世の常識ではありえない、凄いことが我が身に起こった!もう否定できない!イエス様が約束してくださったこと、預言されていたことが我が身に起こった!」彼らの喜びは本当に大きいものでした。彼らのように、自分の理解を越えたことが我が身にも起こると受け入れる人々に信仰は与えられるのでしょう。キリスト教では、別の言い方もします。その人々に「聖霊が降った」のです。

 私達一人一人の人生に現れてくださる「復活の主」

神様が私達一人一人に聖霊を送ってくださるのですが、私達がしなければならないことは、神様から送られた「この救いの言葉」=「イエス様」を、私の「救い主」として信じたいという願いを持ち、そのように神様に祈ることです。実は、復活したイエス様は、私達一人一人の人生に現れてくださる御方です。

4月16日の説教要旨 「その時、わたしは ―イースターの光に包まれて―」 佐々木勝彦先生

イザヤ書53110  マタイ福音書266975   Ⅰコリント書15111

 はじめに

イースターに因(ちな)んだ聖書箇所で思い出されるのはどこでしょうか。マタイ、マルコ、ヨハネ福音書で共通する最後の御言葉は「出て行きなさい。」、更には「伝えなさい。」ということです。そして、それは「どこに」でしょうか。マタイ福音書を例に挙げれば、「すべての民の所に」であり、そこで具体的に何をするためなのかと言えば、「洗礼を授けるように」ということです。

 「イースター」を考える時

「イースターをどう考えるのか」というテーマを与えられた場合、「主の大宣教令」の中の「すべての民に洗礼を授けなさい」を思い起こすことができるでしょう。洗礼を既に受けた方は、自分が受洗した時、復活の主に出会ったと言えるでしょう。しかし、主との出会いを忘れてしまい、信仰生活から外れていく人もいますし、逆に持続する人もいます。次に、「飲み食い」=(教会では)「聖餐式」において、復活したイエス様に出会います。「聖餐式」の度に、復活したイエス様との出会いを考える機会があるのです。そうでなければ、大事なことを忘れていると言えます。

 ヨハネ福音書でのイエス様とペトロ⇒「語り部」となったペトロ

また、ヨハネ福音書21書15節以降の「復活の主と弟子ペトロ」の話も示唆に富んでいます。断絶した子弟関係を繫ぐ(修復する)ことが記されているからです。今日の新約聖書の箇所にもあるとおり、ペトロはイエス様を三度も知らないといった「ダメ人間」とも言える人物です。この箇所(ヨハネ21:15~)から考えられるのは、ペトロが「十字架にかかったイエス様が、ダメ人間の私を許してくださった!」と感謝し、それを伝えたということです。つまり「語り部」になったという訳です。東日本大震災の後にも「語り部」が現れました。キリスト教もそうだったのではないでしょうか。「語り部」が先に生まれ、その後に文字、つまり「聖書」が書かれていくのです。「語り部」が語ることは二つ、一つはイエス様に何が起こったのかということ(まず、これを正しく語れなければなりません。)、二つ目は「その時、わたしはどう思ったか?」ということです。語る事柄とわたしの気持ち、この二つが「語り部」には必要です。こうして、「語り部」の語ることが、キリスト教の中では「証し」や「説教」となっていったのでしょう。

 パウロとペトロ

私自身は、パウロがいかに素晴らしいかを語る牧師の説教を長年聞いて育ったので、パウロは好きですが、ペトロは好きではありませんでした。しかし、今回「主の復活」をテーマにもう一度、聖書を通読してみた結果、ペトロが「ダメ人間」だった故に、復活したイエス様から許されて受け入れられた喜びがいかに大きかったか、また、その経験によって、ペトロは「語り部」として神様に用いられていったのだということを発見することができました。

 イースターは「死」について考える時

さて、主の復活の讃美歌でも明らかなように、イースターは「死」について考える時でもあります。イエス様の宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。神の国が近づくとは、終末のことです。終末とは、時間の死です。人間としての私の死だけでなく、時間の死も考えるべきことが示されています。つまり、イースターは自分を越えたもの、この世の終わりを考えよということです。ペトロの経験から言えば、イエス様の方から現れ、守ってくださり、自分を「語り部」として用いてくださるということです。イエス様は私達に「大丈夫だから、一緒に行きましょう!」と招いてくださり、大変な時には、イエス様が自分を背負ってくださいます。それは「あしあと」という詩に描かれたイエス様の御姿です。ペトロは、まさしく、イエス様に背負われて歩んだのではないかと私は想像します。

 イースターは復活したイエス様に光の中で出会う時

私達が復活したイエス様に出会うのは、洗礼を受けた時、また、聖餐を受ける時、更には、伝道する時や、死の克服(つまり「復活」です。参照:ローマの信徒への手紙6章3-11節)を感謝する時です。今日の説教題は「その時、わたしは―イースターの光に包まれて―」としました。「その時」とは復活した主に出会う時です。きっと明るい光に包まれていることでしょう。イースターの光の中で、私達は、主に背負われているか、共に歩いていただいているのではないでしょうか。その光はどこから来るのでしょうか。きっと後ろから、即ち、後光が指した中での出会いだと私は考えています。