2023年9月3日の説教要旨 箴言25:1-7a ・Ⅱコリント11:7-15

             「主の誉れ」       加藤 秀久牧師

*はじめに

 イスラエルの王国はソロモン王の死後、北と南に分裂し(B.C.922年)、北はイスラエル王国(首都サマリア)、南はユダ王国(首都エルサレム)となりました。しかし、B.C.721年に、北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダには北王国から多くの知識人が亡命して来たので、ユダ王国のヒゼキヤ王が、北からの伝承をも含む格言を集めて編集したものが本日の「箴言」です。25:1に「これらもまたソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」とあり、2節には「事を隠すのは神の誉れ。事を極めるのは王の誉れ。」とあります。つまり神様は隠し、王様はその隠されたことを探り、発見する(きわめる)と語られています。

*ヒゼキヤの父アハズとヒゼキヤ

ヒゼキヤ王の父アハズは、敵の侵略から身を守るために、外国に助けを求めました。神様は預言者イザヤを遣わして「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。(イザヤ7:4)」と伝えましたが、アハズはその言葉に耳を傾けることをしなかったため一時的には問題は解決をしたかのように見えましたが、最終的にはさらに困難や苦しみ(多くの貢物をするなど)によって国が揺れ動くこととなりました。

しかし息子ヒゼキヤの時代、ユダ王国のエルサレムもアッシリヤ王の率いる軍勢に包囲されるという危機的な時代となっていましたが、ヒゼキヤは箴言の編集作業をしたのです。このことは神様からの重要な霊的意味がありました。それは、ヒゼキヤが神様の代理者として立てられたことを意味し、又、ヒゼキヤが敵との戦いにおいて神様の言葉を優先したことにあります。ヒゼキヤは神様の隠された言葉から、神様の考えを見つけ出し、その言葉に従い、その言葉を用いて敵に戦いをいどみ、勝利すること。

それが神様の代理者としての王の務めだと考えたのです。 ヒゼキヤは、預言者イザヤの指導を受けながら、神様の言葉にしっかり立つことが敵に勝つ秘訣だと確信していきました。

*わたしたち

 このことは、現代を生きる私達にとっても同じことが言えると思います。神様の言葉が失われそうに感じた時(神様が遠くに感じられた時)、私達は立ち返って神様に心を向け、神様のなされること、なされようとすることに信頼をおく必要があります。それが私達にとっての神様に近づく近道、霊の回復の近道、神様からの勝利を得る近道となるからです。

 神様の言葉は、私達が想像するよりもはるかに越えた奥深い世界を見させて下さいます。その奥深さは秘密にされていて、私達は、神様の隠しておられる事柄を見つけ出して発見する(きわめる)ことが必要です。聖書の中で「探る」という言葉を調べてみますと、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味があります。

エレミヤ書29章には以下の言葉が記されています。

あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見い出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。(12~13)」

*キリストに対する真心と純潔からそらせる偽使徒たちの存在

 本日のコリント書には、パウロたちが伝えたイエス様の教えと異なる教えや、受け入れるべきでない違った霊や福音を語る偽使徒達が教会の中に入り込み、そのため教会員がキリストに対する真心と純潔からそれてしまうことをパウロは心配し警告しています。そしてパウロの伝道と牧会は、彼らに負担をかけないため無報酬でやってきたと告げています(生活に不自由した時は、マケドニア州の兄弟(信者)逹が助けてくれた・・11:9)。 

私達の住む社会にも、キリスト教に近い、似たような教えや名前を使って活動をしている人達(カルトや占いや魔術的な事)がいます。パウロの時代も似たような人々が社会にいたからこそ、教会からの報酬を受け取らなかったのかもしれません。パウロの伝道目的は、イエス様の言葉、神様の愛の素晴らしさを伝えることでした。私は、パウロのような、宣教の為に全てを献げる人達に出会ったからこそ、その中の一人になりたいと思い、今ここに立ち、皆様に神様のことをお話しています。

2023年8月27日の説教要旨 出エジプト23:10-13・ローマ14:1-9

             「従う心」         加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の旧約聖書には、安息年と安息日についての守り方が記されています。安息日を一般の辞書には「何の煩いもなく、くつろいで休むこと」とありますが、創世記2章には、神様が天地創造された時,6日間の仕事を終えて「第7の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」(2節)とあり、「その日を神は祝福して、聖別された」(3節)と記されています。

 現代を生きる私達にとって安息日は日曜日ではなかったり、まとまった休みを取るため、長期間仕事から離れられなかったり、或いは、仕事やその他の事情でお盆とお正月位しか休めないという方がおられるかもしれません。一方で、休日を「休む日」ではなく「その日にしかできない時間」として、自分自身を忙しくしてしまう日になってはいないでしょうか。

*安息年

神様がイスラエルの人々に与えた約束の地では、人々は6年間は自分の土地に種を蒔き、その実りを収穫しましたが、7年目にはその土地を休ませなければなりませんでした。本日の出エジプト記には「7年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない」とあり(23:11)、休閑地では乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるが良いとあります。

(レビ記25章では、安息年には「全き安息を土地に与え」ねばならず、それは「主の為の安息」であり、7年目に生じた物は、所有者、男女の奴隷、雇い人や滞在者、そして家畜や野生の動物のためと記されています)。

イスラエルの人達の基本的な考え方は、土地や人や労働者達は神様の所有であり、全ての人が同じ立場にたち、社会的に弱い立場にある者を、そうでない者達が助け合い、支え合う神の家族として、イスラエル共同体を造り上げていくことにあったのではないでしょうか。

*安息日

 12節には、人々は六日の間働き七日目には、仕事をやめねばならないと安息日の過ごし方が書いてあります。それは、彼らの牛やろばが休み、女奴隷の子供や寄留者が元気を回復するためとあります。そして13節で、これらの戒めをすべて守るように(従うように)命じ、異教の神の名を口にすることを禁じています。

*わたしたち

私達は、神様が定めた安息日(仕事を離れた休みの日)をどのように過ごしているでしょうか。この日は主なる神様との日です。私達は霊の内に、神様と向き合う日、心を落ち着かせ、神様とゆっくりした時間を十分に持つ日とすることです。この安息は、日曜日(神様を礼拝する日)だけに限定せず、神様と向き合い心を落ち着かせ、神様とゆっくりした時間(安息)を持つことが出来れば幸いです。

信仰の弱い人を受け入れなさい。批判してはなりません。」(1節)

 本日のロマ書で、著者パウロは「信仰の弱い者を受け入れる」ように勧め、彼らを批判することを禁じています。イエス様を信じる者達は、イエス様によって救われ、恵みによって自由にされた者達です。「信仰の弱い人」とは信じる力が弱い人ではなく、ユダヤ教的な教えや慣習の下で育ってきたため、「野菜だけを食べ、肉を食べず、酒を飲まない」、又、「特定の日を重んずる」など、律法主義的な考えが根強く、それらから自由に解放されないままの信仰生活者を指しています。(日本でも古い伝統や慣習が多く残っています)。そこで著者パウロは6章14節で「罪はもはやあなた方を支配する事はない。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と教えています。「信仰の強い人」とは、信仰による真理の自由というものを知っており、信仰の良心に従うことの出来る人で信仰生活において何が根本的に重要か、そうでないかの確信を持っている人でしょう。注意すべきは「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならず、食べない人は食べる人を裁いてはなりません。(3節)」なぜなら、両者とも、ご主人(神様)の召使いの立場にあるからです。両者とも神様に感謝しており、両者とも神様の裁きの座の前に立つからです。今日、神様が与えて下さった安息の日、律法の下ではなく恵みの下に置かれている者として、今週も御言葉に従って歩んでいきましょう。

2023年8月20日の説教要旨 アモス書5:18-24・ヤコブ書1:19-27

            「信仰のあかし」        加藤 秀久牧師

*はじめに

 サウル王から始まったイスラエルの王国は、ダビデ王、ソロモン王と続きましたが、ソロモン王の死後、国は北と南に分裂し(B.C.922年)、北はイスラエル王国(首都サマリア)、南はユダ王国(首都エルサレム)となり、それぞれ王を立て、預言者も、北と南のそれぞれで活動を続けました。

本日お読みしたアモスは、北王国のヤロブアムⅡ世(前792年-前740年)の時代に、預言活動を行なっていました。

わたしを求めよ、 そして生きよ

アモスの使命は、イスラエルの人々が犯してしまっている罪を語り、その罪のために、近い将来、主が民に裁きを下すので、イスラエルの人々を正しい主の道に帰るように告げることでした。けれどもイスラエルの人達は、神様との契約の多くを守ってきたことに誇りを持ち、誇り高ぶりがありました。アモスは、もう一度 主に立ち返り、悔い改めて生きるようにと告げています (5:1-17)。そしてアモスが伝える、主の言葉/「わたしを求めよ、 そして生きよ」(4節)は、聖書全体を通しても何度も繰り返し語られています。このことは又、私達聖書を読む者に向けて真実の神は誰であるか、創造主である神は誰なのか、信仰の原点を尋ねているようです。

*主の日

本日のアモス書5章18節―24節の中で、アモスは、「主の日」という主が定めた日に目を留めています。「主の日」は、旧約聖書の預言書においては広く使われていて、主が究極的に敵に勝利し、諸国の民の前に、主御自身が主の支配を現わす日、確立する日を指して用いられています。このことは明らかに、イスラエルの多くの人々にとって、希望のしるしとして待ち望んでいました。主の日は、よき訪れの日であり、良い知らせ、救いの日であると考えられていたのです。けれどもアモスは、そうでないことをイスラエルの人達に宣言しています。

主は、イスラエルの人達に困難や災いを与え、それによって彼らは嘆き、苦しむだろうと告げており、このことは、他のすべての者をも同じように裁き、「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。」(同20節)と語ります。主の日は、神様によって整理される日、神様は正義を全うされ、物事を秩序正しく変えていきます。「主の日」の預言は、その時が近づこうとしていることを知らせます。その時間がある内に、人々が神様に向き合い、神様に聞くことをすること、それは、自分の好きなことや欲望によって妨げられてはならないと教えます。

この預言は、私達の信仰を築き上げ、信仰の証しとなっていきます。

*「聞くに早く、話すに遅く、怒るに遅く」

本日のヤコブ書は、私達信じる者が、神様の言葉を聞いて、どのように自分の心の中の欲望や思いから克服できるかを述べているように思われます。19節「・・よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」は、生きるすべての人々に必要な言葉で、重要で捉えるべき言葉になっています。

本日のヤコブ書でも「よく聞きなさい(2:5・4:13・5:1)」と3回も出てきます。イエス様はしばしばたとえ話をされる時に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、それは、神様の真実の言葉を聞くことも示しているのではないでしょうか。

直前の18節に「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んで下さいました。」とあります。私達にとって重要なことは、神様から与えられた霊の部分において、心の深いところの場所で神様の言葉を聞くということ、神様を絶えず求めていくということです。私達が神様に何かを訴える前に、まず初めに神様の言葉を聞くことを優先させるということです。私達人間は神様に造られ、神様に栄光を帰す存在として、又、地上で御国を築き上げていく者として生きていくことだと思います。神様は私達がこの地上にある全てのものを見て神様を感じる時(自然の素晴らしさ・壮大さを感じる時、人間の技術の中に神様の与えた知恵を見る時、生命のはかなさや大切さを知る時、仲間や家族の素晴らしさを知る時など)、私達の想いが神様に向かう時、神様はいつも共にいて下さいます。

2023年8月6日の説教要旨 出エジプト22:20-26・ロマ書12:9-21

              「隣の人を思う」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私達にとってイエス様の愛の深さとはどのように思い浮かべることが出来るでしょうか。たとえば、<信頼している人から裏切られ一人になって行き場を失ったとしても>、<仕事で追い込まれて神様との時間が奪われ霊的に弱ったとしても>、絶望的な場に置かれて対応が分からず、生きる希望を失ったとしても>、私達が決して一人ではなくイエス様と話せる場所があることを神様は教えて下さっています。本日のロマ書はイエス様を信じることは神様の憐れみに触れ、その恵み深さを知り、相手を思いやれる優しく心豊かな人になることができることを教えようとしています。

*「愛には偽りがあってはなりません。」(ロマ12:9)

 私達は、他人に対して義理の愛・出し惜しみした愛など、神様から受けた愛とは違う愛の示し方、与え方をしてしまうことがあるかと思います。

たとえ自分の愛を与えたくないと思える相手であったとしても、神様の働きを信じて、私達は、相手に神様の愛を示すことが大事であると思います。

9節の少し前の2節では、「何が善いことで、神に喜ばれ、又、完全なことであるかをわきまえるように」とあり、又、1節の後半では「私達の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそなすべき礼拝です。」と教えています。礼拝は、神様に感謝の言葉、態度を現わす場所であると同時に、私達が神様の愛を受け取る場所でもあり、私達はここで神様に出会うことが出来ます。この礼拝場所で、神様との出会いを通して、私達は神様から優しい心、人を自分のことのように思うことのできる心が与えられると思います。

神様からの恵み、祝福は、決して止むことはありません。神様の私達に対する愛は、人への憎しみや悲しみを与えません。むしろ近くにいる人達をも巻き込み、喜びや笑顔を与えてくれます。 それだからこそ私達は、その神様から与えられた恵みと祝福を、私達が出会う人達に与えられるようにキリストに結ばれて、一つの体を作るようにと告げられているのです。

*兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(10節)

 私達は、相手から見れば、優れた部分もあれば劣った部分もあるかと思います。その交わりの中で、相手の人が、何か特別な良い行いがあるからではなく、私自身が仕え支え合える隣人として神様から与えられた相応しい相手であり、尊敬をもって相手を優れた者と思えた時、私達は相手の徳を高める態度が神様から与えられ、健全な心へとつながります。

*誰に対しても悪に悪を返さず、善を行うように心がけなさい。(17節)

 この教えは、神様を信じる上で大切なことです。私達の生まれながらの妬み、劣等感、復讐心からは無縁になり、すべての人と平和に暮らせる心を得ることにつながるからです。私達が悪を受けた時、自分で復讐するのではなく、その怒りを神様に委ねるべきであることを、ここで「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(19節)と、申命記を引用して教えています(32:35)。これにより「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(14節)の意味が明確になると思います。 (私達もかつて、同じような罪の中にいた者であることを伝えようとしているのかもしれません)。

それで「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)と促します。これによって「敵の頭に炭火を積む(敵にとって相手から受ける愛の行為は耐えがたく、恥じ入らせ、内側にある牙(きば)を抜くことになる)」のです。神様の復讐は、善をもって悪に打ち勝つ(21節)からです。

*寄留者・寡婦・孤児・貧しい者を苦しめてはならない。

 本日の旧約聖書には、他の家(国)に身を寄せる者、夫と死別した夫人、親を失った孤児、そして貧しい人達を苦しめることを禁じています。もし彼らが神様に訴えるなら、神様は「わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」と言われます。(出エジプト22:26)。

*本日は平和聖日です。

すべての人達が神様を見上げて、隣人を思い、主の平安がありますようにと祈ることができる人になれたら、神様からの素晴らしい恵み、愛を受けることが出来るのです。

2023年7月30日の説教要旨 列王記上19:9-18・Ⅰペトロ3:13-22

              「苦難の共同体」      加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は「預言者」と聞くと、どのような人を思い浮かべるでしょうか。預言者には神様の言葉を預かると同時に政治の面でも指導する者もいましたが、本日学ぶエリヤは、政治に関わることなく、純粋に神様の御前に立ち、神様の霊に満たされてその触れ合いに喜び、霊に導かれながら神様の言葉に従い、語る預言者でした。

当時、北王国のイスラエルのアハブ王の父・オムリは、主の目に悪とされることを誰よりも行なった王でしたが、アハブ王は父よりも更に悪いことを行いました(列王記上16:30)。

*預言者エリヤ

アハブ王は、シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、妻の信じる「バアル(農産物と家畜の生産を司る自然神・男性)」の神に仕え、バアルの神殿を建て祭壇を築き、「アシェラ(女性神)」像をも造りました。エリヤの使命は、社会の中に入り込んだ異国宗教を取り除きイスラエルの民に、創造主である唯一の神への信仰を告げ知らせることでした。そこでエリヤはアハブ王に、バアルの預言者450人とアシェラの預言者400人をカルメル山に集めることを依頼し、集まったすべての民に、エリヤが伝える創造主なる神を信じるのか、それともバアルを神とするのか決断を迫りましたが、「民はひと言も答えなかった(18:21)」とあります。エリヤはバアルの預言者達に、どちらが本当の神かを祭壇を築いて神を呼び、捧げものに火をもって答える神こそ神であることを互いに確認し(18:24)、その戦いが行なわれました。その結果バアル神からは何の返答もなく、エリヤが神に祈った時、神の火が降り捧げものは焼き尽くされました(18:36~)。民は「主こそ神です」とひれ伏しました。その後エリヤは、バアルの預言者達を捕えて殺し、その事をアハブ王から聞いた妻イゼベルは怒り、エリヤに殺意を抱きます。

エリヤは身の危険を感じて、四十日四十夜歩き続け、神の山・ホレブに着きました。本日の聖書には、その後のことが記されています。

*静かにささやく声

「エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした(19:9」。エリヤが休んでいると、主の「エリヤよ、ここで何をしているのか。」との声がありました。エリヤは、自分はこれまで万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきた。が、イスラエルの人々は主の契約を捨て祭壇を破壊し、預言者達を剣にかけて殺してしまったこと。エリヤ一人だけ残ったが、彼らはエリヤの命をも奪おうとねらっている、と訴えました。主は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われ、主が通り過ぎて行かれました。神様が通り過ぎた出来事は神様の現れを意味しますが11~12節に「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった」とあります。私達は神様の現れの場所に行けても、神様と直接、顔を合わせて見ることは出来ないことを意味します。しかし「火の後に、静かにささやく声が聞こえた(12節)」とあります。エリヤにとって優しくどこか懐かしい声を、神様との霊の交わりの中で聞いた出来事だったでしょう。これは私達が礼拝の時、讃美している時、心の中に響く神様のささやきに思える体験だと思います。

*エリヤへの使命

神様はエリヤに三つのことを命じます。が、初めの二つは、エリヤの召天後、エリシャの時代に実現します。三つ目の「エリシャに油を注ぎ、エリヤに代る預言者とする」については、この後、畑を耕しているエリシャに出会い、この出会いによってエリシャはエリヤに従い、神に仕えていくことが実現します(19:19)。神様の御計画は必ず実現しますが、私達も又、思い描く計画が私達の世代ではなく信仰の継承により次の世代の人達によって真実の出来事として明らかになることもあるかと思います。同時にエリヤが体験したような、神様への信仰を通しての苦しみ・悲しみ・困難も伴わなければならないかと思います。それは本日のⅠペトロ3:13~22節にある事と同じと思い、もう一度読んで終ります。

2023年7月23日の説教要旨 ヨシュア記2:1-14・フィリピ4:1-3

            「女性たちの働き」       加藤 秀久牧師

*はじめに

 私達の歩みの中で、誰か身近にいる人から助けられ、助けて下さった人の背後に、(その時は分からなくても、後で)神様の働き、神様の支えを感じたことがあるかと思います。私の場合、人生で何か変化が起ころうとしていた時、神様は、その変化を私の思いの中で教えて下さり、同時にそのことが行なわれる為、身近にいる人達を送って、私を神様のご計画された道を歩むように、進めるようにして下さったことを思います。

*モーセの後継者ヨシュア

本日のヨシュア記一章には、モーセが亡くなった後、神様はヨシュアに、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と告げました。神様が約束されたカナンの地に入るために、ヨルダン川を渡った後、最初の攻め込む町がエリコでした。エリコは大きな町でカナン征服の鍵を握っており、この戦いは重要な意味を持っていました。町には、敵の攻め込む隙がないような頑丈な城壁が造られていたので、ヨシュアは前もって注意深く作戦を立て、慎重にエリコの町に入る下準備をしたことが1章に記されています。本日の2章では、一人の女性が登場し、神様の計画が進むために手助けしたことが記されます。

*ラハブという遊女

ヨシュアは町の正確な情報を得るために、二人の斥候(せっこう・偵察隊)を遣わしました。偵察隊は目的を果たす為「ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった」(2:1)。ところがエリコの王に「イスラエルの何者かがこの辺りを探る為忍び込んできた」と告げる者があり、王は人を遣わして、探りに来た者を引き渡せ、とラハブに命じました。しかしラハブは二人をかくまい「その人達は出て行った」と答え、追っ手は二人を求めて捜しに出て行きました。ラハブは二人が寝てしまわない内に、屋上に上って言いました。「神様がこの土地をあなた達に与えられたことで、私達が恐怖に襲われ、住民は皆、おじけづいていることを私は知っている」。さらにラハブは、「イスラエルの民がエジプト脱出後、イスラエルの神が海を干上がらせたり、旅の途中で国々を滅ぼしてきたことを聞き知っているので、エリコでは皆、心は挫けてあなた達に立ち向かう者はいないこと、イスラエルの神こそ、天から地に至るまで神である」と、告白しました。そして「エリコを占領する時、私の一族の命を救って下さい」と頼みました。偵察隊の二人は、「自分達のことを言いふらさないなら、神様がこの土地を我々に与えられる時、あなたに誠意と真実をしめそう」と約束しました。その後ラハブは窓から二人を城壁の外側に綱でつり降ろし、二人を助けました。神様はこのように一人の女性を遣わし、神様のご計画がうまく行くようにして下さったのを見ることができます。

*エポディアとシンティケ

 本日のフィリピ書4:1と少し前で、パウロは自分が愛し、慕い、又、喜びであり冠である教会の人々に、イエス様を信じることは私達の行くべき場所が天国にあること、この今ある生活の中で、どのような状況にあっても神様に信頼を置き、主によってしっかりと立ちなさい(4:1)」と呼びかけています。続く2節でこの二人の名前が登場し「主において同じ思いを抱きなさい」と命じます。彼女達はフィリピ教会の初期メンバーであり、リーダー的な働きをしていたと思われます。何かもめごとが起き、そのことで互いに避けているならば、再びかつてのような関係、神様の福音を宣べ伝える者になれるよう期待しています。3節で「二人は他の協力者逹と力を合わせて、福音の為に私と共に戦ってくれた」と紹介し「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」と教会員にも頼んでいます。その後二人は、神様の道を歩み、前を向いて進んだと思います。なぜならそこには、神様の与えられた道があるからです。 家族や友人のことで、今は私達の心が騒いでいても、いつかは相手を思い合える感情が生まれてくることを信じて、私達は神様に祈り、讃美を続けていく必要があると思います。

今週も皆様の上に、主の豊かな栄光が輝いているようにお祈り致します。

2023年7月9日の説教要旨 詩編35:1-10・ルカ福音書7:11-17

            「生命の回復」         加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩篇には、心が重くなるような感情の深さや、理解するのが難しく感じられる箇所もあるかと思います。詩編に登場するダビデは、敵から追われる生活が続き、時には命を落としそうになり、又、逆に敵と思える王様に手にかける距離まで近づいたこともあり、王になる前の10年余りの月日を神様から与えられた苦難に対応する訓練の日々を過ごしました。

*主よ、(わたしではなくあなたが)戦ってください。

 そのような状況の中で、ダビデは、1節の「主よ、わたしと争う者と争い、わたしと戦う者と戦ってください」との祈りをしています。これはダビデがいかに主に信頼していたかを見ることができます。 ダビデは「私の為に、敵と戦う力を下さい」とは祈らず「どうか、わたしの魂に言ってください。『お前を救おう』と(3節)」と祈り、ダビデ自身が自ら戦うのでなく、自分の権利を主張せず、すべてを主に任せて委ねています。ここに、主の呼びかけに応えようとする信仰者の姿をみることができます。

*主の使い

「彼らが主の使いに追い払われますように(5節)」「彼らに主の使いが追い迫りますように(6節)」とあるように、ダビデは「主の使い」の存在を信じて、天使達の働きを通して私を敵から守ってほしいとの祈りをささげています。この詩編の前の34:8には「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」とあるので「主の使い」は、個人にとっても、イスラエルの民にとっても、時に、一人の御使いとして、時に天の軍勢として、神様に敵対する者達やその勢力に立ち向かい、神様の裁きを行い、神の民や主を畏れる者達を救い助け出して下さる存在です。

聖書に「主の使い」の言及は多くありますが(旧約:213回以上・新約:175回以上)、私達は意識してその存在を知ろうとしていないように思われます。

主の使いは、神様と人とに仕えるために創造された存在であり、私達を危機的状況の中から必ず守ってくださる方であり、存在自体、神様の恵みによるものだと思います。今日(こんにち)、神様を信じる私達に「主の使い」の現われはあるのでしょうか。私は「ある」と信じます(聖霊のような、それに似た存在、としか言い表わすことが出来ませんが・・)。

カファルナウムからナインの町へ

 本日のルカ福音書7章の直前には、カファルナウムにいたイエス様のもとに百人隊長の部下が死にそうな病気のため癒してほしいと長老達が願い出て、癒された出来事が記されています。それから間もなくイエス様は、ナインの町への約30kmの道のりを、弟子達や大勢の群衆も一緒に歩いて行かれました。一行が、希望に満ちた何かを期待するような光景に対し、ナインの町では、母親の一人息子が死んで棺が担ぎ出され、町の人達が大勢そばに付き添い、そこにはどんよりした絶望感、無力感と、混沌とした闇に包まれているような状況だったと思います。特に母親は夫にも先立たれ、生きる希望を見出すことが出来なかったでしょう。

もう泣かなくともよい

しかしそこに希望の光が差し込みます。イエス様は母親を憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われ、近づいて棺に手を触れられて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。「すると、死人は起き上がってものを言い始めました(15節)」。ここでは「死」にも優るイエス様の権威が表れたのです。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけて下さったと言った(16節)」。

人々は、イエス様の本質について、又、神様がイスラエルの民を顧みて下さったとの、神様の救いを確信する告白をしました。そこにいた全ての人達が、神様を心から称(たた)え、神様の奇跡を体験したのでした。

*わたしたち

イエス様の働きは、すべての人の人生を180度、良い方向へと変えて下さいます。なぜななら神様は、わたしたちに生きる希望、輝ける未来を生きて欲しいと願っているからです。わたしたちは、イエス様に出会えたことに感謝しながら、今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。

2023年7月2日の説教要旨 詩編22:25-32・ルカ福音書17:11-19

「あなたは見つけ出す」    加藤 秀久牧師

*はじめに

聖霊降臨日(ペンテコステの日)に聖霊を受けた弟子達は、イエス様と共にいた頃の弟子とは違って、神様の力・信仰の帯を締めていました。

しかしそこに行くまでに、弟子達は何度も何度もイエス様から神様の話を聞き、奇跡を見て、信仰を持つことの訓練を受けていました。

その訓練の一つになった本日のルカ福音書17章を読む時、その内容は、一見、何の関連性もないように思えますが、じっくりと向き合い、思いを巡らせて読み進めて行くと、イエス様が弟子達に、その教えを通して、神様からの信仰を得るように、神様から与えられた贈り物の信仰について語られているのが分かるかと思います。

*私達の信仰ではなく、神様が与える信仰

その神様からの「贈り物の信仰」は、種がたとえ小さく思える「からし種」ほどのものであったとしても、やがて、その時が来た時に私達の心の中で芽を出して、私たちが想像する以上に大きく成長して働き始めます。それは私達の目には不可能な出来事であり、奇跡と思えることであったとしても、それを行うことができる(可能となる)信仰です。不可能と思えることや奇跡と思えることが実現した時には、これらは神様から与えられた信仰の賜物が用いられたので、その人は「私は神様がするようにしたまでです。神様の力が私を通して働いたまで(結果)です。」と言うことになります。神様から与えられた信仰の働きは、私達を決して誇り高ぶらせることなく、逆に、へりくだった心や態度を持って人々に話したり、応えたりする者になることを、イエス様は弟子達に教えられたように思います。

177節~の教えと、十人の重い皮膚病の人達の癒し

本日の聖書個所の直前に、イエス様が、主人に仕える僕(しもべ)の話をされています。畑を耕すか,羊を飼う仕事を与えられている僕が、仕事を終えて戻った時、先ず主人の夕食の用意と、主人の食事が終るまで仕えた場合、主人は僕に感謝するだろうか、と弟子達に問いつつ「あなた方も、同じことだ。自分に命じられたことを みな果たしたら、『私共は取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と教えられました。

そして、続く本日の聖書には、イエス様がエルサレムへ上る途中に、サマリアとガリラヤの間を通られて、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエス様、先生、どうか、私たちを憐れんでください」と言いました。彼らは皮膚病のため、健康な人に近づくことができませんでした。

 イエス様は彼らを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言いました。<注:重い皮膚病にかかった時も、治った時も、祭司からの宣言が必要でした(レビ記13章参照)>。十人の人達はイエス様の言葉に従い、祭司のもとに出かけて行く途中で、自分達の皮膚病が治ったことを知りました。彼らの与えられた信仰(信じて行動する)で、彼らの身体に癒しの奇跡が起こったのでした。

*神様を賛美するために戻った人

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(16節)」これが神様から与えられた信仰を神様に感謝する、神様にお返しする行動の現れなのだと思います。イエス様は、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われ、その人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。

*わたしたち

  私達は自分の意志で神様に信仰告白をし神様を受け入れたと思いがちですが本当はその歩みの中で神様を信じる信仰の贈り物を神様から与えられていたことに気付いた時、私達は神様を見つけ出したと思います。本日の詩編22:25~32をもう一度読みます。このような心を私達は持ち続け、与えられた恵みに感謝して一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年6月18日の説教要旨 申命記8:11-20・使徒言行録4:5-12

御名の 権威 」     加藤 秀久牧師

*はじめに

イエス様の弟子たちは、ペンテコステの出来事を通して、彼らの行動を大胆にさせる「聖なる霊」により、力強くイエス様の復活の出来事を話すようになりました。その一方で、そのことを良く思わない人達がいました。それは、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人達です。祭司は神殿で奉仕する人。神殿守衛長は祭司の業務を監督し、神殿を統率する人で大祭司に次ぐ権力を持っていた人。サドカイ派の人々は、貴族祭司と上流階級の信徒達です。彼らは、聖霊や復活の出来事を信じる人達に反対していました。

*彼らのいらだち

 ペトロとヨハネが民衆にイエス様の復活を宣べ伝えているので、よく思わない彼らはいらだち、近づいてきて二人を捕え、既に日暮れだった為、翌日まで牢に入れてしまいました(4:3)。彼らのいらだちの感情はよほどのものだったと考えられます。なぜならこの言葉は、新約聖書全体を通しても2回だけしか使われていないからです。

 実は私達もいらだつことがあります。相手が自分のして欲しくない言動をして、注意や忠告を聞いてもらえない時、疲れて、我慢の限界が来ると、感情を表に出したり、腹を立て、その場を去るなどすることがあります。

*ペトロとヨハネの行動

彼らをいらだたせたペトロやヨハネの行動は、神様の霊を受けた時から、その霊の力を止めることができず、これまでの自分達の体験を越えた、この素晴らしい出来事を他の人にも伝えたい、教えたいと思い、イエス様のことを話さずにはいられない、イエス様の復活の出来事を聞いてほしいという気持が現れたと思います。ところが、特にペトロとヨハネに近づいてきた祭司逹からすると、この二人の言動は大変迷惑な行為で目障りな存在で、自分達の方が権威者だと思っていますから、堪忍袋の緒が切れたと言えます。けれども他方では、二人の語った言葉を聞いて信じた人の数は、男性が五千人にもなったと聖書は伝えています。

何の権威で、だれの名によって、それをしたのか」(7節) 

翌日、二人は最高法院(議会)で真ん中に立たされて、「何の権威で、だれの名によって・・」と尋問を受けました。ペトロは聖霊に満たされて、大胆に弁明を始めます。 「今、自分が訴えられているのは、足の不自由な人をいやしたこと(3章1節~)と、その人が何によっていやされたか、ということなら民全体の人達も知って欲しい」と前置きして、「あなた方が十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものだ(10節)」と語り、更に、「私達が救われるべき名前は他にはない(12節)」と力強く語りました。そしてイエス様こそ「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石である(詩編118:22)」=イエス様が軽蔑され人々から捨てられたけれども、神様は家(神様と人とが永遠に共に住む家)を建てるためになくてならない「かなめの石」とされたと語りました。イエス様の十字架の死と復活の出来事は人の目には不思議な出来事ですが、神様の救いの計画においてはなくてはならない重要な出来事だったのです。

あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」(申8:11)

 本日の申命記では、神様がイスラエルの民に、カナンの地の豊かな生活に満足して高慢になり「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えないように警告しています。神様は、今に至るまでの生活の様々な場面を通して自らを現わしておられ、富を築く力を与えたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たした結果の今の生活ですから、神様を忘れず、へりくだり、神様に従っていく心を持ち続けるように促しています。

 わたしたちが神様を信じ、信頼し、へりくだり、神様のみ名の権威に従順になる場所は、私たちの心の中です。私たちはそこで神様と会話し、神様のご計画を知ることができるのです。それは私たちの力となり、ペトロに与えられた大胆さを、私たちも同じように持つことができて、神様を知る機会を与えることもできることを知りましょう。今週一週間、神様の良き導きがありますようにお祈りを致します。

2023年6月4日の説教要旨 出エジプト19:3-8a・使徒言行録2:14-36

「礼 拝」        加藤 秀久牧師     

*はじめに

 先週私達は、イエス様が天に昇られたあと、五旬祭(過越の日か50日目)に、弟子達が心を一つにして祈っていると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(2:2)」出来事を学びました。そこに集まって来た人々は、この不思議な出来事と光景を見て驚き怪しみました。本日の使徒言行録には、ペトロと十一人の仲間逹が聖霊を受けて、心を燃やされ、人々に語り始めます。

*酒に酔っているのではない

ペトロは、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません(14~15節)」と語りかけます。

ペトロや他の弟子達を知る人達にとって、イエス様の十字架の死の後、弟子達が途方に暮れて気が抜けたような姿を見たことでしょう。それが今、前よりもっと違う姿で目の前にいます。私達はその働き(神様の力)を頭で考え理解しようとしてもできません。自分自身の身で受け止めることが出来ず、この世のものとは思えない体験が起こり、私達の身体が神様に支配され、神様が私達の心の中に宿った感覚に捉われるからです。そのため、この聖霊の力を受けたペトロや十一人の弟子たちは、人々の前で大胆に、力強く立ち上がり、振舞うことができたのだと思います。

 ペトロは、聖霊の力を知らない人々が、「お酒を飲み過ぎた」「気が変になった」、或いは「悪魔の仕業」などと誤解しないように、このように、酒に酔っているのではないと言ってから説教を始めます。聖霊の働きは、人々の目から見ると、不思議な出来事、怪しい動きに見えたことでしょう。

*ペトロの説教

ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。(22節)」

聖霊を受けたペトロは、今目の前で起こった出来事は、旧約聖書の「ヨエル書の預言(3章)」が成就した出来事であったと説明してから、イエス様について語り始めます。イエス様こそ、神様から遣わされたお方であり、神様はイエス・キリストを通して多くの不思議なわざやしるしを現して証明されたが、あなた方は律法を知らない人々(異邦人・この場合ローマ人)の手を借りて十字架で殺してしまった。けれども神様は、イエス様を死に支配されたままにしておかず、復活させられた。

だからあなた方は はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエス様を、神様は、主としメシア(救い主)となさったのです(36節)と。この後、ペトロの説教を聞いていた人達が、自分達はどうしたらよいかを尋ね、それに対するペトロ達の答が37節以下に記されています。

*モーセとイスラエルの民

 ペンテコステの日(聖霊降臨)の出来事は、本日の出エジプト記に記されているモーセがシナイ山で神様の言葉(19:3~)を聞いて、その言葉を携えて戻り、民の長老たちを呼び集めて、神様の言葉をすべて彼らの前で語った時の光景を思い浮かべることができます。

神様は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。(5節)」とイスラエルの人々に語るように言われ、モーセからこの言葉を聞いた人々は、「わたしたちは神様が語られたことをすべて行います(8節)。」と、一斉に答えたことを、聖書は伝えています。

*わたしたち

 わたしたちは、神様の言葉を聞いて応答したイスラエルの人々と同じように、又ペトロの説教を聞いてイエス様について教えられた人々と同じように、イエス様の奇跡と不思議な業(わざ)と、十字架の死とそれに続く復活の預言(詩編16:10)と実現を信じ、毎週持たれる礼拝の中で、イエス様を私の救い主と告白し、約束の聖霊(33節)の働きを信じて(受けて)今週も、主に伺い、主に期待して、共に歩んで参りましょう。