2月25日の説教要旨 「悪と戦うキリスト」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書2:1-13 マルコ福音書3:20-30

はじめに

今日の新約聖書箇所は、23節以降のイエス様の例え話を端緒とした御言葉が中心です。しかし、その前の記述は、その御言葉が語られた状況が説明されており、そのことをよく知ると、御言葉の意味を、より一層はっきりと読み取ることができます。ご一緒に見ていきましょう。

今までの先生達とは違う圧倒的な御力で人々を救ったイエス様

ここに至るまでに、マルコ福音書では、イエス様のなさったことが、大まかに分けて二種類書かれています。一つは、イエス様の御言葉が「権威ある者としての教え」(1:21-22)として、人々を驚かせたことです。それまでのユダヤ教指導者達とは全然違うものだったと思われます。

もう一つは、悪霊を追い出したり、病いに苦しむ人々を癒したりする御業を行ってくださったことです。これも、それまでそのことに従事していた専門家とは、全く違う次元の、圧倒的な力を、イエス様は示されたと記されています。苦しみに直面していた人々は、イエス様の圧倒的な御力は神様からいただいていると素直に理解し、それに頼ろうとしました。苦しみは人間的に見れば避けたいものですが、しかし、苦しみを通して、人々は更に真剣に神様に頼ろうとするものです。それで、「群衆」がイエス様に押し寄せていると描かれているわけです。

神様から御力をいただくイエス様を認めない二つのグループ

今日の箇所には、そうでない人々が二グループ出てきます。一つは、イエス様の「身内の人たち」、もう一つは「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。前者は、ユダヤ人社会の中で、家族の一員が常識と違った言動を取れば、その家族が、常識に戻す責任があると考え、それを第一に考えて行動しています。この「身内の人たち」は、イエス様の御業の内容を率直に見極めようとするよりも、「気が変になっている」という人々の噂を信じて、イエス様の御業を止めさせようとしました。また、後者も、ユダヤ社会での責任、特に「神様を信じる」件での人々の動きには責任があると思っていました。自分達とは違う、圧倒的な神様からの御力で、福音を語り、悪霊を追い出し、病いを癒せる「ナザレ人イエス」を調査するために、中央の都エルサレムから離れたガリラヤに下って来ました。イエス様を排除したいという自分達の思いを第一に実現することが第一の目的だったと思われます。

反対派を論理的に論破なさったイエス様

この「律法学者たち」は、イエス様の御業に現れた神様の御力を素直に認めず、あろうことか、その圧倒的な力の源を、本当の神様とは全く逆の「ベルゼブル(異教の神々の一つ)」と言ったり、イエス様御自身を「悪霊の頭」と呼び、悪評を立てようとしたのです。これに対して、イエス様は例え話によって彼らの主張を完璧に論破なさいました。23節後半から27節までの例え話は、論理的で、誰でも理解できると思えます。

「聖霊を冒瀆する者は赦されない」

では、その例え話と28節から29節までの御言葉が、内容の上で、つながっているように思えるでしょうか?理解するためには、29節に出てくる「聖霊」の働きについてのユダヤ教の伝統的な教えが参考になります。まずは、「神の真理」がこの世に啓示される出来事が起こるということ、次に、その出来事について、それが神様が起こしてくださっていると人間に悟らせること、それが「聖霊の働き」です。「群衆」はイエス様の御業を神様からのものと理解している=「聖霊の働き」を理解し、認めています。一方、「身内の人たち」や「律法学者たち」は、イエス様の御業の上に「聖霊の働き」が確かにあるのに、それを決して認めませんでした。「聖霊」は「神の霊」、つまり、イエス様が最も愛する「父なる神様」の霊であり、父なる神様の御心によっていただく賜物です。それを認めず、他の名で呼ばれることをイエス様は決してお赦しにはなれません。「聖霊」を「汚れた霊(30節)」と言われることはお赦しになれません。イエス様は「聖霊」を認めず、他の名で呼ぶ「悪」と。論理的に、敢然と戦われました。

「聖霊の働き」を祈り求めることができるという私達の幸い

今や、私達は、イエス様を救い主と信じる信仰で、主の恵みを賜わること=「聖霊の働き」を祈り求めることが許されています。その源である「主の十字架の贖い」を再び想起し、「復活」の恵みに感謝しましょう。

2月18日の説教要旨 「荒れ野の誘惑」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書31:31-34 マルコ福音書1:12-15

はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が救い主として歩まれる「公生涯」の初めに、洗礼を受けた後、荒れ野でサタン(悪魔)の誘惑を受けたと記されています。まずは、その順番に従って考えていきましょう。

罪がないのに、罪を清める洗礼を受けたイエス様

イエス様は救い主として「公生涯」を始めるにあたり、洗礼をお受けになりました。罪のない神の御子なら、罪を洗う洗礼は必要ありません。けれども、イエス様は御自分が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」(神様の御心に適うという意味)とおっしゃって、洗礼をお受けになりました。それは、罪のないイエス様が、救う対象である私達罪深い人間と同じ立場になってくださることを示しています。

それから、“霊”によってイエス様は荒れ野に連れ出されたとあります。“霊”とは「聖霊」「神の霊」「主の霊」という意味です(聖書の初めの「凡例」の三の⑵参照)。だから、神様が、人間と同じ立場で洗礼を受けたイエス様に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けるように導かれた訳です。

洗礼の後に、悪魔の誘惑⇒信仰者(受洗者)への試練の先取り

私達と同じ立場になるため、イエス様が洗礼をお受けになって誘惑を受けたなら、その順番が、私達が信仰の歩みと逆だと思われませんか?悪魔の誘惑や人生における試練を経て、人間はこの世の限界や偽りを感じ、真実を求めて教会に来て、福音に出会い、洗礼を受けることになるという順番の方が多いでしょう。しかし、イエス様の歩みは正反対の順番を示しておられます。これは、公生涯の始まりの後に、悪魔が信仰者にも誘惑(試練)を仕掛けてくるということを暗示しています。それは、神様に愛される者を、サタンも狙うからなのです。イエス様だけでなく、信仰者も、洗礼によって「公生涯」が始まると言っていいでしょう。受洗者は、神様の御前に神の国の民として生き方を見守られているのです。サタンは私達受洗者=神の民が神様からの愛を受けている故に、自分側に引き込もうと激しく誘惑するのです。イエス様の洗礼の後の悪魔の誘惑は、洗礼後の「神の民」への悪魔の誘惑の先取りです。

荒れ野の誘惑の内容と撃退法(マタイ4:111、ルカ4:1-13

私達は、イエス様が悪魔に勝利した「荒れ野の誘惑」の内容とその撃退法を知る必要があります。私達にも降りかかる誘惑だからです。その内容を、マタイ福音書の順番で見ると、以下の通りです。①自分の欲望を満たすためにこの世の物を変えたらよいではないか。②自分の願いを叶えるために、神様を試してみたらどうか。③一度だけ、少しだけでいいから、神様でないものを拝んでみたらどうか。以上です。3つ全部が、「神の民」である故になおさら、陥りやすい誘惑です。①の誘惑に対して、イエス様は、欲望(食欲)を満たすこの世の物ではなく、主=本当の神様の口から出る御言葉によって人間は本来生きるものだとお教えになりました(申命記8:3)。②の誘惑は、特に要注意です。神の民が願ったことをすぐ、神様が奇跡を起こして助けてくれるはずだから試してみたら?という誘惑です。私達は祈りでは自分の思いを当然素直に表しますが、神様の御心よりも、自分の思いを叶えるために神様を試すようにその御力を求めるのは本末転倒です。人間が神様を自分の思い通りに動かそうと企てることが罪なのです。イエス様は、再び、御言葉(申命記6:16)により「主を試してはならない」と誘惑を退けました。③も信仰生活でしばしば見かけます。神様に関わること(礼拝等)よりも、自分の都合を優先することを最初は1回だけと巧みに誘い、次第にその回数を増やし、最終的には信仰生活から離れさせる罠を悪魔は信仰者に仕掛けます。イエス様は、3度目も御言葉(申命記6:13)により、悪魔を拝むことを敢然と退け、「主にのみ仕える」と宣言されました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)

洗礼と試練の後、イエス様は「救いの時の到来」を天地に宣言なさいました。「時は満ち、神の国は近づいた。」という業をなさるのは神様です。神様が御計画して人間を救う時が押し寄せています。それを受ける側の人間がなすべきことは、悔い改め=自己の欲望中心の生き方を止め、神様の御心に従う生き方に変えることです。その準備ができた者の心に福音が入り、それを信じて生きる信仰を神様が与えてくださるのです。

2月11日の説教要旨 「絶えず祈る」 牧師  平賀真理子

詩編88:2-3  ルカ福音書18:1-8

はじめに

今日の新約聖書箇所は、「やもめと裁判官のたとえ」という見出しがついています。また、1行目には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」とあります。説教題にもあるように、イエス様は弟子達に絶えず祈ることを求めておられるということです。

 

神様の御心が実現されることを喜ぶ「神の民」

「祈らなければならない」という箇所には、元々の言葉では「神様によって、祈るように定められている」という言葉が含まれています。これは私達には、あまり見出せない感覚だと思います。「神の民」ユダヤ人は「何事にも神様の御心が行われている。神様がが願われたことが実現すること」を、この世界の一つ一つを見ても、また、各々の人生を見ても、発見しようとします。そのことと向き合いながら生きていくのが「神の民」であると言えるでしょう。

 

本来の人間は、神様と心を合わせることを喜ぶ

神様が最初に創られた、本来の人間は神様の御心がすべてにおいて実現することを喜べたはずです。神様と心を合わせられるように本来人間は創られました。しかし、神様を心を合わせることに疑いを持ったために、人間は神様からいただくべき本当の幸いを失ったのです。

それは、神様から賜った自由意志を正しく用いられなかった人間の方に罪があるにもかかわらず、神様は人間達を根本から救おうと、御心にお決めになり、そのことが旧約聖書にずっとつづられています。

 

「神の民」として、神様から「祈り」を求められている幸い

神様による「人間の救い」という長い歴史の末に、イエス様がこの世に来てくださり、人々に「神の国」はどのようなものかを教えてくださいました。その御方を信じて受け入れることが新しい救いです。

この「神の御子・救い主」イエス様にとって、御自分の弟子達が、「神の民」として、神様へから祈ることを願われていることが、本当に喜ばしいことだったのです。逆に言えば、実は、罪ある人間はこのようにはなっていないという事実の裏返しでもあります。

 

「神の国」がこの世に実現することを「絶えず祈る」

イエス様は、御自分が「苦難の僕」としてエルサレムで殺される道をたどらねばならないと知りつつ歩んでおられ、もうすぐ目的地へ着こうとされています。その直前に、イエス様は弟子達に、「神の国」をこの世に実現することが一番大事だと伝えようとされています。この世にいる人間一人一人が「神の民」となり、神様からいただく幸い、希望に満ちた生き方をすることを求めておられます。だから、「絶えず祈る」内容としては、「神の国」がこの世に実現すること、広まることです。

 

「やもめと裁判官のたとえ」

とはいえ、神様から離れて過ごしてきた人間は、自分に困りごとがあって初めて、切実に祈るようになれるのかもしれません。今日の例え話の「やもめ」もそうです。彼女は困りごとに直面し、身近な裁判官に切実に訴えました。しかし、この相手である裁判官は、当時よく居た「不正な裁判官」でした。信仰心もなく、人間的に見ても尊敬できないような裁判官に対して、やもめの方は不当な方法はとらず、熱心に訴えることを繰り返すという正当な方法で相手を動かすことに成功しました。

この例え話で、裁判官は神様を、また、やもめは弟子達を比喩しています。この裁判官は神様と正反対の性質を持つ者として例えられています。不当な裁判官でさえ動かされるのだから、ましてや逆の性格の神様=人間を救うべく長い間計画立てて実現なさるような、大いなる愛の持ち主である神様なら、熱心な祈りという訴えを持つ人間の訴えを決して無視なさらないとわからせようとなさっています。

 

「神の国が来ること」を熱心に祈り続ける!

人間の救いに対する御業の時は、父なる神様だけがお決めになれる専権事項で、本来、人間は全く関われないものです。しかし、神様は、主の弟子達の祈りを心から待ってくださり、その祈りの熱心さによって、裁きの時(主の再臨の時)を速やかになさると教えておられます。主の問いかけ=「再臨の時までに神の国が来ることを信じていられるか」に対し、「はい!」と胸を張って言える弟子であり続けたいものです

2月4日の説教要旨 「神の国が来る」 牧師  平賀真理子

ダニエル書2:44 ルカ福音書17:20-37

はじめに

今日の新約聖書箇所は、前半=20節-21節が、イエス様に反対するファリサイ派の人々からの質問への答えということで述べられた御言葉で、後半=22節―37節は、イエス様を信じて従う弟子達への御言葉です。イエス様を中心に2つのグループは、全く逆の立場にありますが、イエス様は、各々の理解度や心の向きに応じてお話をなさいました。

その中心にある事柄、つまり、イエス様が一番大事になさっていたことは、天の父なる神様のことを証しし続けることです。今日の箇所もまさしく、「天の父なる神様が、人間に対して御計画してくださり、人間にくださるはずの『神の国』」について語られています。

 

ファリサイ派の人々の「救い主待望」の内容

ファリサイ派の人々はもちろん「救い主」を待ち望んでいましたが、彼らのイメージする「救い主」は、「王様」のイメージです。きらびやかに、派手に登場し、自分達の国をあっという間に建てられるイメージであり、それは大変この世的で、人間的な考え方の範囲を越えられないものでした。彼らは、自分達の想像どおりの「救い主」によって、自分達が優遇される「神の国」が来るものだと思っていたのです。

当時、ユダヤ人達は、異邦人であるローマ人達の支配に苦しめられていたので、「救い主」の登場を一刻も早く望んでいました。だから、待ちきれないという思いで「いつ?」と尋ねたのです。

 

「神の国は見える形では来ない。(中略)あなたがたの間にある」

しかし、ファリサイ派のイメージする「救い主」や「神の国」とは、全く異なる「救い主」「神の国」が来るということをイエス様は御存じだったのです。だから、ファリサイ派の「いつか?」という問いには直接お答えにならずに、そもそも彼らの言う「神の国」の姿の想定がまちがっていることを気づかせようとなさっています。「神の国は見える形では来ない。(中略)あなたがたの間にある。」と聞いて、神の国は地理上に存在するのではなく、一人一人の人間同士の関係性において神の国は成り立つ、だから、一人一人が神の民としてふさわしくあらねばならないというふうにも解釈できると思います。

しかし、もっと深く読み取ることが出来ます。イエス様に反対しているファリサイ派の人々に向かい、「実は、あなたがたはすでに『救い主』であるわたし(イエス様)と同席している、待ち焦がれていた『神の国』の始まりの中にあなたがたは入れられているのです」という内容が語られているのです。彼らが理解するかしないかに関わらず、神様の御計画が彼らに押し寄せていることを、イエス様は意味しておられるのです。

 

「神の国」の恵みを既に知っている弟子達に、主が更に望むこと

一方、弟子達は「救い主」であるイエス様の招きを受けて従っているのですから、彼らは「神の国」の始まりの中に入れられていることを理解しているはずです。その前提に立った上で、イエス様は「神の国」について、近い将来の出来事に備えて弟子達を教えようとなさいました。

人間のイメージでは「栄光の姿」のはずの「救い主」が、近い将来に「苦難の僕」として十字架にかかることは、いくら弟子であっても、つまずきの石となりかねないことをイエス様は見抜いておられました。しかし、弟子達は御自分がこの世を去った後、この世に「神の国」を広めるための働き手となってもらわなくてはなりません。弟子達が「主の十字架」により、「神の国」がこの世に来るという「神様の御計画の成就」を信じられなくなっては困るのです。その先に、主の復活があり、その後に「主の再臨」が御計画されていることを弟子達は信じ続けていかなくてはならず、それに備えて、イエス様は教えておられるのです。

 

「人の子」=「再臨の主」によって「神の国」は完成する!

後半の「人の子」とは、イエス様が再臨の主として来られる時の御自分を指す言葉です。主と共に居て「神の国」の恵みを知った弟子達も、十字架、復活、昇天という一連の御業の後、主の再臨を信じて待つという忍耐の時を過ごさねばならないことを、主は教えてくださっていたのです。必ず来る「主の再臨」に備え、私達は、人の言葉に惑わされず、いつどこで主の再臨の時を迎えてもいいように、主の約束を信じ、求め続けましょう!再臨の主によって「神の国」は完成するのです!

1月28日の説教要旨 「希望へと生まれ変わる」 吉田 新 先生(東北学院大学)

詩編41:4-4 Ⅰペトロ1:3-9

はじめに

今日の新約聖書箇所の冒頭で、イエス様がエルサレムを目指して旅を続けておられることを私達は再び想起させられます。思えば、ルカ福音書9章51節からの段落で、イエス様は御自身で天に上げられる時期が近づいたと悟られ、エルサレムへ向かったと書かれています。また、13章33節では、神様の使命を受けた預言者として、イエス様は聖なる都エルサレムで死ぬ定めだと示されています(「主の十字架」)。救おうとするユダヤ人達により、その救いが理解されずに殺される定めです。それは神様の御計画で、その為にこの世に来られたイエス様は、その過酷で孤独な道を従順にたどっていかなければなりませんでした。

重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が協力し合う

今回の箇所では、ユダヤ人とサマリア人という民族同士としては仲の悪いはずの10人が、重い皮膚病にかかっていたために共に暮らしており、大変な癒しの力があると噂されるイエス様から癒しを受けるべく、呼び止めようと協力し合っています。更に、イエス様に近寄りたい気持ちを抑えつつ、律法に則って距離を取りながら「この病いを癒してください」と願っていたわけです。人の心に何があるかを見抜かれるイエス様は彼らの苦しみを理解し、すぐに救ってあげたいと思われたのでしょう。この後すぐに彼らの身の上に癒しが起こるとわかっておられた上で、彼らに「祭司に体を見せなさい」とお命じになり、実際に彼らはその途上で重い皮膚病から癒されました!

癒された10人の内、サマリア人1人だけが戻ってきた

この癒しを受けた10人の内、癒してくださったイエス様に感謝を献げるために戻ってきたのは1人で、それがサマリア人だったことをルカ福音書は重要視しました。ユダヤ教の中で神の民とされたユダヤ人達が「汚れている」と蔑んだサマリア人、しかも、そんなサマリア人の中でも更に「汚れている」とされた重い皮膚病の人が戻ってきて、癒しの源であるイエス様に感謝を献げたのです。実は、イエス様は御自分はユダヤ人の救い主として遣わされたと自覚されていたようですが、福音宣教の旅でイエス様からの救いを求める異邦人と度々出会うことにより、ユダヤ人か異邦人かは問題ではなく、御自分を救い主として受け入れるかが重要だという思いを深められたのではないかと想像します。

「立ち上がって、行きなさい」(19節)

イエス様の憐れみを受けて救われることのすばらしさを理解し、イエス様を救い主と受け入れ、その恵みに感謝を表そうとひれ伏した、このサマリア人に対して、イエス様は「立ち上がって、行きなさい」という御言葉をかけてくださいました。「立ち上がって」という言葉は、元々の言葉では「よみがえる」という意味を持っています。イエス様と出会うまでは死んだようにしか生きられなかった、このサマリア人に、イエス様は「よみがえって、自分の人生の旅を続けるように!」と励ましてくださいました。

「あなたの信仰があなたを救った」(19節)

イエス様は最後に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのですが、このサマリア人を救った直接の源は、イエス様の癒しの力です。聖書で証しされてきた本当の神様は、へりくだりを愛する御方で、決して御自分が癒したと声高く主張される御方ではありません。そんな神様の御力に対して人間ができることは、主の恵みを信じて、感謝して素直に受け入れることです。そうすることで、人間は神様と豊かに交流でき、ますます満たされていきます。実際、この話の中でも10人の人々が救われるほど、主の憐れみに由来する神様の御力は大きかったのに、その恵みに感謝を献げるために戻ってきて癒された上に、更に主から御言葉を賜るという交流に進んだのは、このサマリア人、たった一人です。

 

「新しい救いの恵み」に感謝を献げましょう!

「神様による人間の救い」は、古い形ではユダヤ人かどうかが問われましたが、新しい形ではイエス様を救い主と信じる信仰が問われます。それは、主の十字架によって自分の罪を肩代わりしていただいたと信じるかどうかです。私達信仰者は、神様の一方的な恵みを受けて「新しい救い」で神の民とされました。その大いなる恵みの素晴らしさを本当に理解しつつ、礼拝等で感謝を献げることを喜べるよう、聖霊の助けを祈り続けましょう。

1月21日の説教要旨 「新しい救いの恵み」 牧師 平賀真理子

イザヤ書66:18-23 ルカ福音書17:11-19

はじめに

今日の新約聖書箇所の冒頭で、イエス様がエルサレムを目指して旅を続けておられることを私達は再び想起させられます。思えば、ルカ福音書9章51節からの段落で、イエス様は御自身で天に上げられる時期が近づいたと悟られ、エルサレムへ向かったと書かれています。また、13章33節では、神様の使命を受けた預言者として、イエス様は聖なる都エルサレムで死ぬ定めだと示されています(「主の十字架」)。救おうとするユダヤ人達により、その救いが理解されずに殺される定めです。それは神様の御計画で、その為にこの世に来られたイエス様は、その過酷で孤独な道を従順にたどっていかなければなりませんでした。

重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が協力し合う

今回の箇所では、ユダヤ人とサマリア人という民族同士としては仲の悪いはずの10人が、重い皮膚病にかかっていたために共に暮らしており、大変な癒しの力があると噂されるイエス様から癒しを受けるべく、呼び止めようと協力し合っています。更に、イエス様に近寄りたい気持ちを抑えつつ、律法に則って距離を取りながら「この病いを癒してください」と願っていたわけです。人の心に何があるかを見抜かれるイエス様は彼らの苦しみを理解し、すぐに救ってあげたいと思われたのでしょう。この後すぐに彼らの身の上に癒しが起こるとわかっておられた上で、彼らに「祭司に体を見せなさい」とお命じになり、実際に彼らはその途上で重い皮膚病から癒されました!

癒された10人の内、サマリア人1人だけが戻ってきた

この癒しを受けた10人の内、癒してくださったイエス様に感謝を献げるために戻ってきたのは1人で、それがサマリア人だったことをルカ福音書は重要視しました。ユダヤ教の中で神の民とされたユダヤ人達が「汚れている」と蔑んだサマリア人、しかも、そんなサマリア人の中でも更に「汚れている」とされた重い皮膚病の人が戻ってきて、癒しの源であるイエス様に感謝を献げたのです。実は、イエス様は御自分はユダヤ人の救い主として遣わされたと自覚されていたようですが、福音宣教の旅でイエス様からの救いを求める異邦人と度々出会うことにより、ユダヤ人か異邦人かは問題ではなく、御自分を救い主として受け入れるかが重要だという思いを深められたのではないかと想像します。

「立ち上がって、行きなさい」(19節)

イエス様の憐れみを受けて救われることのすばらしさを理解し、イエス様を救い主と受け入れ、その恵みに感謝を表そうとひれ伏した、このサマリア人に対して、イエス様は「立ち上がって、行きなさい」という御言葉をかけてくださいました。「立ち上がって」という言葉は、元々の言葉では「よみがえる」という意味を持っています。イエス様と出会うまでは死んだようにしか生きられなかった、このサマリア人に、イエス様は「よみがえって、自分の人生の旅を続けるように!」と励ましてくださいました。

「あなたの信仰があなたを救った」(19節)

イエス様は最後に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのですが、このサマリア人を救った直接の源は、イエス様の癒しの力です。聖書で証しされてきた本当の神様は、へりくだりを愛する御方で、決して御自分が癒したと声高く主張される御方ではありません。そんな神様の御力に対して人間ができることは、主の恵みを信じて、感謝して素直に受け入れることです。そうすることで、人間は神様と豊かに交流でき、ますます満たされていきます。実際、この話の中でも10人の人々が救われるほど、主の憐れみに由来する神様の御力は大きかったのに、その恵みに感謝を献げるために戻ってきて癒された上に、更に主から御言葉を賜るという交流に進んだのは、このサマリア人、たった一人です。

「新しい救いの恵み」に感謝を献げましょう!

「神様による人間の救い」は、古い形ではユダヤ人かどうかが問われましたが、新しい形ではイエス様を救い主と信じる信仰が問われます。それは、主の十字架によって自分の罪を肩代わりしていただいたと信じるかどうかです。私達信仰者は、神様の一方的な恵みを受けて「新しい救い」で神の民とされました。その大いなる恵みの素晴らしさを本当に理解しつつ、礼拝等で感謝を献げることを喜べるよう、聖霊の助けを祈り続けましょう。

1月14日の説教要旨 「赦し、信仰、奉仕」 牧師 平賀真理子

ヨブ記22:21-23 ルカ福音書17:1-10

はじめに

今日の新約聖書箇所は3つの段落から成っていますが、それらは、連なっていると思われますので、その内容をお伝えしたいと思います。

「ファリサイ派や律法学者達」の態度

今日の聖書箇所に入るまでに、イエス様のおっしゃってきたことの一つを振り返りましょう。イエス様を「救い主」と認めない「ファリサイ派や律法学者達」の態度が間違っていることを指摘し、正しい態度(イエス様を救い主としてこの世に派遣したという神様の愛の業を受け入れること)になるように導こうとなさいました。特に、直前の16章の例え話「不正な管理人」や「陰府でさいなまれる金持ち」などは、まさしく、反対派の者達(ファリサイ派や律法学者達)を例えたものとも読み取れます。

主の弟子達であっても

今日の箇所は、弟子達に語っておられることを念頭に置くべきです。イエス様は弟子達には、新しい教え=福音を知る者として、ファリサイ派や律法学者達と同じ轍を踏ませたくなかったのでしょう。しかし、人間の集団である以上、弟子達の群れの中にも、つまずきを起こす者が入ってくること、また、弟子の中につまずきを起こすものが入ってくることは避けられないとイエス様は見通しておられました。これは、近い将来で言えば、使徒とされたイスカリオテのユダが主を裏切る預言とも言えますし、遠い将来では、教会の中でも罪が起こるのは避けられないと預言されていると読み取れます。

「小さな者」をつまずかせることへの警告

弟子達は主の招きを受けて早々に弟子になる恵みを得ましたが、その後で、イエス様の御言葉や御業に出会って、イエス様を救い主として従おうとしている「群衆」を、主は「小さな者」と表現なさっています。信仰が芽生えつつあり、信仰という道において、小さな者(群衆)を、先に歩む弟子達が罪に導くことがあるとイエス様は見抜いておられます。実は、これは、ファリサイ派や律法学者達と同じ罪です。自分達の知識や経験を、人々を育てるために用いないで、自分達と同じようにはできない人々を裁いたり、ダメ人間と貶めることで、結局は自分達を高く見なす、つまり、憐れみがなく、傲慢だという罪に陥っています。だから、弟子達に「あなたがたも気をつけなさい」と主は警告なさったのです。

人間を何度でも赦してくださった神様にならって

弟子達同士は、罪は罪と率直に言える関係であること、そして、罪を指摘されたら、素直に悔い改めるべきこと、また、相手も大きな心で赦すような間柄であることという主の願いが示されていると思います。

主は根拠なしに「赦しなさい」とおっしゃったのではありません。神様御自身が、このように人間を赦してくださっているからです。人間の神様に背く罪を、神様は大変嘆かれるのですが、人間が心から悔い改めたのをご覧になると、いつまでも罰に縛りつけたりせず、今までの罪を無かったことにしてくださるわけです。そのことを根拠に、同じ神様を信じる信仰者同士(「兄弟」)も赦し合えるはず、神様と同様に何度でも赦せるはずだと主は教えてくださったのです。(参照=マタイ18:23-35)

主からいただく信仰が増し加わることを願う弟子達

しかし、弟子達は自分の心に正直になるならば、「赦し合えない」と気づきます。(それは私達も同じではないでしょうか。)だから、弟子達は自分達の信仰が弱いのであり、それをイエス様に補っていただきたいと思ったのでしょう。その望みに対し、ほんの小さなからし種のような信仰があれば、神様は御自分の大きな力をくださり、人間には不可能なこともできるようにしてくださるとイエス様は教えておられます。

主の恵みによって罪を赦され、信仰の中で奉仕できる幸い

ところが、弟子達は自分にはそんな僅かな信仰さえないことに気づきます。その原因をイエス様は7-10節の箇所で教えておられます。弟子達は神の国で働ける恵みを既に得たのに、主人から感謝されたいと願っていることが原因だと示されたのです。私達も含め、主の弟子達は救い主イエス様の恵みを賜り、罪を赦されたのです!現実の生活に流されて主の恵みを忘れたら、弟子達同士で指摘し合って悔い改めることを励行し、主への信仰の中で奉仕できる恵みにある幸いを想起しましょう。

1月7日の説教要旨 「異邦人の救い主」 牧師 平賀真理子

詩編47:2-5  マタイ福音書2:1-12

はじめに

昨日は1月6日で、教会の暦では「公現日」という特別な日でした。イエス様が御降誕され、その栄光が異邦人の世界にまで広まったことを祝う日です。東の方から占星術の学者達(異邦人)が来て、イエス様を礼拝したという出来事(マタイ2:1-12)を覚える日です。

イエス様がお生まれになった時の状況

今日の箇所の冒頭1節で、イエス様がこの世にお生まれになった時と場所が書かれています。ヘロデ王という極めてこの世的な王の支配下にあった時と場所であったというわけです。なぜ、この世的かと言うと、この世の長サタンと性質が似ているからです。自分の利益のためにずる賢く立ち回り、権力を横取りし、しかも心根が冷酷で疑い深いのです。神の民ユダヤ人達が、このような支配に苦しめられていた状況下で、神様は約束どおり、「救い主」イエス様をお送りくださったのです。

「異邦人の国」から来た占星術の学者達

しかし、本来その出来事に一番に気づいて喜ぶべき「神の民」ユダヤ人達よりも、「異邦人」が先にその出来事に気づき、ユダヤ人達に知らせたことを今日の箇所は語っています。「東の方」とはユダヤ地方から見て、ペルシャ(今のイラン)周辺ではないかと言い伝えられています。

「異邦人の国」から異邦人の占星術の学者達が、まずエルサレムに来て、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせました。「占星術の学者」とは、当時は、天文学をはじめとする自然科学全般についての専門知識を有する知識人であり、時の権力者に助言を求められる存在です。ユダヤ人達は、自分達が「神の民」として選ばれて神の言葉である「律法」をいただいたという自負があった故に、異邦人については「神様に選ばれておらず、『律法』も知らない、軽蔑すべき人々」とみなしていました。そんな「異邦人」から、ユダヤ人達は一番大事な「救い主誕生」の知らせを受け取ることになったと聖書は示しています。

ユダヤ人の「民の祭司長達や律法学者達」

一方、ユダヤ人の知識人ともいえる「祭司長達や律法学者達」は、この知らせに対し、その預言をヘロデ王に冷静に伝えただけです。本来、彼らこそ、救い主誕生は神の恵みだと、よく知っているはずなのに、その救い主を拝みに行っていません。神様の出来事を無視したのです。

神様の導きに従った「異邦人の占星術の学者達」

一方、異邦人の占星術の学者達は、律法は与えられていなくても、この世に現れた神様の真理=科学的法則を常に求め、その法則とは違う動きを察知し、それを神様からのしるしと悟り、それに従い、旅の危険を顧みずに救い主誕生の出来事に積極的に参加しました。彼らは一度エルサレムに来て、王に頼ったように見えますが、それは彼らが「預言」に出会うためであり、むしろ、彼らの旅を導いたのは、特別な星だったのです。「星」と「預言」=神様の導きを表すものに彼らは従って行動し、救い主との出会いに導かれて喜びに溢れ、礼拝する恵みを得たのです!

イエス様の救い主としての役割を暗示する献げ物

救い主への献げ物は「黄金・乳香・没薬」という3種類だったと記されています(彼らは「東方の3博士」と言われていますが、3名だったという記述は実はありません)。「黄金」はこの世の栄え、つまり、王様を意味します。(イエス様は政治的な王様にはなっていませんが、この世を支配して人間を苦しめていたこの世の長サタンから、この世の支配を取り戻したのですから、この世の新しい王様となられたのです!)「乳香」は、神殿で献げ物をする時に焚く香料なので「祭司」を意味し、「没薬」は死体を包む時の防腐剤なので「死」=「十字架による死」を意味します。後のイエス様の歩みを象徴していると言えます。

異邦人にも届く「救い主」の栄光の証し人として

神様はユダヤ人を救いの起点とされましたが、その救いは全ての民族(異邦人)に及ぶと旧約聖書には幾つも記されています。私達は、肉体的にはユダヤ人ではないので、この占星術の学者達の行動を、同じ「異邦人」として誇らしく感じます。しかし、今や、イエス様を救い主と信じる私達が「神の民」です。当時のユダヤ教宗教指導者達のように「神様のしるし」を無視していないかを留意しつつ、これから「神の民」となる方々のためにも「神の栄光を写し出す証し人」となれるよう、祈り続けましょう。

12月31日の説教要旨 「シメオンの賛歌」 牧師 平賀真理子

ゼカリヤ書12:10 ルカ福音書2:25-38

はじめに

主の御降誕を祝う降誕節に入りました。今回、アドベントに入ってから、ルカによる福音書の中にある3つの賛歌(神様をほめたたえる歌)を学んできました。今日は3つめの「シメオンの賛歌」を中心に見ていきたいと存じます。

ご降誕なさった幼子イエス様が神殿に来られるまでのいきさつ

ルカ福音書の2章の前半では、イエス様がこの世に実際に誕生され、その出来事を知らされた羊飼い達が幼子イエス様を探し当てたことが書かれています。続いて、イエス様は天使のお告げどおり、イエス(「ヤハウェは救い」という意味、ヨシュアのギリシア語名)という名が付けられたと記されています。この世での両親であるヨセフとマリアは、ユダヤ教の律法に従い、「生まれた子供を聖なる者」として献げるため、神殿に来たことから、今日の出来事は起こります。

シメオンが神殿で幼子イエス様に出会うまでのいきさつ

イエス様がこの世にお生まれになった頃、イスラエルの民は、異邦人ローマ人が支配する「ローマ帝国」による非情な圧政に苦しんでいました。そんな困難な状況の中、シメオンは信仰深く生きていました。そして、神様が自分にしてくださった約束「救い主を見るまでは死なない約束」を信じ続けたのです。異邦人の武力支配の中、本当の「救い主」がこの世に来られ、本当の救いをもたらす御方としてこの世に生まれたことを、聖書は「聖霊の導き」によるものだと証ししています。

シメオンの賛歌(「万民の救い主」と出会った喜び) 

待ちに待った「救い主」に会えるだけでも恵みですが、シメオンはその腕に抱くことができ、それを神の恵みとして実感としたことでしょう。そして「シメオンの賛歌」が彼の口を通して表わされました。その前半(29節―30節)では、神様が遣わしてくださった「救い主」に出会えたこと、神様が自分との約束を果たしてくださったこと、その恵みを体験できたことを喜び、神様に感謝を献げていると思われます。

「救い主に出会う」という喜びが与えられたことについては、私達信仰者も同じです。私達は思いがけず、福音に出会う機会を神様によって与えられました。救い主の存在を知らされ、その教えに従って生きることを許されています。それでも、教えどおりにできないことは多いかもしれません。けれども、そんな自分を、神様がその都度許してくださり、神の民として必要としてくださる、そのことに大きな喜びを覚えます。

さて、「シメオンの賛歌」の後半(31節-32節)は、30節の「神様が人間のために準備してくださった救い」とは何かを説明しています。救い主イエス様は「万民のための救い」である、更に進んで31節では「異邦人を照らす光」であるとあります。マリアの賛歌もザカリアの賛歌(預言)も、どちらかというと「イスラエル民族の救い」が中心に謳われていました。イエス様はイスラエル民族の男子として生まれて育つので、その民族の救いが期待されるのは勿論ですが、福音が広がれば、「救い主」を産み育てたイスラエル民族の誉れも大きくなります。しかし、シメオンの賛歌では、イエス様はイスラエル民族だけの救い主にとどまらず、異邦人に「本当の神様」を知らしめる御方であると謳われていることが、他にはない特徴です。

救い主イエス様の十字架についての預言

「シメオンの賛歌」については、もう一つ、但し書きのような、付け足しの預言があることも特徴です(34節b-35節)。福音書にもあるとおり、この後、イエス様の御言葉や歩みによって、イスラエルの人々は、それを支持するのか反対するのかで、大きく動揺していきます。権力者は倒され、その権力者から貶められていた人々は、イエス様から立ち上がる力をいただきました。しかし、権力者達の反感は大変大きく、悔い改めない人々の罪により、イエス様は刺し貫かれること(十字架刑)となり、母親であるマリアがそれを見て心を傷める出来事の預言がなされています。

女預言者アンナの役割

この時、「救い主」イエス様に出会った女預言者アンナが人々に幼子イエス様のことを話したことも大事な役割です。シメオンは救い主に出会って神を賛美し、アンナは人々に伝えました。聖霊に満たされた人間の様々な働きを通し、福音伝道は神様主導の出来事として成就されていくのです!

12月24日の説教要旨 「救い主の御降誕」 牧師 平賀真理子

イザヤ書9:5-6 ルカ福音書2:8-20
*はじめに
クリスマスおめでとうございます。教会のクリスマス礼拝にお越しくださる方々は12月25日が「イエス・キリストの誕生日」とされており、教会ではそれ以前の近い日曜日にクリスマス礼拝を献げるのだと知っておられることと存じます。クリスマスはイエス様のお誕生日が起源なのですが、クリスチャンの少ない日本では、サンタクロースが来る日とだけしか知らない人々もいるようです。是非、本来の意味を知っていただきたいです。
*この世に救い主が実際にお生まれになった!
今日の新約聖書箇所の直前の段落であるルカ福音書2章1-7節には、この世にいよいよイエス様がお生まれになったことが書かれています。待ちに待った救い主誕生ならば、最高の環境で、人々の大歓迎を受けつつ生まれてもよいはずなのに、全く逆の状況であったことが記されています。この世での両親が権力者によって旅を強いられ、その旅先で、しかも、人間の部屋でないところ(聖書には具体的な表記はありませんが、言い伝えによれば「馬小屋」)でお生まれになった上に、幼児用のベッドではなく、家畜のえさを入れる飼い葉桶に寝かされたと書かれています。これは、人間の心が神様を受け入れるスペースを持ちにくいことを暗示しています。
*人間界で低く見られていた羊飼いに、神様は救い主御降誕を知らせた!
人間の状況にかかわりなく、神様の御計画は御心のままに着実に進んでいきます。ルカ福音書1章では、イエス様の先導者として洗礼者ヨハネの誕生も、そして救い主イエス様のご誕生も、神様が主導して起こしてくださった出来事であると示されています。そして、それを素直に受け入れた人物として、この「羊飼いたち」が2章に書かれています。彼らは、職業柄、定期的な礼拝が守れないので、低く見られていました。しかも、労働条件の厳しい割には、それほど収入がたくさんある仕事でもありませんでした。人間社会の中では尊敬されない人々でした。しかし、神様の評価は違います!人間界では一番に恵みをいただくことが決して期待されない羊飼いたちに、神様はまず、御自分が救いの出来事を起こしたことを知らせてくださったのです。「救い主を『ひとりのみどりご・ひとりの男の子』として与える」という預言を実際に実現してくださり、しかも、この羊飼いたちに、そのことを天がどんなに喜んでいるかを見せてくださっています。天使の言葉や天の大軍としての大勢の天使による賛美が、この羊飼いたちをどれほど圧倒したことでしょう。その大きな喜びに押し出されるようにして、羊飼いたちは、その赤ん坊を探し出そうと出かけました。もちろん、イヤイヤではありません。「急いで行って」(16節)という言葉は、元々の言葉では「喜び勇んで」という意味が含まれています。
*「しるし」をたよりに、羊飼いたちは「救い主」を探し当てた!
羊飼いたちは天使の言葉をヒントに「救い主イエス様」を探し当てました。天使の言葉の中で、救い主の「しるし」として「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」であると告げられていました。イエス様は、両親が旅の途中だったので産着の準備もなく、宿屋でもない馬小屋で生まれたので、まさしく、この時、「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている」唯一の乳飲み子だったのでしょう。詳細は書いてありませんが、ここには、聖霊の導きがあったのではないかと推測できると思います。神様は選んだ人々には、事前に知らせてくださり、そのとおりのことを実現し、聖霊(神様の霊)によって、彼らを導いてくださる御方だからです。
*神様の出来事を素直に信じられる喜び
羊飼いたちは、天からのお告げが現実になったことを体験しました。彼らの体験した一連の出来事で、神様の出来事は御心のままに確実に進むけれども、人間はただ単に神様の奴隷のように言いなりに働かされるわけではなく、御心に適った人々には、それが神様が主導で起こされる出来事だとわかるようにしてくださること、そして、そのような神様の恵みが自分に降ると素直に信じられる人は、その恵みがわかった後は黙っていられず、話さずにはいられないほどの喜びにあふれることがわかります。
*「神をあがめ、賛美しながら生きる人生」
最終的には羊飼いたちは「帰って行った」(20節)ので、元の持ち場に帰ったわけであり、表面上は彼らは何も変わっていません。けれども、心が変わったのです。この出来事より前には、ただ単に生きていたであろう彼らが、この出来事の後では「自分を・自分の人生を神様が覚えてくださり、神様の出来事に参加させてくださる」ということが実感としてわかり、これ以降の人生において「神をあがめ、賛美する」ように変えられたのです。それが信仰を持つことの醍醐味です。同じ出来事を体験しても、信仰者は、(表面的な幸・不幸にとらわれず)どのような出来事でも神様が共にいてくださることを信じ、「神をあがめ、賛美する」大いなる喜びに導かれていくのです。私達を本当の喜びに導くために、神の御子が「救い主」として、人間の中でも最弱の姿(赤ん坊)となってこの世に降りてきてくださったのです!