「主の誉れ」 加藤 秀久牧師
*はじめに
イスラエルの王国はソロモン王の死後、北と南に分裂し(B.C.922年)、北はイスラエル王国(首都サマリア)、南はユダ王国(首都エルサレム)となりました。しかし、B.C.721年に、北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダには北王国から多くの知識人が亡命して来たので、ユダ王国のヒゼキヤ王が、北からの伝承をも含む格言を集めて編集したものが本日の「箴言」です。25:1に「これらもまたソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」とあり、2節には「事を隠すのは神の誉れ。事を極めるのは王の誉れ。」とあります。つまり神様は隠し、王様はその隠されたことを探り、発見する(きわめる)と語られています。
*ヒゼキヤの父アハズとヒゼキヤ
ヒゼキヤ王の父アハズは、敵の侵略から身を守るために、外国に助けを求めました。神様は預言者イザヤを遣わして「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。(イザヤ7:4)」と伝えましたが、アハズはその言葉に耳を傾けることをしなかったため一時的には問題は解決をしたかのように見えましたが、最終的にはさらに困難や苦しみ(多くの貢物をするなど)によって国が揺れ動くこととなりました。
しかし息子ヒゼキヤの時代、ユダ王国のエルサレムもアッシリヤ王の率いる軍勢に包囲されるという危機的な時代となっていましたが、ヒゼキヤは箴言の編集作業をしたのです。このことは神様からの重要な霊的意味がありました。それは、ヒゼキヤが神様の代理者として立てられたことを意味し、又、ヒゼキヤが敵との戦いにおいて神様の言葉を優先したことにあります。ヒゼキヤは神様の隠された言葉から、神様の考えを見つけ出し、その言葉に従い、その言葉を用いて敵に戦いをいどみ、勝利すること。
それが神様の代理者としての王の務めだと考えたのです。 ヒゼキヤは、預言者イザヤの指導を受けながら、神様の言葉にしっかり立つことが敵に勝つ秘訣だと確信していきました。
*わたしたち
このことは、現代を生きる私達にとっても同じことが言えると思います。神様の言葉が失われそうに感じた時(神様が遠くに感じられた時)、私達は立ち返って神様に心を向け、神様のなされること、なされようとすることに信頼をおく必要があります。それが私達にとっての神様に近づく近道、霊の回復の近道、神様からの勝利を得る近道となるからです。
神様の言葉は、私達が想像するよりもはるかに越えた奥深い世界を見させて下さいます。その奥深さは秘密にされていて、私達は、神様の隠しておられる事柄を見つけ出して発見する(きわめる)ことが必要です。聖書の中で「探る」という言葉を調べてみますと、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味があります。
エレミヤ書29章には以下の言葉が記されています。
「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見い出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。(12~13)」
*キリストに対する真心と純潔からそらせる偽使徒たちの存在
本日のコリント書には、パウロたちが伝えたイエス様の教えと異なる教えや、受け入れるべきでない違った霊や福音を語る偽使徒達が教会の中に入り込み、そのため教会員がキリストに対する真心と純潔からそれてしまうことをパウロは心配し警告しています。そしてパウロの伝道と牧会は、彼らに負担をかけないため無報酬でやってきたと告げています(生活に不自由した時は、マケドニア州の兄弟(信者)逹が助けてくれた・・11:9)。
私達の住む社会にも、キリスト教に近い、似たような教えや名前を使って活動をしている人達(カルトや占いや魔術的な事)がいます。パウロの時代も似たような人々が社会にいたからこそ、教会からの報酬を受け取らなかったのかもしれません。パウロの伝道目的は、イエス様の言葉、神様の愛の素晴らしさを伝えることでした。私は、パウロのような、宣教の為に全てを献げる人達に出会ったからこそ、その中の一人になりたいと思い、今ここに立ち、皆様に神様のことをお話しています。