「主に感謝」 加藤 秀久伝道師
*はじめに
先ほどお読みした箴言は、人が生きる中で「知恵」の生活を送ることが必要であり、「知恵」の重要さを宣言することから始まっています。そして「知恵」とは、単なる世の中にありふれているもの、この世の中にかかわったことで得た知恵ではなく、「主を畏(おそ)れること」に基づいていると、はっきりと述べています (1:7)。 この「おそれ」とは、私達が神様の前に罪を犯すことで神様からの仕打ち(罰)を受ける「おそれ(恐れ)」ではなく、神様の偉大な力、凄(すご)さをよく知り、理解することで、 神様の言葉と意志に敬意をもって服従することを意味します。
*命を得るため、分別の道を進むため(箴言9:6)
本日の箴言では、「知恵」が擬人化されています。「知恵」が自分の家を建て、食卓を整えて人々を招いています。1節で「知恵」は家を建て、七本の柱を刻んで立てたとあり、七本の柱は神様のための祭儀的場所として指示されていて、食事は祭儀的食事であり、「知恵」は食卓を整えました。そして侍女達を町の高い所に遣わして、招待していたすべての人に呼びかけ、宴席につくように招きました。イザヤ書40章9節には、以下のように記されています。「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神」
*神に逆(さか)らう者と知恵ある人
「知恵」からの招きを受け入れる者は誰でも「命を得る(6節)」ことができるとされています。なぜならそこには「命の食物と命の飲み物としての知恵」と「物事を深く見通せる、優れた判断力」が与えられるからです。
ところが7節では、神様のことをばかにして笑う者達に神様のことを話そうとしても、聞き入れてもらえない、信じてもらえないことが記されています。逆にその人達は頑(かたくな)な態度を取ることになります。しかし、賢い人は、まだ自分には多くのことを学ばなければならないことがある、と知り、常に敬意を払いながら神様の言葉に耳を傾けて喜んで聞きます。
神様を畏れることは知恵を得ることの初めであり、この知恵を知ることが聖なる方を信じ受け入れることに繋(つな)がります。それは何が良く何が悪いかの正しさを見分ける力が与えられることです。「知恵」は自分の家で食卓を整えて、私達をその席へと招いて下さっているのです。
*主の晩餐の制定
本日のコリント書では、コリント教会の人達の、特に神様を礼拝する姿勢に問題があったので、パウロは、基本的な知識を身に付けるように手紙を書いています。その一つが「主の晩餐」の守り方です。教会内で「主の晩餐」の食事が感謝の心を持たずに行なわれていることに問題を感じ、自分が受けたものを人々に伝えるための言葉として、イエス様ご自身が発した厳かで変えることのできない儀式の仕方や信仰内容が語られます。パンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、「イエス様の救いの死」を思い出させるものであり、軽々しく受け取るべきではないことを伝え、特に神様を信じる者達は、自分達が裁かれないように自分自身を吟味する必要があることを教えます。又26節で、「主が(再び) 来られるときまで、主の死を告げ知らせる」とあり、27節からは、晩餐に与るために、ふさわしい在り方が語られ、コリント教会の人達が「主の体」のことをわきまえずに晩餐に与り、ふさわしくない態度でパンを食べ、ぶどう酒を飲んだことは、「主の体と血に対して罪を犯すことになる」と教え、教会内部で問題が起る結果を招いたことや、信徒の間では弱い者や病人が沢山いて、多くの人が亡くなったことなど、後半で語られます(30節)。
*わたしたち
神様を信じる者達には、意志の弱い者であれ、心に不安を抱いている者であれ、どのような者でも神様の食卓につくようにと招かれています。
その食卓で、イエス様と共に食事をし、神様からの力と励ましを受けて、私達は再び、この社会(この世の生活)へと戻って行くことができます。 今日この日、聖餐に共に与(あずか)れることを神様に感謝して、今週の歩みをして参りましょう。