8月12日の説教要旨 「神様の知恵」 平賀真理子牧師

箴言81221  ルカ福音書202026

 はじめに

私達の主イエス様は、十字架にかかる定めを前にしながらも、神の都エルサレムに果敢に入っていかれました。一方、この都で権力を持っていた「祭司長や律法学者や長老達」(以下、「反対派」)は、自分達の座を簡単に明け渡さず、イエス様に論争を挑みました。民衆に人気のあったイエス様に対し、反対派の人々は、「面白くない」という感情や、自分達の既得権益を脅かされる危機感を持ったことでしょう。

 

「エルサレム神殿での活動は、天からの権威?人からの権威?」

まず、反対派は、イエス様のエルサレム神殿での宣教活動の根拠=何からの権威をいただいて、そのようなことをしているのかを、二者択一の形で尋ねました。それに対して、イエス様は、御自分について答えても、彼らの反対する気持ちは変わらないことを見抜き、洗礼者ヨハネの洗礼の権威をお尋ねになりました。何が何でも反対という感情から離れて、御自分を救い主と証しした洗礼者ヨハネの言葉を思い出させ、彼らに悔い改めを促されたと思われます。しかし、反対派は、悔い改めるどころか、「メンツがつぶされた」と感じたことでしょう。

 

同じパターンで仕返しを謀る反対派とその「回し者たち」

恥をかかされたと考えたであろう反対派の人々は、同じ二者択一の質問で、民衆のイエス様に対する期待を失墜させようとしました。しかも、1度目の質問で懲りたのか、自分達は隠れて、「回し者」と表現される人々を派遣しました。この人々は、実のところ、神様を大事に思っておらず、そのようなふりをした人々、そして、反対派の人々に取り入り、幾らかの利益を得ようとした人々と推測できるでしょう。

反対派の人々はこの回し者たちと共に、作戦を練り、イエス様に挑んだに違いありません。実は、反対派にとって、イエス様への2度目の挑戦です。一刻も早く、自分達の前からイエス様を消したいと願い、策を弄したのでしょう。彼らは、大人数という「数」と、自分達の「知恵」を武器に、神様から派遣されたイエス様に挑みました。彼らは、神様が示してくださった真実よりも、自分達の利益や名誉が大事とする「罪」に捕らわれており、しかも、卑怯です。結局、正しい人のふりしかできず、その本質は神様から離れた「罪人」であると示されています。

 

罪に罪を重ねる反対派の人々

反対派の人々は、常日頃は、異邦人であるローマ帝国の支配を憎んでいたのですが、イエス様に対しては、ローマ帝国の支配と権力を当てにしています。自分達の欲望のためには節操を簡単に捨てています!

 

イエス様は「真理に基づいて神の道を教えておられる(21)」御方

回し者達の発言の前半部分(21節)は、実は、反対派の人々がイエス様のことを、心の奥底では理解していたと示されています。これを本心から言うならば「信仰告白」です。けれども、ここではそうではなくて、相手を気持ちよくさせて油断させるためのお世辞(罠)だったわけです。

 

「ローマ帝国に税金を納めるべきか、否か」という質問の裏の悪意

異邦人の国ローマ帝国に税金を納めるべきか、否かという二者択一を迫る質問は、どちらを答えても、イエス様を追い込むことができると反対派は予想していました。「納めるべきである」と答えれば、税金に苦しんでいた民衆が、イエス様を「救い主」として受け入れられなくなるし、また、「納めるべきでない」と答えれば、ローマ帝国から派遣されている総督に訴える口実にできると狙っていたわけです。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

イエス様の答えは、彼らの知恵をはるかに超えていました!実際に税金徴収の時に使う「デナリオン銀貨」を確認させ、皇帝の肖像と銘があるものならば、それは皇帝の所有を意味するので、皇帝に返すように言われたのです。誰もが納得する答えです。更に、この後に続く御言葉「神のものは神に返しなさい」に、反対派は、自分達の愚かさを痛感し、主の知恵が人間の知恵を越え、非の打ち所がないと悟ったのです。実は、この御言葉は、時空を超えて、私達信仰者にも語られていると言えます。時空を超えた「神様」の知恵の御言葉だからです。信仰をはじめ、神様から賜るものを想起して感謝し、お返しするよう、求められています。