3月10日の説教要旨

箴言2:1-12・ルカ福音書4:1-13

「世に打ち勝つ信仰への道」    佐藤 義子

*はじめに

キリスト教の暦では、先週の水曜日から受難節に入りました。受難節は、日曜日を除く40日間です。私達の伝道所では、この時期、「イエス様が私達の為に受けられたご受難を覚えて、克己、修養、悔改めの特別期間として過ごしましょう!と呼びかけています。皆様は、受難節をどのようにお過ごしになっておられるでしょうか。

*伝道するに先立って起こった出来事

 今日の聖書は、一般に「荒れ野の誘惑」として知られている出来事で、イエス様がバプテスマ(洗礼)を受けられた直後に、荒れ野に導かれて40日間の断食後、悪魔から3つの誘惑を受けられた時の話です。すなわちイエス様がこれから人々に向かって伝道していく、その大事業を始められる直前に、イエス様は悪魔から誘惑を受けるのです。

伝道とは、言い換えれば、神様から離れている人々に、神様の所に戻るように呼びかけることです。イエス様はこの伝道という大事業を始めるにあたり、どのような仕方(姿勢・方法)でなされるべきかを、この悪魔の誘惑への応答を通して私達に明らかにされています。そしてイエス様の昇天後も、この伝道の姿勢は弟子達から全世界の教会へと継承され、私達の伝道所も又、イエス様の教えに従って、伝道を続けていきたいと思います。

*第一の誘惑「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。

「石をパンに」の誘惑は、伝道の手段として食料(物質)を与えるという方法です。震災などで食料が不足していた時、どこかで「パンを配ります」の声が聞こえれば、たちまち多くの人々が押し寄せました。パンに限らず、いつの時代でも人々の関心は衣食住、すなわち物質に向けられています。悪魔はこのことを良く知っており、イエス様に、石をパンに変える奇跡をもって、ご自分を神の子と示せば、あなたは苦労しなくても、人々を神のもとに導ける、と誘惑したのです。この誘惑に対してイエス様は、(申命記8:3)「人はパンだけで生きるものではない」。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」を引用されました。この言葉は、神様がモーセを通して語られた言葉です。

*生きるのは、肉体だけではない

  私達は「生きる」と言う時「目に見える体の命」を考えます。それ以外に「魂」とか「霊」と呼ばれる目に見えない命があることまでは考えず、教えられなければ知らないままです。それを教えてくれるのが聖書です。ある神学者は「人には肉体の他に霊性が与えられているのに眠らせたままで死んでいく人が多い」と書いています。何ともったいないことでしょう。たとえ病気になり体が動かなくなったとしても、霊の命が健やかであれば、人間として生き生きと生き続けることが出来るのです。

  この霊の命が目覚めて活動するのは、命の与え主である天地創造の神様に出会った時です。聖書を通しイエス様の言葉を通して、私達がイエス様を信じて、それまで離れていた神様の方に向き直り、神様を信じた時に、霊の命は眠りから覚め、私達に大きな変化をもたらしていきます。

 

*霊の命が目覚めると・・

田原米子(たはらよねこ)さんの証しを紹介します。米子さんは母親の死をきっかけとして、生きることに希望を見いだせず高校3年生という若さで、新宿駅のホームから終電車に向かって飛込み、鉄道自殺をしました。その後、救急車で運ばれ、一週間の昏睡状態のあと目覚めます。目覚めて見たのは、自分の両足も左腕もなく、右手の指3本だけでした。「こんな体では生きていけない」と、彼女は、医者から処方される睡眠薬をこっそりためて死ぬことだけを考え続けました。そのような彼女が、担任教師の知人という見知らぬ宣教師と通訳の二人の訪問を受けたことを通して、神様の言葉に触れます。やがて信仰が与えられて、その後に夫も与えられ、さらに娘二人にも恵まれ、家庭を通して、さらに伝道旅行を通して、神様のことを宣べ伝えています。(私も直接、彼女の証しを聞きました)。  

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4::4)のです。

*第二の誘惑「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。もしわたしを拝むなら」

 もしも悪魔に頭を下げるならば、この世界を自分の支配下におき、自由自在に自分の思い通りに動かすことが出来るようになる、という誘惑は、自分の内にある<神様の居られるべき場所>を、<悪魔に明け渡す>との交換条件を求められています。この誘惑に対してイエス様は、(申命記6:13)「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、そのみ名によって誓いなさい。」を引用されました。この申命記6章は「シェマー」(聞け)から始まっており、神様を唯一の主として日々告白することを命じています。それゆえ悪魔に頭を下げるということは、神様の御支配から抜け出して悪魔に仕えることを意味します。

*「主にのみ仕える

イエス様には神様への無条件の信頼と完全な服従がありました。神様が下さるものは、それが神様の栄光にあずかることであっても、逆に十字架への道であっても、それを「ただ受け取る」という生涯を歩まれました。 

私達日本の国は、数えきれないほど人間の手で作った偶像があります。又、ご先祖様を仏様として拝む対象としています。又、神社の鳥居をくぐる時も手を合わせる風景をテレビなどで見ます。神社では大木などを中心に、神の霊が宿っていると考えるわけですが、そのような文化、習慣の中に、私達日本人は置かれています。又、戦前は天皇も現人神(あらひとがみ)として生きた神として拝むことを強要されましたから、キリスト教徒は「主にのみ仕える者」として官憲からにらまれ、手を合わせないことで不敬罪は成立し逮捕されました。「主にのみ仕える」ことは、天地創造の神様、イエス様の父である神様以外は、神様として礼拝しない。私達の身の回りから、お守りやお札(ふだ)などを遠ざけることも含まれます。

*クリスチャンの戦い

家族の中で自分だけがクリスチャンの場合、悪魔は、あの手、この手で、この世と妥協するように誘惑してきます。そのような時、私達は祈りつつ神様からの知恵をいただかなければなりません。

信仰の決断とは、確信が与えられて決断したら、それ以外のものを捨てることを意味します。むつかしいようですが実はむつかしくないのです。信仰が与えられた時、そこに聖霊の働きも同時に起こります。聖霊が、私達のそれまで持っていたものへの未練や執着を、すべて取り払って下さるからです。パウロも言っています「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と。いつも共にいて下さるイエス様が、私達にも「主にのみ仕える」道を安心して歩いていけるようにいつも伴い、支えて下さいます。

*第三の誘惑「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。神は守り、支える。」

悪魔はイエス様に、高い所から飛び降りるよう勧めました。というのは、聖書には天使が支えるとの約束(詩編91:11-12)があるからです。悪魔は、あなたが神の子であるなら必ず聖書に約束されている奇跡(飛び降りても守られる)が起こるはずだから、神を信頼して、その奇跡を通して人々を導いたらどうだというわけです。イエス様のお答は、(申命記6:16)「あなた達の神、主を試してはならない。」でした。

 

*伝道の基本

1.神の言葉で生きる:私達の信仰と伝道は、御利益宗教ではないことです。伝道の先には、一人の人が、「新しくされて生きる」ことが待っています。この世の価値観から解放されて新しく生まれ変わることが出来る道が、すでに備えられているのです。

 2.主にのみ仕える:悪魔にひれ伏すことは、大きな見返りを手にするために聖書の言葉を曲げてこの世と妥協することです。悪魔は、巧妙に私達に近づいてきます。私達はいつも目を覚ましていなければなりません。

3.主を試してはならない:全知全能の神様には出来ないことはないのだから、きっと神様はこのように答えて下さるに違いない、と自己流の聖書解釈と信仰理解に陥って行動するようにささやく誘惑があります。  自分の信仰の確信を優先させて、御言葉通りになるように思うのは、主客転倒です。「わたしの願いではなく、御心のままに」です。(ルカ22:42)