2021年1月10日の説教要旨 ゼファニア書3章・マタイ福音書5:12

「讃美と喜び」    佐藤由子伝道師

*はじめに 

ゼファニア書は厳しい裁きの言葉で始まりますが、この3章も又、「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。」と、主に反抗する人々への叱責の言葉から始まっています。そして人々を導く役割を担う人々さえも神様に従わず、神様を信頼せず、神様に近づこうとしない、神様への反抗の罪を繰り返していることが記されています。私達の今の世界も、神様から遠く離れたところを歩いているように思います。神様が望んでおられる世界、神様が喜ばれる道を忘れてしまったかのような選択を繰り返しています。神様を畏れ敬う姿を、どこで見ることができるのでしょうか。

*罪の根源

罪とは神様に反抗することです。なぜ人間は、神様に反抗するのでしょうか。神様が与えて下さる日々が、私達の思い描く人生と違うからなのか。神様が忍耐して待ち続けて下さることに甘えているからなのか。もはや人々は、神様の声を聞くことをやめてしまったのでしょうか。

神様は、人々が神様を畏れ、戒めを受け入れることを期待して待ち続けておられます。それにもかかわらず人々は堕落を重ね、悪事を行いました。信仰は形だけとなり、人々の心も行動も神様からは遠く離れています。

*悪を裁かれる神

それゆえ神様は裁きを実行され、「わたしの熱情の火に(地上は)焼き尽くされる。」(3:8)と言われます。神様は人々に、何度も何度も警告してきましたが、人々はその警告を聞こうとはしませんでした。私達は神様の警告を聞いているでしょうか。私達は自分に起こる出来事だけではなく、世界に起こる出来事も、神様から人間への語りかけであることを覚え、その御心を問い、祈ることを忘れずにいたいと思います。私達は自らの悔い改めだけではなく、とりなしの祈りの使命も与えられているからです。

*わたしたちの祈り

 祈りは必ず応(こた)えられます。そして祈りの先にこそ、希望があります。「その後、彼らは皆主の名を唱え、一つとなって主に仕える」(9節)とあるように、神様は再び人々を聖め、人々は再び神様を礼拝するために呼び集められます。人々が犯した過ちも罪も赦されたのです。 

私達も罪が赦されて主によって新しくされる時、大胆に神様の前に近づいて良いのです。私達は再び主に礼拝を献げる者とされ、主を讃美することが出来るのです。もはや私達を おびやかす者は誰一人いません。神様ご自身が私達を招かれているのです。

*喜び叫べ。歓呼の声をあげよ。心の底から喜び躍れ(3:14)

 この言葉は神の民への呼びかけであり、教会への呼びかけでもあります。主に連なる者たちは、全身全霊で、全力で喜びなさいと語られています。この「喜びの源」となるものは何でしょうか。それは、「王なる主である神様が、私たちと共におられる」からです(15節・17節)。 

自分の置かれている状況が良くない時さえも、主なる神様が私達と共におられることを覚える時、私達は喜ぶことができるのです。この世界を創られ、全世界を支配しておられる神様が、全ての事に勝利を与えて下さる神様が、私達のただ中にいて下さる!ということにまさる喜びはありません。

*「喜びなさい。大いに喜びなさい。」(マタイ5:12)

本日の福音書でも、喜びなさい。大いに喜びなさい。と、喜ぶことが強調されています。イエス様に従うということは必ずしも良いことだけではなく、従うがゆえの苦しみも又、あります。しかし、その苦しみや迷いの中にあっても、天に目を向けて生きる時、私達は喜ぶことができます。そして私達がイエス様に従う道を選ぶ時、私達の報いは、この地上ではなく、天に用意されます。私達は、毎週の礼拝において、この恵み、この約束の み言葉を覚えて、大いに喜び、神様を讃美し、ほめたたえたいと思います。そして、主を喜ぶことで力を受けたいと思います。主なる神、王なる神様が私と共にいてくださる。・・これは奇蹟以上のことです。 今週も、御言葉に励まされて、主の約束に期待して、大いに喜び、共に祈りつつ歩んでまいりましょう。