2022年1月9日の説教要旨 詩編36:6-10・マタイ福音書3:13-17

「天 が 開 く」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

(イザヤ書40:3)の、「荒れ野で叫ぶ者」として神様が用意された人でした。人々に、力ある方・イエス様が来られることを宣言しています。「天の国・神様の国が近づいた」・・この預言的な言葉は、神様がまさに訪れようとしていることを告げて、神様を受け入れようか、受け入れまいかと考えている余裕がないことを意味しています。バプテスマのヨハネは、人々に、罪を悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと、ヨルダン川で洗礼(水につかり身を清め、心を新たにする)を授けていました。

マタイ福音書3章始めには、バプテスマのヨハネが荒れ野で宣教を始めたことが記されています。ヨハネは、預言者イザヤによって預言された『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。

*水で清める

私達日本人にも「水で清める」という風習や考え方があり、神社やお寺に入る前に手を洗ったり、滝に打たれたり、みそぎなど自分の身を清める行為を思い浮かべます。旧約聖書には、エゼキエル書36:25に、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかける時、お前たちは清められる」とあり、人々が過去の行ないから新しい心、新しい霊を持つために、祭司がヒソプ(オレガノに近い低木「マヨナラ・シリアカ」と呼ばれる)に水を浸して、汚れた者にふりかけ、人々の身を清めています。

*イエス様の洗礼(バプテスマ)

ヨハネは人々に水で洗礼を授けているけれども、ヨハネの後から来る方は、ヨハネよりも優れているとヨハネは語っています。イエス様がヨハネのもとに来たのはヨハネから洗礼を受けるためでした。ところがヨハネは「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所へ来られたのですか。」と、イエス様の申し出を強く断りました。自分は、神の子イエス様に身を清める儀式を行うことが出来るような者ではないと思っていたからです。しかしイエス様は、はっきりした目的をもって来たことを伝え、「今は、止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と告げました。イエス様は洗礼を受けられると、すぐに水の中から上がりました。「その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」と言う声が、天から聞こえた」(16~17節)。

このことは私達自身にも起こることを教えようとしているのかもしれません。私達がイエス様を救い主として受け入れ、私達の口からその信仰を言い表した時、「神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ福音書15:10)のです。

*バプテスマのヨハネとわたしたち

ヨハネはイエス様と出会った時、自分の使命、宣教の働きが終ったと考えたかもしれません。けれどもヨハネは、イエス様の言われる通り洗礼を授けました。神様の正しさを行う時、私達にも同じようなことをなさる時があります。私はかつて教会で讃美リーダーとして奉仕をしていましたが、まだ20代でしたので、讃美の導き手として奉仕する恥ずかしさ、怖さがありました。しかし回を重ねる内、自分に集中することから会衆へと目を向けられるようになり、神様の霊の働きにも気を配ることが出来るようになっていきました。神様を感じる体験をしたのです。

神様はどんな時も、私達が悩んだり困ったり、人前で何か大きなことをする時など、時にかなった色々な形で私達の中に現れて下さり(時に身近な人を通してなど)生活の中でかかわりを築いて下さいます。本日の詩編「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ」「命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたし達は光を見る。」)と歌ったダビデは、神様が絶えず、神様の霊をダビデに注ぎ続けて下さることに感謝の心で、神様のまことの光を、その霊の注ぎかけの中で見た(感じた)告白をしたと思います。私達が神様の真理、神様の存在、神様の霊の中に入る時、憩う時、私達にとって神様は尊く計り知れないお方として礼拝する、感謝する、愛することが出来ると思います。