ヨシュア記1:1-9 使徒言行録2:1-11
はじめに
私が、この伝道所を離れ、神学校に入学したのは、2009年4月でした。あれから今年で、丸9年の月日が流れました。この9年は、伝道所にとっても、私にとっても一筋縄ではいかない月日だったと言えるでしょう。しかし、この9年という期間は決して、無意味に放り出されてきた期間ではなかったことを思い起こします。それぞれの歩みには いつも、その傍らに、私達の主なる神様が共にいてくださいました。今日は、ペンテコステですので、あえて力を込めて申し上げたいのは聖霊なる神様が共にいてくださったということです
聖霊なる神様とは何か
聖霊なる神様とは何か。これは、聖書においては「風」にたとえられます。「風」は目に見えません。しかし、私達は木々が揺れ、その音を聞くときに、その木々を揺らしている「風」の存在があることを知ります。「風」があるからこそ、雲は動き、気候は変動し、季節が生まれます。このように、目に見えない「風」は、実は、私達の生活の何よりも身近で、必要不可欠なものです。「聖霊なる神様」とは、まさにこの「風」のようなものです。目には決して見えないけれども、私達一人一人の命を支え、そして、この伝道所の歩みを昔も今も、これからも支え導くものです。私達の人生そのものもまた、たった一人で、この世界に放り出されているのではありません。風が吹き続けているように、私達一人一人の人生にも、聖霊なる神様が深く関わり続けてくださっているのです。9年間を振り返れば、息切れするような出来事も多くありましたが、今、私達は、今日ペンテコステの日、共にここに集っています。聖霊なる神様は、この日まで確かに私達一人一人を守り導いてくださいました。既に天に召された兄弟姉妹もまた、今、私達よりも確かな仕方で、聖霊なる神様の御手の中で安心して眠りについていることを覚えます。私達は誰一人、神様の御手の中からこぼれ落ちている者はいません。この恵みのうちに、今日という日があるのです。
聖霊降臨を待つ
聖霊なる神様の存在が確かにこの地上に現れた日。そのときに、この地上にキリスト教会が誕生しました。ですから、聖霊降臨を祝うこのペンテコステという日は、私達キリスト教会の誕生日でもあります。そのときの光景が、今日与えられた聖書の言葉の中に書かれています。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1)
使徒言行録1章3節-5節で、主イエスは、十字架上で亡くなった後に、御自分が生きておられることを数多くの証拠をもって使徒達に示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話され、こう命じられたとあります。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(4節-5節)
だから、弟子達は、復活の主イエスの約束「父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい」という言葉を聞き、聖霊が自分達に降るときを待ち、祈っていました。主イエスは、その約束の後、復活から40日後、天に昇ります。その後の五旬祭までの10日間、弟子達一人一人がどんな思いで約束された聖霊を待っていたのかは記されていません。しかし、例えば、使徒言行録1:13-14を読むと、「熱心な祈り」がそこにあったことは確かです。ここで言われていた「彼ら」とは、主イエスを裏切ったユダを除く11人の弟子達です。聖書はきちんと弟子達の名前を記しており、このことには感慨深い思いがいたします。しかも、彼らはただ祈っていただけではありません。同じ書(使徒言行録)1章17節以下では、先述のユダ(主イエスを裏切ったために、自らの命を絶った弟子)の役割を引き継ぐための12番目の使徒マティアを選出しています。祈り、自分達のするべきことをし、主イエスの約束を待つ。ここに、私達教会の原型があると言っても過言ではありません。
キリスト教会
私達教会も、この10日間の弟子達と似ています。神様の約束されたものを待ち望みながら、そして祈りながら、自らの教会が与えられた役割を担っています。最初の聖霊降臨日後には、十字架を前に逃げ去った弟子達とは思えないような、力強い弟子達の姿があります。しかし、ここで大切なことは、それで教会が教会として建っていくわけではないということです。弟子達がいくら約束されたものを待ち望み、熱心に祈り、するべきことをしたところで、それは単に人間の集まりに過ぎません。
そこには風が吹いていません。命がありません。ですから、過越祭から50日後、聖霊降臨がこの日起こったことは紛れもない教会の誕生日です。弟子達に約束された聖霊が降る。ここから、教会はキリストのからだなる真の教会として建っていくのです。五旬祭の日に、弟子達はエルサレムに集まっていたユダヤ人達の故郷の言葉を話し出します。それは、弟子達の言葉、教会の言葉が、神の言葉として確かに人々に行き渡っていく姿を示しています。私達教会もそうなのです。私達がこの場所で語り続け、解き明かし続ける聖書の言葉が、人々に届かないということはないのです。なぜなら、私達は今、ただ人間的な集まりによって、一つになっているわけではないからです。この群れと共に、聖霊なる神様がいてくださり、この群れには、命の風が今吹いている。
そうであるなら、この教会を通して語り続けられている主イエス・キリストの福音は必ず、人の心に届き、その人を救いに導きます。私もこの教会の語る言葉で福音を聞きました。その証人の一人です。私以外にもいるでしょう。使徒言行録には主イエスが登場しません。主イエスの弟子達、使徒達の姿だけがピックアップされているような印象を受けます。しかし、よく言われるのは、この使徒言行録とは、聖霊なる神様と共に、教会が歩んだ姿を証しするものだということです。聖霊なる神様が共にいるからこそ、教会は教会としてこの地上にあるのです。教会があるところに神様がいるのではありません。聖霊なる神様がいるところに教会がある。ですから私達の教会も、聖霊なる神が今共にいてくださるからこそ、今日ここに教会として存在しているということができるのです。主が必ず、この群れと共にいてくださるのです。
キリストを囲む群れ
先日、日曜日の午後に、この仙台南伝道所を訪れ、仙台に来た挨拶をしました。その日は、仙台南伝道所は平賀牧師を含め礼拝出席者が7名だったということでした。ここ数年の中でも出席者が少ない日曜日で、ちょうどそんな日に私が来たので皆さんが より一層喜んでくださったのでしょう。私は家に帰ってから改めて、最初の弟子達もまた、ガリラヤで召されたシモン・ペトロ、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの4人、そして招いた主イエスだったことを思い出しました。教会は数や規模ではありません。主イエスが真ん中にいてくださり、その周りを囲むように、人々が集まるところ。それが教会です。私達も今日、主イエスが真ん中にいるその教会へと招かれています。私達に聖霊が降ることを約束してくださった主イエスは、私達罪深い者のために、その命を十字架で捨ててくださった御方です。神様に背き続ける私達が、しかし、今や、ひとり子イエス・キリストがその命をささげるほどに愛されているかけがえのない存在とされているのです。今ここに集うすべての人が、この恵みへと招かれています。教会は今あなたにも神の愛が訪れていることを告げ知らせます。その言葉は必ず一人一人の心に届きます。ガリラヤ出身の弟子達の言葉を聞いた人々はこう言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒2:11)。エルサレムにいたユダヤの人々は、信心深かったのかもしれませんが、キリストを救い主とは考えてもいなかった人々です。しかし、その人々がキリストの十字架と復活を「神の偉大な業」として受け取りました。弟子達の言葉が、単なる人間の言葉ではなく、神の言葉として伝わったのです。私達もまた、この時代、すべての人に、この神の偉大な業である主イエス・キリストの十字架と復活を伝えます。その言葉は、聖霊なる神と共に歩む教会の言葉であるゆえに、神からの愛の言葉として、必ず、人の心に届きます。この9年間の歩みを共に感謝いたしましょう。そして、今日、私達は再び、ここから、聖霊なる神様と共に、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える歩みを始めます。 以上