2021年9月26日の説教要旨 コヘレト3:10-13・Ⅱテサロニケ3:6-13

「働くことの意味」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 旧約聖書のコヘレトの言葉は、人生について全てのものは無意味(むなしい(1:1)という、印象深い言葉で始まります。この「むなしい」を元の言葉や別の翻訳聖書で見ると、「いっさいは空(くう)」という言葉が用いられ、大空を示しているのが分かります。私達が地上から見る空は、はるかに広がる空間で実体がなく、「空」という存在があるだけです。コヘレト書の作者は、このような空という言葉を用いて、人は労苦して生活しているが、その結果、獲得する確かな利益を持つことがない。人は生きるために労苦して得たものを守り続けたいが、労苦の末に死に、次々と世代が変わり、無常の世界になっていると語っています。これは、神様のことを理解させるため、神様を信じない人達にとって苦しみや悩みが、どれほどまでに希望の持てない人生になっているのかを描き出しているように思えます。そして続く12-13節では、「人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ」と、言い「人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは神の賜物だ」と、言っています。

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)

 本日の3章には、私達では変えられない「神様が支配する定まった時や季節、計画」があり、私達生きる者は、神様が定めた時の支配から逃れて違う方向へ行くことはできないことが記されています。 2節以下には、「生まれる時、死ぬ時、植える時、抜く時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、黙する時、語る時、・・・」とあって、これらは、神様が定めた時、神様が良しとされた時であり、私達の今いる所で起こり得る出来事です。

神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り」(11節)

この元の言葉では「神の行なうことは、そのすべての時の中で美しい」と訳せます。私達の生活の中で起こるすべてのことが、「神様のなさる業(わざ)は美しい」と思えるには、私達が神様を知り、神様の存在を体験し、神様との良き関係の中で思い、感じられることですから、私達が神様に絶対的な信頼で信じることが土台となって生まれる感情だと思います。私達は、自分に与えられる様々な試練や体験・経験から、果たして、本当の神様を見出だし、全てのことを「神様の時」として捉(とら)え、体験している多くを「美しい」と感じることが出来ているでしょうか?

 神様に絶対的な信頼を置くことは、時には痛みを伴い心が折れそうな時もあるでしょう。しかし私達がどのような態度、選択、行動を取ったとしても、神様は、私達の内から、心から離れることはなさいません。なぜなら神様は私達に、神様を知る者としてすでに心の中に宿り、私達に生きる力を与えて下さっているからです。

*テサロニケ教会の人々の信仰

 テサロニケ教会の人々は、信仰においても、愛(特に兄弟愛)においても、主の再臨の待ち望みにおいても、マケドニヤ州とアカイヤ州にいるすべての信者の模範的な教会となっていました。これらの信仰、愛、希望の三つは、教会を教会たらしめる特別なものであり、信徒達がイエス様の身体の一部として働き、神様のご栄光をこの地上に輝かせています。

*しかし・・

教会内には、神様を信じると言いながら信仰が伴なわず、この良き働きを邪魔する人達がいました。彼らは怠惰な生活をし、働かず、余計なことをしていました(3:11)。パウロは彼らに、自分で得たパンを食べ、落ち着いて仕事をするように(同12)、働きたくない者は食べてはならないとも言っています(3:10)。そして信徒達には、そのような怠惰な者達を避けて(同6)、たゆまず善いことをするように(3:13)、又、彼らを敵とみなさず、兄弟として警告するように、と教えています。

*わたしたち

働く神様(ヨハネ5:17)は、私達に、神様にすべてを委ねて信頼することを望んでおられます。そして私達が神様に信頼することで、労苦によって与えられる満足は神様の賜物であることを受け入れることが出来ます。私達が行き詰まった時、信仰を失いかけた時、すべてに神様の定められた時があることを感謝しつつ共に歩みを進めて参りましょう。