11月12日の説教要旨 「だれに どう 仕えるのか」 牧師 平賀真理子

歴代誌上29:14  ルカ福音書16:1-13
*はじめに
今日の新約聖書箇所は、解釈が難しい所として有名です。人間的な解釈だけに頼っていれば、です。ところが、イエス様の父なる神様に対する姿勢と、この箇所の前後で語られていることを合わせて考えると、それほど難しくないと導かれました。導かれたままにお伝えしたいと思います。
*イエス様が証しされた「神様」の真の姿(直前の15章で語られたこと)
今日の箇所の直前の15章で、イエス様は3つの例え話を用いて、天の父なる神様が、御自分から離れて道に迷う人間を見出したい、直接つながって御許で祝福したいと望んでおられると証しなさいました。イエス様は神の御子なので、憐れみ深い御父の真の姿を伝えることができるのです。
*主人に損失を与えて解雇される寸前のダメな「管理人」
今日の箇所の例え話の「ある金持ち」「主人」は「神様」を、また、「不正」と言われる「管理人」は「私達人間一人一人」を例えていると思われます。神様から持ち場を与えられているにもかかわらず、人間は、神様から見れば「不正」と言わざるを得ないような働きしかできていないと最初に示されています。そして、その姿が神様に知られてしまい、クビになる状態に追い込まれています。そんな切羽詰まった状態でも、この「管理人」は自分の知恵の限りを尽くして、クビになった後の居場所作りを画策します。「管理人」と例えられる人間は、「主人」である神様に元々損をさせている上に、更に、主人への損失を増す方法でしか、自分の生き残りを図れない、本当にダメな存在として描かれています。徹頭徹尾、自己中心のままです。
*ダメな「管理人」を神様は褒めてくださった!
ところが、そんなダメな存在の人間に対して、神様はほめてくださったのです!この「管理人」は自分の賜物(能力)=「管理人の仕事(単なる管理だけではなく、その家の事業の経営や雇人の人事など、大きな責任を伴ったもの)」を、解雇された後の自分のために使いました。その結果として、負債者達は負担を軽減してもらったので、自分にに恩義を感じ、後に恩義を返してくれるようになるとこの「管理人」は計算したからです。
*憐れみ深い父なる神様
人間の常識的な考えでは、この「管理人」の行状は、不正に不正を重ねた、決してほめられないものです。ところが、イエス様が証しする「神様」はそうではありません。主人の権威や権力を盗んででも、自分の居場所を作ろうとする、この「管理人」の「抜け目のないやり方」を賢い!とほめています。切羽詰まった人間が知力を振り絞って生き抜こうとしている、その姿を、御自分の損失は脇において、憐れみ深くみてくださる、神様はそのような御方であることを、イエス様は良くご存じだったのです。
*「お金や富」を賢く用いる知恵への評価
「不正にまみれた富」とは、犯罪などで不正に儲けた富という意味ではありません。この原語を直訳すると、「不正のマモン」という言葉になり、それは、この世で力を持つ「お金や富」を客観的に表現しているそうです。今日の箇所の1節にあるとおり、イエス様はこの話を弟子達に向かってなさいました。イエス様の十字架と復活の後には、弟子達がこの世で伝道をして福音を広めていく使命があります。弟子達は、この世で「不正」と言われるお金や富を、神の光を受けた「光の子」として、この世の人々以上に賢く用いる必要があり、弱い立場の人々の負担を減らして その人々が
友達(味方)になるように利用する知恵を持つことを勧めておられます。
*弱い立場の人々への眼差し
ルカ福音書の特徴の一つは、弱い立場の人々への施しや援助を大変重要視していることです。人間が神の国に入れるか否かは、神様だけが決定なされることですが、生きている間に弱い立場の人々を助けた場合、その助けた人が神様の裁きを受ける時に、その人から恩恵を受けて先に神の国に入った人は、助けてくれた人について証言したり、なにがしかの力添えができると当時のユダヤ人達は考えたようです。だから、負債が多いという弱い立場の人々の負担を減らした「管理人」は、「永遠の住まいに迎え入れられる」という恵みをいただけるとイエス様も表現なさったのです。
*イエス様の父なる神様に全身全霊で仕える
10節では、「ごく小さな事に忠実な者にこそ、大きな事を任せられる!」と教えておられます。「ごく小さな事」とは、「不正にまみれた富」(11節)や「他人のもの」(12節)と同じだと読み取れます。この世のこととも言い換えられるでしょう。そうすると、反対の「大きな事」「本当に価値あるもの」(11節)「あなたがたのもの」(12節)とは、憐れみ深い神様がイエス様の弟子達に賜るものすべてであり、もっと限定すれば、神の国の民としての大事な役割=福音伝道と言えるでしょう。最後の13節でイエス様は弟子達にだれに仕えるかの再確認をなさいました。「主の弟子達とは、この世の人々以上に持てる力すべてを用いて、神様に仕える者達」なのです!