2020年6月28日の説教要旨   エズラ記 7:25-26・マルコ福音書6:1-6a

「まことの神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

 律法学者であり祭司であるエズラは、神様に全き信頼をおいた人物です。

紀元前458年頃、エズラは、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民と共にエルサレムで、再び神の律法の書(トーラー)を拠(よ)り所とした新しい信仰共同体を形成するために貢献しました。

*バビロン捕囚

神様がイスラエルの人達を「捕囚民」とすることを許した理由は、彼らがまことの神を忘れ、異教の神を彼らの神としていたからです。もし彼らが捕囚の地バビロンへ行かなかったならば、「本当の神とは誰か」を思い起こすことが出来なかったのでしょう。神様は、イスラエルの民が、再び心を尽くして真の神様を捜し求め、神様を知ることで彼らの信仰が立ち直ることを願われたのです。 

神様は、「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。わたしは捕囚の民を帰らせる。

(エレミヤ書29:12-14)と約束されました。イスラエルの民はバビロンにおいて苦しみ、嘆き、自分達のしてきた数々の罪を悔い改め、神様と神様の言葉(律法の書)を求めるようになりました。「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩篇1:2)になったのです。神様から離れてしまった民は再び神様に従う民へと変えられて、神様の約束は実現したのです。

*エズラ

エズラ記7:6に「主の御手が彼の上にあった」、7:9に「神の恵みの御手が確かに彼の上にあった」とあり、28節に「わたしの神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私と一緒に上るイスラエル人のかしらを集めることができた」とあります。エズラには絶えず主が共におられたことが分かります。エズラは神様の律法を調べ、この律法をイスラエルの民に実行させるためには教育的事業が必要であり,神様はその為に必要な人材をも備えて下さったのです。エズラの歩みを通して,すべてが「神様の時に、神様の方法」でなされていくのを知ることができます。

*故郷でのイエス様 

本日の新約聖書は「イエスはそこを去って故郷にお帰りになった」と始まるので「そこ」とは、前の、神様の業がなされた場所(出血の止まらない女性の癒しと、会堂長の娘を甦らせた奇蹟)を指し、神様の偉大な力が示された場所です。イエス様は安息日に、故郷で会堂に入り、教え始められました。会堂に集まった多くの人々は話を聞き、「この人はこのようなことをどこから得たのか、この人に与えられた知恵や、手で行われる力あるわざは、一体何か」と驚きました。けれども人々は、イエス様を「この人」と呼び、イエス様を「神の子」として信じることが出来ない様子が伺えます。特にイエス様が大工の息子で兄弟や姉妹がいることも知っていたので、同じ人間としてしか見ることが出来ませんでした。イエス様が自分達の上に立つ事に納得がいかなかったのかもしれません。

*わたしたち

私達がイエス様を、どのようなお方として向き合うのかということはとても大事なことです。主を待ち望みつつ向き合う時には御言葉に触れ、讃美し、祈る時、心の中から大きな感動がわき起こり、押さえようもない喜びで一杯になります。しかし自分の考えや経験、知識だけによって聖書を読むならば、神中心の生活は退屈っぽく、正当性を求めるだけのつまらないものになってしまいます。世の中すべてのものが自分の努力次第で手に入れられるように思えてきます。かたくなな心のままでは主に出会うことができません。 イエス様は、私達の生活のあらゆる面で今も生きて働いておられるお方です。周りの人々、周りで起こる出来事や世の変わり方を、御言葉を通して見ていく時、生きて働いておられる世の救い主としての主イエス・キリストに出会うことが出来ます。私達は、主が働いていて下さる礼拝で、さらにイエス様の声に耳を傾け、神様の愛を溢れるほど受けて、聖霊による豊かな喜びで満たされるよう、共に祈り求めていきましょう