7月26日の説教要旨 「新しいもの」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:31-34・ルカ福音書5:33-39

 はじめに

イエス様は「レビ」という「徴税人」を弟子になさいました。当時のユダヤ人達は、「徴税人」を大変嫌っていました。仲間から税金を取りたて、異邦人達に渡すという罪深いことをしていると考えたからです。ユダヤ教指導者達(ファリサイ派と律法学者達)も、「徴税人」を救おうとは考えず、彼らの汚れが自分にも移ることを避けるため、彼らと同席しませんでした。ですから、神の御力をいただいていると噂になっている「ナザレ人イエス」が、罪深い「徴税人」の「レビ」を弟子にしたのは、ユダヤ教指導者達には受け入れがたいことでした。まず、彼らは、「罪人」(「徴税人」を含む)と同席することを裁こうとしました。一方、イエス様は「救い主としてこの世に来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるため」と答えられました。恐らく、この答えを聞き、彼らは、「罪人を裁くのではなく、悔い改めに導く」ということが、自分達の姿勢に足りないと気づかされたのではないでしょうか。主の御言葉は、人間の本来のあるべき姿を問うものです。ユダヤ教指導者達は反論の余地が全くなかったのです。

 「悔い改め」32節)という御言葉を受けて

当時のユダヤ人達は、「悔い改め」という言葉から、ある人物を思い出しました。「洗礼者ヨハネ」です。イエス様の宣教活動開始の前に、人々に「悔い改め」を激しく迫った人物です。洗礼者ヨハネとその弟子達は、当時の人々が宗教的だと考えていた「断食」や「祈り」に熱心でした。一方、イエス様とその弟子達は、人々の前では、「罪人」達と「飲んだり食べたり」している姿が印象づけられていました。しかし、イエス様は、「断食」や「祈り」を決して軽んじられたわけではありません。宣教活動の前に、40日間の断食をされました(4:2)。また、人里離れた所で祈られた(5:16)等、いつも熱心に祈られていたことは福音書に度々書かれています。

 「花婿」=「救い主」

ユダヤ教指導者達の「イエス様一行が断食せず、飲み食いしている」という非難に、イエス様は例えで答えられました(34-35節)。「花婿」とはユダヤ人が待ちに待っていた「救い主」のこと、つまり、イエス様のことです。救い主がとうとうこの世に来てくださり、人々が喜んで集うことが「婚礼」であり、「婚礼の客」とは「救い主を喜んで受け入れて信じる人々」です。喜びの宴会では、人々は喜んで飲食します。愛する民と共に居ることを喜ぶイエス様=「インマヌエルの神」(マタイ1:23)とその一行(弟子達)も共に飲み悔いするのは当たり前だと言われたのです。主は「救い主がこの世に来て、人間として共に生きておられる」、それが本当に大変な恵みの時であることを知らせようとされています。同時にまた、救い主がこの世から奪い取られる時が来ることも告げられました(35節)。これは、「十字架」による死の予告であり、主の死後、人間が悔い改めの断食の時を過ごすようになることを知らせてくださったものです。

 新しいものは新しいものに!

イエス様を「救い主」として受け入れて信じることで救われるのが、エレミヤ書31:31にある「新しい契約」と言えるでしょう。そして、律法を守るということで救われるというのが「古い契約」であり、ユダヤ教指導者達が教えていたものです。イエス様がもたらした福音を信じる「新しい救い」は、律法を死守するというユダヤ教の「古い救い」に引き継がれるのは、むずかしいことだろうとおっしゃっています。(後の時代の私達は、まさしく、そのようになっていることを知っています。)

 主によって「新しい救い」に招かれた私達

「布切れ」や「葡萄酒」と「革袋」の例えも、古いものが、その古さ故に新しいものを受けとめ切れないということ、つまり、新しいものを受け入れられるのは新しいものだということを教えておられるのです。そして、イエス様一行を非難してきたユダヤ教指導者達に対して、御自分の「新しい救い」を彼らが受け入れるのはむずかしいだろうと予告されました。それが39節です。それまでになじんできた「古いもの」(古い「救い」)の方がよいとして、「新しいもの」の良さを認めず、「古いもの」に留まる心地よさを捨てられないという人間の頑なさを、主は知り抜いておられるのです。イエス様は、弟子達を、漁師や徴税人といった「古い救い」の中では軽んじられた人々から新しく選ばれました。そして、同じく軽んじられた「異邦人」の中に、私達もいました。憐み深い主の御心によって、私達は、「新しい救い」を受け入れる者として招かれているのです。