8月2日の説教要旨 「安息日の主」 牧師 平賀真理子

サムエル記上21:3-7・ルカ福音書6:1-5

 はじめに

イエス様はガリラヤ地方やユダヤ地方やその周辺を巡って、福音を広める旅を続けておられました。神様のお話や神様の御力をいただいた癒しの御業によって、神様の支配がこの世に始まったことの素晴らしさを人々に知らせてくださっていました。

 ある「安息日」の出来事

福音宣教の旅のある日、弟子達が通りすがりに麦の穂を摘み、食べました。これを、イエス様一行を偵察していたファリサイ派の人々が責めました。現代の私達なら「盗み」という罪状だろうと想像する方が多いでしょう。しかし、そうではありません。通りすがりに、手で麦の穂を摘んで食べるくらいは許されていました(申命記23:26)。問題は、この出来事が「安息日」に起こったことです。ファリサイ派などユダヤ教の指導者達は「安息日」の決まりとして、労働を禁じていて、弟子達の麦摘みは、収穫という労働をしたので律法違反を犯したというわけです。

 当時の「安息日」の決まり

ユダヤ教指導者達は、神様からいただいた「十戒」を守ることが大事と人々に教えていました。特に「安息日を守る」ことについて、人々の生活に合わせた具体的な細かい決まりを作り、形式的に守らせることに留意しました。安息日に、仕事をすることはもちろん禁じられましたが、それ以外に、火を起こして料理したり、長い距離歩いたりすること等も労働として禁じられました。そのような規定が200以上あったそうです。

 「安息日」の本当の目的

旧約聖書に「十戒」は2か所に書かれています。出エジプト記20章と申命記5章です。その中の一つ、「安息日を守る」ことについては、この2か所それぞれで違う目的が書かれています。「出エジプト記20章」では、11節に、神様が六日間で「天地創造の御業」を終えられた後の7日目に休まれたと明記されています。このことを覚えるために、人間も同じように、仕事を六日間した後の七日目に休むことが必要とされたのです。一方、「申命記5章」では、エジプトで奴隷だった人々の苦しい叫びを神様が聞いて、歴史に働きかけて救い出してくださったことを想起するために安息日を守る必要があるとしています。「安息日」は、人間を造って愛してくださる神様、罪に陥った人間を救うために実際に働きかけてくださる神様に感謝を献げるためにあります。そして、神様の御心に従って初めて、人間は心から安息できるのです。

 「安息日規定」より優先されるもの

「安息日」の本来の目的から外れた所で、「安息日」の外面的な細かい規則を守らせることに躍起になっていたファリサイ派の人々に対して、イエス様はお答えになりました。イエス様がお生まれになった時代より更に1000年程前に、ユダヤ人達が一番栄えた時のイスラエル王国のダビデ王の行動(サムエル記上21:3-7)を思い起こさせるものでした。「ダビデ王」はユダヤ教指導者達が尊敬する人物の一人でしたから、ダビデ王とその一行が祭司しか食べてはならないと律法で定められたパンを食べるという違反を犯したという出来事を示すことは有効でした。ダビデ王は、非常時において律法違反をしていたけれども、神様の栄光のために働き続けて神の祝福を受けた人物として記憶されていました。イエス様は決して律法を軽んじられたのではありませんが、非常事態には、律法よりも優先されるものがあると言われたのです。それは神様の御心に適った働きをすることです。「救い主」であるイエス様がこの世で「救いの御業」をなさることこそ、神の御心に適った働きです。そのイエス様の弟子達が、福音伝道の旅の途中で、たまたま安息日に空腹になって、収穫という労働をしました。それは「安息日規定」では違反ですが、それだけで弟子達を非難するというファリサイ派の人々の考えは、神様の御心を優先していない点で、律法の本来の目的から外れています。律法の外面的な決まりよりも、律法の核心にある「神様の御心」に適う御業のために働く弟子達が優先されるとイエス様は教えておられるのです。

 「安息日の主」

イエス様は「人の子は安息日の主である」とも言われました。「人の子」とは「救い主」である御自分のことを暗示するときにイエス様が使われた言葉です。当時の指導者達がすべてに優先するとした「安息日規定」の権威よりも、「救い主」の権威が上であることを宣言されています。イエス様は、最高の権威を持って、私達一人一人の「救い」と本当の「安息」を保証してくださる御方です。

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