8月9日の説教要旨 「神の御心と律法」 牧師 平賀真理子

ホセア書6:4-6・ルカ6:6-11

 はじめに

イエス様がこの世で宣教の旅をなさっていた時代には、ファリサイ派と呼ばれる人々や律法学者と言われる人々が、ユダヤ教の指導者として、人々の生活を導き、「先生」として尊敬されていました。この指導者達は自分達は神様から選ばれて「律法」というものをいただいていると教えていました。その「律法」の中心に「十戒」というものがあります。これは、「モーセ」を通して神がイスラエルの民に与えた教えです。「十戒」は旧約聖書の「出エジプト記20章」と「申命記5章」の2か所に記されています。十の教えの内、この時代には、「安息日を守りなさい」という教えが特に大事にされるようになっていました。旧約聖書から読み取ると、安息日を守る目的は二つです。一つは、神様が六日間でこの世を造り、七日目の日に安息されたという「天地創造の御業」を覚え、この日を聖別することです。もう一つは、奴隷として苦しんでいた民の叫びを神様が聞き届け、実際にこの世に働きかけて、民を救った事実を「安息日」に思い起こして感謝を献げるためです。ですから、「律法の核心」は、「神様の人間への愛」です。それは、「自ら罪に陥った人間を見捨てず、絶対に救う」という「無条件の愛」です。「神の愛」に感謝するために「安息日」があるのです。安息日の礼拝で感謝すると共に、いただいている「神の愛」にふさわしい生き方ができるよう、神様に祈り求めるのです。

 反対派(ファリサイ派や律法学者達)の目の前での癒しの御業

しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、前述の「律法の核心」を忘れ、安息日の外面的な細かい決まり(「安息日規定」)を守ることを強調して教えていました。安息日規定では、治療は労働と見なされて禁止されていました。命に関わることは例外ですが、「手の萎えた人」の治療は緊急事態ではなかったので、翌日に延期することが普通でした。ところが、イエス様は、神の御力を信じて癒して欲しいと心から願って御許に来た人を、「憐れみ」ゆえに待たせずに、すぐに癒されました。しかも、イエス様を訴えようとする反対派の真ん中に彼を立たせて堂々と癒されました!

 安息日に、反対派が「神の御心」を外れて行ったこと

癒しの御業をなさる前に、イエス様は反対派の人々を放っておくのではなく、問いかけをなさいました。彼らは恐らく安息日の礼拝の後だったにもかかわらず、人の落ち度を見つけようという心根で、事の成り行きを見つめていました。神様に献げる礼拝の後とは思えない、心得違いです。イエス様は、彼らの考えや行いが、神様の御心に適っていないと気づかせたかったのではないでしょうか。

 「全き善」であり、「命を与える」神様

安息日に律法で許されていることを問うイエス様の御言葉(9節)は、反対派の人々から答えをもらいたいのではありません。彼らが「律法の核心」に立ち返り、「全き善なる神様」・「命を与える神様」の御心を思い出させようとされるものです。彼らの答えを待つ必要もなく、「救い主」として、イエス様は「手の萎えた人」を癒して、苦境から救い出されました。イエス様は、安息日であろうとなかろうと、御許にやって来た人を憐れみ、命や御力を与えてくださるという「全き善」を、神様の御心どおりに行われました。

 「怒り狂った」反対派の人々

反対派の人々は、イエス様に出会い、イエス様に御言葉をかけられ、救いの御業を目の当たりにしました。「救いの御業」をたくさん受けていると言えるでしょう。ところが、彼らは、イエス様の「救いの恵み」に触れていながら、イエス様に従うどころか、背を向け、イエス様を亡き者にする謀略を練る方向へ走り出してしまいました。その果てが「主の十字架」です。「怒り狂う」という語の元々の意味は「無理解からくる怒りで満ち満ちて」というものです。自分達の考えや権威にしがみつく「自己中心の罪」によって、「救い主」の招きから外れ、罪を重ねる結果になっていったのです。私達は反対派のようになってはなりません。

 神の御心に従って「安息日」を守る

「律法の核心」について、イエス様は、ルカ10:25以降の「善いサマリア人」の箇所で、「全身全霊で神様を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」であると教えておられます。私達の場合で言えば、日曜日ごとの礼拝で、神様に感謝し、神の愛に応える生き方ができるように祈ることが大事です。また、救い主の恵みにより、永遠なる「安息」をいつもいただけるのですから、礼拝の日であろうとなかろうと、常に隣人を愛することができるよう、祈り続けたいものです。