9月6日の説教要旨 「平地の説教①-幸いと不幸-」 牧師 平賀真理子

詩編107:1-9・ルカ福音書6:20-26

 はじめに

今日の説教題は「平地の説教①」で、イエス様が使徒を選んだ後に山を下りて平らな所に立たれた(17節)ので「平地で教えた御言葉」と捉えられています。また、有名な「山上の説教」(マタイ5章~7章)とよく比べられたりします。今回は、ルカ福音書の記述を基本に読み進めたいと存じます。

 目を上げ弟子たちに向かって

「平地の説教」の前の20節「イエスは目を上げ弟子たちを見て」に注目します。神様がおられるとされる「天」に目を上げたのは、イエス様が父なる神様の御心を思って御言葉を語ろうとされたことの表れだと思います。また、「平地の説教」は、イエス様に従ってきた弟子達に向かって語られたことも忘れてはならないことです。

 「貧しい人々は、幸いである」

「幸いと不幸」の御言葉は大きく2つに分かれます。20節後半から23節までと、24節から26節までです。前半が「幸いである」、後半が「不幸である」ことについての御言葉です。「幸いである」とは、一般的な幸福感とは違います。「神様から祝福された状態」、「神様の御心に適った状態」であることです。また、「貧しい人々」の「貧しい」という言葉は、「恐れて縮こまる」という意味を持つ言葉から生まれたので、経済的に貧しい人々だけを指すのでなく、この世で委縮して生きるように強いられている「社会的弱者」をも含んでいると考えられます。彼らこそ、神様から祝福された状態にあるとイエス様はおっしゃっています。この世から恩恵を受けていない人々こそ、「神の国の民」となる恵みがよくわかる状態にあり、この世に従うのでなく、神様の御心に従えるとの望みを語っておられます。

 「今」

20節の「貧しい人々」がどういう状況かを説明するため、イエス様は「今飢えている人々・今泣いている人々」という言葉を重ねておられます。説教では聞く側が「今、ここで、私に」という視点を持って聞かねばなりません。「今、この状況にいる私」に御言葉が語られていると切実に受け入れる姿勢が必要です。イエス様の御言葉を聞いている人々が「今、飢えているあなた」「今、泣いているあなた」と自分に呼びかけられ、しかも、御言葉に従う者として神様からの永遠なる祝福をいただけることを、主は告げ知らせてくださっています。

 更なる逆境による、更なる祝福

22~23節で、この世において、ひどく扱われ、迫害される状況なら、なおさら、神の国の民としては、神様から更なる祝福をいただけると主は語られました。それをかつての預言者たちをとおして、主は人々に気づかせようとされました。この世での権力者になびかなかったために迫害を受けた預言者達(エリヤ、エレミヤなど)が、神様の御心を尋ね求めて、本物の預言者として祝福されたという証しが旧約聖書に記されています(列王記上18章、エレミヤ書26章など)。

 「不幸である」

今日の箇所の後半は、前半との対比となっています。24節「富んでいる人々」は、20節後半「貧しい人々」との対比、25節「「今満腹している人々・笑っている人々」は、21節「今飢えている人々・泣いている人々」との対比、26節「人にほめられるとき」は、22~23節「人から迫害されるとき」との対比です。この世で恵まれている人々に対して、「不幸である」という言葉が使われていますが、元々は、痛切な悲嘆の思いで言う、「あぁ」「うわぁー」という感嘆詞です。神様からの祝福をいただけない者達の悲惨な状況がイエス様には見えていたのです。神様が人間の救いのために、御子イエス様をこの世に送り、救い主として信じるように招かれているにもかかわらず、従わない者が神様の祝福を得られない状態の悲惨さを嘆かずにはいられないのです。それほど、主は憐れみ深い御方です。それだけでなく、「平地の説教①」は弟子達に向かって語られているのですから、イエス様に従うはずの弟子達でも、この世で社会的に恵まれることへの誘惑に引きずられる者がいることを、主は嘆かずにはいられなかったのでしょう。

 「この世に行き詰まって、本物の救いを求める」

「幸いである」弟子であり続けるために、私達は、この世の価値観では行き詰まるのだと明確に自覚し、主による救いによってしか、本物の喜びは得られないと知るべきです。「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)とあるように、私達は神様から祝福を受ける価値のある者です。