説教要旨 「裁くのは主です」 西谷幸介先生

この日は仙台南伝道所開設三周年感謝礼拝でした。 /n[コリントの信徒への手紙一] 4章3-5節 3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。 5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。 /nはじめに  40年位前の話ですが、野村監督が南海ホークスの捕手をやっていた時の日本シリーズ(対巨人戦)の巨人が三連敗した後の試合の時です。この試合でも南海が勝っており九回のツーアウトまでいき、この打者であと一球ストライクをとれば終り!という時でした。外国人投手が見事なアウトコース低めいっぱいの球を投げ込んだのです。テレビ観戦の私もストライクと感じれる球でした。球を受け取った野村捕手は立ち上がり、もうこれで試合終了という雰囲気でした。ところが審判が「ボール!」と言ったのです。投手も野村捕手も審判に激しく抗議しましたがボール判定は覆らず試合は続行となりました。その後、投手はストライクが入らなくなり打者は痛烈なヒットを打って、そこから巨人は息を吹き返し、その試合に巨人は勝ちました。後で野村監督は何かに書いていました。「あの時僕が悪かった。ストライクだ!試合終了だ!と思って腰を浮かせてしまった。もっとじっくり腰を据えてボールを受けとっていたら、審判もストライクだと判定出来ただろう」と。 /n裁くのは審判なのです。  捕手がストライク・ボールの判定をするわけではありません。そのようにルールで決められていて、審判の言うことを聞かないと試合は成り立ちません。ですから早まって裁いてはならない。「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(5節)。私達は自分中心に生活をしており、自分の尺度で人を裁いております。「あの人は良い人だ。この人はダメだ。昨日は良かったけれど、今日は全然ダメじゃないか。」と裁くのは得意です。しかし、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7:2)。裁いてはいけませんというのが神様の教えです。 /nローマの信徒への手紙12章17節-21節  コリント書を書いた同じパウロがロマ書で以下のように書いています。 >>  「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」 <<    復讐(裁き)は私のすること、あなた方がすることではない。神様は、私に任せなさいと言われています。これを書いたパウロは迫害の途中イエス・キリストの霊に出会いイエス・キリストの声を聞いて、回心してキリスト教徒になった人です。パウロはイエス・キリストに直接会っていないにもかかわらずその教えをしっかりと受け継いだ人です。イエス・キリストは山上の説教で「迫害する者の為に祈りなさい。敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と教えられましたが、パウロも「せめてあなた方は、手を上げずに他の人々と平和に暮らすことを心がけなさい。」もっというならば、「敵が飢えていたら食べさせなさい、渇いていたら飲ませなさい、迫害する者の為に祈り、敵を愛せよ」とのイエス・キリストの言葉が、ここに言葉を変えて出てきています。 /n「復讐するは我にあり」  佐木隆三さんという人が同名の犯罪人の小説を書いていて、必ずそこには正当な裁きがあるし、なければいけないというのですが、又、新しく書いていて、この聖書の言葉の意味を作品の中でしっかり受けとめています。私達はそれ以上に受けとめなければなりません。「復讐は私のすること」とは旧約聖書、申命記の言葉です(32:35)。 /n旧約聖書と新約聖書  旧約のイスラエルの民は「神の裁き」をどのように受けとめていたか。大きくいうならば、イスラエルの民は「神様は私達の味方で、私達に意地悪する敵に対して裁きをしてくださる神」と信じていました。しかし新約では「裁いてはならない。あなた方が神を味方につけて何か自分の都合のために神様が手伝って下さり、他の人達を裁いて下さると考えるのは、とても大きな勘違い」なのです。人を裁くその量りであなた方も裁き返される。これが実は神様の裁きです。神様の正義は普遍で、私が信者だから、信じているから、神様は特別あなたに味方して下さるわけではない。正義は貫かれなければいけない。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる神」(マタイ5:45)なのです。 /n裁きがなくなるわけではない。  神様が裁いて下さる。だからあなた方がなすべきことは人を裁くのではなくて、せめて、人に手をあげず裁かず仲良く暮らしなさい。それ以上に出来るならば、敵を愛しなさい。あなた方が生きている時にすることはそういうことだ。それに徹しなさい。裁きがなくなるのではなくて裁きは神様がします。だからお任せしなさい。ということです。 /n私達は裁かない。なぜなら・・  あなたが量るその量りであなたも裁き返されるということを本当にしっかり心に留めなさい。心に留めるならば、人を裁けない筈です。私達は人を容易に裁きながら「あなたにそういわれたくない」と人から裁かれたくないのです。自分に甘く自分中心です。しかし「神様が裁かれる」ということだけはあるわけです。「最後の審判」が私達の信仰にはっきりとあるわけです。本日の交読文「我が思いは汝らの思いと異なり、わが道は汝らの道とことなれり。天の地より高きが如く、わが道は汝らの道よりも高く、わが思いは汝らの思いよりも高し」(イザヤ書55章)と、あったように私達の正義の水準よりはるかに高い神様の裁き(しかしそれは正義)をもって、最後にすべてを裁いて下さる。結末をつけて下さるのです。 /n私達の信仰告白  私達は使徒信条の中で、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と最後の審判に対する信仰を告白しています。これがキリスト教の信仰です。決して正義をないがしろにするわけではありません。その正義の水準を神様の水準で裁かれるべきと考え、神様にお任せするのです。  アメリカにメノナイト派という大きなキリスト者の群れがあり、その中にアーミッシュといわれる特別な人達がいます。文明から自分達を断ち切る仕方で本当に純朴な仕方で自給自足の生活をしています。彼らの信仰は「敵を愛する」「人を裁かない」。これは徹底しています。去年、アーミッシュの小学校に、普通のアメリカ人が入ってきて銃を乱射しました。彼らは思いをすべて心にしまいこんで、犯罪を犯した人の為にも「神様が導いて下さるように」と言っていました。徹底しています。そういう仕方でキリスト教徒というのは2000年間の間に訓練を受けてきた、その一つの見本がアーミッシュの人達です。 /nある老婦人の証し  以前、東北学院大学で教えておられたS先生が特別伝道にいらして、一人の老婦人の話をされました。赴任後まもないある土曜日に面談の約束をして会った老婦人は、なぜ自分がキリスト教徒になったかを一枚の古い写真(それは16才の娘の公園で撮った写真)を示して話されました。 娘さんはこの写真の直後に亡くなったそうです。亡くなった原因はわかりませんが、この婦人はその後、娘の死は自分のせいではなかったのかという思いにさいなまれるようになりました。その思いから抜け出ようと、ダンス、運転免許、音楽、観劇など、色々なことをやりましたが、自分の心を落ち着けてくれるものは一つもありませんでした。その時キリスト教にふれて教会に行き、イエス・キリストの罪の赦しの説教を聞いたのです。娘の死の原因は自分のせいではないか、との思いも神様が受け止めてくださり、娘と母親との間にきちんと神様が裁きをつけてくださった。その方は、キリスト教の福音を聞いて心が落ちついたのです。神様にお任せして出来ることです。 /n神様に任せる  神様にお任せすれば、私に代わってイエス・キリストが十字架の上で結末をつけて下さり、私はこのままで生きていける。教会でその思いをささげながら、罪の赦しを受けながら生きていくしかない。しかしそれが、自分にとって「恵み」だということです。 /n年配のおじいちゃんの話  「私は昔、特攻隊だった」と毎週のように話される方が教会にいます。死ぬ覚悟で出かけて行き、途中で不時着やトラブルで引き返したりした、その内の一人でした。死んだ仲間のことが重くのしかかって忘れられない中で、その方はキリスト教信仰で乗り越えられたのだと思います。 /n私も・・  福音を聞き、十字架が罪の裁きと罪の赦しであると知って素晴らしいと思いました。私自身も罪人である自覚を持ちました。それをイエス・キリストが背負い、私の代わりに罰を受けて下さり私がこのまま生きていけるようにして下さっていることを知りました。これが私の信仰の、一つの原点です。これは日本人にとって恵みだと思います。 /n教誨師の話  牧師で教誨師(受刑者にそれぞれの宗教の立場で教える牧師やお坊さん)をやっている方が書いておられました。刑務所では講義形式で行う集合教誨、10数名程度の定員にしぼって行う座談会教誨、個別にカウンセリングを行う個人教誨があり、どれも受刑者個人の希望で選ぶそうです。中でも、牧師への希望が多いそうです。多分キリストの十字架の出来事が、犯罪を犯した人にとって強く印象づけられるのだと思う、と書いておられました。私が言葉を補うなら、自分の犯した罪に対する罰、そしてその赦しを、キリスト教はしっかりと十字架の出来事を通して教えているからだと思います。私達は人に恨み・つらみをもって、いつも裁いている。だけども人によっても裁き返される。しかしそこにはきちんと正義の原則で決着がつけられなければいけない。受刑者は、ほとんどの人が罪を悔いることになる。その時に自分が犯した罪にきちんと決着がつけられる十字架が印象深く受け止められるのではないかと思います。 /nキリスト教の救い  日本人は裁きをうやむやにしたい。まあまあでやっていきたい。しかしそこにきちんと「裁き」があり、受けなければならない「罰」があり、それをきちんと受ける。そこに「赦し」がある。これが、キリスト教の救いです。 /n十字架は、罪の裁き・罰・赦し   「非業の死」という言葉があります。非業の死とは仏教用語で、前世の報いによらないように思われる死のことです。仏教は「輪廻転生・信賞必罰」 と教えます。ところがそれでは説明がつかないことがあります。特に、なぜ死んだか説明できない人達には私達の心が痛みます。そういう人生の不可思議な、わからないことすべて含めて、神様は知っておられて裁きをなさる。これが十字架で罪が裁かれることです。但しそれは、イエス様が全部背負って下さり私達は赦されてもう一度生きていくことが出来る。本当にこれはお恵みで、肝に命じることであり、私達がイエス様に対して行うべきことは感謝だけです。そしてイエス様の教えに従って、他の人達に対してはせめて平和に生きていきなさい。もっとやれることがあったら、積極的にその人達に親切をほどこしなさい、愛を与えなさい。私達がやることはそれだけです。 /n戦没者慰霊(この部分の文責は佐藤義子牧師)  「非業の死」を遂げた人達の霊を弔わなければいけない。戦争のリーダー的責任を負った人達にとっては戦没者の慰霊は大きな問題です。裁く神、しかも赦して下さる神様がいない為に、何とか弔い上げをしたいという思いが、靖国・千鳥が淵の問題に表れてきています。政治の問題でもありますが、この視点でも見なければなりません。イエス・キリストが示して下さったような、裁きと恵みの神様がいないからです。私達はイエス・キリストを通して神様に出会わされたということを恵みとして知るべきです。日々、私達が行うべきは、せめて人に対して手を上げず平和に暮らすか、それ以上に出来るのであれば、どんな人に対しても愛をもって親切の限りを尽くしましょう。裁きの言葉や裁かれることについて一切心配しないで良いのです。最後に神様が決着をつけて下さいます。 *p17*おわりに(この部分の文責は佐藤義子牧師)  神様のさばきとゆるしは、イエス・キリストの十字架に示されています。神様はこういうふうにして私達を裁いてくださった、と私達は信じて、教えられた通りに日々の生活に励んでいくしかありません。これは本当に恵みです。その恵みの中に、40年前に娘を失われた80代のおばあちゃんが入れられてスーっと教会に通っていられるわけです。 /nいのり  天の父なる神様、あなたが御子イエス・キリストの十字架の罪の贖いを通して、私達に自由を与えてくださり、本当にありがたい赦しを与えて下さいました。このことに感謝しつつ日々の生活に励んでいくことができますように。そのことを知らずに私達の人間同志のさばき合いの中で、依然として暮らしていく人達がおられますけれども、キリストの福音がその人達にも与えられますように。この教会を通して、その恵みの福音が知らされますように私達を導いてください。感謝して尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン