説教要旨 「裁くのは主です」 西谷幸介先生

この日は仙台南伝道所開設三周年感謝礼拝でした。 /n[コリントの信徒への手紙一] 4章3-5節 3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。 5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。 /nはじめに  40年位前の話ですが、野村監督が南海ホークスの捕手をやっていた時の日本シリーズ(対巨人戦)の巨人が三連敗した後の試合の時です。この試合でも南海が勝っており九回のツーアウトまでいき、この打者であと一球ストライクをとれば終り!という時でした。外国人投手が見事なアウトコース低めいっぱいの球を投げ込んだのです。テレビ観戦の私もストライクと感じれる球でした。球を受け取った野村捕手は立ち上がり、もうこれで試合終了という雰囲気でした。ところが審判が「ボール!」と言ったのです。投手も野村捕手も審判に激しく抗議しましたがボール判定は覆らず試合は続行となりました。その後、投手はストライクが入らなくなり打者は痛烈なヒットを打って、そこから巨人は息を吹き返し、その試合に巨人は勝ちました。後で野村監督は何かに書いていました。「あの時僕が悪かった。ストライクだ!試合終了だ!と思って腰を浮かせてしまった。もっとじっくり腰を据えてボールを受けとっていたら、審判もストライクだと判定出来ただろう」と。 /n裁くのは審判なのです。  捕手がストライク・ボールの判定をするわけではありません。そのようにルールで決められていて、審判の言うことを聞かないと試合は成り立ちません。ですから早まって裁いてはならない。「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(5節)。私達は自分中心に生活をしており、自分の尺度で人を裁いております。「あの人は良い人だ。この人はダメだ。昨日は良かったけれど、今日は全然ダメじゃないか。」と裁くのは得意です。しかし、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7:2)。裁いてはいけませんというのが神様の教えです。 /nローマの信徒への手紙12章17節-21節  コリント書を書いた同じパウロがロマ書で以下のように書いています。 >>  「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」 <<    復讐(裁き)は私のすること、あなた方がすることではない。神様は、私に任せなさいと言われています。これを書いたパウロは迫害の途中イエス・キリストの霊に出会いイエス・キリストの声を聞いて、回心してキリスト教徒になった人です。パウロはイエス・キリストに直接会っていないにもかかわらずその教えをしっかりと受け継いだ人です。イエス・キリストは山上の説教で「迫害する者の為に祈りなさい。敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と教えられましたが、パウロも「せめてあなた方は、手を上げずに他の人々と平和に暮らすことを心がけなさい。」もっというならば、「敵が飢えていたら食べさせなさい、渇いていたら飲ませなさい、迫害する者の為に祈り、敵を愛せよ」とのイエス・キリストの言葉が、ここに言葉を変えて出てきています。 /n「復讐するは我にあり」  佐木隆三さんという人が同名の犯罪人の小説を書いていて、必ずそこには正当な裁きがあるし、なければいけないというのですが、又、新しく書いていて、この聖書の言葉の意味を作品の中でしっかり受けとめています。私達はそれ以上に受けとめなければなりません。「復讐は私のすること」とは旧約聖書、申命記の言葉です(32:35)。 /n旧約聖書と新約聖書  旧約のイスラエルの民は「神の裁き」をどのように受けとめていたか。大きくいうならば、イスラエルの民は「神様は私達の味方で、私達に意地悪する敵に対して裁きをしてくださる神」と信じていました。しかし新約では「裁いてはならない。あなた方が神を味方につけて何か自分の都合のために神様が手伝って下さり、他の人達を裁いて下さると考えるのは、とても大きな勘違い」なのです。人を裁くその量りであなた方も裁き返される。これが実は神様の裁きです。神様の正義は普遍で、私が信者だから、信じているから、神様は特別あなたに味方して下さるわけではない。正義は貫かれなければいけない。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる神」(マタイ5:45)なのです。 /n裁きがなくなるわけではない。  神様が裁いて下さる。だからあなた方がなすべきことは人を裁くのではなくて、せめて、人に手をあげず裁かず仲良く暮らしなさい。それ以上に出来るならば、敵を愛しなさい。あなた方が生きている時にすることはそういうことだ。それに徹しなさい。裁きがなくなるのではなくて裁きは神様がします。だからお任せしなさい。ということです。 /n私達は裁かない。なぜなら・・  あなたが量るその量りであなたも裁き返されるということを本当にしっかり心に留めなさい。心に留めるならば、人を裁けない筈です。私達は人を容易に裁きながら「あなたにそういわれたくない」と人から裁かれたくないのです。自分に甘く自分中心です。しかし「神様が裁かれる」ということだけはあるわけです。「最後の審判」が私達の信仰にはっきりとあるわけです。本日の交読文「我が思いは汝らの思いと異なり、わが道は汝らの道とことなれり。天の地より高きが如く、わが道は汝らの道よりも高く、わが思いは汝らの思いよりも高し」(イザヤ書55章)と、あったように私達の正義の水準よりはるかに高い神様の裁き(しかしそれは正義)をもって、最後にすべてを裁いて下さる。結末をつけて下さるのです。 /n私達の信仰告白  私達は使徒信条の中で、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と最後の審判に対する信仰を告白しています。これがキリスト教の信仰です。決して正義をないがしろにするわけではありません。その正義の水準を神様の水準で裁かれるべきと考え、神様にお任せするのです。  アメリカにメノナイト派という大きなキリスト者の群れがあり、その中にアーミッシュといわれる特別な人達がいます。文明から自分達を断ち切る仕方で本当に純朴な仕方で自給自足の生活をしています。彼らの信仰は「敵を愛する」「人を裁かない」。これは徹底しています。去年、アーミッシュの小学校に、普通のアメリカ人が入ってきて銃を乱射しました。彼らは思いをすべて心にしまいこんで、犯罪を犯した人の為にも「神様が導いて下さるように」と言っていました。徹底しています。そういう仕方でキリスト教徒というのは2000年間の間に訓練を受けてきた、その一つの見本がアーミッシュの人達です。 /nある老婦人の証し  以前、東北学院大学で教えておられたS先生が特別伝道にいらして、一人の老婦人の話をされました。赴任後まもないある土曜日に面談の約束をして会った老婦人は、なぜ自分がキリスト教徒になったかを一枚の古い写真(それは16才の娘の公園で撮った写真)を示して話されました。 娘さんはこの写真の直後に亡くなったそうです。亡くなった原因はわかりませんが、この婦人はその後、娘の死は自分のせいではなかったのかという思いにさいなまれるようになりました。その思いから抜け出ようと、ダンス、運転免許、音楽、観劇など、色々なことをやりましたが、自分の心を落ち着けてくれるものは一つもありませんでした。その時キリスト教にふれて教会に行き、イエス・キリストの罪の赦しの説教を聞いたのです。娘の死の原因は自分のせいではないか、との思いも神様が受け止めてくださり、娘と母親との間にきちんと神様が裁きをつけてくださった。その方は、キリスト教の福音を聞いて心が落ちついたのです。神様にお任せして出来ることです。 /n神様に任せる  神様にお任せすれば、私に代わってイエス・キリストが十字架の上で結末をつけて下さり、私はこのままで生きていける。教会でその思いをささげながら、罪の赦しを受けながら生きていくしかない。しかしそれが、自分にとって「恵み」だということです。 /n年配のおじいちゃんの話  「私は昔、特攻隊だった」と毎週のように話される方が教会にいます。死ぬ覚悟で出かけて行き、途中で不時着やトラブルで引き返したりした、その内の一人でした。死んだ仲間のことが重くのしかかって忘れられない中で、その方はキリスト教信仰で乗り越えられたのだと思います。 /n私も・・  福音を聞き、十字架が罪の裁きと罪の赦しであると知って素晴らしいと思いました。私自身も罪人である自覚を持ちました。それをイエス・キリストが背負い、私の代わりに罰を受けて下さり私がこのまま生きていけるようにして下さっていることを知りました。これが私の信仰の、一つの原点です。これは日本人にとって恵みだと思います。 /n教誨師の話  牧師で教誨師(受刑者にそれぞれの宗教の立場で教える牧師やお坊さん)をやっている方が書いておられました。刑務所では講義形式で行う集合教誨、10数名程度の定員にしぼって行う座談会教誨、個別にカウンセリングを行う個人教誨があり、どれも受刑者個人の希望で選ぶそうです。中でも、牧師への希望が多いそうです。多分キリストの十字架の出来事が、犯罪を犯した人にとって強く印象づけられるのだと思う、と書いておられました。私が言葉を補うなら、自分の犯した罪に対する罰、そしてその赦しを、キリスト教はしっかりと十字架の出来事を通して教えているからだと思います。私達は人に恨み・つらみをもって、いつも裁いている。だけども人によっても裁き返される。しかしそこにはきちんと正義の原則で決着がつけられなければいけない。受刑者は、ほとんどの人が罪を悔いることになる。その時に自分が犯した罪にきちんと決着がつけられる十字架が印象深く受け止められるのではないかと思います。 /nキリスト教の救い  日本人は裁きをうやむやにしたい。まあまあでやっていきたい。しかしそこにきちんと「裁き」があり、受けなければならない「罰」があり、それをきちんと受ける。そこに「赦し」がある。これが、キリスト教の救いです。 /n十字架は、罪の裁き・罰・赦し   「非業の死」という言葉があります。非業の死とは仏教用語で、前世の報いによらないように思われる死のことです。仏教は「輪廻転生・信賞必罰」 と教えます。ところがそれでは説明がつかないことがあります。特に、なぜ死んだか説明できない人達には私達の心が痛みます。そういう人生の不可思議な、わからないことすべて含めて、神様は知っておられて裁きをなさる。これが十字架で罪が裁かれることです。但しそれは、イエス様が全部背負って下さり私達は赦されてもう一度生きていくことが出来る。本当にこれはお恵みで、肝に命じることであり、私達がイエス様に対して行うべきことは感謝だけです。そしてイエス様の教えに従って、他の人達に対してはせめて平和に生きていきなさい。もっとやれることがあったら、積極的にその人達に親切をほどこしなさい、愛を与えなさい。私達がやることはそれだけです。 /n戦没者慰霊(この部分の文責は佐藤義子牧師)  「非業の死」を遂げた人達の霊を弔わなければいけない。戦争のリーダー的責任を負った人達にとっては戦没者の慰霊は大きな問題です。裁く神、しかも赦して下さる神様がいない為に、何とか弔い上げをしたいという思いが、靖国・千鳥が淵の問題に表れてきています。政治の問題でもありますが、この視点でも見なければなりません。イエス・キリストが示して下さったような、裁きと恵みの神様がいないからです。私達はイエス・キリストを通して神様に出会わされたということを恵みとして知るべきです。日々、私達が行うべきは、せめて人に対して手を上げず平和に暮らすか、それ以上に出来るのであれば、どんな人に対しても愛をもって親切の限りを尽くしましょう。裁きの言葉や裁かれることについて一切心配しないで良いのです。最後に神様が決着をつけて下さいます。 *p17*おわりに(この部分の文責は佐藤義子牧師)  神様のさばきとゆるしは、イエス・キリストの十字架に示されています。神様はこういうふうにして私達を裁いてくださった、と私達は信じて、教えられた通りに日々の生活に励んでいくしかありません。これは本当に恵みです。その恵みの中に、40年前に娘を失われた80代のおばあちゃんが入れられてスーっと教会に通っていられるわけです。 /nいのり  天の父なる神様、あなたが御子イエス・キリストの十字架の罪の贖いを通して、私達に自由を与えてくださり、本当にありがたい赦しを与えて下さいました。このことに感謝しつつ日々の生活に励んでいくことができますように。そのことを知らずに私達の人間同志のさばき合いの中で、依然として暮らしていく人達がおられますけれども、キリストの福音がその人達にも与えられますように。この教会を通して、その恵みの福音が知らされますように私達を導いてください。感謝して尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

説教要旨 「結婚の奥義」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 19章1-12節 1 イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。 2 大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。 3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。 4 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」 5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 6 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 7 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」 8 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。 9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」 10 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。 11 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。 12 結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」 /nはじめに   ユダヤにおいて当時、男が女に離縁状を渡す離婚には二つの考え方がありました。一つは、夫に(離婚する)権利は無制限に与えられているとする考え方、他方は、結婚を解消するには、まじめな真剣な根拠がなければならないとの考えです。どちらも男は離婚する権利を持っていることを疑いませんでした。この日ファリサイ派の人は、イエス様を試そうとして「何か理由があれば、離縁は律法にかなうか」と問いました。これは、理由がありさえすれば離婚をしてもいいのか、という質問です。 /nイエス様の答え  イエス様は創世記(2:24)から、神様が男と女とを造られたこと、結婚は、神様が男と女とを結び合わされることを説明して、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(6節)と答えられました。結婚によって、二人は別々ではなく一人の人間になったかのように一つの人格として考えられています。イエス様は、神様が定められた秩序と、神様の意志を根拠にして、「離婚はそれに反することである」と教えられました。 /nそれに対して・・  ファリサイ派の人達は、神様の意志を考える前に、人間の側に自由に決める余地を残そうとしました。どうしたら男は離婚を正当化出来るだろうか、と熱心に考えたのです。イエス様が、結婚という神様のみ業を人は破壊し分離させてはならないと教えられたことに対して、ファリサイ派の人達は、律法を引用して「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記 24:1)とあるではないか、律法にあるということは神様が離婚を認めている証拠だと主張しました。 /n律法に書いてある理由  神様は、確かに離縁状を渡すことをお許しになった。しかしそれは、人間の悪い衝動を野放しにしない為に律法で規制しているのであって、神様の完全な意志がそこにあらわれているのではない。「あなたたちの心が頑固なので、・・」(8節)これが、ファリサイ派への答えです。 /n再婚も姦通の罪・・  イエス様は律法解釈で混乱している人々に、新たな教えを語られました。男の人が自分の妻を離縁して独身のまま終らず、別の女の人と結婚するならば、それは姦淫にひとしく結婚を冒涜するものであると言われました。なぜなら神様は最初の妻と結び合わせたのですから、彼は、自分の愛と真実を神様の前に証ししていかねばならないからです。 /n「妻を迎えない方がましです」(10節)  弟子達はイエス様の言葉を聞いて恐れを覚えました。彼らは結婚とは人格と人格の結びつきであるとは考えませんでしたし、結婚が自分の全生涯をそこにかけるような、互いに自分をささげあうような、そのような重い決断を必要とするとは考えず、何か困難なことが起これば離婚も認められると考えていたからです。弟子が「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と、結婚にちゅうちょするような言葉を言った時、イエス様は、結婚の「解消」と同じように、結婚を「放棄」することも人間の気ままに委ねられていることではないことを語られました。 /n結婚の奥義  イエス様が引用された創世記には、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)といわれたことが、女を創られた経緯として記されています。原語(ヘブル語)では、「私は彼のために、彼と向き合う者としての助け手を、彼の為に彼女を造ろう」です。  夫婦の関係は「向き合う関係」ともいえます。互いに相手を先入観で見るのではなく 広い心で新しいものを見出そうとして、もう一度よりよく見ようとして見る・互いに相手によって問われるその問いに向き合う・互いに対して持っている疑問を避けたり面倒だと逃げたり無視したりしない・・このような「向き合う関係」を作り上げて、「父母を離れて一体となる」ことが神様の秩序であり神様の意志であることを私達は今一度、しっかりと確認したいと思います。 「結婚は神様が結び合わせてくださったもの」との確信と信頼で築かれた家庭は、どのような荒波が襲っても神様が守ってくださいます。

説教要旨 「後で心を変えて信じる」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章28-32節 28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 /nはじめに  今日の個所は、イエス様の方から祭司長達に「あなた達はどう思うか」と質問をしています。イエス様が語られたたとえは、父親が二人の息子のうち、兄にぶどう園に行って働くように命じましたが、彼は父親に逆らい「いやです」と断りました。父親は弟の方の息子にも同じようにぶどう園に行って働くよう命じました。弟は「お父さん、承知しました。」と快く返事をしましたが、結局は出かけませんでした。一方、兄の方は父親に逆らったことを後悔し、後からぶどう園に出かけて働きました。 /n「どちらが父親の望みどおりにしたか」  イエス様のこの質問に、祭司長・長老達は「兄の方です」と答えました。誰が見ても明らかです。イエス様はその答えを聞いて彼らに言われました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦達の方が、あなた達より先に神の国に入るだろう。なぜならヨハネが来て義の道を示したのに、あなた達は彼を信ぜず、徴税人や娼婦達は信じたからだ。あなた達はそれを見ても後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 /nイエス様の宣告  イエス様が言われたことは、「神の国には祭司長のような宗教的指導者達よりも徴税人や娼婦達が先に入る」でした。それは当時の人々の考えとは全く逆でした。祭司長や長老達は律法を守り、人々を教える立場です。それに対して徴税人や娼婦は、異邦人であるローマ人とかかわりを持ち、律法を守らず、両者とも神の国から最も遠い人達と考えられていました。なぜ徴税人や娼婦達が先に神の国に入るのでしょうか。常識を破ったこの言葉の根拠がこの21章32節に明確に述べられています。「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなた達は彼を信ぜず、徴税人や娼婦達は信じた」。義の道を宣べ伝え、神の義に至る道を示し、神の支配を伝え、その門戸を開いたヨハネを祭司長達は拒み、徴税人や娼婦達は素直に受け入れました。 /n悔い改めのバプテスマ(洗礼)  ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けました。今迄の自分の生き方は、自分を第一に考え、神様を神様として認めず、自分の判断・自分の考えを優先し、自分自身が最高の位を占めていた。そのことを神様の前に罪として告白し、悔い改めることが悔い改めのバプテスマです。神様は私の創造主であり、私達は神様に従って生きるように造られているにもかかわらず、そのように生きてこなかったことを悔い改めるのが悔い改めのバプテスマです。悔い改めのバプテスマを受けた者は、それ迄の古い自分に死んだということでありヨハネは、自分より後からくるイエス様がその人を「聖霊と火」(マタイ3:11)で新しく造り変えると伝えました。 /nたとえの意味  たとえの「兄」とは、徴税人や娼婦のように神様から与えられた律法を守らず、正しい道に従わず、神様への服従を拒否した人達でした。しかし兄が後で考え直してぶどう園に行ったように、彼らも後から神様の義の道を示したバプテスマのヨハネの声に耳を傾けて悔い改め、神様に従う道に戻りました。一方弟とは、祭司長や律法学者達のような宗教的指導者達のことです。父親に良い返事(律法を認め、律法に従うことを正しいこととする)をして、喜んで神様に奉仕をする約束もしましたが、いざ、ヨハネやイエス様を通して神様から服従を求められても、それに聞き従おうとせず、結局は神様に逆らっているのです。 /n私達へのメッセージ  たとえの「弟」とは、自分を信仰ある者、神様の意志を満たしていると考えていて、実はそうでない者を描いています。自分の考えや感情、言葉だけで「神様」と言い、聖書の考え方に賛成をするのだけれども、神様の意志の実行には至らない人々です。「岩を土台として家を建てた人」ではなく、「砂の上に家を建てた人」のことです。私達はぶどう園に行って働く者になるのでしょうか。それとも返事だけで終るのでしょうか。*迷いや葛藤の中にいる自分をそのまま神様の前に投げ出して神様に受け止めていただく。*神様に降参して悔い改めてゆだねる。・・それが信仰の一歩でありましょう。ロ-マの信徒への手紙2章にこうあります。 >> 「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるのです。」(13節) <<

「賜物としての聖霊」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[詩篇] 51:12-14 12 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 13 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。 14 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。 /n[使徒言行録] 2章32-42節 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 /nはじめに  本日はペンテコステを記念する礼拝です。50を意味するギリシャ語に由来するペンテコステという言葉は五旬節(五旬祭)とも訳されています。過越しの祭りから数えて50日目にユダヤでは麦の収穫を祝う祭(春の穀物収穫祭)が執り行われて、それをペンテコステと呼んでいました。本日のペンテコステの礼拝は麦の収穫を感謝する礼拝ではなく、もっと特別な、イエス・キリストにかかわる礼拝です。  イエス・キリストは、最後の晩餐(過越しの祭の食事会と思われる)の翌日に十字架にかけられています。そして3日目に復活し、その後40日間にわたって弟子達など人々の前に現れました。そしてやがてイエス・キリストは天に昇る。弟子達は地上に残される・・。そんな状況の中で弟子達はペンテコステの祭りを迎えました。ペンテコステの日の出来事とは一体何であったのか。そしてその日を境にして一体何が変わったのか、ということをご一緒に考えてみたいと思います。 /n40日間とペンテコステの出来事  ペンテコステの日に起きた出来事とそれ迄の40日間の出来事との兼ね合いで考えてみたいと思います。聖書は大きく三つのことを集中して記録しています。第一は、「復活した,ということを弟子達に認識させる」ということに集中しています。たとえば、エマオに行く途上にあった弟子達二人が、イエス・キリストが十字架で死にそして復活したということを聞いたその道すがら、一人の人(復活したイエス・キリスト)が現われましたが、弟子の二人はイエス・キリストと認識することが出来ず、話の中でこんなことを言っています。「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人達が言った通りで、あの方は見当たりませんでした」。それを聞いて、復活したイエス・キリストが、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者達の言ったことすべてを信じられない者達」と嘆いたというのです。この二人の弟子達が「復活したイエス・キリストが実は自分達の横に立って話をしてくれたのだ」と認識出来たのはその日の夜に食事を共に囲んだ時、パンを裂いてもらった時でした(ルカ24:13-)。イエス・キリストが復活したということは弟子達にとってなかなか実感し難い出来事でした。死が終りではなく復活という出来事があるのだ、終末の出来事が先取りとしてこのイエス・キリストに起きた、ということを弟子達はなかなか理解することが出来なかったのでした。 /n第二のこと  集中的に聖書が語っている第二のことは、復活したイエス・キリストの体についてです。あの疑い深いトマスは、自分で指をわき腹のさされた穴に当て、手に打ち付けられた釘の後を触らなければ信じられないと言いました。イエス・キリストは「触りなさい」と言って「<span style="font-weight:bold;">信じない者ではなく、信じる者になりなさい</span>」(ヨハネ20:27)と語ったあの場面です。あの場面でイエス・キリストは、戸にはみな鍵がかけられてあったのに、真ん中に来て立ったと記されています。しかも彼らと一緒に食事をしたとあります。イエスはシモン・ペテロに「私を愛するか」と問い、ペテロは「はい、私があなたを愛しているのは、あなたがご存知です」と答えると「私の小羊を飼いなさい」と言われたのも、食事が終わった後の場面です(ヨハネ21:15-)。復活したイエス・キリストが、幽霊のような幻影ではなくて触れることが出来、又食事をとる、そのような方である。不思議な出来事、そして常ならぬ姿としてのイエス・キリスト。聖書が集中して語ることは、復活したイエス・キリストがイエス・キリストである、ということと、その姿でありました。 /n第三のこと  集中的に聖書が語っている第三のことは、その復活したイエス・キリストが弟子達に命令を与えたということです。 <span style="font-weight:bold;"> 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」</span>又<span style="font-weight:bold;">、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」</span>そしてイエスは弟子達が見ている前で天に挙げられて、雲のかなたに見えなくなってしまった、と聖書は記しています。イエスはこの言葉を与えて天に昇ってしまった。他方弟子達はこの約束の言葉と共に地上に残されてしまった。そして数日後に巡ってきたのが、ユダヤの祭り・ペンテコステの祭りであったのです。 /nペンテコステの日の出来事  ペンテコステの祭りの日に弟子達は一つ所に集まっていました。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると弟子達は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し始めたというのです。聞きなれない言葉をしゃべり出す弟子達、それを見て祭りに集まっていたユダヤの人達は「どうも祝いの葡萄酒を飲みすぎて酔っ払っているのではないだろうか」と怪しんだというのです。それを聞いたペテロは毅然として語り始めます。 /nペテロの説教(説教の最後の部分が本日のテキスト)  ペテロは人々に告げます。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。イエス・キリストの死と復活の意味を、ペテロはここではっきりと人々に告げました。周りの人達はぶどう酒に酔って訳の分らない言葉を語り始めていると見ましたが、ペテロは「聖霊が降った」ことの本質的な(内的な)意味をここで明確に示したのです。「あのイエス・キリストはメシアである」と。 /nどうしたら良いのですか?  人々はペテロの説教を聞いて大いに心を打たれ、「兄弟達、私達はどうしたら良いのですか」と聞きました。ペテロは「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」と答えています。これがペンテコステの日に起きた出来事です。 /nこの出来事を境にして何が変わったのか。  「ペテロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(41-42節)。それ迄の弟子達はイエス・キリストの思い出に生きていた120人程の小さな集団でした。しかしこのペンテコステの日の出来事を境にして、特にイエス・キリストの<span style="font-weight:bold;">「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」</span>というあの約束の言葉が動き出した日でもありました。その日に三千人ほどが仲間に加わったとあります。まさに教会が誕生した瞬間でした。 /n教会の存在の原点  さて教会は二千年ほどの時を経て存続しております。エルサレムから見れば地球の反対側に位置する日本にも、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた者達が存在し、使徒の教えである聖書の言葉を聞き、相互の交わりをなし、パンを裂くこと(聖餐式)を守り、祈ることに努めています。聖霊を与えられた弟子達が神の言葉を全世界に告げ知らせた結果、教会は全世界に建て上げられていきました。教会というものが存在すること自体が、「賜物として与えられた聖霊」によって実現されたものでありました。いうならば「教会は賜物としての聖霊それ自体を証しするもの」です。教会こそがまさにイエス・キリストの約束の言葉の実現でありました。ペンテコステを記念するこの朝の礼拝において、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」初代教会のその姿、教会の本来的な姿、存在の原点というものを、今日においても再確認したい。それがペンテコステの礼拝の思いであります。

「イエス・キリストの逮捕」  牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章47-56節 47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。 56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 /nはじめに  本日の聖書箇所には、イエス様がユダヤ当局者から捕えられる場面が描かれています。神の国について宣べ伝えていたイエス様が、どのようなプロセスを経て十字架という極刑につけられて殺されたのか、福音書にはくわしく(26章から7頁にわたり)記されています。つまり福音書の著者が、それほど大事な重要な出来事としてとらえているからにほかなりません。ゲッセマネの祈りを終えられたイエス様は、さきほど迄ご自分の弟子であったユダに先導されて、剣や棒をもって自分を捕えにきた大勢の人々をご覧になりました。大勢でやってきたのは、イエス様が抵抗をすることを想定したからであり、弟子達が徹底抗戦した時に備えてのことでしょう。今朝は逮捕の場面から、四つのことを考えたいと思います。 /nユダの接吻  一つは「ユダの接吻」です。ユダは銀貨30枚と引き換えにイエス様の居場所を密告する約束をしていました。時は過ぎ越しの祭りで、町は巡礼者でごったがえしており、イエス様を捕えることで町が騒ぎになることを恐れたユダヤの当局者は、人に知られず、失敗しないでスムーズにことが運ぶようにしなければなりませんでした。そこで夜を選び、密告者のユダは確実に逮捕者を特定する手段として「接吻」という方法を選びました。この口付けは当時、子弟間の親密な関係をあらわす習慣でありましたから、ユダとイエス様との接吻は、外見的には日常的な自然な姿でありました。 /n「先生、こんばんは」(49節)  「こんばんは」と訳されている原語は「喜びあれ」という意味があり、普通のあいさつ言葉として使われていました。(口語訳では「先生いかがですか」、文語訳では「ラビ、安かれ」)。ヘブル語のシャロームと関係ある言葉だそうです。この相手への挨拶と信頼の表現である接吻とを用いて、ユダは、これまで「主」と呼んでいたイエス様を敵の手に引き渡しました。これが神に敵対するサタンのやり方(不正行為をしても、それが悪の形をとらないやり方)です。 /n弟子の抵抗(大祭司の手下に打ちかかって)  二つには「弟子による抵抗」(51節・ヨハネ福音書ではペテロ)です。ペテロはイエス様と生死を共にする決意を述べていました(「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても・・」)から、この場でもイエス様をお守りするという覚悟だったのでしょう。しかしこの行為はイエス様によって制止されました。ペテロの間違いは、主であるイエス様の「十字架の道への選びと決断」を理解していなかったことが原因です。それは、イエス様の苦闘の祈りを共に出来なかった(眠ってしまった)からです。 /n大勢の群衆  三つには「剣や棒でイエス様を捕えにきた当局者に遣わされた群衆」の姿です。イエス様には武力でしか立ち向かえないという彼らの弱さの表われです。しかも夜ひそかに、です。彼らが正しいことをするのであれば明るい時に堂々とやったでしょう。彼らはそれが出来ませんでした。 /nイエス様の主権  最後に読み取りたいのはイエス様の主権です。「ユダの接吻」では、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われました。(他に、「あなたは何の為にここにいるのか、そのことをやれ」との訳があります)。「弟子の抵抗」に対しては、「願うなら、父は12軍団以上の天使を今すぐにでも送って下さるだろう」と無力だから逮捕されるのではないことを伝え、力をもって力を制する道を止められました。メシア(救い主)が受難の道(十字架への道)を歩むことによって、救いの道が開かれるからです。そして「群衆」に対しては、「なぜ、強盗と同じような捕らえ方をするのか。」とその愚かさを指摘されました。上記の三つのどの場面においてもリードしているのは常にイエス様であり、外見上は権力者の力でイエス様を逮捕しましたが、その中身はイエス様が神様のご計画に従い、十字架の道を選び取ったというイエス様の勝利であり、他の者はすべて神様のご計画に奉仕させられている、ということが示されています。

クリスマス礼拝 「救い主の誕生」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 103:1-13 1 わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7 主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 9 永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。 10 主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12 東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13 父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 /n[ルカによる福音書] 2章8-21節 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 /nはじめに  クリスマスは「the Mass of Christ」、Massとはミサ、聖なる祭り、Christはキリスト、つまり「クリスマス」とは「キリストの聖なる祭り」のことです。キリスト抜きのクリスマスイベントが日本でも盛んになりましたが、日頃教会に目を向けない人達もクリスマスだけは教会に行こう!との思いが与えられ、クリスマスの本当の意味に触れるようにと祈ります。 /n三重の誕生  キリスト教大事典によれば、ローマカトリックではクリスマスに3回のミサが行われます。これはキリストの三重の誕生を象徴しているとのことです。イエス・キリストは父なる神のふところに生まれ、人としてマリアから生まれ、そしてイエス・キリストを信じる私達キリスト者の魂における誕生という三重です。今朝、私達は私達の魂の中にイエス様をお迎えし、イエス様に住んでいただく「うつわ」とさせていただきたく御言葉に耳を傾けたいと思います。 ____________________________ /n天からの光  暗い夜の中を、野宿していた羊飼いの前に、突然天からの光があたりを照らしました。私達の知っているこの世の光ではなく、「主の栄光」・・天からの聖なる輝きの光で人知を超えたもの・・であったがゆえに羊飼い達は恐怖を感じました。「非常に恐れた」(9節)の原語は「大きな恐れを恐れた」、心臓が止まるくらいの驚き、体に戦慄が走るような恐怖だったのでしょう。天使は羊飼い達にこう語りました。「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(10-11節)。ダビデの町とはベツレヘムのことです。天使は、?今日、ベツレヘムであなたがたの為に救い主が生まれた。?この方は、あなたがたが待っていた主、つまり神の子キリストである。この二つの喜びのニュースを告げました。 /n二つのしるし  天使が示したメシアのしるし、それは「布にくるまれている」こと、そして「飼い葉おけに寝かされている」乳飲み子でした。いと低き姿における救い主の誕生において、いと高き神の栄光があらわされるのです。 /nグロリア・イン・エクセルシス  この後さらに天の軍勢が加わって、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美がささげられました。これはラテン語訳(最初の原語訳)から「グロリア・イン・エクセルシス」と呼ばれています。天には神の栄光と、地上には、神様の御心にかなう人(神様の望む人)に神様の平和と救いがあるという、天上と地上がここでつながります。地上で神様の意志が行われる時、そこに平和が臨み天の栄光は輝きます。(逆に、地上で神様の意志に反する憎しみ、裏切り、戦いなどが起これば、天の栄光が輝くことはありません)。 /n神様の出来事  天使はこの出来事(救い主誕生)が人間社会の出来事ではなく、一方的に、神様の出来事として人間社会に与えられたことを伝えています。それゆえヨセフもマリアも奉仕者にすぎず、その名は出てきません。 /n最初に知らされた羊飼い  このニュースが最初に名もない貧しい、野宿をしていた羊飼いに伝えられたことにより、メシアがどのような方であるかが明らかにされます。 /nクリスマスおめでとう  なぜクリスマスはおめでたいのでしょうか。「今日・・あなた方(私達)の為に救い主がお生まれになった」日だからです。私達に命を与えて下さった神様は、命だけでなく全生涯を共に生きて下さることを知らせる為に御子イエス・キリストをこの世に送って下さいました。イエス様は救い主として生まれられた!まさに、罪の支配するこの世で生きる私達を(同じ地上にありながら)そこから救い出して神様の支配の下で生きるように移し換えて下さる道を備えられました。だから私達は御子イエス・キリストを信じることで、神と共に生きることが出来るのです。

「死者の中からの復活」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 116篇1-11節 1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 3 死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。 6 哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。 7 わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。 8 あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。 9 命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。 10 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 11 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。 /n[コリントの信徒への手紙二] 4章7-15節 7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 /nはじめに  今日はイエス・キリストの復活を記念してお祝いする日です。キリスト教大事典によると、復活日はギリシャ語ではパスカとよばれ、このパスカの礼拝は、はじめ土曜日の夕方から日曜日の明け方にかけて守られ、その中で洗礼式が行われていました。私達は復活節(復活祭)又はイースターと言っていますが、イースターという呼び方は事典によれば、ゲルマンの春の女神に由来する呼び方だといわれるが、確実なことはわかっていないということでした。キリスト教が全世界に広がっていく時、土着の宗教と混合することは十分あり得ることで、テレビで(世界遺産などで)紹介されるキリスト教が、聖書からかけ離れたお祭りになっているのを見ることがあります。私達は聖書を正しく理解し、継承していくべきものと、そうでないものとを見極めていく目を養っていかなければならないと思います。 /n復活  「霊魂不滅」という考え方があります。霊魂は体の中に閉じ込められているが、死によって霊魂は自由にされて永遠の世界に帰るという考え方です。しかし聖書はこの考え方を全く否定します。霊魂と肉体は一体であり「私の霊」とか「私の魂」という時、自分の全存在をさします。キリスト教において「死」は霊魂の解放ではなく、全存在の死を意味するのです。その全存在として死なれたイエス・キリストが復活された。これが新約聖書の根本です。使徒言行録のペテロの説教では「しかし神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」(2:24)「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(同32)と語っています。パウロも「そして、キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」(コリント15:14)と語り、さらに「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人達の初穂となられました。」(同20節)と語ります。 /n神様の働きとしての復活  イエス・キリストが「よみがえられた」「復活された」という信仰は、神様がイエス・キリストの誕生と共に私達の住む歴史に入ってこられたことを信じる信仰から信じることができます。天地万物を創造し、命を支配なさる神様がイエス・キリストをこの地上に送って下さり、そして「イエスは、私達の罪のために死に渡され、私達が義とされるために復活させられたのです。」(ロマ4:25)。すなわち、キリストの十字架の死を通して私達の罪が赦され義とされる、神様の働きとしての復活です。 /n「私達はこのような宝を土の器に納めています」(7節)  土の器とは、土のちりから造られたといわれるこの体です。宝とは「福音」あるいはすぐ前の「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」のことです。土と宝とは全く対立するもので、相容れないものです。宝石をそのまま土に埋める人はいないでしょう。しかし神様は土に等しい私達人間を、宝石を入れる器として下さいました。この宝石は「神のものである、並はずれて偉大な力」(7節)即ち「私達は四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8節)力です。パウロは、自分は土のように弱いが、宝として与えられている神の力によって彼を襲う絶望と破滅から常に守られていると証言します。それは宣教者としての召命と伝道が、人間の力によらずに神様の力から出るものだからです。「私達は、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(10節)。パウロが受ける死の危険は、イエス・キリストの苦難が、自分の体において継続したものであり、それはパウロがキリストと苦難を共にし、苦難の中にあってキリストとの交わりの中に置かれており、この苦難は克服と勝利を力強く約束しています。パウロという弱い土の器の中で、復活したキリストの命が現れているのです。

「モーセの召命」 佐藤義子 牧師

/n[出エジプト記] 3章1-15節 1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。 /n[使徒言行録] 7章17-35節 17 神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。 18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。 19 この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。 20 このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、 21 その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。 22 そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。 23 四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。 24 それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。 25 モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。 26 次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』 27 すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。 28 きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』 29 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。 30 四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。 31 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。 32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。 33 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。 34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』 35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。 /nはじめに  日本基督教団では8月の第一聖日を平和聖日と定めています。旧約聖書では戦争の反対の「平和」はシャロームという言葉が使われます。 元来シャロームは、何かが欠如したりそこなわれたりしていない満ち足りた状態をさし、そこからさらに、無事、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解など人間の生きる上でのあらゆる領域に渡って、真に望ましい状態を意味する言葉です。このような意味での平和は神様の業であり、神様の賜物でした。このシャロームは人間が神様の意志に基づき、正義を行なうことによって神様との契約関係を正しく保つ時にのみ、現実のものとなります。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ書32:17)。  新約聖書の「平和」も、このシャロームを受け継ぎ、人間の生の全領域における(神様の意志に基づいた)真の望ましい状態をさします。それはイエス・キリストによって与えられる神様の愛と救いの現実・そのものをさします。私達は、イエス・キリストの十字架によって神様との敵対関係から和解へと導かれました。それによって神様と人間との和解だけでなく、人間と人間の間の平和への道も与えられました。一般社会では戦争のない世界が平和な世界と考えられています。しかし私達は、まず私達自身が神様の意志に従って、正義と公平の道を歩む決意を新たにしたいと思います。それは、平和が神様に従う時に賜物として与えられる神様の業であることを、聖書から学んでいるからです。 /nステファノの説教  本日の聖書は、ステファノがモーセについて語っている個所です。モーセが生まれた時代は、ヘブライ人の人口が増えてきた為にエジプト人から危険とみなされるようになっていました。そこでエジプト人は、ヘブライ人に重労働(粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業など)を課して虐待しました。又、人口増加を食い止め、力を弱める為にヘブライ人の助産婦に命じて、男なら殺せと命じます。しかし助産婦は神を畏れる人でしたから、この命令には聞き従いませんでした。ついに王は、生まれたヘブライ人の男の子はナイル河に放り込むよう全国民に命じます。モーセは奴隷化されたヘブライ人の子供として生まれました。 /n成長  モーセの母は、モーセをパピルスのかごの中に入れてナイル河畔の葦の茂みの中におき、それをエジプト王女が見つけ我が子として育てます。それゆえモーセはエジプト人として最高の教育を受けることとなりました。成人したモーセはある日、虐待するエジプト人を殺したことから、エジプトから逃げ出しミディアン地方にたどりつきます。そしてここにとどまる決心をし、祭司の娘と結婚して羊を飼う仕事をしていました。 /nモーセの召命  それから40年後、モーセはシナイ山で神様と出会います(出3章参照)。神様は、ご自身のことを、「わたしはある」という名で現われています。これは、「現にいる、生きて働く者としている」。「私は、私があろうとするものである。私は、私がなろうとするものになる」ということです。これは、神様が何であるか、何となるかは神様ご自身が決めることであり、神様の自由が神様によって宣言されている言葉です。神様はモーセに、エジプトからイスラエルの人々を連れ出すことを命じられますが、モーセはその召命に対して拒みます。自分は民に受け入れられないかもしれない・自分にはそのような使命を果たす条件が備わっていないという不安と心配です。拒み続けるモーセに対して神様は「私はあなたの口と共にあり、・・なすべきことを教えよう」と約束されました。(4:15)

「主はわが飼い主」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

/n[詩篇] 23編1ー6節 1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[ヨハネによる福音書] 10章7ー18節 7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 /nはじめに  昨年のクリスマスに、教会から全員にホームカレンダーを頂き、それを壁に貼ってあります。そのカレンダーには、マーガレット・タラントという画家が書いた絵がついています。その絵の構図は、長い杖を持った羊飼いが中央に立っており、その周りに20匹ほどの羊と数人の子供達がいる。そしてその絵の下の所に、詩編23編の1節から2節の言葉が書いてあり、その絵の説明として「羊を愛する羊飼い」という言葉が記されております。今年はもう10ヶ月以上もそれを見てきたことになります。 /n詩編23編  詩編は150編もある大きな書物で、大体、旧約聖書の中央に位置していますから、聖書を真ん中からちょっと右の方を開くと詩編が開かれます。その150編ある詩編の中でも特に有名なのが、この23編です。はじめに「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。」と記されております。神様と私達の関係は目に見えないものですが、この目に見えない関係を、目に見える関係として表現すれば、羊飼いと羊の関係にたとえられる。そういう比喩が用いられての詩編です。本日は、この詩編23編を最初に見ながら、神様と私達の関係について、最初に3つの点から学んでみたいと思います。 /n主は羊飼い  学びたい第一のことは、「主は羊飼いである」ということです。以前、使用していた口語訳聖書では、「主は私の牧者」と訳されておりました。今日、私達が使っている新共同訳聖書は「私」という部分を訳さずに、「主は羊飼いである」と訳しています。原文では「わたし」という文字が記されていますので、この箇所を直訳するならば、「主は我が飼い主」、「主は私の飼い主、私を導いてくれる方」という訳になります。先ほどカレンダーの話をいたしましたが、その絵に描かれている羊飼いは、左手に長い杖を持っていて、私共も羊飼いの杖というと連想出来ますが、杖の先の方が、ぐーと曲がっております。この杖というのは、狼などの野獣から羊を守る為の武器であると同時に、普段は、羊は目がそれほど良くないというか近眼のようなもので、目先のことしか見えませんので、羊が群れから迷い出ようものならば、その首のところを曲がった部分でひっかけて、元の場所へ戻す。そういうことの為に杖は使われる。その杖をもっている主は、私を導く羊飼いである、と冒頭で言っています。 /n王をも導かれる主  1節の冒頭に「ダビデの詩」とあります。ダビデというのはイスラエルの王様、人々を導く最高権力者でありました。王ですから大勢の人を導くのですが、自らをも、自分をも導かれる。自分も導かれる主が必要である。「自らを導く飼い主が、まさに主である」ということを、先ず冒頭で言っているということです。いうならば「全ての人の飼い主である」ということが言える訳です。ずっと後の時代ですが、ユダヤ人の男性は頭に小さなキャップをのせています(キッパと言います)。ユダヤ教だけではなくカトリックのローマ法王や、枢機卿も頭に小さなキャップをのせています。それは、自分達が最高ではなく本当の導き手なる方がいる。その方は私達をも招き導く飼い主で、それは「主である」ということを忘れないように、頭の上にそれをのせているという説明を聞いたことがあります。「主は私の羊飼いである。」そのことが、まず最初に詩編23編で言われていることです。 /n「わたしには何も欠けることがない。」  学びたい第二のことは、一節の後半部分「私には何も欠けることがない」ということです。羊飼いが、青草へ・水へと導いてくれるので、羊は「私には何も欠けることがない」と語るのです。必要な物は十分に備えられているので満足しているという状態です。羊にとって青草と水は必要なものであり、その必要なものがあればそれで十分なわけであり、それで十分だと満足する、ということを歌っているわけです。 /n飽きることを知らない蛭の娘  もしこの羊が、青草や水だけでは十分でない、もっともっと欲しいものがある、と、ぜいたくを求めるならば、まだまだ欲しい、満足ではない、欠けだらけだと叫ぶのかもしれません。まるで、箴言に出てくる蛭(ひる)の娘のように・・。「蛭の娘はふたり。その名は『与えよ』と『与えよ』。飽くことの知らぬものは三つ。十分だと言わぬものは四つ。」(30:15) /n食卓を整えてくださる主  しかしそうではない。羊は、主に養われる時に自分に必要な物が与えられて満足だ。そういう状態にあるということが歌われています。「食卓は整えられ、その杯は溢れている」とまで歌うのです。今日は収穫感謝祭!私共にも必要な物が与えられている。それは「満足」、満たされているということを覚えるものでもあります。羊は、羊飼いに導かれる時に「我が食卓は整えられ、杯は溢れている」と歌うのです。 /n恵みと慈(いつく)しみ  そんな羊と羊飼いの歌は、23編の最後で、もう一つのことが言われています。学びたい第三のことですが、6節に、「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。」と歌っています。一生涯、恵みと慈しみは、いつも私に付き添ってくるということです。「恵み」と「慈しみ」という言葉がここに書かれています。詩編もそうですが、聖書の中では、恵みと慈しみという言葉は同じ意味で使われることがあります。この二つの言葉で一つのことを総合的に表現しようということです。 ルツ記という書物の中にこの慈しみ(ヘセド)が何度も出てきます。ナオミという姑と、嫁のルツ二人とも、夫を異郷の地・モアブで亡くしてしまいます。そしてこの二人はそのモアブの地から、故郷ベツレヘムへ引き揚げてくるのですが、帰ってきてみると日毎の食べ物にも事欠く状況に陥ります。そのような時には、よそさまの麦畑に行って落穂を拾っても良いということになっておりましたので、嫁のルツは日ごとの糧を得ようと、ボアズという農夫の畑に落穂を拾いに出かけて行きます。ボアズはルツが落穂を拾いに来るということを聞いて、農夫達に、このように命じる箇所があります。「麦束の間でも、あの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけではなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ、あの娘がそれを拾うのをとがてはならぬ」(2:15b)。普通、落穂ですから刈り取った後の畑から拾って食べて良いことになっていますが、刈り取っていない部分でも拾わせてよい。しかも、わざわざ束から穂を抜いて、刈り取った後の畑に落とし、それを拾うのをとがめてはならない、と、そのように農夫たちに命じる・・。これは、農夫ボアズがルツに示した、慈しみであると表現されております。 /n神のいつくしみ  一方的に恵みとして与えられるものですから、恵みと慈しみというのは同じような意味で使われ、人間が人間に示す慈しみがルツ記にそのように表現されておりますが、この23編で言われている慈しみは、人からではなくて、神から与えられるというのです。羊飼いから羊に与えられる。ですから自分の努力や手柄で獲得するものではないのです。自分が努力すればいっぱいもらえるとか、自分が何か立派なことをすれば得られるというものではなくて、全く一方的に神から与えられるもの、それが恵みと慈しみであり、それが「いつも私を追う」と表現されています。受身形で、自分から追うのではなく、向こうの方から追ってくるのだという表現が使われています。それは勿論「慈しみと恵み」ですから、一方的に与えられるものとして受身のような表現がなされていますが、その後で、劇的な変化がこの羊に起きております。それは受身ではなくて、主体的に、自分の判断で語る部分が最後に記されています。それは、「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」というのです。羊は自主的に、羊飼いの所に身を寄せると決断している。 最初に申したように、これは神と私達との関係を比喩的に表現しているもので、まさに、神とキリスト者の関係を二重写しにしている表現であるといえます。それが詩編の23編。それゆえに詩編23編はしばしば引き合いに出され、珠玉の詩編として何度も読まれる詩編なのです。 /n「わたしは良い羊飼い」  羊飼いと羊にたとえて、神様との関係を私達が教えられるというのは、この詩編23編だけではなく新約聖書にもあります。その新約聖書にある一例を、先ほど、ヨハネ福音書10章で読みました。特に11節からは羊飼いが出てまいりますが「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。― 狼は羊を奪い、また追い散らす。― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 23編と、特にこの箇所が徹底的に違うことは、羊飼いに、悪い羊飼いと良い羊飼いがいるということです。特に今読んだ後半は、悪い羊飼いであって、狼が来ると羊を置き去りにして逃げる。自分の羊ではないということで、さっさと、多分羊を守る為の杖を放り出して逃げるということです。ですから自分に責任がある命を失ってしまっても、自分の命だけは助かりたいというのが悪い羊飼いだというふうにここでいわれています。 ところで悪い羊飼いといいますが、羊の命と人間の命を比較する。人の命と羊一匹の命を比較する。私共は人の命の方が尊いと判断するのは自然であって、そうならば、あながち、この悪い羊飼いが、羊一匹二匹の命のために、自分の命をそこにかける、羊に対してかけるということは、それは、いかがなものかと言う意見がでるのは当然ではないかと思います。 /nサタンの抗弁  そのような議論は旧約聖書のヨブ記にもあります。神様の所にサタンがやってきて、神様と対話する場面です。神様がサタンに対して、「この世の中でヨブという人ほど立派な信仰を持った者はいないだろう」と、彼ほど正しく生き、神を畏れて、悪を避けている者はいない。お前はその信仰者ヨブを見たか、という対話の場面があります。するとサタンは神様に対して抗弁をします。そういうことはないだろう。皮には皮をと申します。まして命の為には全財産を差し出すものです、と、そんな風に抗弁します(ヨブ2:4)。サタンの言い分は、人間というのは自分の命が大事なもので、その命を守るためには全財産を投げ出しても、無くなってもいいものである。だからヨブは、神様が大事なのではなくて、自分の命が大事なのだというのです。人間の心の底にある利己主義を、サタンは冷ややかに分析しての発言でした。 /n普通の価値観を打ち破って  それが普通の価値観であるとするならば、その普通の価値観を打ち破ったのが「良い羊飼い」です。良い羊飼いは、羊の命を守るために自らの命をかけるというのです。とするならば、これはもう私達の常識では人間業とは思われない価値観です。確かに三浦綾子の塩狩峠の話が連想されますが、人類の歴史を通して挙げることのできる出来事としては、これはもう人間業ではなくて、あの、イエスキリストの十字架をおいて他にそれはない、ということです。 /n良い羊飼いとは十字架で命を差し出されたイエス・キリスト  新約聖書で「良い羊飼い」という比喩をもって伝えようとしたのは、実に、イエス・キリストの十字架でありました。十字架という出来事によって、自らの命を羊の為に差し出した羊飼いの姿が表わされています。「羊飼い」という比喩は、詩の世界の単なる文学的技法のように思われるかもしれません。しかし十字架の出来事によって、それは「神を信じる者」と「神」との関係を保証する歴史的な出来事となったのです。すなわち「イエス・キリストを信じる者とイエス・キリスト」との関係が、まさに「良い羊飼いと羊」の関係として表現されていたのです。私達はそれをこの聖書から学ぶのです。とするならば、私共にとって23編の最後「主の家に私は帰り、生涯そこにとどまるであろう。」の御言葉は、今日のキリスト者の信仰告白でもあることを覚えたいと思います。

「洗礼者ヨハネの使命」 平賀真理子 伝道師

/n[マラキ書] 3章23-24節 23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。 /n[マルコによる福音書] 6章14-29節 14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保/護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の素晴らしい御業の噂が広まりガリラヤの領主ヘロデ王にもその噂が届いたこと、ヘロデ王はイエス様を、自分が処刑した「洗礼者ヨハネ」の生き返りの人物として恐れたことが書かれています。 /n洗礼者ヨハネ  ヨハネはイエス様の親類であり、祭司の息子でもあり、由緒正しく、荒野で禁欲生活をしていた人物でした。ルカ福音書に「神の言葉がザカリヤの子ヨハネに降った」とありますから、ヨハネは神の言葉を託され、選ばれた「預言者」でした。約四百年間、預言者は出ていませんでしたので、久々に優れた人物を見た民衆の中には、ヨハネこそ「救い主」ではないかと期待した者もいました。しかしヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道を真っ直ぐにせよ』と。」と語り、自分は「救い主が来る前に人々の心を神様に向ける」救い主の「先駆者」にすぎないと答えています。このヨハネがイエス様に洗礼を授けた時、イエス様の上に天から聖霊が降り「これは私の愛する子。これに聞け」という神様の声がしました。ヨハネは「この方こそ神の子である」と証ししたと聖書に記されています。 /nヘロデ・アンティパス  ヘロデ大王の息子、アンティパスは、兄弟の妻を盗るという律法違反を犯しました。ヨハネは決然とこのヘロデ王を断罪しました。やましさを感じていたヘロデ王はヨハネを捕えて牢に入れ、自分の悪評を封じ込めようとします。悪は公けになるのを嫌い、隠れたがります。それでもヘロデ王は<span style="font-weight:bold;">「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお、喜んで耳を傾けて」</span>いました。 /nヘロデ王、ヨハネを殺す  しかし彼は、妻や娘の悪だくみと自分の見栄やメンツによりヨハネを殺してしまいます。「王は非常に心を痛めた」(26節)とありますから、かなり不本意な結果だったのでしょう。欲望に流されて決断の基準がない人間の愚かさが表れています。彼は、正しいと信じた預言者を殺してしまったことに自責の念を持っていました。それで、死んでしまったヨハネをその後も恐れていて、イエス様のうわさを聞いた時、洗礼者ヨハネが生き返ったと恐れたのです。 /nヨハネとイエス様の死  洗礼者ヨハネの生涯は、神の子・イエス様の生涯を予め示しています。この世の権力者が不正な方法で(とても納得できない形で)、神様が遣わした正義の人を殺す。洗礼者ヨハネは権力者ヘロデ王に、そしてイエス様ご自身も、当時の宗教指導者や政治権力者に殺されました。どちらも正しいことをきっぱりと述べたことによる、権力者側の反発からでした。 /nメシアが来る前にエリヤが来るとの預言  当時、「メシア(救い主)が来る前にエリヤが現れる」(マラキ書)と言われていました。イエス様は、<span style="font-weight:bold;">「その人はすでに来た。しかし人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子(ご自分のこと)も、そのように人々から苦しめられることになる。」</span>と言われ、それは、洗礼者ヨハネのことだと弟子たちが悟った、と、マタイ福音書にあります(17:12-13)。 こうして、すべての預言は成就していきました。 /n受難節  今は受難節です。イエス様が早い時期から、人々の罪を贖うために、苦しみの道、死の道を覚悟されていたことを覚え、人間としての罪の重さを思い、主の贖いへの感謝の思いを強くしたいと思います。神様の基準に自分を合わせずこの世の浅はかな価値観、自己中心的な考え方・・から遠ざかれるよう、祈り求めたいと思います。具体的には、この世に力を持つ「悪魔」の策略に対抗して立つことができるように、神様が与えて下さる武具(エフェソ6:10-)を身につけたいと思います。