説教要旨 「天の国を学んだ学者」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 13章44-52節 44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。 48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。 49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」 /nはじめに  本日の聖書でイエス様は三つのことを語っています。初めの二つは天の国のたとえであり、三つ目は天の国のことを学んだ者の「姿」です。 /n宝と真珠のたとえ  ある人が畑を耕していたら偶然に宝を見つけました。当時パレスチナでは財宝をつぼに入れて土の中に埋めることがよくあったようです。戦火から、或いは略奪から財産を守る為です。たとえでは、財産を埋めた畑は何らかの事情で人手に渡り新しい所有者が畑を小作人に任せていたような想定です。たとえでは、宝を見つけた人がその宝を手に入れる為に全財産を処分して畑を買ったという話です。真珠のたとえでは、真珠の商人が良い真珠を探しており、ついに本物の高価な真珠を見つけた時、彼は全財産を処分してこの真珠を買ったという話です。 /n共通点と相違点  最初の人は、宝を探していて掘り当てたのではなく、たまたま偶然に見つけました。それに対して真珠商人はあちこちを探し尋ねた結果見つけました。共通点は、彼らが発見した後、手に入れる為に同じような行動をとったことです。彼らは今まで蓄えてきた財産をすべて処分して見つけたものを手に入れました。 /nすべて処分するということ  「汗と涙の結晶」などという表現があるように、努力を重ね、それ迄に築き上げてきた自分の人生「そのもの」に近いものを手放すということは簡単なことではありません。ところがこのたとえでは、手放すことに何のちゅうちょも迷いも見られません。むしろ喜んでそれをしています。それほど価値のあるこの宝・真珠とは何なのでしょうか。 /n天の国・天の支配  これは天の支配、言い換えれば神様の支配の中に入る、神様の支配のもとで生きるということです。それはイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に生きる、福音を信じて永遠の命を与えられるということです。そのことはそれまで築いてきたもの全てを引き換えにしても惜しくはない、それほどの価値があるということです。それによって開かれるあらゆる可能性を秘めた豊かな生き方は、人間の思いをはるかに越えていて、まさに宝であり高価な真珠です。これを手にする為の引き換えとして「すっかり売り払う財産」とは何か?各自、神様から示されるでしょう。 /n網のたとえ   後半の、網によって集められた魚のたとえで引用される網とは地引き網のことです。漁師が夜のうちに網を投げこんでおくといろいろな魚が入り、朝、一杯になった網を引き揚げます。ある聖書学者は「伝道とは暗い海に網を投げるようなものだ」と言いました。これは、罪の世界に生きる人間を、暗い夜の海に泳ぐ魚にたとえ、網にかかる、とは偶然御言葉の網にかかり救われることをいっています。そして今の私達の状態は、朝の陸揚げ(終末)を待って時だとこの学者はいっています。聖書は、網が引き揚げられると「良い魚・悪い魚」の選別が漁師によってなされるように、救われた人間も又、天使によって必ず選別される時を迎えるというたとえです。 /n天の国のことを学んだ者  以上、「種まきのたとえ」から始まった13章の七つのたとえを語り終えたイエス様は、弟子達にこれらのたとえを理解したかどうかを尋ねました。弟子達は「分かりました」と答えました。イエス様は、天の国のことを学んだ者は「一家の主人」に似ていると言われました。一家の主人は、家族・来客の為に必要に応じて倉から古いものや新しいものを自由に取り出すことが出来ます。弟子達も今や、人々に神の国を伝えていくために必要なものを取り出す為の倉を持ち、そこにそれ迄教えられてきた律法を中心とする古い教え(旧約聖書)と、それに新しい光を当てられたイエス様の山上の説教をはじめとする「神の支配」の教えが入っています。救いに招かれ信仰を与えられている私達も又、倉を持つことがゆるされた弟子の一人とされた者です。神様の支配のもとで生きる毎日の歩みの中で、その都度、倉から必要な神様の教えを引き出し、それに聞き従い、人にも伝えることが出来る者になりたいと願うものです。

説教要旨 「からし種一粒ほどの信仰」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章14-20節 14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、 15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 /nはじめに  今日は8月の最初の日曜日で、日本キリスト教団が平和聖日と定めている日です。世界の現実は平和とはほど遠く、毎日のようにイラクでは自爆テロに巻き込まれての死者は絶えず、アフガニスタンではタリバンによる韓国人拉致が起こり死者がでています。家族の方々の緊張は私達の想像を越えたものだと思います。更にイスラエルとパレスチナの対立は根強く復讐が繰り返されています。国家間の戦争、或いは内戦による難民や孤児達の姿がテレビで放映される度、私達の胸は痛みます。なぜ人は争い続けるのでしょうか。平和とほど遠いのは、世界のことだけに終らず、日本でも地域で、学校で、勤務先で、家庭内で平和が奪われている現実があります。これは人間の罪の結果であるといえますし、それは即ち、この世では、悪の力が猛威をふるっているのです。 /n「平和」についての聖書のおしえ  イエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる」(山上の説教)と言われました。6月の伝道所開設記念礼拝では「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐は私のすること、わたしが報復すると主はいわれると書いてあります。」(ロマ12章)を聞きました。又、イエス様は弟子達に「ふさわしい人を選び、その家にとどまり、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は与えられる」(10:12‐13)と約束されました。本日の平和聖日において、私達は平和から遠いところで生きている人々を覚えて、その地に平和が実現するように祈るとともに、私達自身が直接身を置き、かかわる所が、平和であるように祈りたいと思います。  __________________ /n父親の願いに対して答えられなかった弟子達  本日の聖書には、てんかんの病を持つ息子の父親の、いやしへの願いと、それに対するイエス様の応答、さらには信仰についての教えが記されています。イエス様の不在中、弟子達には息子をいやすことは出来なかったというのです。  「イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出しあらゆる病気や患いをいやす為であった」(マタイ10章)とありますから、12弟子にはいやす力が与えられていました。にもかかわらず・・です。嘆く父親と、いやすことが出来なかった弟子達を前にしてイエス様はその不信仰を嘆かれ、彼らが本当の正しい信仰を持つ迄には、どれだけの時と忍耐を必要とするのだろうかと言われました(17節)。山上では、確かに生きて働いておられる神様のご臨在がありました。しかし山の下では、不信仰が蔓延しているのです。 /nイエス様のいやし  イエス様は「その子をここに、私の所に連れて来なさい」と言われ、息子をいやされました。同じ内容がマルコ福音書にもありますが(9章)、以下のような会話が記されています。(父親)「おできになるなら、私共を憐れんでお助け下さい」。 (イエス様)「出来ればと言うか。信じる者には何でも出来る。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」 /n弟子がいやせなかった理由  なぜ私達はいやせなかったのか、と弟子が聞きました。イエス様はその理由を「信仰が薄いからだ。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・略」と言われました。からし種一粒ほどの信仰とは、イエス・キリストを見つめることから始まります。そこにはあふれる愛といつくしみと恵みがあります。それを下さいと求めるのです。求める者には与えられます。私達はそれを受け取るのです。 /n信仰について  信仰はみずからが生み出すものではなく、与えて下さるものを受ける事だといわれます。与えられていることに気付かなかったり拒んでいることもあります。私達が聖書を通して語りかけて下さるイエス様を見つめ、イエス様と向き合い、イエス様が指し示している神様を仰ぐ時、私達は自分を縛っていたものから自由にされて、それ迄捨てられないと思っていたものが色あせて見えてきます(フィリピ3:7‐参照)。 信仰が与えられるということは新しく生まれるということです。人生が変わるということです。遠かった神様がすぐ近くにいて、自分を守り、導き、支えてくれる、そのような人生を歩むようになることです。 /n信仰の力  「山に移れと命じてもその通りになる」(20節)とは、信仰には、私達の常識や経験が不可能と判断することも可能にする力があるということです。山を創られた神様を仰ぎ見る信仰者は、山と同じように神様の秩序に従います。創り主である神様が山を移すことをお望みになるならば、そのようになるとの信仰です。 /nからし種一粒ほどの信仰  からし種を畑にまけば成長して大きくなり、空の鳥がきて枝に巣を作るほどの木になります(マタイ13:32)。からし種一粒ほどの信仰とは、生きている信仰、命が宿っている信仰、成長していく力を内に秘めている信仰のことです。薄い信仰とは「生きていない信仰」です。神様を信じているといいながら実際の生活には何の力も与えていない信仰です。生きた信仰は、全知全能の神様を信じて祈ります。すべてのことが神様の御心によって行われることを信じます。からし種のように小さな信仰でも祈ることが出来、恵みを求めることが出来ます。恵みが与えられると、信仰はその恵みで成長していきます。私達は毎週礼拝に招かれ、恵みの座に連なり、聖書を通してイエス・キリストの言葉にふれ、生ける神様の力を知れることは本当に感謝なことです。今週も与えられている信仰を通して沢山の恵みを戴きながら成長し、求道中の方々は、信仰が必ず与えられることを信じて祈りつつ歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「主がお入り用なのです」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章1-11節 1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。 /nはじめに  今日の聖書は、毎年、受難週の初めの日曜日(しゅろの日曜日Palm Sunday)に読まれる個所でもあります。イエス様はご自分の受難と復活を予告されましたが、その苦しみを受ける為にエルサレムに近いオリーブ山沿いのベトファゲまでやってきました。町についた時、イエス様は二人の弟子を使いに出しました。(かつて伝道の為に12人の弟子を遣わされた時も、二人一組でした)。ある学者は、二人というのは助け合う為でありワンマンにならない為であり、弟子達が自分の能力や資質によって立っているのではなく、遣わされた者であることを忘れない為だと言います。 /nエルサレム入城  イエス様はエルサレムの町にお入りになるにあたり、勝ちどきをあげて自分の国に帰ってくる王のように、入城することを考えておられました。但し一番違うところは、馬ではなく「ろばに乗って」ということです。馬が戦いの象徴とすれば、ろばは平和の象徴です。イエス様は平和の王として神様から遣わされました。人間は罪の為に、神様から離れて断絶関係にありましたが、神様から、罪の赦しをいただく為に、これから「和解の使者」として受難の時を迎えようとされているのです。イエス様をメシと信じる人々のメシア像は、ローマからの独立を勝ち取る為に戦う馬に乗る王の姿であり、ろばに乗る王ではありませんでした。けれどもイエス様が二人の弟子を遣わした目的は、エルサレムにお入りになる時に乗る「ろば」を連れてくることでした。 /n二人の弟子の仕事  イエス様は「向こうの村に行けば、すぐろばが見つかり、そのろばと一緒に子ロバがつながれている。それをほどいて引いてきなさい」と言われました。二人の弟子はろばを探すために奔走することなく、言われた通りに従うことで、イエス様の手足としての役割を果たしました。 /n旧約聖書の成就  子ロバにのってメシアがエルサレムに入られることは、ゼカリヤ書で預言されていたことでした。マルコ福音書には、二人の弟子がロバのひもをほどいた時、そこに居合わせたある人々が「その子ロバをほどいてどうするのか」と聞いてきた・・とあります。二人はイエス様から教えられた通り「主がお入り用なのです。」と答え、彼らは許してくれたと伝えています。私達は今日の聖書において、確かに神様の救いのご計画が神様の御手の中で着々と進められていくのを見ることが出来ます。 /n主がお入り用なのです  見慣れぬ二人の旅人が勝手にろばをほどくのを許可した村人の判断は、「主がお入り用なのです」というその一言で十分であったようです。このようなことは、見える地上ではあり得ないことです。しかしイエス様が必要とされるものにはそのプロセスにおいて、見えない神様が確かにかかわっておられることを、私達は聖書を通して確信させられます。私達の一つ一つのわざも、神様のご計画の中に置かれる時、今も生きて働いておられる神様が、人知を超えて実現へと導いて下さいます。

説教要旨 「ユダの裏切り」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章14-25節 14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、 15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。 17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。 28 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」 19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。 20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。 21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。 24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」 /nはじめに  12弟子の一人ユダが祭司長のところに行き「あの男(自分の生涯をかけて今まで従ってきた主イエス・キリストのこと)をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(15節)と尋ねました。居場所を探す敵方の当局に、ユダはイエス様の身柄を引き渡す用意があることを告げたのです。なぜ、ユダはこのような気持になってしまったのか。いくつかの小さな点ともいえる出来事が、ある時のある点でつながり、それまでの方向とは全く別の方に引っ張ってしまうことがあります。又、たった一度の出来事が、これ迄のすべての歩みを空しくさせてしまうこともあります。昨年秋の礼拝で、佐々木哲夫先生はユダの裏切りについて語られた時、ベタニヤでの出来事を引用しながら、弟子達の期待とイエス様の現実の食い違いを挙げられ、イエス様よりも自分の主義主張を優先させたことにあると語られました。「だから、目を覚ましていなさい」(24:42)との御言葉は、サタンの介入を許した(ヨハネ13:27)ユダにならない為の、私達の魂への言葉でもあります。 /n過(すぎ)越(こし)の祭り  今日の聖書の20節からは過越の食事の場面の出来事が記されています。過越の祭りは、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時に、神様の大きな恵みと憐れみによってモーセという指導者が与えられ、エジプトを出て自由の民とされた、その「出エジプト」の際の食事を再現し、子供達・孫達に選民イスラエルの歴史を語り伝えていく祭りです。 /n「わたしを裏切ろうとしている」  日没後に始められたこの正式な会食の途中で、イエス様は突然12人の弟子達に向かい「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」と言われました。一瞬、時が止まったような、重い沈黙が流れたことでしょう。そしてその沈黙に耐えられず誰かが口を開いて「主よ、まさか私のことでは」と一人がいうと、他の人もかわるがわる言い始めました。自分は裏切らないと思いつつも、イエス様に私ではないと念を押してもらわなければ不安な弟子達の姿が伝えられています。人間は誰でも裏切る可能性を持っているということです。ペテロが「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(35節)と大変頼もしい返事をしたにもかかわらず、三度もイエス様を知らないと言った話はあまりにも有名です。 /n「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。人の子は、聖書に書いてある通りに、去っていく。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」  鉢(パンや肉を浸すスープを入れてある器)は手を伸ばすか回すかして会食したので、特定の人を指す言葉ではないようです。人の子(イエス様)がこの世を去るのは、聖書の預言の成就です。イエス様は神様のご計画に従って歩むのみです。即ち、人間の救いのご計画に向かって、愛する弟子の裏切り行為の中を、毅然としてご自分の道を進まれていくのです。同時に、裏切る者の責任は問われます。その者は不幸だ、と言われます。神の御子キリストを売り渡す者は、滅びの道に行くしかないからです。 /n悔い改めの時を逃したユダ  イエス様から「裏切る者は神の裁きを担わなくてはならない」ことを言われた時、ユダはその恐ろしさの前で悔い改めることも出来たはずでした。しかし彼は心を頑(かたく)なにして、自分の秘密が暴露されることの方をより恐れました。彼は知らないふりをして「まさか私のことでは」と悲しんでみせ、裏切りをあたかも嫌っているかのように振る舞いました。このユダの言葉に対して、イエス様は「それはあなたの言ったことだ」と、ユダが自分の心の中にあることを明らかにした言葉として返答されました。教会で罪を語るのは、罪を赦して下さったお方がいることを伝える為です。すべての方が、罪の赦しを受けるように招かれています。招きに答えるとは、自分の中にある罪を認めて悔い改めることです。  ユダは、イエス様の有罪の判決が下ったのを知って後悔して銀貨30枚を返しにいきますが、断られて首をつって死んだと27章に記されています。何とも悲惨な結末です。ユダは自分で自分をさばいたのです。人は自分をさばくことはできません。裁く方はただお一人神のみです。神様のなさることを人はしてはならないのです。ユダは悔い改めるべき時を失い、赦しをうける機会を逃しました。 /nおわりに  今朝は「ユダの裏切り」と説教題をつけて語ってきました。では今朝の聖書の主人公はだれかと問われるならば、それは神様であり、御子キリストです。私達は、この御子イエス・キリストが十字架への道を歩んでくださったからこそ、今、罪ゆるされ、平安と恵みの中を歩むことができるのです。コリント2章には、今や恵みの時、今こそ救いの日、とあります。ここにおられるすべての方が、私達と一緒に、神様に従う真理の道を歩まれるよう祈るものです。

「永遠の命にあずかる」 佐藤義子 牧師

/n[マタイによる福音書] 25章31-46節 31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33 羊を右に、山羊を左に置く。 34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」 /nはじめに  マタイによる福音書は28章までありますが、その中にイエス様の説教が大きくいって五つあります(①[山上の説教] 5章-7章 ②弟子達を伝道に送り出す[派遣説教]10章 ③種まきのたとえに代表される[たとえによる説教] 13章 ④[正しい教会の在り方についての説教] 19章 ⑤[終末についての説教] 24章-25章)。本日はイエス様の説教の最後の個所にあたります。 /n二つに分けられる  ここには、すべての人は永遠の罰を受ける者と永遠の命を受ける者とに分けられる時が来るということ、そしてその分けられる原則について語られています。当時、羊飼いは羊とヤギを同時に放牧しましたが、夕方になると寒さを嫌う山羊と、新鮮な空気を求める羊とは分離されました。そのように、イエス様が再びやってくる時(終末・再臨)、人間も又、右と左に分けられるとイエス様は語ります。 /n右側に置かれた人達  その時、右側の人達にイエス様は「さあ、私の父に祝福された人達」と呼びかけます。彼らは神様の祝福をいただく人達です。さらに続く言葉は「天地創造の時からお前達に用意されている国を受け継ぎなさい」です。この世界が創られた時から用意されている神の国・天の国に「あなた達は初めから入るように招かれている」という驚くべき内容です。  旧約聖書のエレミヤ書には、エレミヤが神様の言葉を取り次ぐ預言者としての召しを受ける時の神様の言葉があります。「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」との言葉です(1:5)。ここでは更にさかのぼり「天地創造の時からあなた達の為に用意されている神の国を受け継ぐように」といわれています。私達は、自分の命は親の結婚後に初めて可能性が与えられると考えますが、そうではないというのです。天地が創られた時から神の国に招かれる人達が決まっているというのです。神の国を受け継ぐように定められた人達とはどのような人達だというのでしょうか。イエス様は言われます「お前達は、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」 /n右側の人達の応答  それを聞いた右側の人々は驚いて、自分達はイエス様に対してそのようなことをした覚えはないといいます。神の御子イエス様がそんな悲惨な中におかれていたとは考えられなかったからです。しかしイエス様は、右側に置かれた人々は、小さな存在であった彼らの隣人達にしたことがイエス様にしたことであり、その人と共にイエス様がおられたと語られます。このことをたとえるならば、幼な子にはいつもかたわらに母親が共にいて、幼な子にしたことは幼な子の母親にしたと同じだといえます。 /nいつも道はふたつ!  左側に置かれた人々に対するイエス様の宣言も、逆の意味で彼らにとって予想外でした。自分達は隣人愛を行なってきたと考えていたからです。しかし「だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。とあります。神様に仕えるとは神様の意志を行うことであり、神様の意志は、小さい存在である隣人にも心を開くことです。自分の欲望・自分の満足を求めた隣人愛は「最も小さい者の一人であるイエス様」抜きの愛です。 /n「正しい人達は永遠の命にあずかる」  「正しい人達」とはイエス様を受け入れた人のことです。イエス様を受け入れるとは、イエス様が神様から遣わされて「私の罪に対する赦しを神様から得る為」に十字架にかけられたことを「信じて受け入れる」人のことです。それは、この世の支配から神様の支配のもとに移されて神様の憐れみを豊かにいただくことを意味します。神様の憐れみの中に置かれた者は、イエス様の愛によって心が隣人に向かって開かれ、隣人が助けを必要としていることに気付かされ、押し出されていくのです。

「神の国を広めるために」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書] 61章1節 1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 /n[マルコによる福音書] 1章35-45節 35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。 40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 /nはじめに  「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)。その光景を想像して下さい。私はこの箇所で、いつも心洗われる心地がして胸がふるえます。神の御子たるイエス様が父なる神に祈られている。人里離れた、寂しい所で・・。その前日(安息日)に会堂で人々に教え、悪霊を退治し、その後すぐ弟子シモンの姑の病を癒し、日没とともに安息日が終るやいなや押しかけてきた多くの人々の癒しや悪霊退治をなさり、その興奮がまだうずまいている場所を抜け出して・・です。 /n弟子達の思い   弟子達は、神の国を広めるイエス様のお働きの大切さを理解することは出来ませんでした。多くの人がイエス様を賞賛し,権威あるお姿に感動し,その癒しに感謝している。これが続いてほしい・・。「皆が捜しています。」(37節)の言葉の背後には、弟子達が輝かしい成功を目の当たりにして「戻って、癒しや悪霊退治を再開してほしい」という願望があったかもしれません。そこには「神様」より「自分の名誉」の方が大事という「罪」の姿があります。 /nイエス様のお答え  イエス様は、「近くの他の町や村に行こう。そこでも私は宣教する。その為に私は出てきたのである。」(38節)と言われました。イザヤ書に「私を遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせる為に・・」(61:1)と、ありますが、この「貧しい人」とは経済的なことではなく神様の救いを渇望する人のことです。御自分のなすべきことは「弱い立場の人々や苦しめられている人々など神様からの恵みをひたすら待ち望む人々に神の国の到来を告げ知らせること」であるとのイエス様のゆるぎない決意をこのお答えから窺い知ることができます。 /n重い皮膚病  40節以下に「重い皮膚病」(以前はらい病)の人がイエス様のもとにやってきたことが記されています。皮膚病は、他と比べると見た目で分かりやすく明らかに普通と違います。さらに当時のイスラエル社会においては重い皮膚病患者は「聖なる民族」にふさわしくなく、罪で汚れていると考えられ、症状の辛さだけでなく律法で不浄の者とされ、社会から除外され、町や村から離れた場所に隔離され、誰かが近づいてきたら「私は汚れた者です」と言って相手に汚れが移らないようにするよう求められるという辛い仕打ちが待っていました。清さを保つ為とはいえ、これが律法主義の限界です。 /nイエス様との出会い  彼は治りたい一心で、神様から来るその癒しの力に全幅の信頼を寄せ信仰を表明しました。イエス様は「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ。』と言われ」(41節)ますと、たちまち皮膚病は癒されました。病が癒される3つの要素(1神様の憐れみが注がれていること、2手を差し伸べて触れるとの治療行為、3励ましの言葉)がここにあります。重い皮膚病を癒された人にイエス様は「誰にも話してはならない。ただ・・自分自身を証拠として祭司に見せ、律法に従い清めの献げものをするように。」と言われました。 /n神の国を広めるために  しかし彼は自分の喜びを話す事を優先します。彼の行動でイエス様の御働きに支障が出ました。評判がいよいよ広まり人を避けねばならなくなったことです。町の外の,人のいない所に退かれるイエス様。人が神様の言葉に従わない結果をイエス様が受けておられるのです。(私達の罪の贖いを引き受けられる立場に立たされておられます)。「それでも人々は四方からイエスのところに集まってきた」(45節)。イエス様が全身全霊で求めた神の国を広める為に学びたいことは、神様の愛と力を満たす為に静かな所で祈ること。神様の御心を第一に考え行動する決意。そして高ぶらず、一時の感情に流されず御言葉に従うことです(後略)。

「聖霊降臨」 佐藤義子牧師

/n[詩篇] 62:8-9 8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。 9 民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ /n[使徒言行録] 2:1-13 1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4 すると、一同は聖霊に満たされ、““霊””が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 /nはじめに  本日の聖書は「<span style="color:#0099FF;"><span style="font-weight:bold;">あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。</span></span>」(1:8)との約束の成就の始まりです。イエス様の昇天後、11人の弟子・婦人達・母マリア・イエス様の兄弟達は心を合わせて熱心に祈り、欠けてしまったユダの使徒としての任務を継がせる為に、信仰者の群からマティアを選び、約束の聖霊が与えられるのをひたすら待ちました。 /n五旬祭(ギリシャ語でペンテコステ・50番目の日)  やがて五旬祭(ユダヤ教の三大祭りの一つで、他に、過越の祭り、仮庵の祭りがある)がやってきました。五旬祭は七週の祭り(古くは「刈り入れの祭り」)と呼ばれ、過越の祭りの時期に大麦に鎌を入れ始める時から7週間を数えた翌日の50日目に、土地を与え食物を豊かに実らせて下さる神様に初物を捧げて感謝し、喜び楽しむお祝いの日です(レビ記23章参照)。やがてこの祭りは、シナイ山でモーセを通して律法が与えられたこととも結びついて祝われるようになりました。この日の朝、弟子達はこのユダヤ人の伝統的行事を祝うためでしょう、「一つになって集まって」(1節)いました。 /n聖霊降臨  突然大きな音が聞こえました。それは激しい風が吹いてくるような音(暴風が吹き荒れるような音?)でした。それは天から聞こえ(2節)、彼らが座っていた家中に響き渡るような大きな音でした。そして炎のような舌が現れて、一人一人の上にとどまりました。五旬祭の出来事の奇跡は、まず耳から、そして目に見える事柄で始まりました。しかしこの大きな音も炎のような舌も、「ただのしるし」です。この出来事の本当の奇跡は、「神様がかかわられた」ことです。神様がかかわられるしるしの特性は「突然」であり、その働きは「天から」です。ヘブル語では「風」も「霊」も「息」も同じ言葉です。「激しい風が吹いてくるような音」は神様の霊の到来を告げ、「家中に響き渡った」とは、全世界が神様の言葉の伝道で満たされることを伝えているともいわれます。「炎のような」とは、火は神様の霊の一つの現れであり、その舌が、弟子の一人一人に触れたことによって、弟子達は聖霊に満たされました。 /n集まってきた人々  「<span style="color:#0099FF;"><span style="font-weight:bold;">エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいた</span></span>」(2:5)。彼らは純粋なユダヤ人であり、かつて世界各地に散って住んでいた人達です。外国で生まれ育ち、長いこと外国暮らしをしてきたけれども今や両親の祖国へ戻り、ここに住んでいる人達です。「信心深い」とは、親達からいつも神様の救いの業を聞かされ、律法や預言書を通して養われた信仰、救い主を待ち望む人々だったのでしょう。この人達がペンテコステの奇跡の場に居合わせた人々でありました。 /n“霊”が語らせるままに・・  聖霊に満たされた弟子達は、霊が主体となって外国語で語り始めます。大きな音に驚いて集まった人々は、今度は弟子達が語る外国語の説教に驚かされました。それは、自分達が生まれ育った国のなつかしい言語でした。その内容は、「神の偉大な業」(11節)すなわち、イエス・キリストの洗礼から、十字架の死と復活、そして昇天に至るキリストの出来事です。この神様の大いなる救いのわざを、霊が弟子達に語らせました。 /n相反する反応  説教を聞いたある人々は、理解に困難な状況を前に呆然としながらも、その意味を問おうとし、自分達の知らない未知の、しかも重大な何かが起こるような予感を感じた人々です。不思議なことを「不思議」と受け止める人々です。他方、「あの人達は新しい酒に酔っている」とあざける人々がいました(13節)。彼らは人間の理性を過信し、その理性の為に方向をあやまる愚かな人達といえるでしょう。こうして約束された聖霊は、遂に天からくだり、弟子達に与えられ、約束は成就しました。今も聖霊は働き続け、信じて求める者に与えられています。(参照聖書箇所:ヨハネの手紙4:13、ロマ書5:3-5、ロマ書8:9、11、コリント書12:1-11)。

「聖霊による一致」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 32章15-20節 15 ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。 16 そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。 17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。 18 わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。 19 しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。 20 すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。 /n[エフェソの信徒への手紙] 4章1-16節 1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。 7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 8 そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 9 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 10 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 /nはじめに  本日は「ペンテコステ」といって、主イエスに従う群れが聖霊を受けて、「教会」が生まれたとされる喜ばしい日です。「ペンテコステ」の出来事は、使徒言行録2章の初めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と証しされています。 聖霊の働きによって教会が成立し、更に福音の世界宣教の第一歩が早くも踏み出されていることがわかります。 /n聖霊とは  聖霊とは何でしょうか? 父なる神様はこの世を創造され、人間を愛されて、歴史の中で人間を救おうとされています。イエス様はこの世に人間として降り、人間の罪を贖うため苦難の道を歩まれましたが、最後に死に勝利し、救いの業を完成し、父なる神様の右に挙げられました。聖霊とは、イエス様が父なる神に願い出て、信徒達と永遠に一緒にいるようにしてくださる方で、「弁護者」とも「真理の霊」とも言われる方です。イエス様の死後はこの聖霊が信徒にすべてのことを教え、イエス様が話されたことをことごとく思い起こさせて下さるのです。イエス様のことをメシア(救い主)として証しなさる方であり、罪や義や裁きなど世の誤りについて明らかにされる方です。 /n信じる者の群は一つになれる  今日の聖書には、イエス様を主と信じるという縦軸を土台として、信じる者の群れは一つになれることが勧告として載っています。3節の「霊による一致」の霊は聖霊のことです。へりくだった心と神様の無償の愛で忍耐し合い、平和のきずなで結ばれ、聖霊による一致が勧められています。「体は一つ、霊は一つ」(4節)の体とは、キリストの体と言われる教会のこと、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(5節)もイエス様を信じ、そのことを公にし、洗礼を授けられた者への勧告であり、信仰告白です。聖霊は、人々を父なる神様とイエス様へ向かわせながら「教会」を作り上げ一つにしようと働きます。逆に悪霊は、分断するように働きます。 /n礼拝における一致  「聖霊によって一致する」為に信仰共同体としてまず考えられることは、「礼拝における一致を目指す」ことです。ペトロは人々に「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2:38-)と語り、信者達の生活が毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り聖餐し讃美していた、と証しされています(同43-)。悔い改めて信仰を公にした者達が礼拝で聖霊の降ることを待ち望む。私達も同じです。 /n聖霊の体験  私は信仰生活初めの頃「今日はこの主の御言葉を聞く為に呼ばれたのだ!」と感動しました。又、説教以外でも礼拝中にふわっと包まれるような感覚の中で「あなたの罪は赦された」というメッセージを心で受け取った記憶があります。まさしく「罪の赦し」を体感しました。イエス様が生きて働かれる礼拝の場で、聖霊を毎回体感することを切望します。 /n私達の姿勢  ただその前に、私達の献げる礼拝が、主に喜ばれるものとしてキリストを頭(かしら)とした、キリストの体を造るべく行われているのか、神様の御声に聞き従っていく姿勢が必要です。私達の礼拝が聖霊による一致を与えられ、キリストの体をより一層しっかり建てていけるように神様の恵みをひたすら願って生きたいと思います。 礼拝において神様が、初代教会のように、いつその存在を、私達一人一人に、又は、この教会全体にお示しになるかわかりません。礼拝に遅れたり、サボったりしている場合ではありません!目をさまして、一つになって、希望を持ちつつ、その時を待ち望んでまいりましょう。

「四種類の種のたとえ」 平賀真理子 伝道師

/n[ エレミヤ書] 4章3-4節 3 まことに、主はユダの人、エルサレムの人に/向かって、こう言われる。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。 4 ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに/わたしの怒りは火のように発して燃え広がり/消す者はないであろう。」 /n[マルコによる福音書] 4章1-20節 1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。 10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。 11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」 13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 /nはじめに  「良く聞きなさい」との言葉で始められ、「聞く耳のある者は聞きなさい」で終わるイエス様の御言葉は、聞く人々に対して真剣な姿勢を求めておられます。神の国に入れるかどうか、神様の目は一人一人に注がれています。理解して、実際の生活の中で御言葉が生かされるよう願っておられます。今朝は「種を蒔く人」のたとえを学びますが、イエス様は「種を蒔く人」としても、この世に来られ、神の国を建てるために努められました。  種は神様の御言葉です(13節)。天から降ってくる御言葉を、地上で人間が心の中・人生の中で受け入れ、その種を芽生えさせ、育くみ、守り、神の国にふさわしい実を結び、神の国を広めていくことを期待されています。 人間は「神の似姿」(創世記1:27)として、本来は神様の本質や神の国の素晴らしさを理解し、喜こんで受け止め、讃美するように創られています。しかしサタンは、神様と人間の祝福された関係を破壊し、神様に属するものを素早く察知して攻撃し、亡きものにしようと常に働きかけてきます /n最初の種  このたとえでも、真っ先に「鳥が食べた」という表現で、サタンは御言葉が人の心に入ることを妨害するとしています。先日の祈祷会で「人の怒りは神の義を実現しない。」(ヤコブ書5:20)という御言葉を学んだ私は、日頃の家族への「怒りの態度」を悔い改めようと決心して帰宅した直後、いつも頼んでいたはずの家事が忘れられていたことに激怒してしまいました。後で考えてみると、そんなに怒ることではありませんでした。しかしサタンは、祈祷会直後の私の決意を帰宅後には取り上げようと、小さな機会をも狙っていたことを思わされました。 /n二番目の種  二つ目の種は、「土の少ない石の上で、芽生えはしたが、根が張れずに、日の熱で枯れてしまった」と、根を張ることの重要性を教え ています。落ちた場所が悪く、根を張れず、必要な水分「命の水」を得られずに生きられなかったのです。根を張れないとは、御言葉 が心に深く入っていけないということでしょう。 私自身、自己中心的な感性と行動、悪い感情に支配される粗暴さ、一時的安楽に流れる怠慢さや愚かさなどの、自分自身の罪悪を見つめることが何度かありましたが、それらの罪悪をもあがなって、私を神様につなげようとして下さるイエス様の愛と働きを、聖書から学ぶことを通して、私は形式的なクリスチャンから少しずつ変えられてきたように思います。が、まだ「根」は充分に張っていない・・と危機感があります。「根」を深く伸ばすには礼拝に出席することだけで満足せず、祈り、聖書を学び、「命の水」を常に得る神様中心の生活を送ることです。 /n三番目の種  三つ目の「茨に覆われてふさがれて実を結ばない」種については、エレミヤ書4:3-4に学びたいと思います。「茨に覆われる」とは、「主を神として従わない人々の中で生活し、心身ともにそれに染まってしまって、主への信仰を失い、救いから遠ざかること」です。そのような状況では、主の霊に導かれて「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)の実を結ぶことができなくなります。偶像礼拝をする異教には、怒り、利己心、不和、仲間争い、好色など(同19)を克服できる力が何もないからです。イエス様を主と仰ぐ信仰生活を始めた者は、一つ一つの考え方、習慣、行動が主を中心にしているのかを日々確認し、主に従おうとする心が生きていけるように悪いものの影響が取り除かれるよう祈ることです。 /n四番目の種  最後の、「実を結ぶまでに到った種」は、良い土地に落ちました。御言葉が成長するにふさわしい心を持つ人とは、御言葉を受け入れ、更に、三つの悪条件から守られた人です。これは神様の恵みとしかいいようがありません。詩編一編の一節から三節にこのように書かれています「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」さらに、エフェソ書4:13にも成長の祝福があります。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」神様の愛と与えられた恵みに感謝し、この一週間も歩めるよう祈ってまいりましょう。

「神に栄光を帰する」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 19編2-5b節 2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5a その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。 5b そこに、神は太陽の幕屋を設けられた /n[使徒言行録] 12章20-25節 20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。 21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、 22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。 23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。 24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。 25 バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。 /nはじめに  使徒言行録は、イエス様の福音宣教のご命令がどのように弟子達によって果たされ、福音が拡がっていったのかを伝えている書物です。使徒言行録の主役は、常に、福音宣教を導かれる神であり、イエス・キリストであり、聖霊です。しかし今日の使徒言行録の20節から23節は、イエス様の弟子であるヤコブを殺し、続いてペトロをも殺そうとしたヘロデ・アグリッパ王一世の最後について書かれています。これは非常にめずらしいことであると同時に、何か大切な意味が含まれているように思います。 /nヘロデと住民の利害関係  昔からフェニキア人が食料を規則的にパレスチナから輸入していたことが知られていますが、ここではおそらく経済問題のトラブルが両者の間にあったようです。そこで、困ったフェニキアの商人達が王の侍従を味方に引き入れ、王に和解を願い出たことで調停がうまくいったという背景があるようです。調印式が華々しく行われたその日、ヘロデ王は立派な王の式服を身につけ、王座から、王としての演説を行いました。自分の寛大さ、偉大さを印象づけようとする権力者の姿です。それに対してフェニキアの住民達は、演説するヘロデ王に「神の声だ、人間の声ではない」と叫び続けました。王から利益を受けることになった住民達は、王に対して「神」という言葉を与えてご機嫌をとったといえるでしょう。 /n人間を神とする  ヘロデ王はユダヤ教に改宗したユダヤの王ですから、神様については、不十分ながら知っていたはずです。けれども彼は、自分が神と言われることを良しとしました。そこに神様の裁きが入ったのです。聖書は「主の天使がヘロデを撃ち倒した」と記しています。その時か、あるいは直後なのか、「ヘロデは息絶え」ました。その死の理由を聖書は「神に栄光を帰さなかったからである」と記しています。 /n神に栄光を帰する  「神に栄光を帰する」とは、一言でいうならば、「神様を神様とする」ことです。神様を神様とするには、神様を正しく知らなければなりません。子供達に信仰を教え、導く本の中に「ジュネ-ヴ教会信仰問答」があります。この信仰問答は「人生の主な目的は何ですか。」から始まります。答は「神を知ることです。」とあり、第二の問い「どんな理由であなたはそういうのですか。」の答えに「神は私達の中にあがめられるために私達をつくり、世に住まわせたのですから、又、神は私達の生の源ですから、私達の生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然です。」とあります。 このように、私達人間が、神様を自分の命の源として、神様を崇めるためにこの地上に存在しているということを知るならば、神様をあがめずにはおられなくなり、神様を崇めることを通して更に神様を知るようになっていきます。 /n神様を知る >> 「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19編)、「目を上げて私は山々を仰ぐ。私の助けはどこからくるのか。私の助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(詩編121編) <<  聖書は常に、神様がどういうお方かを伝えています。弟子達の宣教活動を伝える使徒言行録にヘロデ王の最後が記されているのは、あらゆる形の(王であれ皇帝であれ)人間の神格化に対する拒否であり、神様からの警告です。私達は毎週日曜日、神様から招きを受け、礼拝をおささげする為に集います。礼拝は、神様を崇め、讃美する何よりも大切な時間と空間です。クリスチャンの勤めであり喜びです。この一年も「静まって私こそ神であることを知れ」(年間聖句)との御言葉のもとに、神様を真の神様として崇め、全ての栄光を神様に帰する歩みをしていきたいと願うものです。