「イエス様の祈り」    牧師 佐藤義子

/nイザヤ書53:1-12 /nヨハネによる福音書17:13-26 /nはじめに 本日は、しゅろの主日、英語ではパームサンデーと呼ばれる日曜日です。 しゅろは「なつめやし」のことで、イエス様が、最後にエルサレムの町にロバの子に乗って入られた時、群衆はこの木の葉を振って歓迎したことがヨハネ福音書に記されています(12章)。この木は、勝利を表わすそうです。黙示録7章には、白い衣を着た大群衆が手になつめやしの枝を持ち、小羊の前に立っている描写があります。白い衣を着た群衆とは、十字架の血で清められた信仰者のことで、小羊とはイエス様のことです。  歓喜をもってイエス様を出迎えた群衆は、同じ週の金曜日に「十字架につけよ」と叫ぶ群衆に変わりました。アメリカにいた時、パームサンデ-に教会から、しゅろの枝が配られました。教会によっては、そのしゅろの枝は一年後燃やされ、その灰を受難節(約40日)の初日、「灰の水曜日」に、頭上にかぶり「ざんげのしるし」としているそうです。 /n祭司の祈り ヨハネ福音書の14章から16章にはイエス様が弟子達に語った「告別の説教」が記されていますが、今日の聖書は続いて祈られたイエス様の「祈り」です。この祈りは宗教改革時代以来「大祭司の祈り」と呼ばれます。それは、イエス様が「大祭司」のように、残される弟子達の為、さらにはイエス様を信じる全ての者の為にささげられた祈りだからです。  イエス様は、弟子達を父なる神様に委ね、弟子達に完全な喜びを残していこうとされました。その喜びとは、弟子達がイエス様と結ばれていることを知り、イエス様は弟子達を父なる神様の所に連れて行って下さることを知ることにより与えられる喜びです。又、イエス様は、弟子達がこの世から憎しみを受けていることに対しても祈られました。弟子達はイエス様の言葉によって、この世から選び出された人達です。「この世」は自分の所属であった筈の弟子達を、神の国に属する者として奪い去られたゆえに、再び取り戻そうと働きかけます。イエス様は、弟子達が受ける苦痛、戦い、苦悩から解放されることではなく、悪いことから(サタンから)守られることを祈られました。 /n「真理によって、彼らを聖なる者として下さい。」 神様に属する者は清くされたものです。それは信じる者が神様を仰ぐ時、神様の前にひざまずき、謙遜にさせられ、神様の神聖さにあずかるからです。彼らの清さを形づくるものは真理です(「あなたの御言葉は真理です」17節)。真理の霊が弟子達に与えられ、その全存在・全生活の中で神様と結ばれるように祈られます。父なる神様が、弟子達を、聖なる者として分離して下さるなら、たとえこの世にいても、悪に対する防護壁が立ち、彼らは守られます。 /n信じる者すべての人の為に祈る イエス様は、弟子達が結ぶであろう実として与えられる「信じる人々」の為にも祈られました。信じる群が大きくなればなるほど、彼らが聖なる真実の愛によって結びあわされるように祈られます。分裂を克服するものはただ一つ、全ての者が唯一の神様に従うことです。教会の一致は、イエス様と父なる神様との一体の上に建てられ、そこに、教会は自分達の一致の根拠と原則を置きます。イエス様の最後の祈りは、信じる全ての人々が、神様の永遠の愛から御子イエス様に流れ出る「ご自身の栄光」を見ることが出来るように、イエス様と共にいるようにして下さいとの願いでした。イエス様に与えられた神様の永遠の愛は、信じる者全ての人が見ることが出来、さらに、この愛の中を生きることが出来るのです。

 「わたしだ。恐れることはない」  牧師 佐藤義子

/n詩編54:3-9 /nヨハネ福音書6:16-21 /nはじめに  今日の聖書箇所の前には、イエス様の話を聞きにきた大勢の群衆の為に、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人々の空腹を満たされたという奇跡の出来事が記されています。その後イエス様は、弟子達だけを先にガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムに渡らせるため、舟に乗せ、御自分は、群衆を解散させてから、祈る為に一人、山に登られました。 /n山に退かれた イエス様が山に登られたのは、奇跡を見た人々が、御自分を王にしようと捜していたので、そこから避けるためでもありました。(6:15)。群衆がイエス様を王にしようと考えたのは、イエス様の奇跡の業の中にかつてのモーセの姿を思い起こしたからでしょう。群衆は、イエス様が王になって、自分達のこの地上での幸福のために働いてほしいとの願いがありました。言い換えれば、群衆は自己目的追求の為にイエス様を利用するという思惑がありました。ですからイエス様は、それを「知り」山に退かれたのです。 /n人間の大きな誤り イエス様は、人間を罪の支配から救い出す為に神様が送って下さった方です。いいかえれば「神様からの大きな私達人間への贈り物」であり賜物です。私達はイエス様を、私達の救い主として信じ、感謝を持ってイエス様を受け入れ、このお方に従うのです。ところが群衆は、自分達の利益の為にイエス様を連れ出そうとしました。ここに主客転倒があります。 ある学者は、「群衆はイエス様を受けようとせず、自ら掴み(つかみ)取ろうとした」と表現します。「贈り物」ならば、只感謝を持ってそのまま受けると同時に、贈り主である神様の私達への愛の心を知り、その愛をいただきます。そこに人格的な愛の交流が成立します。しかし自分から手を伸ばして、その贈物を掴み取ろうとする者は、自分の利益と欲望を満足させることが目的で、贈り主に対する関心はなく、愛の交流は成立しません。しかも、自ら掴み取ろうとする者は、贈物を自分の思い通りに動かそうとしますから、もう贈り物は恵みではなくなり、自分の要求が残ります。 /n「彼らは恐れた」 一方、弟子達は向こう岸を目指してこぎ出しましたが、強い風が吹いて湖が荒れだしました。25-30スタディオンの距離(約5・6キロ)を行ったところ、舟が前に進まなくなり弟子達は苦労していました。舟に水でも入ってきたら舟が沈むのではないかと不安になります。たとえ漁師経験者がいても、いや経験者なら尚のこと強風という自然の猛威と戦うことの、人間の限界を知りつくし、恐怖も伴っていたことでしょう。 その大変なさ中に、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。「彼らは恐れ」(19節)ました。すでに暗くなっていましたから、最初は何が近づいてきたのかわからず、恐れ、おびえたのです。 /n「わたしだ。恐れることはない。」(20節) 自然の猛威に対する恐れと、何ものかが近づいてきたという恐れを吹き飛ばしたのは、イエス様の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしだ。恐れることはない</span>。」との一言でした。この一言が、それまでの弟子達の労苦・困難・思い煩いを吹き飛ばし、肩に力が入り緊張していたその状況を打ち破りました。 弟子達は大喜びでイエス様を舟にお乗せしようとしましたが、舟はまもなく目的地に到着したのでした。 日常的には弟子達は、いつもイエス様を愛し尊敬し信頼していました。しかし今日の箇所では、弟子達はイエス様が海上にいる自分達を助けに来てくれるとは考えませんでした。だからこそ近づいて来る何かを見て、おびえたのです。イエス様は、群衆からは退かれましたが、人間の魂を救うというイエス様の仕事を助けるために選び出した弟子達への愛は、片時も離れることはありませんでした。体は離れていても、弟子達が今、どこで、どのような状況の中に置かれているかはご存じでした。そして、御自分を必要としている時はどこにいようとも、来て下さり「わたしだ。恐れることはない。」と言って下さいます。 この言葉は、信じる私達に今も、同じように語りかけて下さっています。

「洗礼者ヨハネ」    牧師 佐藤 義子

/nエゼキエル33:7-11 /nマタイ3:7-12 /nはじめに 私達の社会では、地位の高い重要な人物と考えられる人(例えば天皇陛下や大統領など)が車で目的地に向かう時、必ず先導車が用意されるように、神様がこの世を救う為に、独り子イエス様を天から遣わされるにあたって、先導役の使命を与えられた人物がいます。その人こそ、洗礼者ヨハネです。 洗礼者ヨハネの誕生については、ルカ福音書1章に記されていますが、彼は、メシア(救い主)と同じように旧約聖書で預言されています。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">呼びかける声がある。主の為に、荒れ野に道を備え、私達の神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ</span>。」(イザヤ書40:3)。 洗礼者ヨハネの使命は、荒れ野に道を備えることでした。「荒れ野」とは神様から離れた人々の心(魂)のことです。荒れ野に道を備えるとは、神様から離れたこの世(人々の心)に、メシア・救い主が来られることを伝え、救い主が来られた時に、人々が救い主の到来を心から喜び受け入れられるように、人々の心を神様の方へと向きを変えさせることでした。 /n悔い改める=向きを変える ヨハネが荒れ野で語った言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)です。「悔い改めよ。天の国は近づいた」とは、「長い間神様と遠く離れて生活をしてきた人間の世界に、天の国(神様の支配)がまもなく始まる。だから一人一人、悔い改めて、神のもとに帰りなさい」ということです。悔い改めるとは「向きを変える」ことです。今まで自分中心に生きてきた人が、今度は神様に向かって生きるようになることです。 この洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">エルサレムとユダヤ全土から、又、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白して、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受け</span>」ました(5-6節)。すなわち、多くの人々が、洗礼者ヨハネの叫ぶ声に耳を傾けたのです。   /nファリサイ派とサドカイ派 ヨハネのもとにきた人達の中に、ファリサイ派とサドカイ派の人々が多くいました(7節)。彼らに共通していたのは自分達がアブラハムの子孫であり選民であるという特権意識でした。自分達は無条件に守られており、神様から見捨てられることはないとの、安心感と傲慢がありました。  洗礼者ヨハネは彼ら達に、「悔い改め」を口にする時には必ず「悔い改めの実」を結ばなければならないと厳しく語りました。悔い改めるとは、今まで神様に背中を向けていた人が、向きを変えて神様の方に向いて、自分を喜ばせるのではなく神様に喜んでいただく生き方を選ぶわけですから、当然、「実を結ぶ生き方」へと変えられていくはずなのです。  /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の後から来る方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる</span>。」   ヨハネの水のバプテスマは、悔い改めのバプテスマでした。しかし、ヨハネのあとから来られたイエス様を、「神の御子・救い主」と信じたキリスト者は、イエス様から聖霊と火によるバプテスマを授けていただけます。 聖霊によるバプテスマとは具体的にはどういうことでしょうか。「聖霊」、霊は「息」の意味があります。息は命です。神の霊は神の命を人の中に吹き込み、新しい命がその人の中で躍動し無気力さや敗北感は消えうせます。又、霊は「風」の意味があります。風は力です。神の霊が人の中に入る時、人の弱さは神の力によっておおわれ、不可能な業を可能に、耐え難きを耐えさせ、勝利が与えられます。又、霊の働きは人の心に調和をもたらし、神の真理を認めさせ、偏見を取り除きます。  火によるバプテスマとは、具体的にはどういうことでしょうか。 火は悪を滅ぼし尽くす火です。聖霊と火によって、私達人間の中にある悪は滅ぼされ、罪を清めていただく道が用意されています。   私達は、ファリサイ派やサドカイ派の人達のように神様を知ったこと(知られたこと)で安心してはなりません。信仰の生涯は一生です。私達は水によるバプテスマで満足することなく、未だ聖霊と火によるバプテスマを与えられていないと感じるならば、切に祈り求めていきましょう。

「真の信仰に立つ教会」  牧師 佐藤義子

/n詩編 86:5-10 /nマタイ福音書 16:13-28           /nはじめに     私達の教会は「仙台南伝道所」です。教団では、「会員」が20名以上で、「牧師を招聘する力」(牧師の生活を支えられる力)を持っている教会を「教会」と呼び、まだそこまでいかない小さな群れを「伝道所」と呼んでいます。私達の伝道所も近い将来には「教会」へと成長していかれるように祈っておりますが、しかし、規模の大きさを別にするならば、教会も、伝道所も、そこでなされている事柄は全く同じです。 では、教会とは何でしょうか。 /n二つの質問  今日の聖書では、イエス様は弟子達に二つの質問をされています。一つは、人々はイエス様のことを何と言っているかという問いです。もう一つは、「あなた方はわたしを何者だというのか。」との問いです。 最初の問いに対して、弟子達は、ある人は「洗礼者ヨハネの生まれ変わり」、ある人は「預言者エリヤ」・「預言者エレミヤ」の再到来と言い、又、ある人は「預言者の一人」と言う人もいる、と報告しました。 /n「あなた方はわたしを何者だというのか」  この質問に対して、ペトロは即答しました。「あなたはメシア・生ける神の子です」。 メシアとは「救い主」という意味です。イスラエルの人々は、預言者達(BC700年代にはイザヤやミカ、同500年代には第二イザヤ等)によって「メシアが来られる」との信仰をもち続けており、彼らは、その信仰を親から子へ、孫へと伝え続けました。そして遂に、預言者達の言葉が成就し、救い主イエス様が誕生され、今や、人々の間で神の国について教え始められたというのに、人々はイエス様をメシアとしては受け入れていなかったのです。おそらく多くの人々は、「メシアは自分達を、日々の苦しい生活から解放してくれる、この世の権力を持った王のような人物」として期待し、待望していたようです。しかしペトロは、イエス様こそ、長い間イスラエル民族が待ち望んだ「メシア」であると告白したのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">このことを現わしたのは、人間ではなく、天の父である</span>」  このペトロの信仰告白に、イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは幸いである</span>」と祝福され、さらにこの告白は、人間の判断によるものではなく、天におられる父のわざであることを教えられました。そしてシモンと呼ばれていた彼に、「ペトロ(岩)」という新しい名前をつけられ、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる</span>」(16節)と言われたのです。 /n教会はイエス様が建てられる  すべての教会は、この信仰を告白した使徒ペトロの岩の上に、イエス様が建てられたものです。教会はイエス様を頭(かしら)として、一人一人がキリストの体の一部として構成されています。体が多くの部分から成り立っているように、教会にも多くの働きがあって、一人一人がそれぞれの賜物に応じて、分に応じて、担っていくように神様から召されているのです。教会の原語は「エクレシア」で、召された者、選ばれた者という意味があります。神様が多くの人々の中から私達一人一人を選んで、教会に導いて下さいました。教会は、「神の教会」とも呼ばれます。 /n使徒ペトロの岩=信仰告白=使徒信条  教会は、聖書と説教を通して、イエス様の十字架の意味と、復活の出来事を信じ、さらに、イエス様は今は天の神様の右におられます。私達は、神様とイエス様が送ってくださる聖霊の導きの中で、神様とイエス様と共に歩むことが出来ます。そして、再びイエス様が来られる「再臨の希望」を与えられています。ペトロは、イエス様の言葉を持ち運び、教会を、キリストの下にあって、しっかり支えるということです。 /n教会の権威  教会は人間の権威ではなく、「イエス様の権威」が打ち立てられているべき場所です。イエス様が私達のまことの御主人として教会を支配して下さることで「教会」になります。教会は、御言葉が正しく宣べ伝えられ、聖礼典(聖餐式と洗礼式)が正しく行われてはじめて「教会」「伝道所」と呼ばれ、信仰告白によって私達はその一員に加えられていきます。

「思い悩むな」 牧師 佐藤義子

/n箴言 30:7-9 /nマタイによる福音書 6:25-34 /nはじめに  今日の聖書は、山上の説教の中でも良く知られている箇所です。この中でイエス様は、天地創造主である神様を、「あなたがたの天の父」と呼んでいます。私達の信じる神様は、地上における肉親の父とは区別された、天におられる父・私達の全生涯における保護者・身元引き受け保証人です。 /n天の父  私達の天の父は、天地万物を造られ、太陽と月と星、空には鳥、陸には植物と動物、海には魚を造られ、最後に私達人間を造られたことが創世記に記されています。天の父は、すべてのものに命を与え、生かし、支配しておられます。多くの人達は「命は人間が造り出す」と考えていますが、もし人間が人間を造り出すことが出来るなら、子供が与えられない夫婦も、中絶する夫婦もいなくなるはずです。ところが現実はそうでありません。又、自分の命を自由に延ばしたり縮めたりすることは出来ません。それらすべてを考えますと、命を支配しているのは人間ではないことがよくわかります。命を与え、又、取り去るお方は、命の支配者である天におられる私達の父であることを、イエス様は聖書を通して私達に教えます。 /n思い悩むな  食べることや着ることは、私達にとって生活上、不可欠です。しかしイエス様は、それらについて「思い悩むな」と命じます。命がなければ食物は必要なく、体がなければ体をおおう着物も必要ありません。命と体が、食物や衣服よりも大切であることを示されたイエス様は、その命と体がどこからきたかを教えます。空の鳥を見れば、神様が鳥達の食物を配慮しておられるのを知ります。私達人間は、神様に似せて造られた存在です。鳥より価値のある人間に、神様が配慮しないことなどあり得ません。命を与えた方は、命に必要なものをご存知だからです。さらにイエス様は、「野の花を見よ」と言われます。野の花は自分から何かをするわけでなく、咲いても、その命は短く、やがては枯れて焼かれます。 しかし「花」は、人間の、きらびやかな衣服をもってしても、比べ物にならないほど天の父が着飾って下さっています。まして野の花より価値ある人間に対して天の父は、体に必要な衣服をも備えて下さるお方です。 /n衣食は異邦人が求めているもの 異邦人とは、神様を知らず、信ぜず、自分の力だけで生きていけるとする人達です。私達が衣食のことで思い悩むなら、天の父をもたない異邦人と同じだとイエス様は言われます。「思い悩む・思い煩う」とは、生活のことであちこちに心が向いて、喜びも感謝もない不安と心配に心を向けるという意味があります。衣食の悩みは、天の父のみわざについて悩むことであり、それは神様に期待しない、頼らないということです。 /n新しい生き方 天の父は、信じる者すべての全生涯にわたる保護者です。思い悩む者にイエス様は「信仰の薄い者達よ」と嘆かれます。イエス様は思い悩みから解放される道を示します。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる</span>」。(33節) 神の国とは神様が支配される国のことです。悪が滅ぼされる国です。私達は悪を憎み、嘘・偽りを私達のまわりから追い出しましょう。憎しみや敵意、裁きあうことを捨て、神の国にふさわしく、互いに愛し合い、許し合い、互いに重荷を負い合いましょう。更に、先週学んだように、愛の性質(<span class="deco" style="font-weight:bold;">忍耐深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼儀を失わず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばず、真実を喜ぶ</span>)を神様からいただきましょう。御霊の結ぶ実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)が私達にも与えられるように、御言葉と聖霊の導きに従って歩みましょう。イエス様はさらに「神の義」も求めるように命じます。神の義とは、神様の目から見て「良し」とされることです。神様の御心にかなう正義と公平の実現です。私達はそれぞれに与えられている賜物と力を、生活の思い悩みで浪費するのではなく、神様が下さるものだけを日々受けて、喜びと感謝の生活が奪われないよう、今週の歩みを、祈りつつ歩んでいきたいと願うものです。

「異邦人の問い」 伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書53:7-10 /nマルコ福音書15:1-5           /nはじめに ユダヤの最高決議機関である最高法院が、イエス様の死刑を決議したのは真夜中であり、しかも大祭司の私邸で行われたもので、「公的」とは言い難いものでした。そこで議員達は、夜明けとともに最高法院を公的に開いて、捕まえたイエス様を確実に死刑にすべく、ローマ帝国から派遣されていたユダヤ総督のピラトに、その身柄を引き渡したのです。 /nピラト  私達は礼拝で毎週、「使徒信条」の中で「…主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」と告白します。ピラトはローマから派遣された第5代ユダヤ総督として、その在任はAD26年から36年迄との記録が残っています。当時の信徒達にとり、ピラトはイエス様の処刑を許した異邦人として、はっきりと記憶されていたのでしょう。私達信仰者は、ピラトのもとで実際に大変な苦しみを受けたイエス様の、裁判の屈辱と十字架の苦痛を実感として受け取ることができます。 /n「お前がユダヤ人の王なのか」 ピラトのイエス様に対する質問は、「お前がユダヤ人の王なのか」です。異邦人であるピラトにとっては、おそらく最大の関心事である「権力を握る」こと、つまり「王となる」意思がイエス様にあるかどうかが気になります。今、イエス様が、ローマ帝国の支配を打ち倒して、新しくユダヤの王権を立てるつもりなのかを聞いているのでしょう。もしそうであれば、ローマ側から見て、死刑に値する罪として裁くことができます。 /n「神の国」の王 イエス様は、神様が選んだイスラエル民族の「救い主」として、この世に来られました。イエス様は神の御子であり、神の国の「王」であられますが、異邦人が言う「王」とは全く違います。異邦人が理解するには難しいすれ違いです。(参照:ヨハネ18:36「わたしの国はこの世には属していない。」) /n「それはあなたの言っていることです」  ピラトは、この世の考え方で、イエス様を「ユダヤ人の王なのか」と聞きましたが、律法や神の御心を考えないで生きる異邦人と、神を信じるイスラエルの民の土台が違います。「それはあなたの言っていることです」。これがイエス様の返答です。異邦人ピラトの発した質問に、神の御子イエス様は、相手に合わせる形での返答をされませんでした。 /nイエス様の従順 イエス様を正しく理解できなかったのは異邦人だけではありません。イスラエル民族が待望する「メシア=救い主」は、外国人支配から自分達を解放する政治的な強い「王」を期待しましたから、イエス様を「メシア」として受け入れることは出来ませんでした。イエス様も御自分の「救い主」としての使命が「苦難の僕」(イザヤ書53章)であり、彼らの意識と全く違うことも御存じでした。彼らはイエス様のお話や奇跡を見聞きしながらも、自己保全のためイエス様を殺したいとの感情のとりこになっていました。その彼らの不利な訴えに対してイエス様は弁明せず沈黙を守り続けました。それは、イエス様が苦しみ死ぬことにより、すべての人の罪の贖いをさせるという父なる神様の御心が既に示されており、イエス様は「それに従うのみ」との決断をされていたからです。一方、ピラトにとって弁明の機会が与えられているのに弁明しないのは常識を越えることでした。ピラトは沈黙されるイエス様に、「何も答えないのか」と不思議に思った、と聖書は伝えています。 /nイエス様の歩まれた道 イエス様の十字架への道は、確かに神様の示された「苦難の僕としての救い主」でしたが、それはいかに苛酷であり孤独であり耐えがたく、無念であったことでしょう。私達信仰者も、信仰ゆえに理解されず、考え方の違いで責められることがあります。黙って耐えることしかできないと思える時があります。その困難な時こそ、孤独の中を黙って耐えられたイエス様が自分を支え、苦難を共に歩んで下さり心に入って下さいます。心の中に主の姿をますます刻みつけ、今週も聖霊の助けを祈ってまいりましょう。

「命と幸いを選ぶ」 牧師 佐藤義子

/n申命記30:11-20 /nペトロの手紙一 1:3-9     /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の弟子ペトロが小アジアのキリスト教会にいるクリスチャンに宛てた手紙です。ペトロは手紙の初めで、クリスチャンのことをこう表現しています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、『霊』によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、またその血を注ぎかけていただくために選ばれたのです</span>。」  /n血を注ぐ 旧約の時代、人間が犯した罪を神様から赦していただくために、律法に従い、大祭司が人間の代表として、毎日、神殿に動物をいけにえとして捧げ、その血を祭壇に注ぐことが行われていました。しかし神様は、このような形で「罪の赦し」を与えることを終らせて、愛する独り子イエス様をこの世に遣わされました。そして罪を犯されなかったイエス様の、十字架で流された血が、罪をあがなう(贖罪(しょくざい)血となりました。 言い換えれば、動物の血ではなくイエス様の血が、私達の罪を赦していただく「代価」となりました。この一度限りのイエス様の犠牲によりイエス様を神の子と信じるすべての者に「罪の赦し」の道が開かれました。 ヘブライ書にこう記されています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。・・この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪の為、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。</span>」(7:24-27)。 クリスチャンは、信仰によって、神様から罪を赦していただいた者です。 /nクリスチャンは新しく生れさせていただいた者  今日の聖書に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生れさせ</span>」(1:3)とあります。クリスチャンは、「罪」によって神様から分離されていましたが、イエス様の血によって罪が赦されて神の子とされたことを信じた時、「復活の命」が与えられて新しく生まれさせていただきました。 イエス様を死から甦らせ、復活の命を与えた神様は、その同じ復活の命を私達にも与えてくださり、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天にたくわえられている財産の相続人</span>」(1:4)とされました。目に見える財産は過ぎゆくものです。そのことを私達は今回の大震災で、はっきりわかりました。それに対して天の国の財産は、「朽ちず、汚れず、しぼまない」財産(同)で、永遠に傷つくことはありません。 /n生き生きとした希望 復活の命をいただいて新たに生まれたクリスチャンには、生き生きとした希望が与えられています(3節)。その希望とは終末に準備されている救いの完成です。その準備された救いを受けるために、私達は、自分の努力や行為によるのではなくて、「神の力により、信仰によって守られています。」ので、心から喜ぶことができるのです。 /n心からの喜び 愛は喜びをつくります。信仰は、神様が私の為にイエス様を遣わして下さったことを確信し、自分の為ではなくイエス様を信じて従っていく生涯へと変えられていき、イエス様に仕えることが喜びとなっていきます。自分を愛し自分の為に生きる者は、自分に出会うものの中に幸せを見出しますから、困難が襲いかかると不幸になります。しかしイエス様を愛する者は、神様の意志(御心)が成ることを求め、神様の栄光が輝くことを求めていくことの中で、大いなる喜びが与えられるのです。それゆえに、今、目の前にある困難や苦しみという試練は、火で精錬される金よりもはるかに尊い信仰によって、終末に与えられる天の財産(称賛と光栄と誉れ)を受け継ぐ希望と喜びに変えられます。私達を深く傷つけたり激しい痛みを与えるような出来事さえも、神様の御支配のもとに置かれており、苦難は空しくは私達を襲うことはありません。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟を守るならば、あなたは命を得、祝福される</span>」(申命記30:16) この御言葉に続く言葉は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">聞き従わなければ、必ず滅びる</span>」(同17-18)です。 私達は復活の命をいただいて、命と幸いの道を歩み続けます。

説教要旨 「五つのパンと二匹の魚」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 14章13-21節 13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。 15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」 18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、 19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。 /nはじめに  本日の聖書には二つのことが書かれています。一つは、イエス様は人里離れた所に行かれた後、ついてきた群衆を深く憐れみ病人を癒された話。もう一つは、五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹した話です。 /n「イエスはこれを聞くと」(13節)  これ、とは、すぐ前のヨハネの弟子からの報告(ヨハネが殺されたこと)と考えられます。預言者ヨハネの死は予測されていたとはいえ、ある日突然に(殺したヘロデ王でさえ、考えてもいなかった)起こりました。ヨハネの死を聞いたイエス様は「一人 人里離れた所に退かれ」(13節)ました。 /n一人になる  ヨハネの死は、イエス様ご自身の受難が近づいてきているしるしでもあります。神様からの使命を果たしながら、近い将来迎えるその時まで、イエス様は働き続けていかれます。その根底を支えるのが、人から離れ、一人になって祈ることでした。  私達は日常生活の中で、突然予想を越えた出来事に出会うことがあります。そのことは、時に私達をゆさぶり、私達を不安にし、落ち着きを失わせます。しかしヨハネの死を聞いたイエス様が、まず神様との交わりの時を大切にされたことを覚え、私達もイエス様に従う弟子として「まず祈る」者でありたいと思います。 /n「歩いて後を追った」(13節)  群衆は、イエス様に会いたくて歩いてその後を追いました。そして病人はいやされました(14節)。 /n「あなたがたが与えなさい」(16節)  追ってきた群衆は、女と子供を別にして五千人おりました(21節)。時は過ぎ夕方になりました。食糧を買いに行くには村まで時間がかかります。そこで弟子達はイエス様の所に来て、群衆を解散させるようにお願いしました。この時イエス様は、群衆を空腹のまま帰らせようとなさらず、弟子達に食事の世話をするように命じられました。 /n「ここにはパン五つと魚2匹しかありません」(17節)  イエス様は弟子に「それしか持っていない」というそのすべてを持って来させました。そして群衆を草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚をとり、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱えました。それからパンを裂き、それを弟子達に渡されました。弟子達はパンを受け取るとそれを群衆に与えました。その結果、男も女も子供も全ての人が満腹になりました。余ったパンは12の篭に一杯になった、とあります。 /n天を仰ぎ・賛美の祈りを唱え・パンを裂き・弟子達に渡す」(19節)  この言葉は、最後の晩餐のイエス様の言葉と同じです。或いは又、この情景は、神様の食卓に招かれ、神様の言葉をいただき、神様の恵みにあずかる毎週の礼拝の姿であるとも言われます。さらに、群衆の全ての人が食べ、満腹し、残ったパン屑が12の篭に一杯になったことから、これは、終末時の神の国で食卓を囲む「祝福の先取り」をあらわしているともいわれます。 /n神の国  イエス様がおられるところは神の国です。神様の恵みが、愛が、満ちている所です。イエス様から食事の世話を命じられた弟子達は「ここには・・しかない」としか答えられませんでした。天から降ったマナの話を知っていたことは役立ちませんでした。ところが「・・しかない」と差し出されたものをイエス様は祝福され、それは何倍にもなって十分な余りが出ました。このイエス様に私達は従っているのです。

「つまずきを来たらす人はわざわいなるかな」 (文語訳)

/n[マタイによる福音書] 18章6-9節 6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。 7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。 8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。 9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」 /nはじめに  前回、天の国に入るには心を入れ替えて子供のようになること(地位を求めず、無条件の信頼の中で生き、偉くなろうと思わず、ありのままで、偽善がなく,貪欲でなく、自分にふさわしいことで満足するetc.)(18:3)を学びました。今日は「つまずき」について学びます。 /nつまずく  「つまずく」とはイエス・キリストの福音から離れる、信仰を捨ててしまうことです。つまずかせる者とは、信仰者を福音から離れさせてしまう人です。そのようなことをする位なら、その人は深い海に沈められた方が良いというきびしい言葉がここにあります。 /n「世は人をつまずかせるから不幸だ」  昔も今も、この世には人々を神様から離れさせる誘惑が数え切れないほどあり、それらは避けられないとあります。しかしもし私達が人々のつまずきの石となるならば、「わざわいなるかな」(説教題)です。 /n教会の中で・・  つまずきの問題は、著者マタイの教会にあったことが考えられますが、コリントやガラテヤの教会にもありました。パウロは相手をつまずかせない為にどのようにすべきかを「ローマの信徒への手紙14章」や「コリントの信徒への手紙8章,10章」で教えています。たとえば宗教上の理由で菜食主義を通している人達がおりましたが、この人達に対して、肉食主義者は軽蔑せず、菜食主義者の前には肉を置いてはいけないと教えます。又、宗教上の理由で特定の日や特別な何かを大事にしている人がいても、各自が自分の心の確信に従ってやっていることなので干渉する必要はないこと。又、キリスト者になっても長い習慣からなかなか抜けきれずに、古い考え方の中で信仰を守っている人達に対して批判してはいけないこと。自分はすべてのことにおいて自由であっても、他人が自分のやることにつまずくのであれば、他人の良心を傷つけない為に不自由を甘んじて受けるように教えます。彼らの弱い良心を傷つけることは罪を犯すこと(コリント8: 11‐12)なのです。 /nつまずきの原因を切り捨てよ  8節以下では、この世の罪の誘惑に自分自身の肉体がひきずられて つまずくようであれば、断固たる決断をもって肉体を切り捨てるように(悪を避ける為には最も高価なものをも捨てよ)と教えています。この厳しい言葉は、山上の説教「体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」で学びました。二度も同じ忠告があるということは、悪への誘惑がどれほど強いかを示しています。  教会は「小さい者」の群れです。私達の罪への堕落は結果的に他人をつまずかせることになり、神様の裁きを招くことになります。 /n戦いは終らない  「つまずきは避けられない。」(7節)のです。それゆえ、つまずきに対する戦いは終ることはありません。 /n十字架の意味を知る  ある神学者(関根正雄氏)が、教会の中で人をつまずかせる者は、十字架がわかっていない、と言いました。十字架のない所では行為が評価され、立派な信仰を目指すようになるというのです。人が行為で救われるなら十字架は必要でなくなります。人は律法を行ない得ないゆえにイエス様は十字架で死んで下さいました。それによって罪が赦され救われたのであって,誰一人神様の前に誇れるものはありません。  十字架によって私達に義が与えられ、それによって天の国に入る道が備えられたのに、十字架以外に天の国に入る基準があるかのように教える人は、人をつまずかせる「わざわいなるかな」と言われる人です。 /n正しく理解し、従う。  私達の伝道所は、自由な個人が互いに愛し合う「本当のキリストの弟子」(ヨハネ8:31)から成る教会を目指しています。その為にはイエス様の教えを正しく理解し、正しく従うこと以外にはありません。「生身の人間だから仕方がない」などと妥協せず、イエス様の教えと照らし合わせながら歩む努力と、イエス様が一人一人を大切にされたように、互いに愛をもって祈り支え合う(=つまずかせない)歩みをしていく為に、今週もイエス様にしっかりつながって歩みたいと願うものです。

説教要旨 「幼子イエスへの旅」 東北学院大学 佐藤司郎先生

/n[マタイによる福音書] 2章1-12節 1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11 マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 /nはじめに  今日の聖書には、「羊飼い達」は出てきません。その代わり「占星術の学者達」が登場します。又、救い主の誕生を告げる「天使の声」はなく、その代わり「一つの星」が現れます。しばしば起こることは、こうしたものが私達の頭の中で(一つの画面の中に)まとめられて考えられるということです。そこでクリスマスの飾りの中で(或いはページェントの中で)、羊飼達と学者達が一緒に並んで飼い葉桶の周りを囲んでいることになります。しかし、あちらに出てくるものはこちらにはなく、こちらにあるものは、あちらにはない。あえて言うならそれらは互いに取り換えの出来るものといって良いでしょう。けれども、決して別のものに置き換えることが出来ない方がここに登場致します。その方こそ、クリスマスの中心=イエス・キリストです。この生まれたばかりの幼な子に、きょう、私達は思いを向ける為に、祈る為に、賛美を献げる為に集まっています。私達は伝えられている2000年前の最初のクリスマスの様子に思いを向けたいと思います。 /n不思議な出会い  聖書によれば、その夜、幼な子イエスのもとに、不思議な星の導きにより東の方から占星術の学者たちが来て、幼な子を拝し、宝の箱を開け黄金、乳香、没薬を贈り物として献げるということが起こりました。御子イエスと占星術の学者達との不思議な出会い・・人間的に考えれば、おそらく決して起こる事のないようなそういう出会いです。人間的にはおそらく起こり得なかったであろうということは、いくつかの点で推測出来ます。  第一に、彼らは外国人であったということです。彼らは東の方から・・ペルシャ(今のイラン)から、あるいは反対に、シェバ(アラビア)から来たという説もありますが、よそから来た外国人です。エルサレムに着いて彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねています。「ユダヤ人の」という言い方はマタイ福音書では外国人(異邦人)の言い方として知られています。ユダヤの救い主とは関係のない人達でありました。第二にもっと彼らを聖書の世界から遠ざけていたのは職業・・占星術(星占い)です。天体の動きを読み取り、地上の出来事の預言をする。それが彼らの役目です。天体観測といえば科学者ですが、星の動きと地上の出来事を関連させるとなると単に科学者と呼ぶわけにはいかない。「まじない」といわれるようなことにかかわっていたはずで、いかがわしさはぬぐいきれない。こういう人達に対して聖書では、自然も歴史も治めているのは神様だと考えていましたので、まじないに携わる者は神様の権限を侵す者として忌み嫌われていました。つまり占星術は偶像礼拝と迷信の源だと考えられていました。この点でも彼らは聖書の世界から(イエスから)最も遠くにいた人達でした。このような人達がまことに不思議な仕方で幼な子イエスに出会い、聖書の神とかかわり合いを持つようになった。それが今朝、私達に示されている物語の中心です。 /nその方の星を見た  聖書には、占星術の学者達が星に導かれて、エルサレムの町の中心に突然あらわれたと書いてあります。彼らが口にした言葉は「私達は東方でその方の星を見たので」。これが、彼らをして何千キロの旅をさせた理由でした。「星を見たので」・・たったこれだけです。それ以上のことは聖書では何も説明しておりません。むしろ、そういう意味で、私は、この個所はクリスマスの度ごとに読んだり聞いたりして、実はいつも心高められる・・そういう思いがいたします。  本来神と関係なく生きていたその彼らの所にも星が輝いた。無論、星の導きそのものは迷信につながるようなものも持っていたでしょうが、そうしたことも含めて彼らが最も身近に知っていたものを用いて、彼らの生活(星占いという彼らのなりわい)を通して神ご自身が本当の救い主に出会う道を開いて下さったということ、神の光の届かない所はないというのがこの物語が明らかにしている真実であります。「その方の星を見たので」・・。彼らを普段の生活からその外へと踏み出させたのは、その星の光、星の輝きです。その星に彼らは吸い寄せられるようにしてやってきたのです。長年の天体研究の成果がその場合どのように役立ったかはわかりません。むろんそれだけではなかったでしょう。やはり不思議です。彼らの知識の延長線上に幼な子イエスへの旅の決意がなされたというふうには思われないのです。そこで思い出すのはキルケゴール(19世紀のデンマークのプロテスタントの思想家)が、晩年しばしば「飛躍」ということを言ったことです。信仰には飛躍が必要だと申しました。或いはシモーヌ・ヴェ-ユ(20世紀のカトリックの女性思想家)は、「私達が立っている為には、常に下へと向かわせる重力を受けている。私達を上へと引き上げる恩寵・恵みということがなければ信仰は成立しない」と言いました。上からの引き上げの力が起こらないと(働かなければ)・・と言っています。そうした飛躍がなければ、そうした恩寵がなければ、この占星術の学者達も「私達は東方でその方の星を見たので拝みにきたのです」という明確な言葉を語ることは出来なかったように私には思われます。「その方の星」・・そうです。私達の内なる星ではない。内なる光ではない。私達の上に輝く御子イエス・キリストの星が彼らを旅立たせたのです。 /n神なき所から神と共に生きることへ  こうして占星術の学者達はその遍歴の旅を通して、それ迄自分達と何の関係もなかった御子イエス・キリストとかかわりを持ち始めます。神の救いの歴史の中に入っていったといっても良いでしょう。神の救いの歴史に彼らが入っていくということは、反対に神の救いの歴史が彼らの中に入り込んでいくということです。それは、神が彼らと共に生きようとされたということです。そして彼らが神と共に生きるようになるということです。人は誰も、もはや神なしではないということ。それがここで起こっていることです。偶像礼拝や迷信の中にいたあの占星術の学者達。ただ星に導かれて幼な子イエスを拝した姿は私達自身の姿として見ることが出来るとしたら、彼らも私達も もはや神なしではない、ということです。イエス・キリストがお生まれになったということ、クリスマスということ、それは神なき所から救われたということです。ですからこの場合の救いとは、私達の悩みがいっぺんに解消したり、病気がすぐに治ったり、幸福をつかむ、という以上に、神と共に生きることが出来るということ、神をあてにしていいということです。もし私達の悩みが解消されるのが救いであるならば、悩みがなければ救われなくて良い、というのでしょうか。もし幸福をつかむということが私達の救いであるとするならば、幸福をつかんだら神様はいらない、ということでしょうか。そうではないのです。神なき所から救われるということ。これが聖書の救いです。神が共にいて下さるということ。私達自身の人生を神の地平の中に見出して、神との関係において新しく生きることがゆるされるということ。これがここにおいて占星術の学者たちの中に起こったことであり、私達にも起こるべきことです。それはもはや死の影の谷を歩まないで済むということではなくて、死の影の谷を歩む時でも恐れない、意気阻喪しない、なぜなら神が共におられるから、と告白することが出来るからです。 /n神の歴史の中に入っていこうとしなかった人  占星術の学者達はイエスと出会い、神の歴史の中を入っていきましたが、神の歴史に入っていこうとせず、これを否定し自分の歴史を変えて押し広げようとした(その為、占星術の学者達と幼な子イエスとの出会いを妨げようとした)人がおりました。当時のユダヤの王ヘロデです。大王と呼ばれ残虐で知られていた彼は、35年にわたってユダヤを専制支配しました。キリストがこのヘロデ時代の最後に生まれたのです。今日の聖書によれば、東方から来た学者達と「その方はどこにおられますか」という問いに不安を感じた王は、ユダヤ人の王と称されるイエスを探し出して殺そうとします。しかし見つけられずベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。イエスがお生まれになった時、まさに闇が深く時代と視界を覆っておりました。重要なことはイエス・キリストの誕生を喜ばない、かえって亡き者にしようとしたそのような闇の世を、御子イエス・キリストはご自分の生の場所としたことです。そこで生きようとされた、そこで生きたということです。そこが神のものとなる為です。そこで生きる私達が神のものとなる為です。彼は十字架を引き受け、闇の世の力に自らをさらすことによって、かえってその闇の力そのものに死をもたらした。復活によって明らかにされたのはそのことでありました。 /n御子イエスの誕生  世のクリスマスはイルミネーションで飾りつけられ賑わっています。しかし聖書の示す御子イエスの誕生とは、そうした華やかなものとは無関係でした。御子イエスはこの世に、この世をあがなう為に来られたのです。神と人とを結びつける為に、神が人と共に生きる為、人となってこの世に来られたのです。今日の聖書が示す幼な子イエスの姿は、ヘロデのように暴力と権力によってではなくてその無力において、栄光ではなくその苦しみにおいて、人々を助け,平和をもたらす真の王の到来を示しています。 /n神の言葉  イエスを拝した彼らは、まるで急いで舞台から消えていくように、再び自分の国に帰っていきました。その時故郷で輝いたあの光はもうそこにはありませんでした。聖書はこれをこう伝えています。「ところが『ヘロデの所へ帰るな』と夢でお告げがあったので・・」。確かにあの星はもはや輝いていません。暗闇・ヘロデの世界です。神なき異教の地に彼らは戻ろうとしたのです。私達は上を見上げ、あるいは周りを見ます。どこかに私達を導いてくれる目印はないものか。それはもはやどこにもないのです。聖書はその代わり、「夢でお告げがあった」と伝えています。そしてそれは「ヘロデの所へ帰るな」というまさに言葉でありました。そうです。頭上に輝く星ではなくて、占星術の学者達に神の言葉が、神の戒めが、神の定めが、神の道が示されます。神の指し示す道、別の道、それは私達の心の中に響く神の言葉です。自分の国に帰った学者達を待っていたのは依然として異教の世界であり、暗闇の世界です。でも神が彼らと共に歩もうとされたということ、彼らが神と共に歩むことが許されるようになったということ、彼らの歩みを確かにするものが彼らの心に響きます。神の言葉です。御子イエス・キリストへと導かれて出会い、喜びを共に心にお迎えした彼らを、私達を、導くのは神の言葉です。それは私達に別の道を指し示すのです。 /n和解の福音 今年も国内でも海外でも,まことに悲惨な事件が相次ぎました。一昨年ドイツから来た友人が日本に着いて「ストレス社会」という言葉を口にしました。皆、追われるようにして自分一人の幸せを追いかけて、他人を思いやる、一人一人を大切にする、神様によって創られ神様に愛されたかけがえのない人間として私も愛する、ということがなくなった。神を愛するということは神が愛されたものを愛するということでなければならない。国を愛することも大切ですが、隣人を愛するということの方がもっと大切なことではないでしょうか。或いは、社会における虚偽や不正が後を絶たない。真の神がいないゆえに神の前に良心的に生きることが総崩れになっている。それが現代の日本です。或いは、聖書は私達に和解の福音・・つまり私達はすでに他者としての神に受け入れられているということ・・を告げています。そのように、私達も他者に対して心を開き、受け入れるようにと促されています。しかしそれはどうだったでしょうか。あの前の戦争を反省し、アジアの人々と和解と平和に生きるという道をこの国は本当に歩もうとしているのか。ヘロデの権力者の道ではない。殺戮と戦争の道ではない道です。別の道です。武器に頼らない国としての生き方、私達の生き方です。イエス・キリストの中に示された生き方です。一言でいえば、神を愛し、隣人を自分のように愛する道です。暴力や差別を否定する道です。神の言葉が私達に示す道です。どこを見ても星はない。上を見てもだめなのです。神の言葉がこの暗いこの世の中でも輝き、私達に確かな道を示すのです。暗闇に輝く光、イエス・キリストに従って,その御言葉に従って,今から、そしてここから、過ぎゆこうとしているこの年の残りの日々を、そして来たらんとする新しい年を、たとえ暗闇であっても、暗闇が深ければ夜明けは近いのだから、神の言葉に示される道を通って望みの忍耐において歩みたいと思います。20世紀を代表した神学者カールバルトは、1968年12月のアドベントの死の前日、60年来の友人トゥルナイゼンと電話で暗い世界情勢について話し、最後にこういったと伝えられています。「しかし、意気消沈しちゃあ だめだ。絶対に。主が支配したもうのだからね。」 クリスマスから歩む。幼な子イエスから歩む。インマヌエル(神共にいます)から歩む。つまり御言葉から歩むということは、この世の主、教会の主、私達一人一人の主の恵みのご支配のもとで、絶対に望みをなくさないという意味です。それが、今年、このクリスマスに神が私達に語られていることです。