イースター礼拝  「死者の中から復活された」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 28章1-10節 1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 /nはじめに  イエス様の弟子でありながらユダヤ人達を恐れてそのことを隠していたヨセフ(ユダヤ人の町アリマタヤの出身)が、十字架上のイエス様の遺体を取り降ろす許可をローマ総督ピラトから得ました。そして取り降ろした遺体にニコデモと共に香料を添えてきれいな亜麻布に包み、岩に掘ったヨセフ所有の新しい墓に遺体を納めました。墓の入り口に大きな石を転がしてふさぎ、そこから立ち去ったのは、安息日に入る金曜日の日没前のことでした。 /n日曜日  今日の聖書の箇所は、安息日が終り(土曜日の日没)日曜日の朝まだ十分明けない内に二人の女性が墓を訪れた時の出来事です。墓は封印され番兵も置かれていました。(弟子達が遺体を盗み、復活のうわさを流すことを祭司長達が恐れた為です)。二人の女性は家にじっとしていることも出来ずに墓のそばでイエス様の死を悲しみ、又、イエス様を偲びたかったのでありましょう。 /n主の天使が降る  ところが墓についた二人は思いもかけない光景を目にします。大きな地震が起こり天使が墓の入り口の石をころがしてその上に座り「あの方は死者の中から復活された」と告げたのです。 /n復活  復活とは死んだ者がよみがえったということです。驚くべきことです。私達人間は、死の前には全く無力です。全ての人間は死ぬことが定まっています。誰一人例外はありません。なぜ死ぬのでしょうか。死ななければならないのでしょうか。それは「罪の支払う報酬」であると聖書は教えます(ロマ6:23)。最初の人アダムによって罪がこの世に入り、同時に罪によって死が入り込んできました。この死が全ての人におよびます。全ての人が罪を犯したからです。 /n罪を犯されなかったイエス様  イエス様には死ぬ理由はどこにもありません。罪を犯されなかったからです。死ぬ必要のないイエス様がなぜ死んだのでしょうか。それは私(あなた・全ての人)の罪を引き受けられたからです。 /n復活は神のわざ  イエス様は十字架につけられ殺されました。死んだ後、墓に葬られたことは私達人間と同じです。(この世においては、死を宣告されると多くの人達は絶望します。なぜならすべての終着駅として死を考えているからです。)しかしそこから先は違いました。イエス様は死者の中から復活されたのです。「復活された」とは「神によってよみがえらされた」という受身の言葉です。イエス様の誕生がそうであったようにイエス様の復活も又、神様のわざです。 /n死の先  イエス様の復活は死に勝利されたことを意味します。それによって肉体の死は一時の通過点に過ぎずその先があることを知らされました。それが天の国(神の国)です。イエス様がこの地上におられた時に語られた多くの話はこの神の国についてでした。人は目に見える世界だけに目を奪われ、喜び悲しみ苦しみ悩みます。しかしイエス様は告別の説教で次のような言葉を残されています。「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」「神を信じ、私を信じなさい」「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとにいくことは出来ない」。又、復活後、疑うトマスに向かって「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われました。 /n私達は神の子供  私達人間に命を与えて下さった神様は、私達の、神様への不従順の罪を赦し、罪の奴隷となっている私達人間を罪の支配から救い出す為に、御子イエス・キリストを遣わされました。そして私達の罪をすべてイエス様に転嫁して負わせ、罪の報酬としての死をイエス様に引き受けさせられたのでした。イエス様の死によって今や私達は罪を赦された神の子供となりました。 /nイースター(復活日)  イースターはイエス様が死に勝たれてよみがえったことを祝う日です。復活されたイエス様は、聖霊の働きを通して今もなお私達と共にいて私達を守り導き励まして下さいます。復活のイエス様を心から感謝し(だから絶望しない)、復活のイエス様と共に歩む一週間でありたいと願うものです。

説教要旨 「イエス・キリストの変貌」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章1-13節 1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。 /nはじめに  本日の聖書には、イエス様の姿が変わったという大変不思議なことが記されています。場所は高い山、イエス様についていったのは12弟子の内わずか3人(ペテロ・ヤコブとその兄弟ヨハネ)です。この3人はイエス様が十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園でイエス様のすぐ近くまでついていった弟子でもあります。おそらくイエス様はこの3人を選び、ご自分がいなくなった時に重要な役割を担うよう特別に訓練されていたのかもしれません。この日イエス様は「祈る為に山に登られ」(ルカ福音書 9:28)ました。十字架の道へ進もうとされていることが、確かに神様の御心に沿うものかどうか、そのことの確信を得る為の祈りと考えられています。 /nイエス様の変貌  山の上で、イエス様の姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、服は光のように白く(2節)なり、更に、旧約時代の偉大な人物モーセ(BC1300年頃)とエリヤ(BC9世紀)が現れてイエス様と語り合って(3節)いました。(モーセは旧約の律法を代表し、エリヤは旧約の預言者を代表する人物で、旧約聖書はイエス様を指し示しています。)三人が語り合っていた内容は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」(ルカ9:31)です。これは、神様が人間を救うという深い偉大な御計画が、今まさに成就の時を目前にしている、ということを意味しているのでしょう。 /nペテロの反応  この世の、空間と時間の世界で生きている者が、一瞬、神様の世界・永遠の世界を垣間見るという出来事に出会った弟子の一人ペテロは、驚きと喜びから「私がここに仮小屋を三つ建てましょう」と奉仕を申し出ます。太陽の暑さや夜露からイエス様とモーセとエリヤを守り、この瞬間の栄光を少しでも長く続かせたいと願ったからでしょう。しかし霊の世界では、人間の言葉や思いは神様の言葉によってさえぎられます。ペテロの話が終らない内に光輝く雲が彼らを覆い、雲の中から神様の声が聞こえました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。イエス様が洗礼を授けられた時も、神様の霊が注がれる中で同じ言葉が天から聞こえています(マタイ福音書3:17)。今、受難の道への歩みを始めようとされたこの時、再びイエス様は、「神様の心に適う者」と証言されたのです。 /n山の上 と 山の下  山上での、栄光に包まれたイエス様のお姿こそ、本来の神の御子の姿であり、その後の復活の姿でもあります。(「神の身分でありながら・・・僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ書2:6)。3人の弟子達はこの光景と、更に雲の中からの神様の御声を聞き恐怖に襲われました。ひれ伏している弟子達にイエス様は近づき、手を触れ「起きなさい。恐れることはない」と言われました。彼らが顔を上げると、イエス様以外誰もおらず霊の世界の出来事は終っておりました。イエス様が、これから山を下りられて人間の救いの為に、神様の御計画を一歩一歩果たされていくのです。その道は犯罪人の一人として人々からあざけられ、つばきされ、残酷な十字架という死刑が待っている道です。 /n復活するまで誰にも話してはならない  3人の弟子達はこの栄光のイエス様を見た証人でしたが、復活するまで語ることを禁じられました。イエス様のメシアとしての働きは、受難と十字架の死と復活をもって成し遂げられます。受難と死と復活を通らない内に、弟子達がこの栄光のイエス様を語るならば、人々は自分勝手な「メシア像」をイエス様に押しつけ、この世の権威を与えようとするでしょう。メシアに隠されている十字架の死と復活を経た神様の救いの御計画など予想も出来ずに、栄光だけのメシア像を求める群衆達は、かつてバプテスマのヨハネを好きなようにあしらって(11節)殺したように(バプテスマのヨハネは自分達の救いの為に、エリヤの働きとして神から遣わされた人)、イエス様に対しても同じようにする(12節)ことを、ここでもイエス様は予告されています。

説教要旨 「何をして欲しいのか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 20章29-34節     29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。 30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。 34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。 /nはじめに  聖書の基本的な読み方として「私にとって」「今」「ここで」の読み方を以前お話しました。私達は「ああ、この話はあの人に丁度良い話だ。あの人に聞かせたい・・」などと思うことがないでしょうか。そのような時は、話が自分の前を素通りしてしまっています。「私にとって」という意味は、神様があの人にではなく自分に何を語っておられるかを聞くことです。二番目の「今」とは、過去でも未来でもなく「今の自分」ということです。三番目の「ここで」は、現在置かれている「自分の状況」の中で聞くということです。 /n二人の盲人の叫び  イエス様がエリコの町を出てエルサレムに向かうことを知り、群衆は自分達も過越の祭りの為にエルサレムに行くので後についていきました。イエス様を慕ってのことでしょう。その途中、道端に座っていた二人の盲人が突然「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんで下さい」と叫びました。それを見た群衆は叱りつけて黙らせようとしました。叫ぶ盲人は、イエス様や自分達の行く手を阻む邪魔な存在として映ったのでしょう。又当時のユダヤ人は、盲人その他の障害を負う人々は神様の祝福から外された人達と考えていました。群衆は、この二人がイエス様の足を止めさせることのないように、盲人を叱り、黙らせようとしたのでしょう。 /n盲人のイエス様への思い  盲人はこれまでイエス様が中風の人、手のなえた人、足の不自由な人、口の利けない人、何よりも自分達と同じ目の見えない人を癒されたうわさやイエス様の教えについて聞いていたに違いありません。二人の心にはイエス様に対する信仰が芽生え育ち、イエス様こそメシア、救い主であるという確信を持ったのでしょう。そこにイエス様がお通りと聞いたのです。千載一遇のチャンスです。自分達の叫びを阻む群衆の叱り声に負けてはいられません。誰も自分達の存在をイエス様に伝えてくれなければ、自分達で頑張るしかありません。31節に「二人はますます」とあります。声を張り上げて「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんで下さい」と叫びました。 /n「何をして欲しいのか」  この個所のすぐ前のゼベダイの息子達の母の願いとは対照的に、盲人の願いはこれ迄の暗い苦しみの淵からの叫びであり、その声はイエス様の耳に届きました。イエス様は彼らを呼び「何をして欲しいのか」と尋ねました。イエス様が盲人の思いを知らないはずはありません。しかしイエス様は尋ねられます「何をして欲しいのか」と。この問いは盲人達の信仰告白を引き出します。「主よ、目を開けていただきたいのです」。 /n「主よ」  わずか6節だけの聖書箇所で、盲人の「主よ」との呼びかけは3回もなされます。彼らは自分達が「誰に」「何を願うべきか」を知っていました。(「自分が何を願っているか、分かっていない」とイエス様から言われた前出の母とは対照的です。)このお方こそダビデの子(メシア)であり、自分達の苦しみを知り、願いを聞き届けて下さる唯一のお方であるとのゆるぎない信仰がここにあります。 /n私達の信仰の目も・・  イエス様は盲人を深く憐れみその目に触れられました。盲人は、彼らの確信通り見えるようになり、イエス様に従う者となりました。私達も「主よ、憐れんで下さい」と信仰をもってイエス様を呼び求め、「何をして欲しいのか」と尋ねられたら、「信仰の目を開けていただきたいのです」と願いましょう。「自分の信仰の視力は大丈夫」と考えているなら、「見えると言い張る所にあなたがたの罪がある」(口語訳ヨハネ9:41)と聖書は警告しています。私達はイエス様がはっきり見えていないことを知り、盲人のようにイエス様に憐れんでいただき、自分に最も必要な願いを聞いていただいて、今週も、喜んで従う者になりたいと願うものです。

説教要旨 「最も重要な教え」 牧師 佐藤義子

/n[申命記] 6章4-9節 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 /n[マタイによる福音書] 22章34-40節 34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38 これが最も重要な第一の掟である。 39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 /nはじめに  旧約聖書には、律法と呼ばれるものがありました。これはモーセを通して神が人間に守るべき教えとして与えられた戒めです。イエス様の時代、当時のユダヤ教徒はどのくらいの数の戒めを知り、そして守っていたのでしょうか。註解書によればその数は613だといいます。これを248と365に分け、初めの248(人間の体の骨の数)は「○○しなければならない」教えで、後の365(一年の日数)は「○○してはならない」教えだと言われます。 /nファリサイ派の質問  以前もイエス様をわなにかけようと、税金を皇帝に納めるべきか否かと尋ねたファリサイ派の人々(15節以下)が、再び質問しにやってきました。「律法の中で、どの掟が最も重要か」という問いです。民衆はイエス様の語る神の国の福音に耳を傾け、その教えに驚き、目を見張り、尊敬しました。それは、自分達がこれ迄築いてきた権威が崩されていくことでもあり、彼らにとって、イエス様は無視出来ない脅威の存在でした。その為に彼らはイエス様の影響力にとどめを刺そうと、答えに窮するような質問を用意しました。この問いは、彼らの間でも、議論になっている問いでした。 /nイエス様のこたえ  イエス様の答えは明快でした。イエス様は律法を613から成る集合と考えず一つのものとして考えました。そしてその中心にある核として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(38節)と、「隣人を自分のように愛しなさい」(39節)を取り上げられました。これは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)と、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18)からの引用です。 /n神への愛と隣人への愛  イエス様は、神様への愛と隣人への愛の二つの教えを一つとし、同じ重要性をもっていることを教えられました。律法が613であろうと、1000、2000あろうとも、すべての戒めがここから出てここに帰るというのです。私達の心が神様への愛によって動かされているならば、私達の全生活を神様のレールの上に乗せることになります。神様を愛するとは隣人を愛することです。なぜなら神様が人間を大切に考え、隣人に対する私達の愛を求めているからです。神様を愛しているという人が人間を軽く考えることはできません。又、人間を大事に考えるならば、神様を軽く見ることはできません。なぜなら神様を見失ったら私達の心から愛が乾いていくのです。神様は、私達が人間に仕えることによって神に仕え、神に仕えることによって人間に仕えることを命じておられます。 /n私達の生きる基準  神様への愛、そして人への愛が芽生えて活発になると、どうしたらもっと愛せるようになるのか、どういうふうにして神様に仕え、隣人に仕えていけばいいのか、その手段、方法を熱心に考えるようになります。ここで、イエス様が教えておられる愛は、神の愛(アガペーの愛)です。神様の愛(神様が一人子イエス?キリストを私の為に遣わして下さった)を学んだ者は、その愛が私一人にとどまらず、家族にも友人にも親族にも知人にも及ぶことを知り、そのことに心を傾けていきます。神への愛と隣人への愛の教えは、私達の義務?責任の基準を私達に与えてくれるのです。  イエス様は、このいましめを示すことによって、正しいことと正しくないこと、あるいは義務と罪がごちゃまぜになることがないようにされました。何が善で、何が悪であるのかを示されました。とりわけ教会の中においては、この教え、神への愛と隣人への愛が、中心に据えられているかどうかが、教会が教会であり続けているかどうかの基準となります。イエス様は「律法全体と預言者は、この二つのおきてに基づいている」と言われました。「律法全体と預言者」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は、この二つのいましめが、ちょうつがいの金具の働きをしている、とイエス様はいわれました。 /n「神への愛」と「隣人への愛」の内実  それは十戒に示されています。神を愛するということは神を神とすることであり、神以外の者を神としない、神でない偶像を拝まない、神の名前をそまつにあつかわない、礼拝を厳守する、神が与えた両親を敬う、ことです。隣人を愛するとは、隣人の命を守り、隣人の家庭を守り、隣人の自由を守り、隣人の名誉を守り、隣人の財産を守ることです。又、それは山上の説教にも示されています。たとえば、憐れみ深くあること、平和を愛すること、義のために迫害を受けること、隣人に腹をたてたり、ばか?愚か者といわないこと、仲たがいをしているならば和解をする、あるいは自分に負い目を持つ者を赦す、人をさばかない、ということです。  私達は、律法やいましめにがんじがらめにしばられているのではなく、そうではなく、神様からの祝福の道への招きとしてこの二つの戒めが与えられています。私達はこの招きにこたえるのか、それとも背を向けるのか、道は二つです。すべての道はここから始まり、ここに帰ることを思い、私達のすべての判断?決断?実践がここに基準を置いている歩みでありたいと願うものです。

「主の道を整える」 平賀真理子伝道師

/n[イザヤ書] 40章3節 3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 /n[マルコによる福音書] 1章1-8節 1 神の子イエス・キリストの福音の初め。 2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 /nはじめに  今日、礼拝で御言葉を取り継ぐ任を与えられ、神様に感謝を捧げたいと思います。又、欠けたところの多い私を伝道師として受け入れて下さった仙台南伝道所の兄弟姉妹の皆様に心から感謝しています。月1回の説教を担当させていただくことになり「マルコによる福音書」を選びました。マルコによる福音書は「マタイ福音書」「ルカ福音書」の基本資料にもなっているといわれる「初めての福音書」です。伝道者として初めの一歩を踏み出す私にふさわしいと受け取りました。 /n「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1節)  この言葉はマルコ福音書の本質を最も短くまとめた実に的確な表記です!主イエスが神の子としてこの世で歩みながら、人々に悔い改めを勧め、神の国の到来を告げる、という喜ばしい知らせをもたらして下さったことを明示しています。その御生涯の最期では、人々の罪を贖う為に十字架にかかったけれども死に勝利し、神の支配を勝ち取られたこと、そのこともまた、「よき知らせ」即ち「福音」です。 /n「道を整える」(3節)  道を整える為には具体的にどうすればいいか。もし整えようとする道に草がぼうぼう生えていたら、刈り取るでしょう。ごみが落ちていたら、拾って別のごみ置き場に捨てに行くでしょう。石ころを取り除き,ほうきで地面を念入りに掃き清めるでしょう。地盤が悪かったら踏み固めるでしょう。不要なものは捨て、必要なことは、よりたくさん念を押して行い、計画を順序良く進めるでしょう。「整える」で思い出すことがあります。母教会の先輩(技術コンサルタント)が教会の会報に「整理整頓」について書かれたことです。整理とは,いる物といらない物を分けていらない物を捨てること、整頓とは、いる物を順序良く並べることだとありました。 /n信仰生活の整理整頓  信仰生活においても、いる・いらないを分ける時は明確な基準が必要です。信仰生活の「整理」とは礼拝出席と日々の聖書拝読と朝夕の祈りの死守でしょうか。「整頓」とは、御言葉を心に刻み、折にふれて家族や友人、また落ち込んだ時の自分に対しても、語りかけることができるように準備できることでしょうか。自らの姿勢を問われています。 /n旧約における「主の道を整える」とは・・  イザヤ書40章-55章(第二イザヤ)は、「イスラエルの民が異教の地バビロンでの苦しい捕囚生活からもうすぐ解放される」という慰めに満ちた預言から始まります。3節の「主の為に、荒れ野に道を備え 私達の神の為に、荒れ地に広い道を通せ。」は、故郷エルサレムへ向かって、又、主に向かって、もう一度神殿で礼拝を献げることが出来るように、信仰という道を立て直すことを意味しています。異教の地での偶像礼拝を悔い改め、そのことを公に言い表して、きちんとやめて、全存在をかけて方向転換をし、主なる神のみを信じる生活に立ち帰ることです。 /n新約時代の「主の道を整える」とは・・  「罪を告白し、悔い改めの洗礼を受ける」(4-5節)ことです。聖書によれば、一番大きな罪は主イエスと、御子をこの世に下さった神様を信じることが出来ないことです。洗礼は、罪の告白によって罪が赦された結果もたらされる恵みです。多くの方々がその恵みにあずかってほしいと願っています。私自身、告白前の苦しい締め付けられるような感覚と、祈っていただいた時の解放された自由な感覚は忘れることができません。苦しみから救いへと180度の転換の体験は、主への道を整え、より強い結びつきとなり、主から捕らえられる喜びを得ることができます!今日の聖書では、主イエスはまだ登場せず、洗礼者ヨハネが、あらかじめ、神様が準備していた人として描かれています。「らくだの毛皮に腰に革の帯」という姿は(列王記下1章8節の)エリヤを想起させます。エリヤは、イスラエル民族にとっては、救い主の先駆けとして再び現れると信じられていた人物です。ヨハネ=エリヤとなれば、ヨハネが主イエスを自分の後に来る偉大な方と証言すれば、イエス=メシアとなります。 /n「洗礼者ヨハネは水による洗礼、主イエスは聖霊による洗礼」  洗礼者ヨハネは多くの民衆に水による洗礼を施しています。しかし主イエスの業は、もっと大きいものでした。使徒言行録に記されているように、全生涯を終えられた後、弟子たちに聖霊が降り注いだこと(2章)、聖霊の導きで全世界に福音が広まったこと(全章通じて)が、主イエスのこの世への勝利による、全世界への聖霊による洗礼だと解釈できます。私達は、主イエスの勝利によって、聖霊の恵みの中に浸り続けることができる立場にます。その幸いを認識できるところにいます。恵みの中で、神様との絆を整え、まっすぐにし、より強固なものにするよう求められています。今週も、主を仰ぎ見、感謝する一週間であるよう、祈りたいと思います。

「イエス・キリストの死」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 27章45-56節 45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53 そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。 /nはじめに  本日は、日本キリスト教団が定めた伝道献身者奨励日であり、神学校日です。伝道者奨励日とは、神様があなたを伝道者として召しておられるかもしれないということを考えていただく日であり、又、献身して神学校で学んでいる神学生や神学校を覚えて祈り、応援する日でもあります。 イエス様の言葉に、「収穫は多いが、働き手が少ない」「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」があります。聖書の言葉は信仰の決断を促す時や、迷いの中から大きな決断をする時に、私達を後ろから押してくれます。また、決断に確信を与えてくれます。 日本のクリスチャン人口は1パーセントに満たず、ほとんどの家庭はキリスト教に無理解であるといっても良いでしょう。牧師、伝道者になるといえば、家族・親族からの猛反対を受けるのが常です。しかし、反対される中で伝道者は神様からの召命を信じ、十字架の福音を語り続けます。かつて迫害の中で伝道が続けられた結果、福音はユダヤから全世界へ、日本へ、仙台へ、この山田の地まで届けられています。キリスト教は自分だけに留めておく宗教ではありません。伝えて初めて生きた宗教となります。 /n何を伝えるか  福音の内容は、私の罪(そしてすべての人の罪)が神に赦されたということです。私達人間は生まれながらに罪人です。「私達には創り主なる神様がおられる」ということを聞いても信じようとしない。聖書で語られる罪とは、神に対する不信仰と不従順です。人間と神様の間に横たわっていた罪という断絶を、イエス・キリストが十字架にかかり、罪のない命を犠牲として神に献げられました。それゆえに神様の赦しが与えられました。自分に罪がないという人でも、イエス様の教えに従い得ない現実があります。愛しなさいといわれても愛せない。赦しなさいといわれても赦せない。イエス様の教えを頭で理解していても、そのように生きることが出来ない。そういう私達のすべてが十字架によって赦されたのです。(コリント15:3参照) /n「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」  今日の聖書の箇所は、十字架上のイエス様を伝えている個所です。昼の12時に全地が暗くなり3時に及んだとあります。暗闇は悪の力の最後の時であり、神様がこれまでの世界秩序に終止符を打つしるしといわれます。3時頃、イエス様は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。これは詩編22編2節です。詩篇22編は、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながらなお 神に信頼の祈りをささげる悲痛な叫びです。 /n十字架の意味  歴史的に見るならば、罪のないイエス様を十字架につけたのはイスラエルの宗教指導者達であり、ピラトであり、十字架につけよと叫んだ群衆であるといえるでしょう。しかしその一方で、イエス・キリストの受難と十字架による死は、すでにイエス様ご自身の口から予告されていました(マタイ16:21)し、神の御子イエス様が地上に来られたのは、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)というイエス様ご自身の言葉があります。さらに最後の晩餐でイエス様は、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(マタイ26:27-28)と言われました。十字架の死は、私達に罪の赦しを与える為の、神様の救いのご計画が最初にありました。 /n神殿の幕  イエス様は再び叫び声をあげられ、息を引き取られました(50節)。その時、神殿の幕が上から下まで裂けたとあります。これはエルサレム神殿の一番奥にある至聖所と聖所を隔てる幕のことで、至聖所には一年に一度だけ大祭司が人々の罪のあがないの為に入ることが許されていました。神様のおられる聖なる場所と考えられていた至聖所の、その隔ての幕が破られたということは、聖なる神様と罪ある人間との断絶の時代が終わり、大祭司によるとりなしの時代も終り、神様への道がイエス様を通して私達の前に開かれたという象徴的な出来事でありました。(後略)。

「使徒の選出」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 1章1-6節 1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。 /n[使徒言行録] 1章12-26節 12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。 14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。 16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。 17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。 18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。 19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。 20 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』 21-22そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 22 [前節に合節] 23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、 24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。 25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」 26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。 /nはじめに  今朝の箇所は、オリブ山でイエス様を天に見送った弟子達がエルサレムの町に戻ってからの話です。イエス様が弟子達に語ったのは、「エルサレムを離れてはいけない。約束の聖霊を待ちなさい。」ということでした。弟子達にとって、とどまることと待つことは決して易しいことではありませんでした。というのは、復活されたイエス様を天に送り、これからの自分達の歩みがまだ見えていない状態です。社会的にはユダヤ当局者達に憎まれ殺されたイエスという人の弟子です。ユダヤ社会の中にあって、ユダヤ教徒達から歓迎されない存在でありました。 /n教会の原型  弟子達がまず第一にしたことは、エルサレムの宿泊していた家の二階に集まって心を合わせて熱心に祈ったことでした。誰もエルサレムから離れず、弟子になる以前の生活(職業)に戻ることもしませんでした。イエス様の言葉に従ったのです。13節には二階での祈りを共にした人達の名前があります。使徒言行録の著者は教会の始まりを丁寧に伝えることを使命としたのでしょう。ユダを除く11人の弟子達の名前があり、婦人達(ルカ福音書にはマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアなど。その他、たとえば11人の弟子の妻達も加わっていたとも考えられます)、そしてイエス様の母「マリア」、続いて「イエスの兄弟達」と記されます。聖書では肉親の「兄弟」と信仰上の「兄弟」と二通りの使い方をしていますが、ここではイエス様の肉親です。(福音書によれば、イエス様にはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の弟と、姉妹が2人以上いました)。しかし生前、イエス様の兄弟はイエス様を信じていなかったという記述があり、又、悪いうわさを耳にして身内の者がイエス様を取り押さえにきたともありますので、その彼らがこの祈りに加えられていたとは彼らが変えられたということであり、素晴らしいことです。これらの人達が「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)のです。この姿こそ教会の原型といえるでしょう。 /n心を合わせて熱心に祈る  熱心に、とは心を集中して、心を注ぎ出して祈ることです。何を祈ったのでしょうか。イエス様が教えてくださった主の祈り、信仰が守られるように、信仰を伝えられるように、そして約束の聖霊が与えられるまで自分達が忍耐深く待ち続けられるように、日々の悔い改め、そして地の果てに至るまでキリストの証人となると言われたゆえに、キリストの復活の証人として、宣教に必要とされる賜物が与えられるように、と祈ったことでしょう。祈りとは自分を見つめることを離れて、自分を超えた全知全能のお方に目を向けることです。どのように祈ったらよいかわからない時は、声を出して詩篇を読まれるのも一つの方法です。特に詩篇23編は昔から多くの信仰者を励ましています。 /n使徒の選出  次に聖書が伝えるのは、120人ほどの人達が集まっている中での、ペテロの発言です。この群は生前のイエス様に出会い、信仰を与えられた人達の群です。彼らに向かってペテロは、イエス様の直弟子として12人が選ばれたが仲間の一人・ユダは不本意な死に方で死んでしまった。それゆえ、ユダの代わりに使徒を一人補充すべきである、と語りました。イエス様が選ばれた「12」という数を、必要な大切な数と考えたのです。  まず使徒の条件が出されました。「イエス様の生存中、さらに復活・昇天にも共にいた者」という条件です。イエス様の言動をつぶさに見てきた使徒が、神の恵み、神の国について明らかにされた内容を、これから大胆に伝えていくのです。二人の候補者があげられました。一人でなく二人の候補者をたてたのは、人間の熟慮と決断だけではなく直接に神様の導きが働く余地を残すとの考えからです。そして彼らは祈りました。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人の内のどちらをお選びになったかを、お示しください。・・」  使徒の仕事は、その人の内側の心にかかっています。内側を見ることのできるお方は神のみです。弟子達はどちらを神様が使徒として召されるのかを問う為に、当時の方法であった「くじ」がひかれ(箴言16:33)、くじはマティアにあたりました。こうして、離れてしまったユダの使徒としての任務はマティアに引き継がれることになりました。

「神から出たもの」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 30:2-6 2 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。 3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。 4 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。 5 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 6 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。 /n[使徒言行録] 5章27-42節 27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」 33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。 34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。 38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、 40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の弟子達が議会の命令を破り宣教を続けた為に再び議会に引き出され尋問される場面です。28節に、議会での大祭司の言葉が記されています。「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前達はエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 弟子達がイエス・キリストの名前によって人々を癒し、あるいはイエス・キリストの復活を語ることによって人々の間にイエス・キリストへの賛美が生まれることは、イエス・キリストに死刑宣告をした者を批判し裁くことにもつながります。議会はある意味で血の報復を恐れているのです。 /n人間に従うよりも  この世の権力者からイエスの名を使うことの禁止命令が出ているにもかかわらず、なにゆえその命令を破るのか、という質問に対してペトロと他の弟子達は大胆にも堂々とそれに答えました。 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。 裁判というものは、そもそも何が正しく何が間違っているのかを判断して決定が宣告される場ですが、裁判の判断が明らかに神の命令に矛盾する場合は、弟子達は、神の働きの中で生き神の命令に基づいてすべてのことを行為するゆえに、神の命令を優先することを宣言したのです。更に「あなた方が木につけて殺したイエスを神は復活させられました」と宣教したのです。「神様が人間の罪を赦すために救い主として送って下さった神の御子を、あなた方は神に呪われた者(木につけて殺された者は呪われた者)としてしまった」と議会を告発し、悔い改めて神に立ち帰るよう促しました。 /n人からか、神からか。  「悔い改める者には罪の赦しが与えられる」という恵みの福音が用意されているにもかかわらず、弟子達の言葉に対する議会の応答は、はげしい怒りと殺意でした(33節)。そのような怒りの感情で荒れ狂っている議員達を見て、議会の構成員の一人であったファリサイ派の中でも特にその名が知られていた律法の教師・ガマリエルが警告を発しました。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」  神から出た計画や行動は、人間が決して太刀打ちすることは出来ないゆえに、まかり間違えば、自分達が神を敵にまわすことになりかねない。だから死刑判決にすべきではないとの彼の警告に議会は従い、弟子達は 鞭打たれた後、再び伝道禁止を言い渡されて釈放されました。 /n辱めを受けるほどの者にされた喜び  使徒達はイエス・キリストから迫害の予告を聞いておりました。「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれるからである」(マタイ10:17)。「私の為にののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(同5:11-12)自分達が「苦難を受けた証人」とされた喜びから、使徒達は今や、疲れを知らない熱意をもって、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせて」(42節)おりました。 /n福音宣教の前進  こうして福音は信じる者から信じる者へと伝え続けられ、妨げられても神から出ているゆえに、人間の一切の思惑を超えてとどまることなく前進していきました。それゆえに私達も又、恥じることなく人にこびることなく、伝道する使命と責任と神様が共にいて下さることを喜び感謝し、今週もキリストの良き証人となれるよう神様の助けを祈るものです。

「世界伝道の始まり」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 40編9-12節 9 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。 10 恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。 11 主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく/慈しみとまことによって/いつもわたしをお守りください。 12 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。 /n[使徒言行録] 8章4-25節 4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。 5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。 6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。 7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。 8 町の人々は大変喜んだ。 9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。 10 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。 11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。 12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。 13 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。 14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。 15 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。 16 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。 17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。 18 シモンは、使徒たちが手を置くことで、““霊””が与えられるのを見、金を持って来て、 19 言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」 20 すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。 21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。 22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。 23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」 24 シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」 25 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。 /nはじめに  今日の聖書には四つのことが記されています。一つは、迫害されてエルサレムから逃げたキリスト教徒達のこと。二つには、フィリポの伝道。三つには、ペテロとヨハネがサマリアに遣わされたこと、四つには、サマリアの町にいた魔術師シモンのことです。 以上から、イエス・キリストの福音が世界に広がっていった、その始まりを見ていきたいと思います。 /n第一のこと  ステファノの殉教後、教会に対して大迫害が起こり多くのクリスチャンが投獄されました。そのような状況下で、エルサレムから逃げていった人々が行く先々で伝道し、その結果、福音が広められていきました。ある聖書学者はこのことを「ヨセフの原則」という言葉を用いています。エジプトに奴隷として売られたヨセフが、最後にはエジプトの高官としてイスラエルの民を飢饉から救い、次のように兄達に語りました。「あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世紀50:20)。これは「神様は万事を益として下さる」(ロマ書8:28)に共通する信仰です。 /n第二のこと  二つめには、フィリポが、当時ユダヤ人と交際の全くなかったサマリア人の住むサマリアの町に入ったことです。サマリア人は、ユダヤ人と同じようにアブラハムの子孫でありながら、他宗教と妥協し、又、雑婚によってその純粋性を失い、ユダヤ人から軽蔑されていて、当時、口も利かない間柄でした。それにもかかわらず、フィリポは、自分達ユダヤ人が殺したイエスはメシア(救い主)であると宣教しました。フィリポの語るイエス・キリストの教えや十字架の死と復活の出来事、そして神の国の到来や神様の支配が行われているという証しは、癒しや悪霊の追放という出来事と共に、多くの人々に受け入れられました。12節には、「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」とあります。 /n第三のこと  エルサレムに残った使徒達は、サマリアの人々が福音を信じたことを聞いて、エルサレムからペトロとヨハネをサマリアに送りました。彼らは、サマリアの人々が洗礼を受けたものの、聖霊を与えられていないことを知り、信じた人々が聖霊を受けるように手を置いて祈りました。すると「彼らは聖霊を受けた」と聖書は伝えています。 /n第四のこと  洗礼を受けた中に魔術師シモンがおりました。ペトロとヨハネの按手によって聖霊が降るのを見たシモンは、「その力を下さい」とお金を差し出しました。シモンは、聖霊という神様からの賜物を、魔術の延長と考えて、人間の思い通りに使おうと考えたのです。彼の信仰と洗礼は本物でなかったことが明らかになりました。ペトロは彼に「この金は、お前と一緒に滅びてしまうが良い。」「お前には、まだ苦い胆汁があり、不義の縄目がからみついている」(口語訳)と厳しく叱責しました。「苦い胆汁」とは有毒な胆汁という意味で、毒を流す危険を持っているということです。「不義の縄目がからみつく」とは悪魔が人間を自分の勢力下に縛りつけておくことで、悪魔の道具になっているという意味です。 現代でも、占い、魔術、霊媒、迷信やたたりからのお祓い、お札やお守り等、多くの人間がそれに縛られています。しかしこれらは(シモンが退けられたように)私達の信仰とは決して共存し得ないものです。 /nおわりに  福音が全世界に宣べ伝えられることはイエス・キリストのご命令です。全ての人が神様を信じ、御子イエス・キリストを救い主と信じて、神様に栄光を帰することこそ、被造物である人間の「究極の生きる目的」です。私達はその為に命が与えられ、生かされています。神様がイエス様をこの世に送られたのは、この世を愛されたからであり、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為です。すべての方がこの福音のもとに招かれ、この福音を伝える者として歩めますように祈るものです。

「迫害の中の祈り」 佐藤義子 牧師

/n[エステル記] 4章11節-5章2節 4:11 「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」 4:12 エステルの返事がモルデカイに伝えられると、 4:13 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。 4:14 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」 4:15 エステルはモルデカイに返事を送った。 4:16 「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」 4:17 そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。 5:1 それから三日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。 5:2 王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。 /n[使徒言行録] 12章1-19節 1 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、 2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 3 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。 4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。 5 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。 6 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。 7 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。 8 天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。 9 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。 10 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。 11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」 12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。 14 ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。 15 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。 16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。 17 ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。 18 夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。 19 ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。 /nはじめに  紀元前6世紀、バビロンの支配下からペルシャの支配下へと移った頃、ユダヤ人のモルデカイは、自分の娘として育ててきたエステルをペルシャ王の妃の候補者として王宮に送ります。エステルは王妃に選ばれますが、その後、王の高官ハマンがモルデカイに敵意を抱き、ユダヤ人を全滅させる為の法律を作成し王の許可をとります。この法律を知ったモルデカイは、エステルに、ユダヤ人の命を助けるために王に嘆願するように言付けます。しかしエステルは、王の召喚状がないのに出ていけば、王から金の杓(しゃく)を差し伸べられない限り殺されるという法律があることを伝えます。モルデカイはエステルを励まし、この時の為にエステルは王妃になったのだ、と手紙を書きます。 /nエステルの決断  エステルは、町にいる全てのユダヤ人を集めてエステルの為に3日3晩断食し、飲食を一切絶つようにモルデカイに頼み、自分も断食し、死ぬ覚悟で3日後、王の前に出ます。王はエステルに金の杓を伸べます。その後、ハマンの悪だくみは王の知るところとなりハマンは殺され、ユダヤ人は救われることになりました。ユダヤ民族存亡の危機の時、命をかけた祈りが捧げられ、その祈りの中でエステルが起こした行動を神様は導かれました。 /n神様のなさったわざ  本日の使徒言行録は、ローマ帝国支配下時代、ユダヤ人によるキリスト教徒への迫害が起こっていた時のことです。ヘロデ王はユダヤ教に改宗し、宗教的指導者層の歓心を買い、自分の人気を高めようと使徒ヤコブを剣で殺し、さらにペトロをも捕えました。教会に連なる信徒達は、ヨハネの母マリアの家に集まり、牢にいるペトロの為に、ひたすら祈りをささげていました。ペトロが王の前に引き出される前夜、突然、光が牢の中を照らし、神の使いが眠っていたペトロの脇腹をつついて起こし、鎖が手からはずれ、天使の誘導によって、全ての監視所を通り抜けて町に通じる鉄の門までくると、門がひとりでに開き、そこを出て町に出た時、天使が離れて行きました。ペトロ自身、何が起こっているのかわからない状態の中で、ふと我に返った時、これら一連の出来事は、すべて神様のなさったわざであることを理解しました。 /n「主が牢から連れ出してくださった」  ペトロは、すぐヨハネの母マリアの家に行き、門を叩きます。そしてペトロの為に祈っていた大勢の人達に、神様が彼になした不思議な導きを語り、さらに、他の人々にも伝えるように言って、彼はそこを出ていきます。そこにとどまれば危険がその家にもやってくるからでしょう。又、ペトロが牢から出された救いの出来事を、もっと多くの人々に伝えるためでもあったでしょう。この出来事は、 迫害の中にあっても、神様が共にいて下さる「あかし」でありました。 /n逆境の中で  私達の人生の中で、事柄が私達の願う方向にはいかず逆に進んでいく経験をお持ちの方は多いでしょう。神様の支配は人間の願望に支配されるのではなく、私達の願いを打ち破り、苦しく辛い経験へと向かわせることがあります。にもかかわらず、神様のこの世における支配、統治は今なお続き、この世が存続する限り神様のわざが止むことはありません。私達は見えることのみに心を動かされ、慌てることが多いものですが、聖書は私達に真剣に祈ることを教えています。神の御心に沿う祈りは必ずきかれます。祈った通りにならなくても、祈りが無駄になることはありません。神様は、神様の主権のもとに、私達の祈りを聞き、私達をご計画に従って最善に導かれます。この信仰が私達に与えられています。 >> 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ書4:6-7) <<