説教要旨 「イエスにつまずく人々」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 13章53-58節 53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、 54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。 55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」 57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、 58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。 /nはじめに  皆さんはつまずいたことがおありでしょう。多くの場合、つまずくところびます。行くべき目的地があるのに、つまずいて転ぶと目的地への到達は遅れ、転び方がひどい場合には、目的地到着を断念せざるを得ません。同じことが信仰の世界でもいえます。 /nナザレの村  イエス様はユダヤのベツレヘムで生まれましたが、ガリラヤ地方のナザレの村で少年時代、青年時代を過ごされ、バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていることを聞いてナザレの村を出て、ヨハネから洗礼を授けられ、その後、公生涯に入られます。イエス様は父ヨセフから大工の仕事を教えられ、ご自分も大工として働かれていたと想像されます。イエス様が公生涯に入られたのが30才頃といわれており、それまではナザレの村の一員として、又、ヨセフとマリアの長男として村人に知られていたのでしょう。 /n会堂で  この日イエス様は故郷ナザレに戻られ、ユダヤ人の会堂で教えられました。ふるさとの人々が、イエス様の話を聞き終り、言った言葉が54節にあります。「この人は、このような知恵と奇跡を行なう力をどこから得たのだろう」と。ふるさとの人々にとって、自分達の知っていたイエスという人物がなぜこのように話すことが出来るのか不思議でした。語る言葉には権威があり、力がありました。見るところ、自分達の知っているあの大工の息子のイエスであり、又、母マリアもイエスの兄弟姉妹もまだ村にいます。自分達と同じ延長線上にいるはずのイエスが、はるかにそれを越えた話をしたことは大きな驚きでした。しかし彼らのその驚きが尊敬に変わることはありませんでした。 /nつまずく  かつて自分達と一緒に過ごしたあのイエスが、何でこのように話せるのか、との疑問は、イエス様を信じる方向には導きませんでした。自分達はイエスの生い立ちを知っている、その古い知識が、新しい出会いを妨げました。出身や家族についての知識、共有する過去の思い出は、イエス様を受け入れるのに何の役にも立たなかったばかりでなく、むしろ邪魔をしたのです。そこでイエス様は当時良く知られていた格言、ことわざを口にされました。 「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。人間という者は、自分の先生とか教師・指導者として尊敬するのは、その人の過去を知らない人であり、一緒に育った人、過去を知っている人を敬うのはむつかしいということでしょう。不信仰のふるさとの人々を聖書は57節で「このように、人々はイエスにつまずいた」と表現しています。 /nつまずきの原因  ふるさとの人々は、イエス様を自分達と同じ部類の、同レベルの人間であると考え、それ以上の人物であるとは考えたくありませんでした。今、目の前でイエス様がどんなに立派なことを教えても、彼らは自分達のイエスへの評価を変えたくないのです。同じ村で育った人間であるという思いが彼らの心をかたくなにしています。語られた言葉に対して心を開いて聞くのではなく、語った人物と自分達が同じ場所で成長した、そのことにこだわって、自分達の教師として敬うことを拒んでいるのです。それは相手より自分を低くすることを拒否する自尊心であり、傲慢な心であります。 /n拒否反応の共通点  イエス様の家族も、ファリサイ派や律法学者もそうでしたが、イエス様のまわりにはイエス様の語ることに耳を傾けず、批判する人々が多くいました。彼らは神を信じていましたが、神様がイエス様を自分達以上に高く置かれていることを認めたくありませんでした。それには、イエス様を自分達のところまで引きずり下ろさなくてはなりません。そこで彼らはイエス様のこの世における、大工という父親の職業や、母の名前、イエスの弟妹達のことを言うことによって、自分達と同じレベルに並べたと考えたのです。彼らは昔からある価値観や信頼するものをもっていました。又、自分のことは自分が一番よくわかっているという自負心もありました。その自分達の教師になるべきふさわしい人は、昔から知っているあなたではなくて、もっと別の名の通った正統派の教師だと言いたかったのでありましょう。 /n私達を省みて  私達はどうでしょうか。イエス様を拒んだ故郷の人と変わらない傲慢さを持ち合わせているのではないでしょうか。頭を下げることは嫌いだし苦手です。自分を高くされることは嬉しく歓迎しますが、相手を高くすることは自分が低くなることなので出来ることならしたくありません。親子、兄弟、夫婦、友人、同僚、上司との関係においても、表面はともかく、自分を低くすることのむつかしさは誰でもが経験しているところではないでしょうか。 /n傲慢はつまずきの石  神様を知る、イエス・キリストに出会う、真理に到達することを願うならば、つまずきの石となっている、この私達の傲慢さを打ち砕いていただかなければなりません。私にはあなたの助けは必要ないと心を閉じて、だからこのままで十分なのだといわしめるものは、私達の傲慢にほかなりません。ふるさとの人々は、「イエス様を信じた時に救いへの道が開かれていく」ことを知りませんでした。彼らが知りたかったイエス様の知恵と力の根源も、イエス様を信じた時にはじめて理解できるのです。しかし彼らは信じる前につまずきました。イエス様の人間的血筋にこだわり、しかも自分達が知りうる範囲だけの知識に基づいて判断したからです。小さな自分の知識の枠の中にとどまり、大きな力の働きに向かって信じる決断の一歩を始めることが出来ませんでした。 /n十字架もつまずき  馬小屋から始まったイエスさまの一生は一貫して低い生き方を通されました。イエス様が弟子として選ばれた人達、すすんで関わりを持たれた人達は、地位や名誉のある自分を高くしている人達ではありませんでした。弱い人、人から軽蔑されている人、苦しんでいる人達が友でした。しかも最後は十字架という犯罪人がかかる死刑で殺されました。イエス様は常に低いところにご自分を置かれました。それが人々にとってはつまずきになりました。なぜなら人々は、身近な人、良く知っている人ではなく、高い所に自分を置いているような人を指導者として尊敬したいのです。イエス様の十字架は多くの人達にとってつまずきとなりました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわちユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです。」(Ⅰコリント1:22-)。十字架という死刑で殺された人をなぜ救い主として拝むのか、はユダヤ人だけでなく、日本においてもつまずきです。私達はそれを知りつつ、なお、イエス様は神の御子であることを告白し続けています。 /nおわりに  「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(同25)。私達はつまずく人ではなくつまずかない人、信じない者ではなく信じる者として、又、イエス様の低さを学び、自分の傲慢さを祈りによって打ち砕いていただきながらこの一週間を歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「つまずかせないようにしよう」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章22-27節 22 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。 23 そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。 24 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。 25 ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」 26 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。 27 しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」 /nはじめに  イエス様は苦しみを受けられ、殺され、三日目に復活することを三回にわたり弟子達に予告されました。22節は第二回目の予告です。第一回目は、「あなたは神の子です」とのペテロの告白直後でした。この時は、ペテロは直ちにこの予告を否定して、イエス様から「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず人間のことを思っている」と叱られました。今回は「弟子達は非常に悲しんだ」(23節)とあります。 /n神殿税  この後、イエス様の宣教の拠点であるカファウルナウムでの出来事が記され、ここからエルサレムへの十字架の道が始まります。一人の徴税人がペテロの所にやってきて「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と質問します。これは「あなた達の先生はイスラエルの聖なる秩序に不忠実であるのか。律法を無視して聖なる共同体への参加に無頓着で、わずかばかりのお金を拒むのか。」という意地悪な質問です。  神殿税は、当時全ての20歳以上のユダヤ人男子に課せられ、毎年、金額にして半シケル(二日分の賃金相当)を納めなければなりませんでした(出エジプト記30:13‐14参照)。納税時期にはパレスチナの町や村に告示が出され、アダルの月(2月-3月)15日になると徴税所が設けられました。 /n神殿税の目的  エルサレム神殿を維持するのには莫大な維持費がかかりました。毎日、朝と晩には子羊の犠牲とブドウ酒と粉と油がささげられました。又,毎日香もたかれ、更に祭司の服などもこの税で用意されました。神殿税を納めることで自分がユダヤ人であり、ユダヤ教団に属しているとの意思を表わし、更にユダヤ教団の経済的負担に責任を担うことを意味しました。たとえ外国にいようと又、豊かであろうと貧しかろうと、この税を納めることで自分達は聖なる共同体に参加していることを表わしました。 /nイエス様からの質問  ペテロが納税について話をする為に家に入った時、イエス様の方から税金について言い出されました。王様が税金を集めるのは自分の子供からか、他の人々からか、という質問をされたのです。ペテロは「他の人々からです」 と答えました。するとイエス様は「では子供達は納めなくてよいわけだ。」と言われました。王の子供達には納税の義務がないように、神の子供は、神の為に建てられている神殿の税金は払う必要がないということです。イエス様は神を父としておられるゆえに、すべてのものを神様と共有されており、ご自分の一切を神様にささげられていました。弟子達もイエス様を通して神の子とされているゆえに、神殿税からは自由であることを教えています。 /nイエス様と神殿の関係  神殿で毎日行われていた罪の償いの犠牲は、まもなくイエス様の十字架の死による贖いで、その意味がなくなろうとしています。又当時の神殿は、祈りの家であるはずが堕落していました(21章)。更に「神殿の崩壊」をイエス様は予告されています(24章)。[* 神殿は紀元70年にローマによって破壊された。] イエス様は、律法で定められた神殿税からは自由な立場におられた方でした。   /n「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」  律法からは自由であられたイエス様でしたが、(にもかかわらず) この後、奇蹟によってペテロに納税に必要なお金の用意をされました。「つまずかせる」とは人々の前に石などを置いて、人々がつまずいて倒れるということです。もしイエス様が神殿税を納めなければ、人々の批判や怒りが起こり、そのことによって彼らに罪を犯す機会を与えてしまいます。その為、イエス様は御子であられる特別な権利を行使されませんでした。 /nつまずかせず、真理にしたがう  ここで思い起こすのは宗教的な理由で肉を食べない人達の前では、肉は食べない、というパウロの言葉です(コリント8章)。「弱い人をつまずかせない」。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と教えます。これらは、妥協を教えているのではなく、弱い相手に、無理をさせて罪を犯させてしまわないように、との愛が根底にあり、本質を譲るものではありません。その証拠に、イエス様は、「十字架」という何よりも大きなつまずきとなる道を避けずに、自ら自由意志で選び取って歩まれました。私達の歩みも、本質にかかわることにおいては、つまずきとなっても譲らず、しかし、相手が罪を犯すような誘惑につながる時には、つまずかせない為の「愛を根底にした神様からの知恵」をいただいて歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「もはや戦争を学ばない」 Rev.Cally Roger Witte

/n[イザヤ書] 2章1-5節 1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。 2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。 4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。 5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。 /n 今日、皆さんんと共にあることは、私の大きな喜びです。今回の日本訪問は、私の最初の日本訪問であり、日本のクリチスチャンと一緒に礼拝すること、ましてや説教をすることは初めてです。今日、私が皆さんと共にあることは、とても光栄です。ありがとうございます。 私は皆さんに米国合同教会および世界宣教部からもご挨拶させていただきます。世界宣教部とは、米国合同教会が他の教派と一緒に活動している世界宣教の部門です。 ここ、仙台に来ることが出来ましたことは、私にとって本当に喜びです。というのも、仙台には、私達の教会の実に多くの信仰に満ちた宣教師が、過去5,60年にわたり仕えてきているからです。 2,3週間前ですが、私はカリフォルニアにあるピルグリム・プレースを訪問しました。そこは、教会で奉仕をされてきた方々が引退して住んでおられるコミュニティで、私は隠退された数人の宣教師を訪問する幸運に恵まれました。そして私は、彼らから深い仙台への愛と、仙台における宣教についての話を聞くことが出来ました。 さて、私は、皆さんの牧師である佐藤牧師と、ご主人、そして米国合同教会宣教師のマーチー先生やジェフリー・メンセンディーク先生と知りえましたことを喜んでおります。 私は又、世界宣教のインターンとして数ヶ月後にここに来ることになる若い婦人を推薦したいと思います。皆さまは、きっと歓迎してくれると思います。 この家の教会での特別な時を皆様に感謝したいと思います。 私は、皆様に、Happy New Year とも言いたいと思います。と申しますのは、クリスチャンにとっては、今日は、新しい年の最初の日曜日、つまり、教会のこよみでは、最初の日曜日であるからです。教会の暦では、これまで、聖霊降臨節として通常の時を過ごしてきましたが、今日、全く新しい年、新しい歩みを始めることで、この聖霊降臨節をきっちりと終わらせるのです。そしてすべてのことが再び始まります。神様の時間において始まるのです。 私達の周囲の社会は、アメリカのように、クリスマスが世俗的な一大消費のお祭りになっている所では、増大する消費者消費を期待しながら、企業の年間利益報告を待ちつつ、この年を終えようとしています。又、私達の周りのすべての人々は、せわしなく歩み、ますます仕事に集中していますが、このクリスマスの待降節は、私達を全く異なる、新しいものへと招いています。 神学者・旧約学者として良く知られている米国合同教会の現在のメンバーであり、福音派的改革派のDr.ウオルターブルゲマンが次のように書いています。 「待降節は、私達を、マヒしてしまった忍耐や、慣れ親しんだ期待から目覚めさせ、神様が与えようとしている新しい贈り物(ギフト)の見地から、私達の歩みを新たに考えるようにと招いている」。 しかしまず第一に、私達は、気の狂わんばかりの人生の慌ただしさからスローダウンして待たなければなりません。待降節は、待つ時であり、平静になる時であり、誰が現実にすべてを支配しているかを思い起こす時です。 イエス様の誕生をお祝いするこのクリスマス・シーズンの準備において、個人や家庭・教会が、この特別な4週間に行う多くのすばらしい習慣があります。 私の子供たちがまだ小さかった頃、(実は27才と30歳になった今でも)私達はこのアドベントの伝統である4本のローソクに火をともすこと、平和、希望、愛、喜びを表すローソクを、アドベントの日曜日ごとに一本一本と、火をともしていくのを今も愛しています。又、クリスマスイブまでの日を数えながら、毎朝、朝食の時に、アドベントカレンダーの小さな窓を開けていくことや、その日の為の聖書の個所を読むことを愛しています。 私達は又、小さな飼い葉おけの場面のコレクション、まぶねのキリストのセット、キリスト降誕のセットなどをもっており、それらをアドベントの最初の日曜日に、家のまわりに置きました。これらは、マリア、ヨセフ、幼子キリストの彫像であり、又、羊飼いと一匹二匹の羊、そして拝みにきた三人の王、あるいは学者でした。私達の家庭では、幼子イエス様をセットから隠して、それを24日のクリスマス・イブに持ち出すために、待つのです。 しかし、大事なことは、このアドベントは、神様が私達のためにどのような世界を望んでいるかを考えること、そして、「すべての者の平和と善意のメッセージ」という驚くべき知らせを熟考する季節であり、時なのです。この時は、待つ時であり、静止し、神様を知る時です。 神様がどんなに人類を愛しておられるかを深く考える時です。それは、貧しい人々、抑圧された人々、囚われている人々、この世の物質主義や消費主義に、どういうわけか、とりこになっている私達すべてに対して、権力と支配が振るわれている人々に対して、神様は、良き知らせをもたらす為に、イエス様を派遣されたということです。まさに、新しい年、新しい時です。 私達はイエス・キリストにおいて、新たな道、新たな命を与えられるのです。 今日、私が注目したい聖書の箇所は、預言者イザヤからのものです。それは美しい節であり、芸術作品ともいえる詩的な言葉です。ある人は、市民権運動の指導者、マルティン・ルサーキング博士の美しい、人を奮い立たせる演説に結びつけています。というのは、この節、言葉は平和・正義・そしてすべての人をいやす預言者の幻について、のべているからです。 この新しい年において、私達は、戦争に替えて平和を求めるイザヤの言葉を聴きます。それは 私達に、もはや、戦争を学ばないことを求め、私達のつるぎを、「すき」に替えることを求め、又、私達の戦争の武器を、善きものの為に、平和の為の道具に替えることを求めています。 私達は又、世界中が恐ろしい戦争と殺りく、紛争と闘争の中にあって、この驚くべき言葉を聞きます。確かに、我々アメリカのクリスチャンは、イラクにおける戦争の中にあって、この言葉を聞かなければなりません。そこでは、私達の国の行動が、400万の人々が故郷から逃れなければならない原因を引き起こしました。その内の200万人は隣国へ避難を求め、国に残った後の200万人は,まさに彼らの命がおびやかされ、彼らのこの世の財産を投げ出さざるを得なくしています。 私達は、戦争の主導者や、自国の政府の暴力によって迫害されたスーダンのダルフールの飢えた人々をテレビで見る時でさえも、このイザヤの美しい希望の言葉、この平和のビジョンに耳を 傾けます。又、私達は、しばらくの間、官憲がインターネットのアクセスを切るまでは、前のビルマ、今のミャンマーでの自由のためのデモ隊の取り締まりをテレビで見たその時でさえも、イザヤの言葉に耳を傾けます。私達は地域社会や職場、又私達の家庭でさえも、やはり不正があるのを知っています。その時でさえも、私達は平和と希望のこれらの言葉、正義に満ちた世界のヴィジョンに耳を傾けます。私達は又、他の側面でも、平和の欠如を理解するようになっています。たとえば、不正に直面しても、私達が行動できないようにマヒさせるテロの脅威、私達の人間活動によって引き起こされた美しい惑星である地球に対する損壊、経済生活において、生死の境界線上にある人々の、ますます増大する怒りを理解するようになっています。 イザヤは、イスラエルの人々の美しい町エルサレムが燃やされ、とどめることが出来ないように見える強国によって打ち壊されたのを見ていたその人々に対して、この信じられないほどの美しい、素晴らしい、聖霊に満ちた言葉を語りました。彼らは、次々と来る帝国によって、何世紀にも渡って、脅威、破壊、そして、捕囚を経験しました。彼らは一方で、現実には不可能で気違い沙汰であるような平和の預言者イザヤの言葉を聴き、他方では、信仰の耳を持って、これらの言葉を究極的な希望として聞きました。彼らは、どんな帝国やどんな破壊的な力よりも強い、唯一つの力があることを知っていました。預言者イザヤの言葉は、その時代には明らかであり目に見える物と、全く異なる、未来の神様の約束でありました。 イザヤの言葉は、数世紀の間、生き続けました。それらは、世界中の人々に希望と勇気を与えています。それらは、私達の最も深い、切なる思いを表しています。それらは存在し、そして、 究極的に行使される神様の力を知っている言葉です。それらは、ブッシュ大統領が何とか実際に聞くようにと私が叫びたい言葉です。戦争ではない、平和こそ、まさに神様の御心です。 イザヤ書2章の初めからのこの数節は、優美であり、恵みに満ちており、忘れることが出来ない、心を高揚させる言葉です。それらは、私達が平和をもたらす可能性を持つことができると信じる世界中の人々を、又、まさに神様が管理していると信じる人達を励ましてきました。 神様は、この幻を現実へともたらす神様です。 しかし、それには、私達が準備してなすべき仕事があります。この待降節・この日々に、私達は戦争の道具を平和の道具へとつくりかえるように、と呼びかけられています。 これは神様が、諸国の間に判決を下すのを私達に語るビジョンであり、又、神様が人々の間の 紛争に判決を下すのを語る幻です。「彼らは剣を打ち直して「すき」とし、やりを打ち直して「鎌」とする。国は国に向かって、剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」 私が、日本の政府が憲法9条を取り去らないようにと呼びかける会議に参加する為、アメリカから日本に来たのは、大いなる謙遜のもとに(へりくだって)・・です。私の国が、やすやすと戦争を起こす時、私やアメリカから来た誰かが、あなた方に、「もはや戦争を学ばないように」と、どんな権利で言えるのでしょうか。 私は、日本の宗教指導者にとても感謝しています。彼らは、人々に、もう一度、「すき」を武器に替えない、再び、鎌をやりに替えない、戦争を学ばない、戦争を準備しない、もう二度と戦争をしない、と励まし続けているからです。 私は、我々もアメリカ憲法に9条をもったらと願います。そして、いつか神様が私の国にもそのような幻へと導いてくれるように祈っています。 皆様の国は、戦争の恐ろしさを知っています。皆様方は、いかに戦争を学ばないで平和を学ぶか、そして、平和のために助けとなることを、私達すべての人に教えることができます。 イエス・キリストは、平和の君、世の光、私達すべてを自由にするために来ました。 このことこそが、私達が待降節を待ち続けることの意味です。このことこそ、私達が平静になり、神様を知ることが出来る時、私達が心から深く考えることによって得られる、良き知らせです。 Amen and Amen!

説教要旨 「ゲッセマネの祈り」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章36-46節 36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 742 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 /n 本日はしゅろの日曜日(パームサンデー)です。イエス様がエルサレムに来られると聞いて過越の祭りに来ていた大勢の群衆が、なつめやしの枝をもって迎えに出たことが記されています(ヨハネ12章)。当時、イエス様の名声を伝え聞いていた人々は、熱狂的にイエス様を歓迎しました。共同訳聖書では「なつめやし」とありますが、文語訳や口語訳では「しゅろ」と訳しています。本日から受難週(Passion WeekまたはHoly Week)が始まります。 同じ週の木曜日に最後の晩餐を持たれた後、イエス様は弟子達を連れて(ユダを除く11人)ゲッセマネと呼ばれる園に祈る為に向かわれました。ルカ福音書には「いつものようにオリーブ山に行かれると」とありますから、そこは祈りの場所としてイエス様が選んでいた場所であったのでしょう。弟子達には馴染みの場所であったから、裏切ったユダがイエス様を捕えようとしている人々に場所を手引きすることができたのでしょう。 祈りの場所につくと、イエス様は祈っている間はここで待つようにと弟子達に言って、さらに三人(ペテロとヤコブとヨハネ)の弟子を伴い、その先に進み、「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われました。ルカ福音書によれば、石を投げて届くほどの所に、ひざまずいて祈られたとあります。イエス様の死ぬばかりの悲しみの思いを、この三人なら背後から祈りをもって支えることが出来、又、弟子達自身がこの困難の時を乗り越える為に祈りが必要であることを教えられたのでしょう。イエス様の悲しみは、罪のないイエス様が、神様に敵対する罪のもとに置かれ、罪の中に生きる人間に代わって、その裁きを受けられることにありました。 私達は自分自身のことを考える時、自分はそれほどすばらしい人間ではないかもしれないが、かといって、それほど悪い人間ではないと思っていないでしょうか。適度に常識もあり、困っている人がいて、自分にその力があれば助けてもあげる。特にいじわるすることもなく、良い人間か悪い人間かといえば、良い人間の部類であると考えていないでしょうか。確かにそうでありましょう。この世を基準にするならばそうでありましょう。そして、そのように考えるならば、罪とか裁きという言葉はずいぶんきつく響くでありましょう。 しかし、聖書は人間に対して、なまぬるい態度で描いていません。人間は神に似せて作られたと書いてあるのです。神様の似姿として創られているのです。その前提にたって自分自身をもう一度見つめ直してみれば、自分が本来の姿から、どれほど遠く離れているか、悪い言葉を使うなら、どれほど堕落しているかが見えてくるのではないでしょうか。たとえば、イエス様の教えを、与えられた自由意志で実践するように、といわれたとしましょう。そこで初めて、私達は、自分は敵を愛せない、自分は腹を立てる、自分は柔和になれない、自分は人を裁いてしまう。自分はあの人を許せないなどなど、どの教えもどの教えも守ることができていない自分に気付くのです。そしてその視点でもう一度、質問を受けるのです。「あなたは神の前に神の似姿を保っていますか」。その時ロマ書3章の言葉が響いてきます。「正しい者はいない。一人もいない。」と。 すべての人は罪を犯していると認めざるを得ません。もし、これまで犯してきた自分の罪の数々について、神様から裁きを受けなさいといわれるならば、私達のうち誰一人その恐怖に耐えられる人はいません。そこで神様は「罪と何のかかわりもない方を神はわたしたちのために、罪となさいました。私達はそのかたによって神の義を得ることができたのです。」「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちに委ねられたのです。」(コリント第二の手紙 5章 21,19) イエス様が、ゲッセマネで苦闘の祈りをささげられたのは、ご自分を罪という神様の敵側に身を置き、刑罰を受けるということにありました。ルカ福音書には「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血のしたたるように地面に落ちた」と記されています。 罪のないお方が、全くの無実の罪によって、残酷な十字架という死刑によって殺される、その時の祈りが、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」でありました。ここに祈りの原点があります。 人間的に考えるならば、イエス様が殺されないようにするには、まず、エルサレムにくることは避けたでしょうし、ユダの裏切りを予測していたのであれば、ユダに見張りをつけたり、あるいは、ユダも知らない場所を選んで祈ることも考えられますし、遠くに逃げることも可能であったでしょう。しかし、イエス様はご自分から杯を過ぎ去らせようとはなさいませんでした。そのことをなさるのは父なる神様だけであることを知っておられました。 ゲッセマネでのイエス様の苦闘の祈りの最中、弟子達は悲しみのあまり眠ってしまいました。聖書によれば一度起こされ、二度起こされ、そして祈り終えられたイエス様がごらんになったのは、まだ眠っている弟子達の姿でした。悲しい現実であります。にもかかわらず、神様はそのような弟子達はじめすべての人間の弱さを受け入れてくださり、そのような私達の為に死んで下さったのでありました。この十字架の死は、まさに神様の深いご計画であったことが、聖書のいたるところで語られています。 5年前、イースター礼拝で説教して下さったマーチー先生は、ご自身が経験されたイースター礼拝について話して下さいました。アメリカのコロラド州の教会での話です。その教会は、ロッキー山脈に囲まれていて、教会の聖壇の後ろに大きな窓があり、その窓からは美しい高い山や近くの林が見えました。受難週の洗足木曜日に夜の礼拝があったそうです。マーチー先生が出席された受難週の木曜日の礼拝の日は、陰鬱で、雪のような霧雨がふっていたそうです。礼拝が終わると、聖壇の上の十字架は布で覆われたそうです。聖書によれば、イエス様が十字架につけられたのは金曜日でその日、昼の12時になると全地は暗くなり、それが3時にまで続き、苦しみの中で息を引き取られました。マーチー先生も、重苦しい時を経てイースターの朝、礼拝に行きますと、会堂の中は一変し、十字架の覆いは取り払われ、聖壇の後ろの大きな窓からは、木々がよくみえ、太陽の輝きがあふれていたとお話されました。そして先生が語られたのは、洗足木曜日の暗い夜は、神様の苦悩する愛であり、イースターの空になった墓は、神様の贖いと罪に対する勝利を雄弁に宣言されているということでした。 私たちも、40日間の受難節の最後の一週間を今日から過ごします。レントなきイースターはなしといわれるように、受難節があり、受難週があって、はじめてイースターの喜びを味わうことができるのではないかと思います。ここにおられる方々が、今週一週間、イエス様の十字架の死が、私の為であった、私が神様と和解するためであった、私が神様から罪許されるためであった、と信じる信仰に導かれ、その信仰が堅くされることを心より願うものです。

「高価な香油」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 26章1-13節 1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。 2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」 3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、 4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。 5 しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。 6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。 9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 /nはじめに  26章の1節から5節には、イエス様ご自身による十字架への予告と、祭司長達の殺害計画が並行して語られます。祭司長達は、祭りの期間中にイエス様を捕えれば、人口の膨れ上がったエルサレムで暴動が起きると予想し、この時期を避けようと相談します。彼らの罪ある計画は、いろいろな人間の思いが交錯しながらの計画ですが、それらは、神様のご計画の中に飲み込まれていくのを、私達はこれから見ていくことになります。 /n女性の行為  6節からは場面が変わり、イエス様がベタニア村のシモンの家に行かれた時のことが描かれます。一人の女性が極めて高価な香油の入った石膏(せっこう)のつぼをもって近寄り、食事の席についておられたイエス様の頭に香油をそそぎました。部屋中一杯に良い香りが拡がったことでしょう。これは油としても香水としても、又遺体に塗るのにも用いられたインド産のナルドの香油といわれ、約1年分の年収に匹敵するほどのものでした。この女性が、突然そのような行動に出た動機については何も書いてありません。おそらくこの女性はイエス様をとても尊敬し、慕い、イエス様を自分の出来る最上のおもてなしをもって迎えたいという一筋の思いから出た行為であったと思われます。 /n弟子達の反応  ところが弟子達は、女性の行為を喜ぶのではなく、憤慨(ふんがい)したのです。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。年収に匹敵するような高価な香油を、たった一人の人間に使うより、それを売ってたくさんの貧しい人々を助けた方が良いという弟子達の意見は正論に聞こえます。弟子達は貧しさに耐え、倹約を重ねながらイエス様に従って生きてきたことでしょう。貧しさを知る者は高価なものを粗末にしたり無駄遣いに対して嫌悪感さえ覚えるものです。弟子達は女性が情に流されて、前後をかえりみずに取った行動だと判断しました。 /n「わたしに良いことをしてくれた」(10節)  以前「ぶどう園の労働者のたとえ」を学んだ時、たとえの中で主人は最後に「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それともわたしの気前のよさをねたむのか」と言いましたが、この女性が香油をイエス様にささげたいと願ったその思いは、誰にも止める権利がないことは明らかです。そのことを弟子達は忘れ、あたかも香油の一部が自分の物であるかのように正論をつきつけました。気持のどこかでこの女性のイエス様に対する愛の豊かさに嫉妬していたかもしれません。弟子達の批判・非難は女性の心を傷つけ、苦痛を与えたことでしょう。イエス様は弟子達をたしなめて「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。」(「なぜ、この婦人を苦しめるのか。この婦人は私に美しいことをしてくれたのだ。」別訳)と、言われました。 /n「葬る準備をしてくれた」(12節)  イエス様みずからが女性の行為について、その意味を明らかにされました。「この人は、私を葬る準備をしてくれた。」と言われたのです。当時ユダヤ人は遺体に香油を塗り腐敗臭をおおい)ました。イエス様は十字架から引き下ろされた時、安息日が迫っていた為、香料を添えて亜麻布に包んだだけで墓に納められました(ヨハネ福音書)。安息日明けに、遺体に塗ろうと婦人達が香料と香油を準備していました(ルカ福音書)が、安息日が明けた時には墓は空で、香油がイエス様の遺体に塗られることはありませんでした。この女性は、今、この時、まもなく死に赴かれるイエス様に対して香油を注ぎ、それが葬りの準備とされたのです。 /n「記念として語り伝えられるだろう」(13節)  イエス様の十字架の死は全ての人の救いの為でした。その死を間近にした時、一人の婦人の愛の行為は記念碑となり二千年後の今も語り続けられています。 「(主よ、あなたの)驚くべき知識はわたしを超えあまりにも高くて到達できない。」(詩篇139:6)と、私達は告白します。私達が間違わないで日々歩むためには、イエス様の教えが不可欠です。今週も神様を仰ぎ見つつ、聖霊の導きを信じて歩みたいと願うものです。

宗教改革記念礼拝 「万事が益となる働き」 倉松 功先生

/n[エゼキエル書] 18章30-32節 30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。 31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 /n[ローマの信徒への手紙] 8章23-28節 23 被造物だけでなく、““霊””の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 26 同様に、““霊””も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、““霊””自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 27 人の心を見抜く方は、““霊””の思いが何であるかを知っておられます。““霊””は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 /nはじめに  今から491年前、1517年10月31日に、マルティン・ルターが95の文章をヴィッテンベルク大学のある町の領主の居城の教会堂の扉に貼り付けたというこの事件をきっかけとして、宗教改革が始まりました。それから150年後、ドイツ、フランス、スイスなどのプロテスタントの教会が、10月31日を宗教改革の記念の日と取り決めて今日に至っております。 /n95カ条の提題  この冒頭すなわち第一カ条に記されているのが「私達の師にして主であるイエス・キリストが『悔い改めよ』(マタイ4:17)と言われた時、主はそれによって信じる者の全生涯(洗礼を受けた時から地上の生涯を終えるまで)が悔い改めであるべきことを求めておられたのである。」というものです。ですから宗教改革は悔い改めから始まったと言って良いでしょう。95カ条そのものは、当時のカトリック教会の信仰、神学、教会生活、教会の制度そのものついての批判(批判だけではなく、こうあるべきとの改革の提案、主張)をしています。 /n95カ条の提題を出さざるを得なかった理由  95カ条の提題を出す以前に、ルター自身の中に宗教改革的な体験・思い・認識があったということです。それがあって始めて単なる批判ではなくて主張・提言を含む提題を出すことが出来ました。ルターはどのようにしてイエス・キリストと新しく出逢ったのでしょうか。当時彼は、厳格な修道士としての生活をしながら、ヴィッテンベルク大学で聖書の講義をしていました。ルターの宗教改革的体験というのはこの大学での聖書講義(詩篇、ロマ書、ガラテヤ書、ヘブル書等)、聖書の取り組みから起こったといえます。「キリストを信じる信仰によって義と認められる」という信仰義認の体験は、新しいキリストとの出逢いでした。 /nルターの体験  体験のきっかけとなった聖書は、ロマ書1章17節「神の義は福音において示された」です。福音とは1章の初めにあるように「キリストに関するもの」(3節)「キリストそのもの」です。ですから「神の義は、イエス・キリストにおいてあらわされた」ということになります。神の義は、哲学や道徳や倫理で語るような論理ではなく、神の子であられる主イエス・キリスト、この方が「神の義」であるということです。それまでのルターは、「神の義」とは正しい、罪や悪を裁くと考えていました。神の義しさで罪や悪を裁くのですから、徹底的に裁くということになります。彼は最も厳格な修道会(アウグスティヌス修道会)に属し、日夜修道的な生活をしていました。しかしどのように厳しく修行しても神の義の前で裁かれるのですから安心は出来ず、苦悩しておりました。そういう時に「神の義とはそういうものではない。そういう部分もあるけれどもそれが本来の神の意図ではない。本来の神の義とは、福音において現れている。イエス・キリストにおいて現われている。そのイエス・キリストを受け容入れる、信じる。そういうことしかない。」そこに行き当たりました。そういう体験でした。 /n体験に基づく聖書の読み方  この体験によってルターの聖書の読み方がすっかり変りました。福音から聖書を読む。聖書に出てくる神の平安とか、神の宥(なだ)め、神の憐れみとは、イエス・キリストにおいて現れた神の平和・平安、憐れみです。山上の説教に「柔和な者は幸いである」とありますが、私共が柔和な者である、というのではなくて、キリストによって私共が柔和な者とされる、ということです。イエス・キリストによって、私共が平和を作り出す者になり、私共に平安が与えられる。私共が生まれながらのままでは、平和を作り出したり柔和な者であるということは神の前ではあり得ない。私共は、福音によって(キリストによって)創り変えられる。受け身です。そのように読まなければならないということをルターは体験によって学びました。「神の義」を通して「私達を義とする」「義しい者に作り替える」。 それは、キリストがキリストを通してそうさせて下さる。キリストを信じることによってのみ義とされる(神が見て義(ただ)しい者とされる)ということです。私達が義を行っているのではありません。 /n私達の罪が、キリストに転嫁された!  キリストを信じることによって私共が義とされるのは、神の義から見て義しいとされるのですからこれは大変なことです。それがどうして起こるかというと、キリストが私達の罪を負う。その時キリストの持っている神の義を与えて下さる。私達の罪とキリストの義を交換する。信仰によって義とされるという「義」は、キリストの持っておられる神の義であり、私達の外(側)にある義です。ルターは「外側にある義が私達に与えられ、私達の罪がキリストに担われる」と説明しています。この説明はカルヴァンにも受け継がれ、宗教改革者たちは信仰義認のことを「罪が転嫁される」と表現しました。神の義がキリストによって私達に与えられる。私共の罪がキリストに担われる。私共自身が持っている神の義ではありません。ですから「全生涯悔い改める」というのが信仰の告白として出てくるのではないか。私共が神を満足させる義を行っているのではない。それゆえに「恩寵(おんちょう)のみによって」「恵みによって」私共は救われるということが明確になります。 /n三つのキーワード  今朝の聖書には三つのキーワードがあります。1「霊の初穂」(23節)。2「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(同)。3「万事が益となる」(28節)です。  「霊の初穂」。これは、キリストを信じることによって義とされることを受け入れ、自らを省み、罪の告白をして義と認められ、洗礼を受けることでしょう。これは終生私達に与えられるものです。洗礼を通して、洗礼のしるしを通して、終生その道を歩むものです。日本基督(きりすと)教団の信仰告白においても、「この変らざる恵みの内に」という言葉があります。「この変らざる恵みの内に」とは、信仰によって義とせられる。洗礼を受ける。ということを言っています。神の御霊が、洗礼を受け、キリストを受け入れることによって与えられている。その御霊は御言葉(説教と聖書)を通していつも私達を守っている、導いているということです。「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」パウロは同じことをロマ書7:18「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」。7:23「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と言っています。これはパウロのうめきです。そしてすぐあとで「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と感謝し、再び「このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」とうめきの原因を繰り返しています。これはパウロが神の子となること(体のあがなわれること)を待っている表れでしょう。同じことがガラテヤ書5:17にもあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」肉とは身体のことです。身体があがなわれるのを待つとは死ぬことです。死ぬことによって私達は肉の誘惑(ルターは肉の攻撃と表現)から解放されるわけです。私共は洗礼を受けることによって、父なる神を「アバ,父」と呼ぶ神の子としての初穂が与えられている。しかし体が贖われて復活のキリストにあずかるという状況ではありません。にもかかわらず、霊の導きによって聖霊の果実(良い果実)を生み出すことが赦されています。きよい生活をすることが赦されています。しかし自分で「これがきよい生活である」ということは出来ません。それはまさに感謝をもって受け入れるか、あるいは信仰の告白(ざんげの告白)と裏腹にあるものでしょう。 信仰によって義と認められるということが、キリストにおいて表れた神の義であり、キリストの義である以上、私共はキリストの持っている義を行うことは出来ません。これは95カ条の提題を出した時のあの悔い改めに通じるルターの考えでもあります。 /nアウグスティヌスの御言葉とのかかわり  あの有名なアウグスティヌスは、死の病床に横たわりながら、壁に七つの悔い改めの詩編を書き並べて貼っていたと愛弟子ポシディウスは書いています。それはアウグスティヌスにとって大きな感謝、大きな安心の拠り所であったと思います。同時に自らを悔い改めながら、その神の御言葉に心を委ねて死んでいったと思われます。 /n私達の生きる枠  私達は霊の初穂を与えられ、信仰によって義と認められ、御霊である神の言葉<聖霊が働く聖書と説教という神の言葉>によって守られている、ということの中で聖化の歩み、聖霊のもとに導かれる歩みをすることが赦されています。これは大きな私達の枠です。私達の生きている大きな支えです。船といってもいいかもしれません。その中で私共は生きている。それは、ルターの信仰義認の体験や、アウグスティヌススの死の床における御言葉とのかかわり、そういうものによって示されるように思います。「万事が益となる」ということは、御言葉によって守られ、御言葉を通して御霊によって支えられている、ということに尽きると思います。 /n最後に聖書をお読みします。 >> 「“霊”も弱い私達を助けて下さいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して下さるからです。神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って、召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜らないはずがありましょうか。だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。」(ロマ書8章26・28・32・35) << (文責:佐藤義子) _________________________________________________________________________________ /n<参照> -日本基督教団信仰告白の引用箇所 –・・神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。この変らざる恵みの内に、聖霊は我らを潔(きよ)めて義の果(み)を結ばしめ、その御業を成就したもう。・・」 -七つの悔い改めの詩編 –6編、32編、38編、51編、102編、130編、143編を指す。

「神に仕える者」 倉松 功先生(元東北学院院長)

/n[詩篇] 98:1-9 1 新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 2 主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し 3 イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。 4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 5 琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。 6 ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 7 とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。 8 潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え 9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。 /n[ローマの信徒への手紙] 13章1-7節 1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 /nはじめに  今日の聖書は「支配者への従順」について書かれております。「支配者」とは、国家や県や市など人間の集まり(集団)の支配者ということになります。支配者には、政治や社会全体の平和・福祉・公平・正義などを保持し、促進していく働き(役割)があります。私達キリスト者は国家(集団の、政治的、経済的、法律的な面で責任を負っている)などの機関に対して、どういう態度をとるべきか、又、服従ということに対してどのように考えるべきかがここに記されており、この箇所は私達の日常生活において大変重要な意味をもっていると言えます。この箇所は歴史的にも大変重要な個所でありました。 /n人は、上に立つ権威に従うべき(1-2節)  今日の箇所は三つに分かれます。1-2節は「上に立つ権威に従うべきである。」ということと、その理由が二つ記されています。一つには「国家は神によって立てられているから」(当局者はそのように考えていない。彼らは選挙で選ばれたと考えている)であり、二つには、「国家は神によって治められた秩序・神の定めであって、神の定めに従わなくてはならない」と支配者への忠誠が二重に勧められています。 /n神によって立てられた機関は何をなすべきか(3-4節) <良いことをしなければなりません。> 国家は、善を行うように勧め、悪をこらしめるために神に立てられた機関です。(善を行なわせる為に神に仕える者)。しかし、その善・正義・真理・美など思想やものの考え方の価値などについて国家が定める(決める)とは、ここに書いていないように思います。善とは何か。正義とは、真理とは何か。どのような判断をするのか、どのようにかかわるのかについては書いていない・・。 /n聖書では・・  このことに関連した聖書の重要な個所は、ピラトの前で主イエス・キリストが話されたこと、ピラトと主イエスとの問答です。(ヨハネ18:37-38)。主イエス・キリストがピラトの前に立たされて尋問を受け、主イエスは、「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言っています。ピラトは「真理とは何か」と問います。問いはしますが、ピラトは「主イエスは犯罪人か。平和や公共の福祉を阻害する人物かどうか」という点に関心がありました。真理についてはわからなかったでしょうし判断をしていません。まさにここに聖書が捕えている国家の役割の限界が出ています。国家は善を勧めるけれども、善がどういうものであるかについては決めていません。国家が関心があるのは、全体の平和・福祉・公平などが保たれているかどうかです。ピラトは主イエスがどういう形で、どういう内容の宗教的真理を語っているかについては判断していません。これは大変重要なことです。主イエスが「真理について証しをする。」「真理を示す」という言葉に対して、ピラトは理解せず、判断をしなかったのです。 /n国家は・・  国家は、思想のもっている社会的な意味とか政治的なことについて、それが社会の平和や秩序をみだすものであるかどうかを判断するけれども、そのことの内容に立ち入って(善悪とか、その美が普遍的な美かどうかについて)判断しません。もし国家が自分の役割を限定しないで(せばめないで)真理、善悪、美というものについて判断したり奨励したりすると、軍国主義の日本や、ヒットラー、スターリン、アメリカの極右政党などのように宗教と政治が一緒になり、国や市町村全体が大変な混乱に陥ります(国家が原理主義に陥る)。ここでの「善を勧め、悪をこらしめる」という事柄は、大変漠然としているようですが大変重要です。国家(県や市など)の正義の力の限界(役目の限界)を明らかにしたともいえます。 /n神に仕える者  パウロの時代は「ローマの平和」といわれる時代ですが、キリスト教にとっては友好的な時代ではなく苦難の時代でもありました。そういう中でパウロは、「国家は善を勧め、悪をこらしめる為に神によって定められた神の秩序である。」と言っています。それに付け加えて、国家はそういう形で「神に仕える者」(4節・6節)と二回も言っております。これはとても重要です。 /n国家の位置づけ  はじめに司会者に読んでいただいた詩篇98編は大変重要なことを言っています。「<span style="font-weight:bold;">右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた</span>」(1節)。救いの御業とは主イエス・キリストのことです。右の御手に対して、左の御手では神は何をなさるのか。それは家族や国家など神の定めた秩序によって、平和・公正・正義などを実現されると理解されています。ルターは、神の二つの世界支配の方法として、一つが救いのみわざ、二つ目が家族・家庭、労働、国家(人間創造、家族の構成、次に社会から国家。これが創造の順序であり、聖書の価値観の順序です)をあげます。キリスト教諸国では、社会生活の中でそのような理解をしているのではないかと思います。 /n良心を傾けて従いなさい(5節-7節)  国家は神に仕える者、奉仕をする者、ということですが、神に奉仕をする、とは「礼拝する」(サーヴィス)ということです。  神が私達にどういうふうに奉仕をしてくれたか、仕えてくれたか、といえば、神は、私達に主イエスを送って下さって、遣わして下さって、この主イエスによって救いをもたらして下さった。これが神の私達に対する奉仕です。それに対して、国家の奉仕は礼拝をする人々を保護する、守る、という形の奉仕です。直接礼拝に関与してメッセージ(真理について)までは国家は判断しないし、わかりません。主イエスはピラトの前で「<span style="font-weight:bold;">私の国はこの世には属していない。</span>」(ヨハネ18:36)と言われました。  しかしそれと同時に、国家は神によって立てられ、神によって定められた秩序に基づいておりますから、「良心を傾けて従いなさい」と5節から7節で言っています。「<span style="font-weight:bold;">良心のためにも、これに従うべき</span>」(5節)とは、「徹底的に良心によって」ということです。それだけ国家は重い使命を神によって与えられていると理解する以外にないでしょう。カルヴァンは、「国家が、人類公共の敵と自ら公言しない限り従いなさい」と言います。しかし同時に、カルヴァンやルターにおいては、「国家の連帯」ということを明確に理解していたように思います。使徒言行録に「<span style="font-weight:bold;">人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません</span>」(5:29)とあるように、「国家に従うのには限界がある」ということをきちんと語っています。 /n現実の世界で・・  特に第二次大戦において、ヒットラーに対して抵抗したグループは、このことが大変重要なことでした。主イエス御自身「<span style="font-weight:bold;">皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい</span>」(マタイ22:21)と言っています。これも、服従の一つの限界をいっているのではないかと思います。国家が神の領域に入ってくるということについて、主イエスは反対されました。  国家に対して私達は服従しなければならない。その理由は、神が立てられた、神の秩序であるから、ということです。しかし国家が善を勧めず、悪をこらしめない。むしろ悪を奨励するようなことがあれば、「人間に従うよりは神に従うべき」との聖書の言葉を拠り所に歩むしかありません。しかし、その判断は非常にむつかしく、ジャーナリズムが報道することを通して国家に反対するとか、行政に対して革命を恐れるとかいうのではなく、国家が神に立てられた機関として、秩序としてどうあるべきか、ということに対しては、教会としてではなく一人の市民として、あるいは市民グループの声として発言していくということになるでしょう。 /nキリスト者市民として  今日、私共が共通に知っている「基本的な人権」、「一人一人が神によって造られたということから始まる人権」がどのように守られているか、守られていないか、ということは、キリスト者市民として大切なことだと思います。人間の尊厳と、尊厳を守る基本的人権ということが少しでも進展するということが、パウロにとっても重要なことではなかったかと思います。(文責:佐藤義子)

「御言葉の宣教を支える奉仕」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 37:30-31 30 主に従う人は、口に知恵の言葉があり/その舌は正義を語る。 31 神の教えを心に抱き/よろめくことなく歩む。 /n[使徒言行録] 6章1-7節 1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、““霊””と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。 7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。 /nはじめに  私達の伝道所はまだ礼拝堂がありません。近い将来、礼拝堂が与えられることを信じて祈りつつ、礼拝堂のための建築基金献金が献げられております。しかし「教会」とは「イエスは主である」「イエスはキリスト・救い主である」という「『信仰告白』共同体」を意味しますから、会堂がなくても、ここに教会は存在しています。 /n教会のなりたち  私達はこれまで使徒言行録を通して、教会の成り立つ根拠を見てきました。一つは神の御子であるイエス・キリストが歴史のうちに与えられた(神様から遣わされて地上に生きられた)という事実。2つにはイエス・キリストについての聖書の証言。3つには使徒達を中心とした宣教です。この三つが聖霊の働きによって、一人一人に信仰を起こさせるのです。よく、「信仰が賜物として与えられる」といいますが、それは聖書に記されているように、聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」といえないからです(一コリント12:3)。求道者の方々の中で、「イエス・キリストは私の主です。救い主です。」という信仰が与えられましたら、それは聖霊の働きであり神様からの招きによるものですから、喜んでその信仰を受けていただきたいと願い、また、与えられた信仰を公けにしていただきたいと願っています。 /n教会に起きた不協和音  さて、初期のキリスト教会では財産を共有し、互いの必要を満たし合いながら、平和が保たれていましたが、本日の聖書によれば、弟子の数が増えてきて、教会の中に不協和音が生じたとあります。内容は、ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して、やもめ達(夫を亡くした婦人達)の食事の援助が軽んじられたという苦情でした。人間のすることは完全ではなく、必ずどこかで不備が起こります。故意ではなく、結果的にそうなってしまう場合もあります。 /n使徒の決断  この時、使徒達のとった行動は、苦情を即、解決しようとするのでなく、弟子をすべて集め、出された苦情をはじめとするさまざまな現実の課題に対処する人を七人選ぶという、宣教の姿勢を根本的にととのえることでした。使徒達が神の言葉をないがしろにしない為に、現実に起こる諸問題は選ばれた人々=「霊と知恵に満ちた評判の良い人」に任せて、自分達は祈りと御言葉の奉仕に専念する、と宣言したのです。御言葉の奉仕とは、イエス・キリストの事実と、イエス・キリストを証言する聖書(神の言葉)と、それに基づく福音の宣教に仕えることです。この3本の柱がおろそかにされるならば、教会は建ち続けることができません。それゆえに御言葉の奉仕者は、このことに専念するのです。 /nただし、現実的な課題も重要である  しかしそれと同時に、「人が生きる」という地上的な事柄への配慮や現実的な課題に対処することの大切さも語られています。この職務をただ漠然と有志の方の奉仕に委ねるのではなく「霊と知恵に満ちた評判の良い人」を選び、その使命が神の力によって遂行できるように「按手」(あんしゅ・手を置いて祈る)をした(6節)、というこの経緯をみただけでも、この仕事を使徒達がどれ程大切に考えていたかを私達は知ります。 /n霊と知恵に満たされたクリスチャンへの道を歩もう! 「こうして神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えて行き」(7節)、敵対する祭司達からも、「イエスは主である」との信仰を与えられた者が起こされて信者の群に加わりました。キリストの弟子として招かれている私達は、宣教の業が前進していく為に、選ばれた七名のように霊と知恵が与えられるよう祈り求め、御言葉の奉仕者を支えつつ、神様の憐れみの中で成長していきましょう!!

「追いかけて、行け」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 53章7-8節 7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。 /n[使徒言行録] 8章26-40節 26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。 27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、 28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。 29 すると、““霊””がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。 30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。 31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。 32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。 33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」 34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」 35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。 36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 37 フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。 38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。 39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。 40 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。 /nはじめに  今日の聖書は、初めてアフリカ人にキリスト教の信仰が与えられた時のことが記されています。私達はここから、一人の人が救われるプロセスと、またその為に用いられたフィリポの行動を、ご一緒に学びたいと思います。 /n御声によるフィリポと宦官との出会い  フィリポは、天使から「エルサレムからガザへ下る道に行け」と告げられます。すぐ出かけて行きますと、再び神様の霊が「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と告げられます。この馬車に乗っていた人物とは、エチオピアの女王カンダケ(女王の称号)の高官で、財産管理をしていた宦官(女王に側近として仕える去勢された男性)でした。 /n宦官は熱心に求めていた  驚くべきことは、彼がエルサレムに礼拝に行った帰りであったことです。つまり彼は自分の国の宗教ではなく、天と地を創造した唯一の神様のこと、そしてモーセの十戒などの律法について触れ、信じる者とされていたのです。更に彼は、エチオピア(今のスーダン)から遠いエルサレムまで礼拝に行くほど熱心でした。ここに、救いに至る一つのプロセスを見ます。それは、どんな環境に生まれても真剣に熱心に宗教と向き合う時に、真実へと導かれるということです。宗教は人間の生きる意味・生き方・価値観・死の問題等に深く関わり、その人の人生を決定します。 宦官は礼拝からの帰途、イザヤ53章を朗読していましたが、理解出来ませんでした。そして彼はその意味を知りたいと願っていたところでした。 /nイザヤ53章  救いへの第二のプロセスは、神様は求める者に必要な助け手を送ってくださる、ということです。フィリポは神様の「あの馬車と一緒に行け」という声を聞きました。そして、乞われるまま、宦官にイザヤ書53章「苦難のしもべ」のメシア預言を解き明かしました。それはイエス・キリストのことを指しています。フィリポは宦官に、「十字架で殺された主イエスこそ神様から遣わされた神の子・メシアであり、十字架の死は私達人間が神に背いた罪の為であり、私達人間は、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じることによって救われる」という福音を語りました。この福音は、全世界の教会で、今も毎週、語り伝えられています。 /n聞いて、信じる。そして・・  宦官は、フィリポを通して聞いたイエス・キリストを信じました。信仰の確信が与えられたのです。ここに第三のプロセスを見ます。 /n救いに至る最後のプロセス  宦官はフィリポに「ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(36節)とバプテスマを志願しました。それに対する返答が(本文にはありませんが)使徒言行録の最後に(37節)記されています。「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」。ロマ書にはこのように記されています。「口でイエスは主であるとおおやけに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。実に、人は心で信じて義とされ、口でおおやけに言い表して救われるのです」(10:9-10)。宦官は、イエス・キリストの知識はまだほんの少しだけでしたが、信じて告白し、バプテスマを受け、救われました。宦官は喜びにあふれて旅を続けた、とあります。この喜びこそ、まさに聖霊の働きです。 /n「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」(29節)  キリスト者の使命は、救われた喜びを伝えることです。「行け」との神様の言葉をキャッチし、いつでも御言葉に従う用意があることです。

「第一宣教旅行」 佐藤義子 牧師

/n[ホセア書] 14章9-10節 9 ああエフライム/なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ/彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。 10 知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。 /n[使徒言行録] 13章1-12節 1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。 2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」 3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 4 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、 5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。 6 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。 7 この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。 8 魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。 9 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、 10 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。 11 今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。 12 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。 /nはじめに  使徒言行録13章と14章には、使徒バルナバとパウロがアンティオキア教会から伝道旅行に送り出されたこと、そして各地でどのように伝道がなされていったのかが記されています。 今日の聖書の1節から3節には、アンティオキア教会でリーダー的な存在であったと思われる五人の名前が挙げられています。筆頭にバルナバ、そしてシメオン、ルキオ、マナエン、最後にサウロの名前が記され、これらの人々を、「預言する者や教師たち」と紹介しています。 /n送り出す教会  コリントの手紙には「あなたがたはキリストの体であり、また、一人ひとりはその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理するもの、異言を語る者などです。」とあります(12:27-28)。このように教会は、キリストの体としての機能を果たす為に、それぞれの賜物に応じて奉仕が捧げられていました。彼らが礼拝し断食をしていた時「バルナバとサウロを伝道に送り出すように」との神の御心が示されました。信仰による一致のもとで、彼らは再び断食を伴う祈りをささげ、二人の上に手をおいて祈り(按手)、出発させました。按手は、新しい使命が与えられたこと、その使命を果たすのに必要な聖霊の賜物が備えられることを象徴するものです。 教会は二人を、神様の恵みと導きと力と聖霊の賜物に委ね、送りました。 /n伝道を妨げたユダヤ人魔術師  「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ」(4節)は、マルコと呼ばれるヨハネを助手として連れて、初めにバルナバの出身地であるキプロス島に向かいました。最初に着いたサラミス(聖書の後ろの地図7参照)では、ユダヤ人の会堂で神の言葉を告げ知らせ、島全体を巡りパフォスまで行きます(同地図)。パフォスは、ローマ総督パウルスの居住地でもありました。総督パウルスは賢明な人物で、二人を招いて話を聞こうしますが、総督と付き合いがあった魔術師で偽預言者のバルイエスは、自分と総督との関係が切れてしまうことを恐れ、総督を信仰から遠ざけようとします。 /n聖霊の力  二人に対抗するこの魔術師に対して、パウロは聖霊に満たされて語ります「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(10-11節)。魔術師は、神様の真理と神の国に逆らい、自分を悪の道具として悪魔に売り渡しています。見える世界において魔術師は、バルナバやパウロという人間に敵対していますが、それは同時に神を敵にして戦っていることでもあります。なぜならバルナバやパウロは、神様の言葉を伝え、その真理の言葉に近づこうとした総督の邪魔をしたからです。神様は、魔術師に裁きを下しました。彼はパウロの言葉通り見えなくなりました。 これを見た総督は、イエス・キリストの教えの偉大さと真理を目のあたりにして驚き、イエス・キリストを信じるに至りました。 /n私達が学ぶこと  第一に、聖霊の働きです。アンティオキア教会が、パウロとバルナバを、礼拝において聖霊の導きによって送りだしたことです。その結果、伝道に邪魔が入った時も、聖霊が豊かに働いて、神の業が現われました。第二に、当時の宗教混淆(こんこう)という時代の、にせものの宗教や魔術が盛んに活動する中で、キリスト教の信仰は、それらの教えに振り回されたり、影響を受けることはありませんでした。それゆえに聞く耳を持つ者は、信仰へと導かれたことです。神様に用いられる使徒達の働きを見る時に、神様の御計画を知る為の備えと聖霊の導きがあり、その聖霊が与えられる場所として礼拝があり、祈りがあり、断食がありました。今、私達の群れに、神様は何を求めておられるのか、そのことを知り、実践出来るように祈りたいと思います。