説教要旨 「なぜ疑ったのか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 14章22-33節 22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。 /nはじめに  5つのパンと二匹の魚による奇跡は、弟子達をはじめ、この場にいた群衆にとって感動的なことがらであったに違いありません。弟子達も群衆も、この出来事について更にゆっくり味わいたいと思ったでしょう。ヨハネ福音書には、奇跡を行なったイエス様をローマに対抗するユダヤ人の王として担ぎ出そうとする人々の動きがあったことを伝えています。(6:15) /n強いて  イエス様がまずしたことは弟子達を「強いて舟に乗せ、むこう岸へ先に行かせた」ことです。「強いて」ということは、弟子達はイエス様と一緒にまだここに残りたいと思っていたのかもしれません。しかしイエス様のご命令であるゆえに、弟子達は群衆より先に舟に乗ってこの場を離れました。イエス様は「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられ」(23節)ました。 /n逆風で漕(こ)ぎ悩む  一方、弟子達の乗った舟は向こう岸にたどり着くことが出来ずにおりました。舟は湖の真中までは来ていましたが(マルコ6:47)、逆風でこぎ悩んでいたとあります。先に進めず、かといって後戻りも出来ず、時刻は既に真夜中を過ぎ明け方近くになっていました。そんな時、薄暗い中を湖の向こうからこちらに向って歩いてくる人影が見えたのです。弟子達は「幽霊だ」と叫びました。弟子達は「おびえ、恐怖のあまり叫び声をあげ」(26節)ました。 /n「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」   湖上を歩いてこられたのは幽霊ではなくイエス様ご自身でした。強いて弟子達を舟に乗せられたイエス様は、それゆえに今、来られたのです。その来られ方が私達人間の思いを越えていた為、弟子達は幽霊だと思いおびえたのです。その時すぐに、イエス様は声をかけられました。 /n「わたしだ」(27節)  「わたしだ」という原語のギリシャ語は、モーセが神様に名前を聞いた時に「わたしはある」と答えられた、その「わたし」と同じに読むことが出来ます。自然を相手に全くの無力の中にいた弟子達の所に、イエス様は「わたしだ。」と来られました。 /n「わたし(ペテロ)に命令して」(28節)  ペテロは、この超自然の中におられるイエス様と一緒になりたいと思いました。イエス様がもしも命じて下さるならば、自分もイエス様と同じように湖の上で並んで立つ事ができると信じました。自分も神様の力にあずかれるとの確信がありました。 /n「来なさい」(29節)  イエス様はペテロの願いを聞き届け、「来なさい」と命じられました。ペテロは水の上を歩いてイエス様に近づいていきました。「しかし」(30節)、イエス様だけを見ていたペテロは途中強い風に気付いた時、イエス様の命令で歩いていることを忘れて怖くなりました。その途端、沈みかけたのです。 /n「信仰のうすい者よ、なぜ疑ったのか」(31節)  助けを求めるペテロにイエス様はすぐに手を伸ばされました。そしてなぜペテロが危険な目に会われたのか、その理由を明らかにされました。ペテロは暴風の力を見て、その暴風を受けている自分が水の上にいるという危険に目を向けました。確信がゆらぎ疑い、心が分かれたからです。 /n「主よ、助けてください」(30節)  この言葉は、イエス様が救い主であり、助け主であられることを私達に示しています。助けを求めるお方は、このイエス様しかおりません。まさに沈みゆく私達に手を伸ばして捕まえて下さる方は、人ではなくイエス様です。イエス様こそ神の子であられるゆえに、私達は「主よ、助けて下さい」と叫ぶのです。 /nすぐ  イエス様は、恐怖の時間を長く放っておかれる方ではありません。私達がイエス様に叫び求める時、すぐ、手を伸ばして下さいます。助けを求めず自分の力で何とかしようと考える者は、そのまま沈むしかありません。 /n「本当に、あなたは神の子です」  イエス様とペテロが舟に乗り込むと、あれ程弟子達を悩ませていた風は静まりました。この時弟子達は「本当に、あなたは神の子です」との信仰の告白を表わしました。弟子達はこの出来事を通してはっきりとイエス様のお力の根源、すなわち天地万物の創造者なる神様を見上げ、イエス様はその方から出てこられた方であり、その方としっかりつながっておられることを知りました。弟子達を強いて舟に乗せられたイエス様の目的はこの告白を導き出す為であったともいわれます。 /nキリスト者としての私達の歩み  私達は神様を信じ、イエス様を信じています。しかし私達は湖上を歩くイエス様を見て「幽霊だ」とおびえ、又、イエス様を見ながら強い風を受けると足元を見て沈みかけるような「信仰うすき者」です。そのような私達でも「主よ、助けて下さい」との祈りを通してイエス様につかまえていただき、「本当にあなたは神の子です。」と告白し続けていくことが出来ます。暴風・荒波はキリスト者として社会に生きる時、度々経験します。しかし舟に一緒に乗っておられないイエス様は、私達が舟をこいでいることをご存知です。そして前にも後ろにも行けない時に来て下さいます。「夜明け」に、人がまだ寝静まり活動が始まっていない時も、イエス様は働かれます。そして「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」といわれます。又、ペテロのようにイエス様の持っておられる神の力にあずかりたいと思えばそれも可能にして下さいます。そして私達がイエス様から目をそらさず、心が分裂しなければ、私達はイエス様と共に湖の上に立つことも許されているのです。今週も又、このイエス様と共に歩みつつ「本当にあなたは神の子です」と告白する日々でありたいと願うものです。

説教要旨 「神の言葉には力がある」 佐藤順子先生(東洋英和女学院

/n[ヨハネによる福音書] 4章46-54節 46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。 47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。 48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。 50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。 52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。 53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。 54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。 /nはじめに  私は東京の幼稚園から大学院まであるキリスト教主義学校で30年聖書の教師をしてきましたが、しばらく前から校長(高校)という立場で仕事をしております。そこで今日は、学校の中で感じたことから説教をさせていただきたいと思います。 /n生きる力を身につける  最近耳にする言葉に「・・力」というのがあります。昔から学力、能力、体力、理解力、集中力、忍耐力など言われてきましたが、最近では「生活力」「人間力」「友達力」などと言われます。これは新しいカリキュラムのもとで、子供達に生きる力を身につけさせるということが全面に押し出された結果ではないかと思います。生きる力を身につける、といわれるようになったのは、それなりの理由があったからだと思います。  今日、教育の世界では、いじめ、不登校、学級崩壊、社会体験や生活体験の衰退・減少、道徳観念の低下、家庭教育のあり方や学校との連携の問題、モンスター・ピアレント(monster parent)という言葉もこの頃あります。又受験準備教育の過熱化など、教師達も家庭の保護者達も本当に神経をすり減らしているというのが現実です。その上に、社会の急速な変化があります。情報機器の発達、情報の氾濫、目に見えないバーチャルな世界での人との結びつき、そこから起こってくるさまざまな問題、子供達が知らない間に被害者・あるいは加害者になるという事件など問題が山のようにあり、こういうことを毎日見聞きしているのが現実です。このような現実社会の中で、子供達が自分自身を見失うことなく流れに押しつぶされないでしっかりと立って前を向いて歩けるように、「問題は何か」ということを見てとり、それをしっかり受けとめ、主体的にかかわりながら、「どうやって自分は生きるべきかということを教える」「生きる力を身につけさせる」ということは,非常に意味があることです。 /nスキル(skill)  「生きる力」といいますと、どうしても一種のskill(技術)のように取られてしまいます。skillは、熟練した技術、上手、腕前、技能、技と辞書にあります。生きる為skillを身につける、出会う問題にそのskillを時に応じて使い分けて立ち向かい問題を解決していくなら、それにこしたことはありません。けれども私達の人生において起こる問題は、そんなに簡単なものではなく、生きることそのものへの不安と恐怖、生きていくことに否定的になったり絶望的になったりする私達です。そのような時には、skillは全く意味がなく役に立ちません。 /n大人も同じ・・  生きることへの問題は、年をとるにつれて大人にも起こってきます。病気や老い、死の問題が私達を襲ってきます。生きる力が弱くなります。人間はいつの時代、いつの年齢にあっても、skillがあっても、生きる困難さがつきまとう、それが私達人間です。私達は将来のこと (年金や医療の問題、戦争や平和の問題、自然環境の問題など)に対してさまざまな不安や心配、恐怖などを持っています。これらに対して大人は大人なりに将来安心して生きていけるようにと備えを致します。備えは必要なことですが,どんなに備えをしても、何の為にこんな私が生きているのか、こんな私が生きていることに何の意味があるのかがわからなくなり、なぜ私だけがこんな目にあうのか、何で私は生き続けなければならないのかという問題は起こってきます。自分自身の 存在の意味と目的の不確実性の問題です。このような不安と恐怖、無意味さを抱いた時、生きる為のskillがあっても役にたちません。 /nさらに  私達を生かしている原動力の一つに誇り・名誉・自尊心があります。人より優れている点、強み、立派な点(家柄、学歴、経済力、高価なものを沢山持っている)など、人より少しでも優れていることは私達を強くさせる、ということもあります。しかしそれらは、生きる目的、意味には決して答えず、力にならないことを私達はよく知っています。 /nskillによらない生き方  では技術ではない生きる力とは何なのでしょうか。今日読んでいただいた聖書の箇所に目を向けながら、考えてみたいと思います。  ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという最初のしるしを行なったイエス様は、再びカナに戻られて第二のしるし「王様の役人の息子をいやす」というしるしを行った出来事が記されています。内容は、ある王の役人に一人息子がおり、その息子は病気でした。しかも今にも死にそうなほどでした。イエス様が来られると聞き,役人はイエス様の所に来て「どうぞ息子のいる家まで来て息子の病気を治して下さい」と願い出ました。地位や名誉や体面などあったでしょうがそれらを全部かなぐり捨てて必死に願ったのでしょう。けれどもイエス様は、「あなたがたは奇蹟を見なければ決して信じない」と言われました。死にそうな息子を持つ父親にとってはとても冷たいものでした。でも役人はあきらめずに「息子が死なないうちにおいで下さい」とすがるように言いました。するとイエス様は「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃいました。 /n「帰りなさい」  「帰る」とは、もと居た所に戻るということですが、ここでは戻るより「行きなさい」を表す言葉が使われています。「あちらに行きなさい」ということです。あちらとは「新しい事態」が待ち受けている所、新しい事態とは「あなたの息子は生きている」ということです。口語訳聖書では「助かる」と訳されましたが、ここでは「生きる」と訳されています。これは死にそうだったのが助かった、病気が治った、死ぬの反対語、というより「新しく生きるようになる」という意味が込められています。 /n新しく生きる  どのように新しいのでしょうか。病気が治ったという新しさは勿論です。けれどもそれだけではなく、「イエス様の言葉には力があってイエス様の言葉で生かされたという信仰と喜びのある所」に行きなさい、というふうに私には感じられます。そう言われた役人は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)とあります。 /n「自分に」  口語訳聖書では「その人はイエスが自分に言われた言葉を信じて帰っていった。」となっています。この役人は今ここで必死に願っている「自分」に向かってイエス様が言われた言葉としてしっかり受けとめて帰っていったのです。 聖書の言葉を自分に語っている言葉として受け止め,信じることの大切さ。そこに新しい事態が生まれる、新しい生き方が与えられる、ということを示しているのだと思います。役人が「帰っていった」というのも、「まったく新しい事態が起こっている所に向かって行った」ということです。 /n同じ時刻にいやされた  役人がイエス様の言葉に対する確信に満たされて歩いている途中、迎えのしもべ達から息子が生きていることを教えられました。そして息子の病気が良くなった時間を聞いてみると「あなたの息子は生きる」と言われた同じ時刻であったことを父親は知るのです。イエス様の言葉が発せられた同じ時刻に、いやしがなされたことを知ったのです。どんなに驚いたことでしょう。けれどもこの父親はただ驚くだけではありませんでした。イエス様の言葉には大きくて不思議な力があること、死にそうな人を生かす力があることを知ったのです。そして家族の人達全員でイエス様を救い主と信じるようになったというのです。 /nしるし  この出来事は二度目の「しるし」であるとヨハネは記しています(54節)。 奇蹟がしるしといわれるのはイエス様が救い主であることを示しているからです。イエス様が救い主であることを明らかにして、それによってイエス様が救い主であることの栄光を表したのです。この奇蹟は「イエス様が救い主であることを示すしるし」になったのです。 /nこの話の中心は  この話の中心は役人の信仰、見ないで信じる信仰、イエス様の言葉を信じる信仰、ということではありません。彼の信仰は決して賞賛されてはいません。この話の中心はあくまでもイエス様です。もっと正確にいうなら「イエス様の言葉の力」です。イエス様はヨハネ福音書でいうなら「神の言葉」そのものです。肉体をもって来られた「神の言葉」です。では何を語る神の言葉でしょうか。いうまでもなく「神の愛」です。「神はあなたを愛していますよ」ということを伝える神の言葉です。「あなたがどんな人でもどんな状況にあっても、あなたを愛していますよ。」「あなたの罪を、独り子イエス様を十字架につけるほどまでして赦して下さるそのような愛を、神様はあなたに向かって注いでいますよ」ということを語る神の言葉です。 /n神様の言葉には力がある  神様の言葉には力があり人を生かす力があることを、役人の息子のいやしの出来事も語っておりますし、聖書全体で繰り返し繰り返し教えてくれます。誰かに愛されているということ、私は愛されている存在だと感じられること、このことが人を勇気づけ、生きようとさせるのです。これは人間の言葉もそうです。人からかけられた暖かい言葉、やさしい言葉、励ましの言葉でどんなに私達は嬉しく力を与えられたことでしょう。けれどもその言葉の持つ威力も限りがあります。イエス様の言葉、神様の言葉は限りがありません。教会が伝えなければいけないこと、私が働いているキリスト教学校が伝えなければいけないことは、まさに神様の愛であり、聖書の言葉、神様の言葉だと思います。そしてそこから子供達が本当に生きる力が与えられるのだと思います。聖書の言葉を教えることなしに生きる力をつけさせることは出来ないと私は思います。 /n牧師の家庭に生まれて  私は牧師の家庭に生まれ、行きたくなくても日曜日毎に教会に行き、祈りたくなくても家庭の祈りで祈るという生活をしている内に、神様の言葉を信じる信仰が芽生え、聖書の言葉から励ましや慰めや力が与えられて今日までまいりました。そんなに裕福ではない,むしろ世間から見れば貧しい生活であったと思いますが、神様に仕え,教会の為に働く両親と家族の為に神様は一番良いことをして下さるということを身をもって 経験してきました。神様の言葉を信じて神様に頼る者に神様は決して悪いようにはなさらないと確信を抱くようになりました。 どのような状況の中でも,その只中に神様の言葉を語って下さるイエス様が共にいて下さること、その信仰によってどのような状況でも勇気と希望を見出して先に進むことが出来ました。生きることが出来る力としての信仰、私自身の信仰が弱くてもいつも神様が言葉を通して力づけ励まして信仰を少しずつ強めてきて下さったのです。両親の姿から、このような信仰に導かれ育てられたことを本当に感謝しています。 /n両親の残したもの   両親が亡くなった後、その住まいの整理をしましたが、つつましく生きた二人には財産などというものは一つもありませんでした。それでも私は両親が貧乏で不幸せであったなどと一度も感じたことはありませんでした。神様を信じ感謝と喜びの生活をしていた二人は、あるものに満足し、置かれた状況の中で神様を頼りに生き生きと生活し、亡くなった時に必要なものは十分過ぎるほど用意して神様に召されていきました。両親が残してくれたもの、それは救い主を信じる信仰、聖書に記されている神様の言葉を信じる信仰である、とつくづく思いました。この遺産こそ、お金やものや手につけた技術skillと比べものにならない、もっともっと高価で価値のある遺産であると思いました。 *p17*「帰りなさい。新しい状況が待っているところに行きなさい。あなたは生きる。」  こう言ってくれるのは神様の言葉であるイエス様だけです。神様の言葉を信じイエス様を救い主と信じること、これこそがどのような状況の時でも私達を生かす力であり、神様の言葉,イエス様の言葉こそが真に生きる力だと聖書は教えていてくれます。使徒パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者にとっては神の力です」(コリントⅠ1:18)と言いました。神様はたった独りの子供を十字架につけるほどにあなたを愛していますよという十字架の言葉が、私達にとって神の力であり生きる力であることを心にとめていきたいと思います。そしてキリストの教会と、それに連なるクリスチャンである私達、そして日本中に存在するキリスト教の学校が共に連携しながら、神様の言葉、イエス様の十字架を人々に伝える貴いつとめをしっかりと果たしていく者になりたいと願っております。 (文責 佐藤義子)

説教要旨 「信じて祈る」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 21章18-22節 18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。 19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。 20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。 21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。 22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」 /nはじめに  本日は今年最後の日曜日(聖日)です。しかし教会暦から言いますと新年は12月2日の待降節から始まっており、本日は降誕節の最初の日曜日です。(教会暦は、待降節-降誕節-受難節-復活節-聖霊降臨節と五つの節に分けられ、待降節は11月30日に最も近い日曜日から4回の日曜日を含む期間をさします。)教会暦は、クリスマスのように毎年12月25日と決まっている祝日と、復活節やその50日後にくるペンテコステ(聖霊降臨日)のように毎年変わる祝日があります。イースター(復活日)は、春分の次の満月の次の日曜日と定められた為、毎年移動します。  私達の日常生活では、明日は大晦日で世の中はきぜわしく動いておりますが、教会では先週クリスマス礼拝をささげたばかりで、1月の6日迄はクリスマスの飾りはそのままにしておくのが習慣になっています。日本の教会ではあまり一般的になっていませんが、クリスマスから12日後の1月6日は東方から博士達が星に導かれてイエス様を礼拝しに来たということで、イエス様が異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に、初めて救い主として現れたことを祝う日(顕現日・公現日)です。 /nいちじくの木を呪う  本日の聖書は、朝早い途上でイエス様が空腹を覚えていちじくを見たけれども実をつけていなかったので、イエス様がその木を呪われていちじくは枯れてしまった、という個所です。マルコ福音書には「いちじくの季節ではなかったから」と説明があります。季節でないにもかかわらず、実をつけていないとの理由でイエス様がいちじくを呪われ、いちじくの木は枯れてしまったという話は、私達にとってわかりにくい話です。 /nいちじくとは・・  旧約聖書ではイスラエルをいちじくで象徴する例が出てきます(エレミヤ24章・8:13・ホセア9:10)。ミカ書にはイスラエルの民の腐敗に対する嘆きの言葉にいちじくが出てきます。「悲しいかな、私は夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、私の好む初なりのいちじくもない。主のいつくしみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった」(7:1)。つまり葉ばかり茂って実のない いちじくの木を引用し、一見敬虔そうであるけれども実質のないイスラエルの民の道徳的腐敗を語っています。 /n「今から後いつまでも、お前には実がならないように」  ここで実をつけていないいちじくを呪われたのは、イスラエルの民が、(直前に記されているように)エルサレム神殿を礼拝の場所ではなく商売の場所へと堕落させてしまっていること、更にイエス様をメシア・救い主として受け入れようとしないことへの裁きの言葉として読むことが出来ます。 /nいちじくが枯れた奇跡  弟子達がイエス様にいちじくが枯れた理由を尋ねますが、イエス様はそこから「実を結ぶ信仰」について教えられます。人間の常識では不可能と思えることでも神様の力に信頼するならば、それは成るということです。イエス様はてんかんで苦しむ息子を連れてきた父親に、「出来れば、というか。信じる者には何でもできる」と言われました。「求めよ、さらば与えられん。」との言葉はあまりにも有名ですが、しかし私達は、聖書で繰り返し教えられているこの神様への絶対信頼が、多くの目に見える事柄に邪魔され影響を受け、次第にしぼんでいくことがあるのではないでしょうか。以下は、ある神学者の言葉です(蓮見和夫氏が紹介)。  「最悪の罪は、祈らないということです。私達をしばしば驚かすキリスト者の明らかな言行不一致は、祈りのないことの結果であり、そのとがです。祈りを欲しないことは、祈らないという罪のさらに背後にある罪です。しかしその結果、祈り得なくなるのです。それこそ祈りを欲しない人の受ける罰にほかなりません。それは精神的失語症、あるいは精神的餓死です。あなたは額に汗してパンを得なさい。これは肉体的労働と同じく、精神的労働についても言われた真理です・・」。  祈りは聞かれます。自己中心的な欲望の為ではなく、神様の栄光を現し、神様の御心にかなう祈りならば必ず聞かれます。私達はもっと大胆に確信をもって祈りましょう。自分自身の為に、家族と隣人の為に!!

説教要旨 「ああ、エルサレム、エルサレム」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 23章37-24章2節 37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。 39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。 2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」 /nはじめに  今日の説教題を「ああ、エルサレム、エルサレム」と口語訳聖書から選びました。「ああ」というため息は、その根底に相手への「愛」があり、一生けん命に教えよう、伝えようと努力してきたけれども伝わっていかない、わかってくれないその口惜しさ、嘆き、悲しみが含まれています。 /nエルサレム  イエス様が呼びかけているのは、エルサレム神殿を中心として生活している「神の民として選ばれたイスラエル」の人達です。彼らの歴史は一口にいえば神様への不従順の歴史でした。預言者アモスは「主はこう言われる『ユダの三つの罪、四つの罪のゆえに私は決してゆるさない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖も後を追った偽りの神によって惑わされたからだ。』」(2:4)。「善を求めよ、悪を求めるな。お前達が生きることができるために。」(5:14)正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。」(5:24)と神の教えに逆らって生きる人々に語りました。預言者イザヤは、イスラエルの国がエジプトの国に頼ろうとした時、「わざわいだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。・・・エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき助けを受けている者は倒れ、みな共に滅びる。」(31:1-2)と語りました。預言者ホセアは、「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。」(12:7)と呼びかけました。 /n偶像崇拝  イスラエルの人々は預言者を通してこうした神様の言葉を聞き、時に悔い改めることもありましたが、しかし再び神様から離れ、目に見える偶像へと走り、悪を行う繰り返しでした。預言者はその時代の人々からは決して歓迎されませんでした。神様が最も嫌われたのは偶像崇拝です。偶像崇拝は神でないものを神とすることです。「国々の偶像は金銀にすぎず人間の手で造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、のどがあっても声をだせない。偶像を造り、それにより頼む者は皆、偶像と同じようになる。」(詩篇115)。 私たちの国日本は、偶像の国といっていいほど、たくさんの偶像があります。私自身子供時代は水神町という水の神様を祭っていた町にすんでいましたし、小学校の修学旅行では鎌倉の大仏を見に行きました。中学校の修学旅行では平泉の中尊寺をみて、高校では京都の仏閣めぐりもしました。しかし詩篇にあるように、偶像は何にも言いません。偶像から自分の間違いを指摘されることはありません。結果的に自分が思うように行動する。つまり神に祈りながら、自分が神の立場に立ってしまい、自分が基準になっています。 /n何度集めようとしたことか  イエス様は、37節で、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前達は応じようとしなかった。」と過去のこれまでの不従順の歩みを嘆いています。めんどりがひなを集めるという表現は、親鳥がひなに食物を与え、安全なねぐらと、外敵から保護するという神様の守りをあらわす言葉であり、イザヤ書には「つばさを広げた鳥のように、万軍の主は、そのように、シオンの山とその丘の上に降ってたたかわれる。」とあります。このイエス様の「何度集めようとしたことか」という言葉の中に、イスラエルの長い歴史の中で、神様がイスラエルの民を愛し預言者を送り神様の言葉を語り続けてきたこと、そして今、最後に、預言者ではなく、神の御子イエス様を遣わされて、こうしてあなたがたに神様からのメッセージを伝え続けてきたけれど、あなたがたは、私をそして私の父・神をかたくなに拒み続けた、という悲痛な思いが伝わってきます。 /nその結果・・  その結果、彼らは38節で裁きが宣告されます。「見よ、お前達の家は見捨てられて荒れ果てる」と。ここに、ユダヤ教の歴史的な使命が終わったことが宣言されているのです。  24章の一節には、神殿の境内を出ていく時弟子達が神殿の建物を指差したとあります。他の福音書では弟子の一人が、「先生、ご覧下さい。何とすばらしい石、何とすばらしい建物でしょう。」と感嘆の声をあげていることが記されています。このエルサレム神殿は、ヘロデ大王が建てたものですが、それまでの規模の二倍のものを作ろうと、紀元前20年に着工されたものでした。神殿の境内の外側には、南北450m東西300mの回廊がめぐらせてあり、神殿は、長さ12m,高さ4m,幅6mの堅い白亜の大理石で作られ、前の部分は金でおおわれ、朝日が昇ると、さんぜんと輝く神殿を、巡礼者たちは大きな感動で仰ぎ見たそうです。神殿の中には、トーラーと呼ばれる律法が置かれ、そこは神とイスラエルの民との契約が証されている場所でもありました。人々は、エルサレムの都は、神の永遠の契約の保護のもとにあることを信じて疑いませんでした。けれども、神殿の完成が紀元64年と、じつに84年の歳月をかけて完成したエルサレム神殿は、そのわずか6年後にイエス様の予告通り滅ぼされるのです(紀元70年にローマによって)。同じ節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると」とあります。この「出ていく」という聖句は、イエス様が神殿からいなくなった後、神殿は空虚な場所となってしまった、ということを伝える象徴的な言葉として読まれています。どんなに人々が集まろうと、どんなに祈りがささげられようと、ファリサイ派や律法学者たちの権威のもとで教えられるユダヤ教は、預言者たちを殺し、神の御子イエス・キリストを拒み、決して信じようとしないかたくなさと共に、律法の内実をないがしろにして、見える部分だけを美しく飾ろうとする偽善の宗教へと堕落し、ついに神不在の神殿宗教となりました。 /n今や、キリスト教徒が「神の民」を継承  イエス様を信じる時、神様の臨在がそこにあります。神の声は直接聞こえなくても、神の言葉である聖書が私たちの道しるべです。聖書の言葉を私達が豊かに蓄えれば蓄えるほど、必要に応じて、聖霊の働きと共に、その御言葉が神様の言葉として聞こえてきます。この経験を繰り返すことで、神様が近くにおられることを知ることができます。神様が私達と共におられることを知るならば、祈りも又、いつでもどんな時でもたやすく口から出てくるでしょう。多くの日本人が、一年に一度だけ初詣にいって祈るのとは対照的に、私達は毎日何回でも自由に祈ります。朝に一日を恵みの中で過ごせるように祈り、日中は助けが必要な度に祈り、夕べには一日が守られた感謝の祈りをささげます。助けを必要とするとき、(たとえば、自分の怒りを鎮めてください、ショックから立ち上がらせて下さい。やさしい気持ちを与えて下さい、意欲を増し加えて下さい。誤解がとけるように、気持ちが通じるように、など)神様を仰ぎ見て祈ります。  私達は、イエス様の悲痛な嘆きと愛を今日の聖書から知ることが出来ました。今一度、私達の生きる生き方を真剣に問い直し、イエス様がその生涯を通して教えてくださった神様を信じて生きる道を、これからも喜びをもって学びつつ歩んでいきたいと願うものです。

「ペテロのつまずき」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 26章31-35節 31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。 32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。 34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。 /n[マタイによる福音書] 26章69-75節 69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。 70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。 71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。 72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。 73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」 74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 /nはじめに  イエス様は過越の食事を弟子達となさった後、祈る為にオリーブ山に向かわれました。その時イエス様は弟子達に大変深刻な言葉を口にされました。それは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」(31節)という言葉でした。たった今、食事の席で、弟子の中から裏切り者が出たと言われ、弟子達は代わる代わる「主よ、まさか私のことでは」と不安にかられて聞いたばかりの、その食事の後の出来事です。今度は「今夜、皆」つまり「弟子全員」がこの後まもなくイエス様につまずくと予告されたのです。 /nつまずく  イエス様につまずくとは、イエス様を信じてこれ迄自分の生涯を託して従ってきた弟子達が、ある障害物(出来事)によってその生き方を中断、もしくはやめる、ということです。イエス様はその根拠として『私は羊飼いを打つ。すると羊の群れは散ってしまう。』(31節)との旧約聖書ゼカリヤ書(13:7)の預言の言葉をあげられました。(注:新共同訳では少し違う訳)。ここでいう「私」とは「父なる神」、「羊飼い」は「イエス・キリスト」、「羊の群れ」は「キリストを信じる弟子集団」を意味します。「羊飼いを打つ」は、イエス様の十字架を意味します。イエス様がこれから進んでいかれる十字架への道に、弟子達は従い続けることが出来ないとの予告です。弟子の中でもリーダー格であったペテロはすかさず応答しました、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と。 /nペテロ  ペテロは聖書に度々登場し、その言動を見る限り正直であり、情熱家であり、失敗もありますがイエス様を愛し慕っている弟子です。以前イエス様から弟子達に向けられた質問「あなたがたは私を何者だというのか」に対して、ペテロはすぐ「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、イエス様からその信仰を大変喜ばれました。しかしその直後、イエス様がご自分の受難と死と復活の話をされた時、「主よ、とんでもない。そんなことがあってはなりません」と、この世的な発想でイエス様の言葉を否定して、イエス様から「サタンよ、引き下がれ」と叱られた弟子です。ペテロは今、イエス様から「あなた方は皆」と、自分も十把ひとからげのように言われたことに対して、そのようにイエス様から思われていることがなさけなく、心外でもあり、不満、不服でした。 /n「たとえ、みんながあなたにつまずいても」  「私は決してつまずきません!」と叫んだペテロにイエス様は「あなたは今夜、にわとりが鳴く前に三度私のことを知らないと言うだろう」と予告されたのです。ペテロは「ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、答えました。 /nペテロの否認(26:69-75)  しかしこの後ペテロは、イエス様が捕縛され、その裁判を待つ大祭司の家の中庭に於いて、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」。「この人は、ナザレのイエスと一緒にいました」。「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉使いでそれがわかる」との敵意とあざけりを含んだ言葉の前で、「何のことをいっているのか私にはわからない」「そんな人は知らない」とイエス様を否認しました。三度目の否認直後、鶏が鳴きました。 /n御言葉に戻って・・。  鶏の声を聞いたペテロは我に返りイエス様の「否認の予告」を思い出し外に出て激しく泣きました。あの時イエス様の言葉を正しく聞くことができなかった・・それは自分の思いが優先したからです。自分の考え、自分の感情、自分の正義感、自分の確信がイエス様の前で自分を白紙にして立つことが出来ず、聞く耳もなかった。だから肉の決心は巧妙な悪魔のわなにかかり、もろくも崩れたのです。イエス様は自分以上に自分のことを知っておられ、自分のつまずきを知りつつも「復活後、あなた方より先にガリラヤに行く」との約束の言葉を残されていかれたのです。ペテロの悔い改めの涙は、イエス様の十字架の死(罪の赦し)と復活(罪への勝利)の約束の成就、さらには約束の聖霊がくだった出来事を通して、ペテロを否認による挫折から立ち上がらせ、大伝道者へと変えていくことになります。

収穫感謝日 「すべて守るように教えよ」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書] 44章1-8節 1 そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。 2 あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。 3 わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。 4 彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。 5 ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。 6 イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。 7 だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。 8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。 /n[マタイによる福音書] 28章16-20節 16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 /nはじめに  アメリカの感謝祭(Thanks Giving Day)にならって、私達の属する日本基督教団は11月第4日曜日を収穫感謝日と定めています。アメリカでは11月の第4木曜日に全家族が集まってお祝いし、その週は学校や会社がお休みになります。(イギリスでは昔はLammas8月1日,今はHarvest Festivalを9月の第4日曜日に教会で守る。国によって日時の設定の仕方が異なる。)アメリカの感謝祭は、イギリスから船でマサチュセッツのプリマスに着いた最初のヨーロッパ人達が、原住アメリカ人に助けられながら、1621年、最初の収穫の時を迎え、この収穫を与えて下さった神様の守りに対して感謝を捧げようと自分達を助けてくれた原住アメリカ人を招待し、御馳走を作り、共に豊かな時を過ごしたことから始まりました。  10年以上も前になりますが、アメリカ人宣教師の話を聞きました。この原住アメリカ人など少数民族の人達は、現在、高い割合で貧困、病気、失業、アルコール中毒など社会の底辺に置かれており、彼らは現在「スープ・キッチン」といわれる慈善団体や教会の活動による無料の食堂で感謝祭の夕食をとるということでした。その宣教師は「感謝祭は、神に感謝するという同じ価値観のもとに集まり、感謝し、共に分け合う時である」と言われました。私達の教会も、「恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、私達の心を喜びで満たして下さる神様」(使徒言行録14:17)に感謝する時として共に集い、分け合い、生かされている命を互いに喜ぶ時として、礼拝後には収穫感謝愛餐会を計画しています。 ______________________________ /n大宣教命令 >> 「あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 <<  本日の聖書は、イエス様の大宣教命令ともいわれるマタイ福音書の最後の箇所でもあります。マリア達からことづけを聞いた弟子達は、指示されたガリラヤの山に集まり、復活のイエス様からこの命令を受けます。 /n伝える者と信じない者  弟子達は復活のイエス様に会ってひれ伏しました。十字架の死を超えて神様によって復活された神の御子イエス様として礼拝しました。ところが聖書には「しかし、疑う者もいた。」という一文が挿入されます。  弟子達は復活についてイエス様から生前、聞いてはいました。しかし「マリアは・・この事を知らせた。しかし彼らはイエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても信じなかった。その後、・・イエスが別の姿でご自身を現わされた。この二人も行って残りの人達に知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」(マルコ16章)。とあります。又、復活のイエス様が弟子の前に現れた時、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこでイエスは言われた。『なぜうろたえているのか、どうして心に疑いを起こすのか。』」(ルカ24:37-)と問われました。さらに疑っていたトマスに言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)。 /n「すべての民を弟子とし、洗礼を授け、教えをすべて守るように」  十字架と復活。それは死と甦りの信仰です。死とはそれまでの自分が死ぬことです。神様よりも自分の思いを優先順位の先頭に置いてきた過去の自分、罪ある自分がイエス様の十字架と共に死ぬ。そしてイエス様の甦りと共に新しい自分としてよみがえらされる。そのしるしがバプテスマ(洗礼)です。教会は、イエス様を神の子と信じてイエス様に従う決心が与えられたキリスト者の群れであり「信仰告白共同体」です。この信仰は、自分が努力して獲得したものではなく、求める者に一方的に恵みの賜物として与えられたものです。私達は受けるのみで、自分に何の功績もありません。  私達の伝道所は、この十字架と復活の信仰を弟子達から代々の教会を経て受け継ぎ、信じる者に洗礼を授け、「神様を愛し隣人を愛する」というイエス様の教えを守るように伝え続けます。

「今日がチャンス」  温井節子(角田教会伝道師)

/n[創世記] 28章15節 15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 /n[ローマの信徒への手紙] 13章11-14節 11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。 /nはじめに  ある本にこんな記事がありました。一人の青年がふしだらな生活にピリオドをうって、神様を信じて新しい人生に入りたいと思いました。ところがそのことを知った悪魔たちが集まり、そのことを阻止しようと作戦会議を開きました。悪魔の手下Aは、「罪の快楽をどっさりこの青年に見せたら、誘惑に負けて神様から遠ざかるだろう」と提案しました。手下Bは、「神様を信じて従っていくことは堅苦しくて楽しくない毎日が待っている、と教えたら神様を信じることを断念するだろう」と提案しました。手下Cは、「神様に従っていくのは良いことだ。素晴らしいことだよ、と大いにほめる。しかし急がなくても良い。今でなくても良い。又の機会でも良いことを教える」ことを提案しました。ボスの悪魔はこれら三つの提案を検討しました。青年が神様を信じて新しい生活に入るのを妨害する最も効果的な提案は、A「快楽の喜びを示す」、B「神様の道は無味乾燥である」、C「決断は今でなくても良い、延期せよ」のどれでしょうか。  ボスの悪魔が採用したのは、決断を延期するCでした。私達も何か良いことを決断する時に「今日でなくて明日」ということがしばしばあるのではないでしょうか。ダイエットにしても勉強にしても、今日はやめて明日からにしようとします。しかしこの延期方式はうまくいかないことが多いことを私達は経験しています。 /nロマ書13章11節の「今」  今日の聖書でも「今」が大切だといっています。「あなたがたは 今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私達が信仰に入った頃よりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。」救いが近づいたのはキリストの再臨が近づいたということです。この世はキリストの再臨をもって終るのです。この世の終わりが近づいたというのです。イエス様のおいでが近づいたというのです。世の終りがいつくるかは誰もわかりません。しかし来ることがはっきりわかっているものがあります。それは自分の人生の最後です。キリストの再臨が来る前に自分の人生の終ってしまうことが多いです。この世に終りがあるように、私達の人生にも終りがあります。キリストの再臨に確信がない人も、自分の人生の終りがくることは、いやでも認めなければなりません。 /n眠りから覚めよ  今はどのような時でしょうか。パウロは「眠りから覚めよ」といいます。ということは、私達は今、現在、眠っていることを意味しています。私達が勉強したりテレビを見ていると目が重くなる時があります。使徒言行録20章9節には、エウティコという青年がパウロの説教中、窓に腰かけていたけれども眠って3階から落ちたという記録もあります。私達がうつらうつらする時、周囲は眠っていると見ますが、本人は「起きている」ように思っています。私達も信仰的に、同じようなものではないでしょうか。信仰的に、霊的に、「眠ってなんかいない。起きている」と思っても、パウロのような信仰の達人からみれば眠っているようにも見え、あるいは本当に、信仰的に眠っているのかもしれません。私達が眠い時に起こされると「もう少し眠らせて」といいます。なかなか起きようとしません。本人は気持がよいので眠っていたいのですが、今、起きなければ大問題が起きる可能性があります。起きるべき時があります。パウロは「今が大切。明日はないかもしれない。だから今起きなさい。今、今日、起きよ。時が迫っている。」と起すのです。私達はもっと眠っていたくても起きなくてはなりません。起きるべき時がきているからです。それは明日ではなく、今日、今なのです。 /n闇の行いを脱ぎ捨てる  それでは起きてどうするのでしょうか。12節を見ると、「だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」というのです。まるで私達が闇の行ないにかかわっているような言い方をしています。私達クリスチャンは闇の行ないなど関係ない。これは神様を信じていない人達へのメッセージであって、信じている私達にではない、と思うのは私だけでしょうか。しかしこの手紙は12章の初めに「兄弟たち」と呼び掛けていますから、この13章はその続きでクリスチャンへのメッセージです。未信者は、霊的に死んでいるといわれます。クリスチャンはキリストと聖霊の力で罪が赦されて霊的に生きています。しかし霊的に生きているクリスチャンでも闇の行ないと無関係ではありません。  闇の行ないを捨てよといっていますが、この闇の行ないとはどんなことを指すのでしょうか。13節に「酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、妬み」の6つがあげられています。リビングバイブル訳では「どんちゃん騒ぎをしたり、よっぱらったり、姦淫したり、肉欲にふけったり、争ったり、妬んだりして、時間を浪費してはなりません。」と訳されています。自分に関係する項目はない、という人もいるでしょう。これは一世紀のローマ市におけるクリスチャンの生き方に関係しています。パウロが当時の闇の行ないをあげたら数えきれなかったと思います。コリント市における闇の行いについては、第一コリント6章9節-10節にあります。(みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者)。それぞれの都市における警戒する闇の行ないは違ったのです。闇の行ないとは肉の行ないです。神様に逆らう行ないです。パウロが今生きていたら、どんな闇の行いをあげるでしょうか。  「争い」、「妬み」はクリスチャンと無関係とはいえないでしょう。党派、分裂、分派・・は教会の中にもあるのではないでしょうか。パウロのいう闇のわざはクリスチャンに無関係ではないのです。 /n夜は更け  どうしてクリスチャンの世界、生活に闇の行ないが入ってくるのでしょうか。12節に「夜は更け、日は近づいた。」とあります。パウロの時代判断ではクリスチャンは今、夜の時代に生きています。クリスチャンは世の光、光の子供です。光が弱くなると、闇はクリスチャンの生活に入ってきます。今、夜の9時だとしましょう。停電になりました。闇は遠慮なく部屋に入ってきます。家の中はローソクで少し明るくなりましたが、外には闇が取り巻いていますから、油断すれば闇は遠慮なく中に入りこんできます。犯罪も大抵、暗闇の中で起こります。暗闇の中に何が待っているかは誰にも見えません。しかし暗闇の中には悪しき行ないを起こす者が動めいています。光がなくなると暗闇の力が家の中に入り、体の中に入ってきます。そしてクリスチャンを眠らせたり、不道徳なことに誘惑するのではないでしょうか。一ペテロ5:8に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」とありますから、クリスチャンは目を覚まし、起きて、「闇の行ないを脱ぎ捨てよ」とパウロは叫びます。ヘブル書12:1でも「すべての重荷や、からみつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と勧めています。クリスチャンには信仰生活にブレーキをかける[重荷]や[からみつく罪]があるのです。 /n重荷と罪  信仰生活にブレーキをかける重荷とは何でしょうか。毎日聖書を読む、ということが重荷という人もいるかもしれません。又、教会やクリスチャンを取り巻く外の世界は闇の世界です。クリスチャンも知らず知らず、だんだんこの世的になってきます。少しずつ闇の世界が浸透してきます。カエルは外の世界と同じ体温を保つので、気温が上がると自分も同じ体温になります。ですから外の温度の上昇には気付きません。「いい湯だな、気持良い」と喜んでいるうちにお湯の中で死んでしまいます。少しずつの変化に気付かないことが多く、気付いた時にはもう遅いのです。クリスチャンも、教会も、知らない間にまわりの世界に似てきます。ですからパウロは、ロマ書12章2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と警告しました。 /nそれから?  闇の世界から侵入してくる「闇の行ない」を脱ぎ捨てました。それからどうするのでしょう。これでは禁欲主義になってしまいます。「あれをするな、これをするな」では、面倒な消極的な宗教になってしまいます。14節では「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」といわれています。 /nイエス・キリストを身にまとう  キリスト教は消極的な宗教ではありません。捨てるだけではなくてイエス・キリストを着ていきたいと思います。クリスチャンは天国の市民です。天国にふさわしい服を着たいと思います。私達が結婚式に行く時、それにふさわしい服を着ます。天皇陛下のお茶会に招かれた人は、それにふさわしい服装をします。エプロン姿や作業服で出席する人はいません。  天国の市民にも天国にふさわしい服装があります。それがキリストの衣、キリストが与えて下さる衣です。キリストの衣とはキリストにふさわしい生活のことです。暗闇の世界の影響を受けた私達の衣は、少しずつあちこちにしみがついたりほころびたり、破れたりしているかもしれません。イエス様から新しい衣をいただく必要があります。ヨハネ黙示録3:18でラオディキアの教会の人達は、自分達は豊かで満ち足りていると考えていましたが、神様の診断は違っていました。「あなた方は裸だ。裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買いなさい」と忠告されました。  「白い衣」とは清い生活のことです。又、ヨハネ黙示録6:11では、天国で殉教者に「白い衣」が与えられました。キリストを着る。キリストの衣を着る。それは清い生活のことです。イエス様が下さる白い衣は、闇の中では光の武具となるのです。光の武具を身につけるとは、「キリストを身にまとう」と同じことです。フィリピ書2:15-16に「よこしまな曲った時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」とあります。イエス様の下さる衣は、内に対しては霊的命を守り、外に対しては輝くのです。 /nアウグスチヌスとフェリクス総督  4-5世紀にかけて活躍したクリスチャンの指導者にオーガスチン(アウグスチヌス)がいます。彼は若くしてローマの大学の教師になりましたが、一方、放蕩の不道徳の若者でもありました。母モニカは、彼の為に祈りに祈りました。彼女は「涙の子は滅びない」という言葉で有名になった人です。アウグスチヌスは自分の悪い生き方を反省しているようですが、なかなか足を洗うことができません。競輪競馬が好きな人はやめようと思ってもやめられないそうですが、アウグスチヌスも同じように、いつまでこのような悪い生き方を続けるのだろうか、と自分でも情けないと嘆いていました。「神様、いつまでですか」とうめくように祈りました。その時です。急に「取りて読め、取りて読め」と子供の声が聞こえてきました。これは「聖書を開け」ということだな、と聖書を開きました。その時、このロマ書13章の11節から14節が目に入ってきました。  今日の聖書の箇所です。これを読んだ時、彼の眼が開かれました。彼は勇気と力が与えられ、その時、その場で、彼の放蕩の生活に終止符を打つことが出来ました。明日からとは言いません、今日、今からキリストを着ます、キリストにある新しい生活を始めます、と決着をつけたのです。その足で母の所に駆けつけ決心を話しました。勿論母は大変喜びました。まもなく母は召天しました。アウグスチヌスの決心がもし遅ければ、母を喜ばすことは出来なかったでしょう。今がチャンスなのです。アウグスチヌスは母の死後、北アフリカのヒッポという町の司祭となり、40年以上奉仕し、76歳で母のいる天国に凱旋しました。対照的なのは、使徒言行録24:25にあるフェリクス総督です。  「パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った。」とあります。フェリクス総督は、今、今日、決心出来ませんでした。「明日」「今度」と伸ばして、二年後には後任のフェストゥスと交代したのです。救いの機会は永遠に失われました。 /n今日がチャンス  私達も、今日、今、という時を逃してはなりません。闇の行いを脱ぎ捨てて主イエス・キリストを着ようではありませんか! 光の衣を着ようではありませんか! 光の武具を身に着けようではありませんか!キリストにふさわしい清い生活を始めたいと思います。 >> 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗した時のように、心をかたくなにしてはならない。」(へブライ書3:19) <<

「族長の歩み」 佐藤義子 牧師

/n[創世記] 12章1-4節 1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。 /n[使徒言行録] 7章1-8節 1大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。 2 そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 3 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。 4 それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、 5 そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。 6 神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』 7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』 8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。 /nはじめに  イエス・キリストの名前によって宣教していた使徒の一人、ステファノは、ユダヤ人のねたみと偽証によって捕えられ、議会に引き出されました。大祭司から訴えられた内容について弁明の機会を与えられた時、ステファノが初めに語ったことは、訴えられている罪状(律法や神殿)についてではなく、民族の父祖であり信仰の父と呼ばれるアブラハムの生涯でした。ユダヤ人にとって歴史がアブラハムから始まるのは、ごく自然のことです。(日本人にとっての民族の祖先であり父と呼ばれる人物は思い当たらず、初めて日本史に登場する固有名詞は邪馬台国の女王卑弥呼で、AD3世紀の話です。イスラエルの歴史はBC2000年のアブラハムから民族に語り伝えられ、モーセの時代はBC1300年頃、ダビデの時代はBC1000年頃です)。 /nイスラエルの歴史は、始祖アブラハムから  ステファノは議会に召集されたユダヤ人達に向かって、まずアブラハムに目を向けるように語りました。創世記12章にはアブラハムがハランにいた時に神様の声を聞いたことが記されています。アブラハムは神様の語りかけに従い「生まれ故郷・父の家を離れて、私(神)の示す地に行」きました。それは行く先を知らないままの出発でした。15章では神様が「私はあなたをカルデヤのウルから導き出した主である」と呼びかけています。 ステファノは「神様が、我々の先祖アブラハムに声をかけられた。そこからすべては始まり、そのことから今日の我々がある」と伝えたのです。アブラハムと妻サラの間には子供がいませんでしたが、神様はカナンの地を子供のいないアブラハムに与えて、子孫に相続させると約束されました。アブラハムが信仰の父といわれるのは、彼が神様の言葉に従って家を離れ、子供がいないのにもかかわらず、子孫への約束を信じたことにあります。神様は、アブラハムの子孫が将来外国に移住し、奴隷として虐げられ、400年の奴隷の時代の後、その国から脱出して、再びこの場所で礼拝をするとアブラハムに告げられました。 神様とアブラハムの間に契約がたてられます。それはアブラハムを「多くの国民の父」として繁栄させ、カナンの土地を与え、神様が彼らの神となるゆえに、その「しるし」として、アブラハムの民のすべての男子は、生まれて八日目に「割礼を受ける」という契約でした。 ユダヤ人がその権威を守ろうとしている「律法」や「神殿」は、アブラハムの時代にはなく、アブラハムに与えられたのは、「将来この場所で礼拝する」という神様の約束と「割礼」による契約であること、この契約は、族長(民族の長)アブラハムから(族長)イサクへ、そして双子の弟である(族長)ヤコブに継承され、ヤコブの12人の息子達すべても生まれて八日目に割礼を受けたことをステファノは議会で語りました。 /n聖書から神意を聴く  ユダヤ人がステファノに対して問題にしたのは、ステファノが語る「律法」や「神殿」が自分達の考える(旧約)聖書の教えに反しているのか、いないのか、ということでした。しかしステファノがこの弁明の機会になそうとしたことは、ユダヤ人の考えている「律法や神殿」はどのようにして神から与えられ、それは何であるのかを、ユダヤ人の理解ではなくて「聖書」そのものから明らかにすることでした。 ステファノもユダヤ人達も、同じアブラハムを民族の始祖として同じ民の歴史の中で生きてきました。それにもかかわらず、このように対立しているのは、ユダヤ人達が聖書に記されているその本質をわかろうとしないことに原因がありました。聖書をどんなに研究しても、又、言葉にくわしく通じていても、聖書から道徳の体系や、法体系を作り出し、その体系に合わせてモーセや神殿を解釈しようとした為、神様の語る真の意味を理解することが出来なくなっていたのです。聖書を自分達に理解出来る範囲の中で、本来の意図をゆがめてしまったといえるでしょう。それを明らかにして下さったのがイエス・キリストです。イエス・キリストから教えられた弟子達は、聖書を正しく解き明かしました。 私達は幸いなことに、イエス・キリストの光のもとで聖書を読むことができます。ステファノが命をかけて伝えようとした真の福音を聴きましょう。

「真の岩なるキリスト」 倉松功 先生

/n[詩編] 95編1-7節 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 /n[マタイによる福音書] 16章13-20節 13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 /nはじめに  本日は、私達プロテスタント諸教会の成立のきっかけとなった宗教改革を記念して礼拝を捧げることになりました。宗教改革の意義というのは、聖書の解釈、つまり聖書の理解の中に、最も中心的なものが表れてくるのではないかと思います。そうでなければ、宗教改革の中心的なものは、「聖書の本当の真理を解き明かす」ということにならないわけです。「聖書の一番大事なことを理解する」ということに、宗教改革の意義、特色が表れている、ということが言えると思います。聖書のすべての理解が カトリック教会と違うというわけではなく、むしろ理解が違うところはそれほど多くないと思います。そう多くない中で、今日の聖書の箇所は最も大事なカトリックとの違いを示している箇所ではないかと思います。 /n主イエスの第一の質問  本日の聖書では、主イエスが弟子達に対して二つのことをお尋ねになっています。第一の質問は、人々は「人の子」を何者だと言っているか、という問いです。「人の子」というのは、主イエスが御自分のことをそう呼ばれたのです。主イエスの自称です。「私はこういう者」という時に、「私は人の子だ」とおっしゃったのです。「何者だと言っているか」との問いに対して弟子達は「洗礼者ヨハネ、或いは(最も良く知られていた旧約時代の)預言者エリヤ、エレミヤだと人々は言っています」と答えています。 /n第二の質問  次に主イエスは「あなた達は私を何者だと思っているのか」とお聞きになりました。するとペテロは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です。」と答えました。このペテロの答えは、主イエスが期待していた答えだったのです。 /n「人の子」  「人の子」は聖書から考えて見ますと、旧約聖書イザヤ書にあるように、私達の罪の贖い(あがない)、罪の赦し、救いの為に十字架の苦しみを受ける救い主(メシア)のことです。同時にダニエル書には、人の子は、この世界の終りの日(最後の審判の時)に、神の栄光に包まれて来られる、そういう方のことです。ペテロは主イエスをそのような「人の子」としての歩みをなさっていると答えたのです。これはキリスト教の中心をなす本当に大切な信仰です。 /nペテロに信仰告白をさせた方  しかしこの信仰の告白を、ペテロは、この時、主イエスがどんな形で人類を救いながら、十字架と復活をどういう形で遂行するのか何も知らない状況でした。ペテロに限らず他の弟子達も、主の十字架と復活については何もまだ知りませんでした。ただ主イエスを神の子、救い主として、受け入れたのです。このペテロの告白に対する主イエスの対応、語りかけが、本日の聖書の中心となっています。主イエスは「バルヨナ・シモン(ヨナの子シモン=本来のペテロの名前)」と語りかけ、主イエスが救い主・キリストであり、世の終わりに再臨する神の子である、とペテロに教えたのは、「主イエスが誰であるか、ただ一人知っておられる神である」と語られています。主イエスは「ペテロ、おまえ自身が本当にこのような信仰告白をした」とは言っておりません。ただ一人知っておられる父なる神がこれを示したのだと言われています。これは私達にとって大変重要な言葉でしょう。この主イエスの言葉は、「誰も神の霊(聖霊)によらなければ、イエスは主であるとはいえない」(コリント12:3参照)と言ったパウロの言葉を想い起こさせます。全聖書、新約聖書全体がそういっているというふうにも思います。これは、主イエスの言葉をパウロを始め、弟子達がよく身にしみていたということでしょう。 /n「この岩の上に教会を建てる」  主イエスは、ヨナの子シモンにペテロ(岩)という名前を与え、この岩の上に教会を建てる。しかもその教会は、死によっても滅ぼされないと付け加えています。これはペテロに対する大変な祝福です。大変な祝福でありますが、大事なことは、マタイ福音書18章にキリスト者が二人三人集まる所に私もそこにいると言われ、その二人・三人の集まりに、これと同じ言葉(地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる)を主イエスは(教会に)与えています。これも見逃すことは出来ません。これは「あなたは生ける神の子・キリストです」という告白に対する、主イエスの祝福の言葉ということになるでしょう。 /nローマカトリック教会  このペテロに対する祝福、そしてこの岩の上に教会が建てられ、地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる、そういうこの救いに対する権利を、カトリック教会はペテロだけではなくてペテロの後継者である代々のローマの司教・教皇に与えることになりました。ローマカトリック教会の教皇は、代々、キリストの代理者として、カトリック教会の頂点に立ち今日に至っております。カトリック教会では全世界の教会が一つのカテキズム(教理問答)を学んでおり、その中に、教皇について次のように述べております。「ペテロの後継者である教皇は、教会の上に、完全、最高、普遍の権能を有し、それを常に、自由に行使することができます。」このように、マタイ福音書16章の18節-19節は、代々のローマ教皇の主張、権利の根拠となり、私共プロテスタント教会との大きな違いです。 /n教会が建てられる岩とは  別の角度から見てみたいと思います。それはペトロ自身のことです。まず宗教改革者ルターやカルヴァンは、教会が建てられる岩というのは、ペテロが告白した「主イエスご自身」のことだと反論しました。この反論を、ルターは何度も何度も繰り返し語りました。ローマ教皇の、古代の末期から続いてきた教皇の権利に対して、繰り返し繰り返し、それは聖書の証言ではないと言い続けたことに、ルターの意義があるのではないか、といってもいいのではないかと思います。ルターの根拠は、使徒パウロが「教会の頭はキリストで、教会はそのキリストの体である。キリストに結ばれて、その体を全員がつくる」と言っている言葉です。そのキリストの体を構成する一人として、その枝の一つとして各々がいるので、決して、上位の区別、差別はないということを言っています。文脈の上では「この岩の上に教会を建てる」という主イエスの言葉は、ペテロ個人について言われているようにも理解されますが、そのペテロは、同じマタイ福音書の16章23節では「サタンよ引き下がれ」と、主イエス・キリストから言われています。これも一つの驚きです。更に、主イエスが十字架につけられる直前にペテロは三度も主イエスを知らないと裏切りました。宗教改革者達が主張したように、教会は「主イエスは神の子・救い主・キリストである」と告白する人々によって成立してきたし、成立すると言わなければなりません。 /n岩とは主イエス・キリスト  詩編95編に「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」とありました。詩篇31編には「主は私の大岩、私の砦、私の神、砦の岩、城塞」と言っています。又、パウロはコリントの手紙10章4節で、モーセに率いられたイスラエルの民が、荒野で霊的な飲み物を、霊的な岩から飲んだ。「この岩こそキリストだったのです」と言っています。このような聖書箇所を根拠に、又、ペテロ自身の歩みを参考にするなら、宗教改革者達が言ったように、教会がその上に建てられたというのは、ペテロが告白した、その主イエス・キリスト、あなたは生ける神の子、キリストです、との告白、岩なるペテロが告白した主イエス・キリストだとの理解は間違いではないでしょう。即ち、主イエスを「生ける神の子」と告白する人々なしに、教会の集まり・共同体はありません。 /n「私はあなたのために祈った」  しかし、ペテロの上に教会が建てられるということと、ペテロの告白したことの上に建てられるというのは、必ずしも結びつくとは限りません。しかし聖書全体を読んでいきますと、結びつかざるをえないようにも思います。それは、ペテロが三度主イエスを否認する前に、主イエスからこう言われています。 >> 「あなたは私を否認する。しかし、私はあなたの為に、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい」(ルカ22:32) <<  この主イエスのペテロに対する祈りが、この二つの矛盾を結びつけているのではないかと思います。このような「まことの岩としてのキリスト」の導き・働きが、ペテロを支え導いていた。そこではじめてペテロは一つの岩となり得たのではないでしょうか。主イエスの先立つ恵みのゆえに一つの岩であり得たのではないかと思います。 /n私達に知らされている多くの証言  このペテロに比べて私達はどうでしょうか。私達は主イエスの地上の生涯だけではなく、主イエスについて旧約聖書はもちろん、福音書や使徒達の手紙によって沢山の知識が与えられています。たとえば「御子は見えない神の姿であり、全てのものが造られる前に生まれた方です。・・万物は御子において造られたからです」(コロサイ1:15-16)。「神の言葉としての御子によらないで創造されたものは何一つなかった」(ヨハネ1:3参照)などです。さらにペテロが(この告白の時点では)何も知らなかった主イエスの救いの御業の遂行についても、十字架と復活の出来事と意味について、使徒パウロから非常に力強い証しが与えられています。私達はそのような主イエスについての証言を受け容れ、主イエスを救い主・キリストと信じ、告白することによって、ペテロと同じ約束と祝福を与えられているのです。すなわち私達一人一人がペテロと同じ「岩」と呼ばれ、その上に教会が建てられてきたのです。 /n万人祭司  これが、「キリストを信じる全ての者が、司祭であり祭司である」というプロテスタントの万人祭司という宗教改革の原理です。宗教改革者ルターは、ローマ教皇あるいはペテロに与えられた信仰・・・それは、キリスト者一人一人にキリストによって与えられる。そのキリスト者一人一人が直接キリストを受け入れる。キリストを通して直接神の前に立つ。そういう司祭の務め、資格が与えられている、と主張します。その信仰は、ペテロと同様、神の聖霊の働きによって与えられた信仰にほかなりません。それは又、真の岩であるキリストが持っておられる信仰が、私達一人一人に与えられるからとも言えるでしょう。それゆえ、教皇と私達、婦人であれ子供であれ、キリストへの信仰において、何の違いもない、とルターは繰り返し主張しました。このことを宗教改革記念として今日、私共が覚えていいことではないでしょうか。 /nキリストの体である教会  まことの岩であるキリストによって、教会が私達の上に建てられています。それゆえ私達は(パウロがいったように)「キリストの体なる教会」なのです。それは目に見える建物としての教会では決してありません。そうではなくて、まことの岩であるキリストを告白する者の上に教会が建てられる・・そういう目に見えない教会です。この教会は、(ニカイア信仰告白にありますように)唯一の、聖なる、公同の(普遍的な)使徒的教会に連なる教会である、ともいえます。まことの岩としてのキリストを信じる者として、そのような大きな恵みと賜物が与えられていることに私共は感謝し、主をほめたたえたいと思います。確かに私達の歩みは、弱く不信仰な歩みです。ざんげや悔い改めを欠くことはあり得ません。しかし主イエスがペテロに語られたように、私達に先立つ主の御守り、恵み、助け、慰め、励ましを与えられつつ、共に歩んで参りたいと思います。私達のまことの岩である主に従う者でありたいと思います。(文責:佐藤義子)

「永遠の命を得る者・得ない者」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書] 42章5-9節 5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。 8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。 9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。 /n[使徒言行録] 13章42-52節 42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。 43 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。 44 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。 45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。 47 主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」 48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。 49 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。 50 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。 51 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。 52 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。 /nはじめに  アンティオケのユダヤ教の会堂で、次の安息日にも同じ話をして欲しいと頼まれたパウロとバルナバは、再び福音を宣べ伝えようと会堂を訪れます。この日、パウロとバルナバの話を聞こうと、町のほとんどの人々が集まってきました。この群衆を見た時、ユダヤ教の人々はねたみ、「イエス・キリストこそ、神の子・救い主であり、死に打ち勝って復活された方である」とのパウロの説教に対して、口汚くののしり、説教を妨害しました。 /n選民ユダヤ人は退けられる  パウロは彼らに対して、「神様の言葉はまずユダヤ人に語られ、救いはユダヤ人から始まることになっていたのに、あなた方は私が伝える神様の言葉を聞こうとはしない。あなた方は、みずから聞くことを拒んでいる。神様の言葉を聞いて信じる者は、永遠の命を与えられる恵みが約束されているのに、あなた方はみずからそれを受けるに値しない者にしてしまっている」と断罪します。更にパウロ達は今後、聞く耳をもたないユダヤ人にではなく、(ユダヤ人以外の)異邦人の救いの為に働くことを宣言しました。 /n二つの道の選択とその結果  それまで神様の救いや恵みから遠く離されていた異邦人達は、自分達にも福音が訪れたことを知り、喜びと讃美につつまれます。他方、ねたみを抱いたユダヤ人達は、ますます激しくパウロ達に敵意を抱き、町の有力な人々を巻き込んで迫害し、二人を町から追い出してしまいました。二人は町を去るにあたり、足のちりを払い落します。これはイエス様の教えでもありました。「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。誰もあなた方を迎え入れないなら、その町を出て行く時、彼らへの証しとして足についたほこりを払い落しなさい。」「どこかの町に入り、・・迎え入れられなければ、広場に出て行ってこう言いなさい。『足についたこの町のほこりさえも払い落して、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』」。(マタイ10:14・ルカ10:11)御言葉を聞いて信じるのか、拒むのか、その結果は御言葉を聞いた人と神様との間の問題です。伝道者は、宣べ伝える責任を果たした後の結果は神様に委ねるのみです。聞いて福音を受け入れた者には喜びが与えられ、賛美が生まれ、神様の恵みのもとで生き続ける道が開かれる。他方、聞いても福音を拒む人達は、ねたみと敵意の中で、力をもって相手を追い出すことに奔走し、救いの喜びも、神様の恵みも遠くに押しやっています。福音が語られるところではいつでも見られる二つの道と結果です。 /n永遠の命を得る者  私達は毎週、ざんげの祈りの後に、赦しのことばを聞きます。それはヨハネ福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の御言葉です。又、4章には「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(13-)とあります。永遠の命は肉体の死で終わる命と区別され、この世の死後にも続く永遠の中で生きる命、霊的な命と考えられています。この霊的な命、永遠の命を得るためには、霊によって新たに生まれなければなりません(同3:3参照)。つまり、悔い改めと信仰によって、イエス・キリストの復活の命にあずかり、聖霊を受けるということです。(ヨハネ福音書では、信じる者にはすでに永遠の命が与えられている・・11:26参照)。 /n永遠の命を得ない者  ここに登場したユダヤ人は、なぜ「永遠の命を得ない」道を選んだのでしょうか。彼らは、律法を守ることこそが永遠の命を得る条件であり、自分達は律法を行っている者であると自負していました。パウロが語る「人は律法を行い得ず、それゆえにイエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いがある」ことを受け入れようとしませんでした。自分の考え、思いを最優先にして、パウロを通して語られる、背後におられる神様に目を向けようとしなかったからです。私達は「信じない者ではなく、信じる者」(ヨハネ20:27)となり、永遠の命にあずかりましょう