礼拝説教要旨 「ゲッセマネの祈り」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 26章36-46節 36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたれたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言わた。「あなたがたはこのように、わずかな一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 /nはじめに  本日の聖書は、最後の晩餐(木曜日)の後、イエス様が弟子達と一緒にオリーブ山のゲツセマネと呼ばれる園で祈りを捧げられたことが記されています。ゲツセマネは、イエス様がエルサレムに滞在されていた時にはたびたび祈りの場所とされていたようです。ゲツセマネに着くと、イエス様は弟子の中からペテロ・ヤコブ・ヨハネの三人を選び、更に奥へと祈りに行かれました。まもなくイエス様は悲しみもだえ始められ(37節)、三人の弟子に向かって「私は死ぬばかりに悲しい」「ここを離れず私と共に目を覚ましているように」(38節)と言われます。そして三人から少し離れた所でイエス様はうつ伏せになり祈られました。 /n三度の祈り  イエス様は三度にわたって祈られました。山上の説教で「あなた方が祈る時は異邦人のようにくどくどと述べてはならない。あなた方の父は願う前からあなた方に必要なものをご存知なのだ」(マタイ6:7)と教えられた、そのイエス様が三度祈られたのです。 /n第一の祈り    「<span style="font-weight:bold;">父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに</span>」。  杯とは十字架の死のことです。イエス様は十字架を出来るなら避けたいと願われました。しかし神様のご計画が全てにまさって優先されることをイエス様はよくご存知でした。この祈りは、神様の御計画の中に「十字架の死」以外の道は用意されているのかどうかを最終的に問い、確認するという大きな目的のもとに捧げられた祈りであるといえるでしょう。 /n第二・第三の祈り  少し離れた所で、苦しみを共にして祈って欲しいと願った3人の弟子達は、イエス様が戻られた時、眠っておりました。イエス様は「<span style="font-weight:bold;">誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても肉体は弱い。</span>」と声をかけられ、再び祈りに行かれました。「<span style="font-weight:bold;">父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように</span>」(42節)。そして「<span style="font-weight:bold;">三度目も同じ言葉で祈られ</span>」(44節)ました。弟子達は眠ったままでした。 /n「御心が行なわれますように」  神様のご意志がそのままなされるようにとの祈りは、「汗が血のしたたるように地面に落ち」(ルカ22:44)ながらささげられた祈りでした。まさに苦闘の祈りでありました。なぜこれ程までに苦しみ祈られたのでしょうか。 /n罪が支払う報酬は死(ロマ6:23)   それは、死の恐怖からではなく、この死が神様に裁かれる罪人の死であったからです。コリント第二の手紙には、「罪と何のかかわりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。 私達はその方によって神の義を得ることが出来たのです。」(5:21)とあります。イエス様の全生涯は、神様を父として、全てのことは父なる神様を通してなされました。神様の支配の下で親しく歩んでこられました。今、その関係が変わろうとしています。神様に従順に歩んできたイエス様が、神様に敵対して不従順に歩んできた者にされて裁かれようとしています。つまり不従順な者すべて(全人類)の罪を引き受けられて、神様の怒りを受け神様との交わりは断絶するのです。十字架の死は罪に対する裁きとして目の前にあります。 /n私の罪   本来なら私達がそれぞれ「自分の罪」に対する「裁き」をうけるのです。一般社会では法律を犯せばその罪に見合った裁きを受けます。私達が神様の前で犯す罪についても同じです。一番の罪は神様を神様とせず、自分を神として自己中心・自己絶対化の道を生きてきたことでしょう。さらに神様が律法を通して教えておられる人間の生き方に大きく違反してきたことです。人を愛することが出来ず、憎み、嫉妬する、復讐する。あるいはうそ・偽りを言う。真理に従わない等、罪がないといえる人は一人もいません。にもかかわらず、私達は自分の罪に見合った裁きを受ける覚悟はあるでしょうか。「十字架」はイエス様が負うのではなく、私達一人一人が負わなければならない罪の結果の死なのです。考えただけでも恐ろしいことです。すでに忘れてしまったことも含めて、私達はどれほど神様に逆らってきたでしょうか。しかも私達には自分の罪を赦していただく為に神様に差し出せるものは何一つありません。 /n私達の代わりに・・   このような私達に対してイエス様が代わりに神様の裁きを受けて下さったのが十字架です。ゲツセマネでの苦闘の祈りが、イエス様を、自ら進んで十字架の死・罪の裁きを引き受ける道へと導いたのです。共に祈ることを求められながら、眠りの中に過ごして祈る時間を空しく終らせてしまった弟子達の姿は私達の姿でもあります。 /nゲツセマネの祈りの後に・・   イエス様は力強く言われました。「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」と。 翌日の金曜日朝9時に十字架につけられたイエス様は午後3時に息を引き取られました。(マルコ15:25‐参照) ヘブル書にはこうあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」 /n私達の祈り  私達が毎日、「天の父なる神様」と、親しく祈ることが出来るのは、イエス様が十字架への道を引き受けて下さり、それによって私達の罪が赦されたから・神様との断絶の中に道をつけて下さったからであることを、しゅろの日曜日の今日、特に心に覚えたいと願うものです。

説教要旨 「サタン、引き下がれ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章21-28節 21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 /nはじめに  サタンとは悪魔の別名であることは知られており、サタンとか悪魔という言葉に対して過剰反応をする人達も多く存在します。しかし説教題につけた「サタン、引き下がれ」(私の前にではなく私の後に退け の意)はイエス様が実際に使った言葉であり、しかも言われた相手はイエス様の弟子の代表格であるペテロでした。なぜこんな激しい、厳しい言葉をイエス様は愛する弟子に使われたのでしょうか。 /n「このときから・・打ち明け始められた」(21節)  キリスト教では「時」ということを大変大事に考えます。最も良く知られている言葉が、コヘレトの言葉3章です。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失なう時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」・・。ここで言う「この時」とはペテロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白をした時をさしています。イエス様は弟子達に、ご自分のこれからのことを明らかにされる「時」を選ばれました。そして、この時からイエス様の新たな別の歩み・・・「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者達から多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」(21節)道への第一歩を始められたということです。 /nペテロの反応  イエス様の「自分は必ずエルサレムに行って、多くの苦しみを受けて殺され・・」との、愛するイエス様の死の予告を聞いたペテロはすぐ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22節)といさめました。神の御子がそんな死に方をするなどあってはならない。そのような認め難いことを決して言ってはいけないと、心からそう思っての、とっさに出てきた言葉だったでしょう。 /n「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者」  ペテロの言葉の背景には、ペテロの願望がありました。神の御子なら当然それにふさわしい終り方-栄光に満ちた終り方-がある筈だという思いです。まして同じ民族の宗教的な指導者を敵に廻し、敗北の死を甘んじて受けることなど考えたくもなかったでしょう。しかしこのペテロの言葉に対して「サタン、引き下がれ」という言葉がペテロに向けて発せられました。「あなたはわたしの邪魔をする者」。(あなたは私の行く手にあってつまずかせ、私を倒そうとしている の意)。さらにあなたは「神のことを思わず,人間のことを思っている」と言われました。 /nペテロが聞き漏らした言葉  イエス様が弟子達に打ち明けられた言葉は「必ず・・することになっている」という神様の御計画を明らかにしたものでした。神様に従ってこれまでも歩まれてきたイエス様が、メシアとしてのご自分の地上での最後の歩みに向けて今、歩み始めたのです。しかしペテロはこの言葉に注目せず、イエス様の受難と死ということのみに反応しました。イエス様が伝えようとした神様の救いに向けたご計画について考える余地はまったくありませんでした。ペテロが善意でイエス様をいさめ、励まし勇気づけたとしても、それが神様の意志に反する以上、それはサタンの言葉となりサタンの働きとなります。イエス様は神様の意志に従って進むのみです。 /nペテロと同じあやまちを繰り返さないために  私達もペテロと同じあやまちに陥る誘惑が起こり得ます。目の前にいる人間の気持ちを配慮するあまり、神様の意志を問うことを忘れることがあります。人を愛することはイエス様の教えですが、神様の御意志を問う(イエス様ならどうされるか)ことを忘れた人への愛は、ペテロのように間違った言動を引き起こします。人を高めることで神様が軽んじられてはなりません。まず神様を仰ぎ、神様が今自分に求められていることは何かを考え知りたいと祈る時、神様は最善の道を示して下さるに違いありません。 /n「私について来たい者は、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」 (24節)  イエス様についていくことに伴う重荷(この世の論理・価値観などとの戦い他)は、イエス様が共に負って下さるゆえに、その荷は軽く、そこには安らぎがあります(マタイ11:28-30)。今週もイエス様に従って歩みたいと願うものです。

説教要旨 「ユダの裏切り」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

/n[マルコによる福音書] 14章43-50節 43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。 45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。 48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。 49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 /nはじめに  ユダヤのカリオテ村の出身者が、イスカリオテのユダと呼ばれていたイエス・キリストの弟子、12弟子の一人でした。彼は、イエス・キリストを裏切ったことから「裏切り者」の代名詞として知られている人物です。(マルコ福音書によれば)イスカリオテのユダはイエスを引き渡そうとして祭司長達の所に出かけて行き、彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダはどうすれば折り良くイエスを引き渡せるか、ねらっていたと記されています。最後の晩餐の後では、「私が接吻するその人がそうだ」と前もって合図を決めており、合図通り、先生であるイエス・キリストに近づいて接吻したと記されています。接吻するほどに近しい関係にあったイスカリオテのユダが行なった「裏切り」というのは、一体何だったのか。ユダの裏切りをめぐり、三つの点について考えてみたいと思います。 /n第一:ユダは欲得で裏切ったのか?  「裏切り」とは、敵に内通して主人や味方にそむくこと(広辞苑)です。特にユダは、イエス・キリストという先生(主人)を祭司長・律法学者・長老に引き渡すということで、イエス・キリストを裏切ろうとしていました。マタ福音書や他の福音書を見ると、ユダは、イエス・キリストを銀貨30枚で売り渡したと記されています。ということは、ユダは銀貨30枚のお金欲しさにイエスを売り渡したのか?ということです。ヨハネ福音書によれば、ユダは盗人であって金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたと記されています。しかし、確かに盗人ではありましたが、銀貨30枚は当時の労働者が一か月働いて得られる金額に相当する額です。危険を犯してまで先生を売り渡して得ようとする金額としては、それほど多くはないと思われます。 /n第二:ベタニヤでの出来事  ユダがイエスを裏切ろうと決断する直前に、一つの出来事がありました。ベタニヤの女性がイエス・キリストの頭に高価な香油を惜しげもなく注いだ、という出来事です。非常に高価な香油でした。ユダは「なぜ、この香油を300デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか」と非難します。換算するならば、十か月分の労働賃金に相当する額です。銀貨30枚に比べたならおよそ10倍、大きなお金です。貧しい人に施せば社会の為になる。今でいえば、経済的に困っている人を救済するなどの社会福祉活動が出来る、という主張であったでしょう。しかし、そのやりとりに対して、イエス・キリストは次のように言います。「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日の為に、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」 /n先生と弟子達の食い違い  ところで、香油を注いだベタニヤの女性を非難したのは、一人イスカリオテのユダだけではなく、他の弟子達も一緒にそのことを批判したようです。即ちこの出来事は、弟子達の考えと、先生であるイエス・キリストの考えが微妙に食い違っていることをあらわにした事件でもありました。当時弟子達は、イエス・キリストの教えと行動は、この世において貧しい人々が豊かにされる為のものであり、最後には当時の支配者であるローマ帝国を打ち破ってイスラエルを独立させ、神の国を樹立させる・・そんな運動であると理解していたのでしょう。  ナルドの香油(ベタニヤの女性の注いだ香油)の出来事は、弟子達が考えていた考え方(神の国を樹立させる運動)とは全く異なる出来事として彼らに映りました。イエス・キリストは香油を注いだことを肯定した。そのことは、弟子達の理解・希望・主義主張をイエス・キリストは明確に否定する出来事して弟子達には映ったのでした。その直後からユダは動き始めています。ユダは、「先生であるイエス・キリスト」ではなくて、「自分の主義主張」を優先させ、行動し、それが裏切りという形で現れたのです。ユダの行動は彼独りの行動ではなくて、むしろ弟子達の思いを代表しての行動であったということになります。その証拠に、その後 弟子達はイエス・キリストのもと(十字架のもと)から逃げ去ったのです。 /n第三:イエス・キリストはユダに対して無力であったか?  第三に考えたい点は、イエス・キリストはユダのはかりごとに対して無力であったのか、言い換えるならば、ユダは救われる余地がない程に、決定的に滅びに定められてしまった罪人なのか?ということです。ユダは聖書の中で、使徒のユダと紹介されており、会計係を担当し、キリストに接吻して挨拶するほど近しい関係にあった側近中の側近の弟子です。そのような人物が救われる余地のないほどに滅びに定められていたと考えることは出来ませんし、ユダの罪を救えなしほど、無力なイエス・キリストであるとも考えられません。聖書は最後の場面で、キリストが弟子達にパンを裂きぶどう酒の杯を与えたと記していますが、こんな言葉を語っています。「<span style="font-weight:bold;">見よ、私を裏切る者が私と一緒に手を食卓に置いている。人の子は定められた通りに去っていく。だが、人の子を裏切る者は不幸だ</span>」。弟子達はその言葉を聞いて「一体誰がそんなことをしているのか」と互いに議論し始めたと記されておりますし、イエス・キリストは又、「しようとしていることを、今すぐしなさい」と彼に言われたとも記されています。あのレオナルド・ダ・ヴィンチが描き出そうとしているその決定的な瞬間です。哀れなことに、その時弟子達は自分達の内で誰が一番偉いだろうかと議論しているのでもあります。まさに、ユダの汚れは弟子達に共通の罪であり、罪の汚れでした。 /n裏切りの結末  しかしユダの場合、イエス・キリストを敵に渡したことが、たったそれだけのこと、と思っていたそのことが、十字架へとつながっていく展開に気がついたのです。ユダは驚きます。そこまでは考えていなかったのでありましょう。イエス・キリストを殺すということは、弟子としてこれまでの自分をも否定する出来事です。ユダは、イエス・キリストを裏切っただけではなく、自分自身をも裏切ったことに気が付きます。聖書は次のように記しています。「<span style="font-weight:bold;">イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長達や、長老達に返そうとして『私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは,『我々の知ったことではない。おまえの問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。</span>」(マタイ27:3-5)。後に、イエス・キリストは十字架の上で、「<span style="font-weight:bold;">父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです</span>」と祈りましたが、その言葉はイスカリオテのユダにも妥当する言葉であったのでしょうが、ユダ自身がそのような言葉を拒絶してしまう生き方をしてしまったのです。 /n天を見上げる11人の弟子  さて、私が奉職している大学の礼拝堂正面のステンドグラスに、その後のイエス・キリストの姿、復活のイエス・キリストの天に昇る姿が描かれています。今まさに、天に帰ろうとしている復活のイエス・キリストです。そしてその下に、そのイエス・キリストを見上げている地上の人々が描かれています。信仰に目覚めた使徒達です。先日ある人が、この情景を「天を見上げている十二使徒達」としましたが、そこには11人しか描かれていないのです。最後の場面でイエス・キリストを見上げる使徒達の中には、ユダはいないのです。彼は結果として自ら捨てられた者、滅びる者となったのです。 /n復活の主を見上げる弟子達の延長線上に立つ。  私達はイエス・キリストの弟子達の延長線上にある者です。その延長線にはペテロがおり、イスカリオテのユダがおり、そしてパウロもいます。2000年の歴史を貫いて、多くの人々がその延長線上で実存をかけつつ生きてきました。その全ての人々にイエス・キリストは、「私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と語りかけているのです。イエス・キリストの前から立ち去る者ではなく、最後の場面の11人の弟子達のように、復活のイエス・キリストを見上げる、そんな線上に私達も又、立ち続ける者でありたいと願う者であります。

説教要旨 「生きている者の神」 牧師 佐藤義子

/n[出エジプト記] 3章13-15節 13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。 /n[マタイによる福音書] 22章23-33節 23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。 24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。 26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。 27 最後にその女も死にました。 28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」 29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。 /nはじめに  本日の聖書にはサドカイ派の人々が登場します。彼らはイエス様に質問をしますが、その目的は自分達の「復活はない」という考えを論証する為に、そして復活を語るイエス様の矛盾を指摘し、イエス様が答えに窮する姿を期待して来たのです。彼らのような、自分達の権威を見せびらかす為、又、相手の社会的評価を引きずり下ろすことを目的に、悪意をもって質問する姿の中に、私達は人間にひそむ罪をみることが出来ます。そしてこの問答がイエス様のエルサレム入城後の十字架にかかられる週の出来事であり、あの手この手でイエス様を陥れようとする反対者達の勢いを見ます。 /nサドカイ派とは  彼らは主に祭司階級に属し、富があり、大祭司を選ぶ特権を持ち、保守的な人達でした。同じユダヤ教でありながらファリサイ派との大きな違いは、ファリサイ派が書かれた律法だけでなく口伝律法や習慣的規則をも重んじていたのに対して、サドカイ派の人達は旧約聖書の中でモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)だけをモーセの権威による書物として認め、そこに復活の記述がないことから復活はないと主張していました。復活を信じない=肉体が死ねば魂も共に死ぬ、との考えです。[ファリサイ派の人々は、ダニエル書やイザヤ書、エゼキエル書などを根拠に復活はあると主張し、復活を否定する者は来るべき世にあずかることは出来ないと主張。] /nレビレート婚  サドカイ派からのイエス様への質問は、モーセ律法の中にあるレビレート婚(申命記25:5以下に記述)を取り上げて、復活の矛盾をつくものでした。それは夫に死なれた妻が子供がなく残された場合、夫の兄弟がその妻をめとって子孫を残さなければならないという規定です。サドカイ派は、レビレート婚を適用すると復活の時はこの女は誰の妻になるのかと質問しました。レビレート婚を定めた律法を否定するのか、それとも復活はないとの自分達の主張に同意するのか、どう答えるのかを試したのです。 /nイエス様のこたえ  イエス様の答えは明快でした。「あなたたちは、聖書も神の力も知らないから思い違いをしている」。  ある神学者は、「今日のキリスト教の世界においても、この二つの欠乏(聖書を知る事の欠乏と神の力を知る欠乏)ははなはだしく、大体において考え方がサドカイ派の人々と同じたぐいである」と言っています。クリスチャンにとって聖書を知ることと神の力を知ることは不可欠です。聖書だけを知って神の力を知らない者は、聖書の文字に捕われて神様の力の自由な活動を見ることは出来ませんし、逆に神様の力を知っているけれども聖書を知らない者は、神様の力がどの方向に働いていくのかわからず悪の力と混同することが起こります。 /n「復活の時には天使のようになる」  復活の時は、誰の妻とか誰の夫とか、人間が誰かに属している形で神の前に立つことはないことをイエス様は教えられました。コリントの手紙15章には「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」とあります。サドカイ派の一番の問題は、復活はないと主張する根拠がこの世の延長としての死後の世界を考えていたからです。(中略)私達には知らない事・わからないことが多くあります。それは、私達が創られた存在、被造物だからです。創ったお方(全知全能の神)がすべてをご存じです。私達は「聖書も神の力も知らないまま思い違いをする」ことがないように、聖書をよく読み、神の力を知る真の信仰の道(それは同時に祝福への道)へと導かれたいと願うものです。最後に、コリントの手紙2章をご一緒に読みたいと思います。

「人生が変わる時」 有馬味付子牧師(東京・練馬キリスト教会)

仙台南伝道所の開設四周年記念感謝礼拝でした。 /n[エレミヤ書] 18章1-11節   1 主からエレミヤに臨んだ言葉。 2 「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」 3 わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。 4 陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。 5 そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。 6 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。 7 あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、 8 もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。 9 またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、 10 わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」 11 今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。」 /n[ルカによる福音書] 19章1-10節 1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 /nはじめに >>  「陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師に向って『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』と言うだろうか」(イザヤ書45:9/ 口語訳) 「あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。」(イザヤ29:16/同) << 初めに読んだエレミヤ書(18:1-11)と、上記の御言葉は「私達は陶器師である神様によって造られた粘土の作品にすぎない」ということを教えています。 /n粘土が陶器師を忘れる  私達人間は、神に造られたものであるということをついつい忘れてしまう。そして自分が神様に成り上がってしまう。これが「罪」ということです。自分が神様より偉くなっていますから、神様を自分の都合の良いように利用しようとします。自分の祈りが答えられなかったら「何だ神様は!」と非難するような心境になるのです。そして神様をいい加減に扱うようになります。人よりも自分が偉くなり人を見下げるようになります。人間のもともとの根底には、消すことのできない「自分を誇り、人をバカにし、少しでも人より上にいたい」という気持があります。これが自分ではどうすることも出来ない罪です。「陶器師と造られた粘土」の聖書個所は、私が学生時代に出会って以来、私の心の深く入っていきました。私達一人一人は、本当だったら「ああ、これは失敗だ」と言われて、くしゃくしゃにされ、「ダメだ、これは。造り直しだ」と、粘土の塊の中に投げつけられ、丸められ こねられて、新しい作品に造り変えられても文句のいえない者です。それは、神様のなさることで神様の自由です。 /nけれども・・  そういう私達を、神様は罪を赦して生かして用いていて下さるのです。そのことを思いますとありがたくて感謝で一杯になります。私達が神様に「造られたもの」であることを忘れないで神様に従っていくならば、私達には神様の尽きることのない祝福と平安があります。これが疑いのない事実であるということを、ここにおられる皆様も日々実感していると思います。へりくだって生きる時、本当に神様にしっかり結び合わされているならば、必要のない不安・恐れというものを持たなくて済むのです。 /n忘れることは、神様から切り離されること  しかし私達は「神様に造られたものである」ということをすぐ忘れてしまう。それを忘れると、どんなにお金があり、高い地位にあっても、どんなに権力や権威を手に入れても、基本的に心の奥底に不安と恐れがひそんでいるのです。決して平安がない。自分自身についても、人間関係においても、いつも心が満たされない。それはそうだと思います。「自分の命を造って下さった方を忘れている」ということは、神様から切り離されている。そういう状態ですから平安があるわけがない。生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子供は、お母さんの姿が見えないと大変不安になって泣きだします。そしてお母さんの姿が見えると必死になってお母さんにしがみついていきます。お母さんに抱きしめてもらうとあんなに泣いていたのにニコニコ笑っています。だからといって赤ちゃんはどれだけ自分がお母さんに依存しているのかそんなことは知るはずもありません。大人になった私達もまったく同じです。 /nまことの神様  神様にしがみついていれば、全く何の不安も恐れも持たなくてすむのですが、神様を忘れたり意識的に神様を無視したり神様から切り離された状態にある時、不安や恐れがどんどん広がっていき、それでいて原因が自分にあるということに気がつかない。それに気が付くと又、平安が与えられる。天地を創られたまことの神様、主イエス様を送って下さった真の神様をまだ聞いたこともない・知らないという方は、その不安や恐れがどこからくるのか全く知ることが出来ません。ですから私達は先に神様を知って信じることが出来たのですから、もっとこのことを伝えていく使命が与えられているのです。 /nザアカイ  先ほど読みましたルカ福音書19章10節に「人の子が来たのは、失われた者を尋ね出して救うためである。」とありましたが、この「失われた者」というのは、まさに神様から切り離された状態の中にいる人のことをいっています。神様を認めない状態、神様を無視している状態、神様に背を向けて反抗している状態、これが「罪」ということですけれど、ザアカイはこの「罪」のただ中にいたのです。まったく失われたものであった。しかも自分から失われた者になることを選んだのです。神様を信じて神様に従う生き方を選ぶことも出来た。にもかかわらず取税人という生き方を自分で選び取ったのです。それはお金の為です。 /n取税人  取税人は、この時代、一番人々から嫌われ、憎しみを買った人達です。エリコの町というのは、なつめやしとバルサムという木が生えていて、それを栽培し、又、ばらの花も栽培して高く売れました。ローマ政府にとっては、エリコの町はたくさん税金をおさめる良い町でした。当時の税金は最終的にはローマ政府が受け取っていましたが、徴収は民間に請け負わせていました。請負の権利は投機の対象となり、ローマの金持がその権利を買い落して取税人に集めさせ、自分達は甘い汁だけを吸っている状況でした。(現代も同じような状況があります)。 /n取税人の頭(かしら)ザアカイ  ザアカイはエリコの取税人の頭でした。税金を払う人達は自分達の税額を知ることはできませんでしたので、言われる通り払わねばならず、取税人達は何倍ものお金を納めさせていたのです。人をだまして自分達の利益を得ていたのです。彼らは民族としての仲間を裏切りローマ政府に協力する者でしたから「売国奴」「裏切り者」と呼ばれて心底嫌われていました。ファリサイ人(モーセの律法を厳格に守る人)達は、取税人や罪人(律法を守らない人との意味で社会からも孤立しユダヤ教の会堂からも追い出された人達)が自分の衣にふれることさえ汚れるといやがり避けました。ザアカイには家族もいたでしょう。使用人もいたでしょう。仲間もいたでしょう。しかし本当のところは現代の人に特徴であるという「疎外感」や「孤独」の中で苦しんでいました。お金の為に選んだ道でしたが、神様を無視し神様を切り捨てている状況の中で、ザアカイはイエス様の話を耳にしたのです。 /nイエス様に会いたい  人々はイエス様について「あの人は取税人や罪人と一緒に食事をしている」と非難しました。しかしザアカイはそのうわさを聞いてイエス様にぜひ会いたい、一目見てみたい、とエリコの町に来ると聞いて出かけましたが群衆にさえぎられて見ることができない。そこでザアカイは先廻りをして、いちじく桑の木に登ったのです。ザアカイの気持がこの行動にむき出しになっています。この行動がイエス様の心をとらえました。イエス様は「ザアカイ、急いで下りてきなさい。きょう、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったのです。これはもっと強い意味があって「あなたの救いの為に、私は今日あなたの家に泊まらなければなりません。それが父なる神様の決められたことですから。」これがその意味です。ザアカイは、イエス様のお心を喜んで受け入れました。急いで下りてきた。喜んでイエス様を客として迎え入れた。イエス様の時代は食事を共にするということは、今より何倍も重要な意味をもっていました。 /n食事を共にする  食事を共にすることは、その人を赦し、その人を認め、その人の全てを受け入れることを意味しました。教会で愛餐会が大切にされるのは、このような意味があります。ただ仲良く楽しく食事を一緒にしているだけではありません。今までいがみあっていた人達が食事を共にすることで互いに赦しあい、自分が見下げていた人を悔い改めの心をもって対等に、或いは、尊敬する者として一緒に食事をする。教会で食事を共にすることは本当にどんなに恵まれたことであるか、もう一度今日味わってみたいと思います。ザアカイはイエス様が自分の家の客となって下さったことで、神様の赦しを信じることが出来た。今まで失われていた者が神様との関係のただ中に戻ってきた。ザアカイの人生はこの時変わった。 /n新しい人生  お金の為に、社会から追放されても会堂から閉め出されても、取税人ということにしがみついていたザアカイは、イエス様によってたった今、罪から救われた。ザアカイは湧き上がる大きな喜びで包まれました。ザアカイは罪から救われた時に全く新しい人生を歩み始めたのです。そのあふれでる喜びは「おこない」となってほとばしり出ることになりました。 /nわたしのこと  私が神学校に行きたいと思ったのは高校3年の時ですが「自分の罪」というものが本当にわかった時でした。「祈り会」に出ていた時に、私は何て罪人だろうということがグサっときました。この私の自分ではどうすることも出来ない罪を、イエス様がご自分で十字架にかかってゆるして下さった、イエス様が死んで下さった。それを思うとありがたくてありがたくて感謝で心が一杯になりました。その喜びに満たされた時に、これを一人で私の中でとどめ置いてはいけない!何とかこれを一人でも多くの人に伝えていきたいと思いました。それで神学校にいくことを決心しました。 /n罪から救われると・・  罪から救われるということは、その人に行動する力を与える。救われて暗い穴に隠れる人は絶対にいません。罪を赦され、罪から救われた人は、必ずや他の人の為に何か役に立ちたいと、人を配慮する力が与えられる。私は牧師の家に生まれました。小さい時から人を愛しなさいよ、といわれて育ちました。けれども「愛しなさい」「ねばならない」というのは私は嫌いでした。愛と聞くとイヤという思いでした。しかし自分が罪を赦されたと感じた時に「愛」という言葉がいやでなくなりました。そして人を配慮して生きていく内に「愛」という言葉がだんだん好きになりました。今では「愛」という言葉はこれ以上の言葉はなく、最高の言葉だと思います。キリスト教は神様の愛につきる、と、今気がついています。神様は愛である、ということ、これは本当に嬉しいことです。私はそれがわかった時に、自分の人生が変わりました。 /n本物のクリスチャン  四年前のこの伝道所の開設式の時「本物のクリスチャンを育てる教会でありたい」と話しましたが、本物のクリスチャンとは何だろう。まず「自分は神様に造られたものだ」「神様に造られたものにすぎない」ことをいつも忘れないということです。それはいつも自分の罪を自覚しているということです。第二に、私の罪の為にイエス様が十字架で死んで下さったということをいつもいつも心に覚えているということです。そして何か問題が起こった時(特に人に騙されたり、人に裏切られたりあざむかれた時)にこの事を思い出す。そうすると不思議とその問題をなんなくクリアすることが出来る。非常な強い力が与えられる。イエス様の十字架はそういう力を持っている。第三に、救われた喜びを毎日の生活の中で、行いとして表す。ザアカイは救われた時、即、不正な取り立てなら4倍にして返し、財産の半分を貧しい人の為に使うと言いましたが、そのように即、行いに出る。本物のクリスチャン・・それは、信仰と生活が別々のものに分離してしまってはいない。自分の日々の生活の内に何パーセントイエス様に従っているか、もう一度自分を見つめ直してみたいと思います。 私達の目指すところは、一日の内すべてがイエス様の御心に従う、御心を行うことです。そういう人に成長していきたいなと思います。(文責:佐藤義子)

「受難」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 27章27-44節 27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。 28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36 そこに座って見張りをしていた。 37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 /nはじめに  今日の聖書では、イエス様が二度の裁判を経て十字架刑が決定し、刑が執行されるまでの過程が描かれています。一度目の裁判では、同じユダヤ人である大祭司が神の代理人としてイエス様を裁きました。そして神を冒涜したとして、死刑にすべきとしました。二度目の裁判は異邦人であるローマ総督ピラトが、ローマ皇帝の代弁者としてイエス様を裁きました。イエス様が「ユダヤ人の王」と自称しているとの訴えから、ローマ皇帝以外の王を認めないローマに対する反逆罪にあたるかどうかを裁きました。ピラトは、この裁判がユダヤの宗教指導者達のねたみによって起こされたことを知っており、死刑を避けようと恩赦などを提案をしましたが、宗教指導者達に説得された群衆の『十字架につけろ』との叫び声と、暴動が起こりそうな状態を見た時、裁判の正しさよりも自分自身の利益を守る事を優先し、この判決の責任をユダヤ人に押し付け、死刑が確定したのでした。 /n虐待  こうしてイエス様の身柄はローマ総督の率いる兵士達に託されました。兵士達はローマの支配下にあるユダヤ人死刑囚として、イエス様を好きなように扱いました。「ユダヤ人の王と自称した」ゆえに、王のマント代わりにローマ兵の赤い上着の軍服、冠の代わりにいばらで編んだもの、しゃくの代わりにはあしの棒を持たせ、その前でひざまづきました。そして、「ユダヤ人の王、万歳」といって侮辱し、イエス様につばを吐き、あしの棒を取り上げて頭をたたき続けた・・と聖書は記しています。人間は、力が背景にある時、自分より弱い立場に置かれた者に対しては何をしても構わないとの傲慢に陥り、虐待という「罪」を犯すのです。 /n刑場への道  侮辱を加え終えた兵士達は、十字架刑が執行される刑場にイエス様を連行します。当時の十字架刑は、刑場にたての棒が用意され、死刑囚は横木を自ら背負って刑場まで歩かなければなりませんでした。その300メートルほどの道は、今日「苦しみの道」(又は「悲しみの道」)(ビア・ドロローサ)と呼ばれて、多くの巡礼者が訪れているそうです。むち打ちの刑などで弱っていた死刑囚は途中で倒れることも多かったようで、32節にあるように、イエス様の横木は、たまたま出会ったキレネ人シモンが無理に担がされました。 /nシモン  ある神学者はシモンについて、「強いられた恩寵」という言葉を使います。いやいやながら負う重荷が、結果として恵みに満ちた力に触れることになるという意味の深い言葉です。パウロの手紙にはシモンの息子や妻がキリスト者として登場します(参照:マルコ15:21・ローマ16:13)。 /n十字架を取り巻く人々  ゴルゴタの刑場に着いたイエス様は、兵士の差し出した苦い葡萄酒を飲みませんでした(苦みは感覚を麻痺させる物質)。そして残酷な十字架につけられたのでした。兵士達はイエス様が身につけていた衣をくじで分け合い、座って見張りをしました。刑場を通りかかった人々は、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」とあざけりました。祭司長、律法学者、長老達も同じように侮辱した言葉を浴びせます。「他人を救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば信じてやろう。」十字架上の強盗達まで同じでした。 /n私達人間の罪  「お前が本当に神の子なら・・してみろ」との言葉は荒野の誘惑の、サタンの言葉でもあります。命の与え主である神に、そして人間を愛し、私達を罪から救う目的で遣わしたイエス様に、人間は罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせます。十字架を取り巻く人々の中には、神を畏れ敬う信仰はありません。現代を生きる私達人間も同じです。神を神とも思わない不信仰の罪・傲慢の罪がイエス様を十字架につけたといえるでしょう。

「赦(ゆる)しと癒(いや)し」 平賀真理子 伝道師

/n[詩篇] 103:1-13節 1 わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7 主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 9 永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。 10 主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12 東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13 父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 /n[マルコによる福音書] 2章1-12節 1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 3 四人の男が中風の人を運んで来た。 4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 /nはじめに  マルコ一章には、イエス様が、汚れた霊に取りつかれた人や噂を聞きつけてやってきた多くの病人を癒されたことが記されています。癒された人はそのことを人々に言い広めたので、イエス様の周りはいつも人々が一杯でした。そんな状況の中「イエスが御言葉を語っておられると」(2:3)とあるように、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、宣教開始時の御言葉を高らかに、そして神の国についていろいろ語られたことでしょう。悩み苦しんでいたからこそ、その場にいあわせた人々は主に救いを求めて大きな恵みを与えられたと思います。 /n病人と四人の男  「神の御言葉が語られて」いた、そのような最高の敬意を払うべき状況下で、何と四人の男が屋根をはがし始め、病気で体が思うように動けなくなった人(一般的に脳の血管が破れたり詰まったりした後、手足、言語機能、運動機能に障害が起こっている状態)の床をつりおろしました。ここで読み取れるのは、その病人とこの四人が、イエス様の所に行けば絶対に治してもらえると信じて行動したということです。イエス様が、「その人達の信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される。』と言われた。」とあるからです。 /n律法学者  6節にイエス様の反対勢力として「律法学者」が現れます。彼らはモーセが神様からいただいた十戒をはじめ、旧約聖書全体を詳しく知っていた人々、イスラエル民族の宗教生活全般を指導していた有力者階級の人達です。政治的にも最高議会で多くの議席を占める町の名士でもありました。律法学者たちは「あなたの罪は赦される」というイエス様の言葉に疑問を抱きます。「神のみが罪をお赦しになれるはず。この男は神を冒涜している・・」と。イエス様は、彼らの心の中を御自分の霊の力ですぐに知ったとあります(8節)。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(ヘブライ4:13)のです。彼らは、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。」とイエス様から問われた時点で神様から来る霊の力を悟るチャンスがありました。しかしイエス様を認めることは自分達の権威を失墜させることになると考えたのでしょう。彼らは自分達の地位を守ることが第一で、目の前で苦しむ人々の救いや、それを見て憐れまれる神様の思いは考えられないのでしょう。 /n「罪の赦しの宣言」と「歩けるようにする癒しの宣言」  イエス様は律法学者に「赦し」と「癒し」の二つを挙げて、どちらが易しいかと問いました。ある注解書にこうあります。「この問いは答え難い問いである。」「この問いは一つの明確な答えを求めるものではなく、むしろ敵対者たちを困惑させるためのものではなかろうか。」  赦しと癒しの権能を神様から与えられているイエス様です。この問いの答えは、「問いとイエス様の発言と行動」で分かるようになっていたのです。信じない者、分かろうとしない者達には分かりえない問いです。イエス様が「地上で罪の赦しの権威を持っていることを知らせよう」と言われてなさったことは「癒し」の宣言とその実現でした。 /n詩篇103:3-5に学ぶ  神様の、人間の救いのご計画の内容は、赦し・癒し・贖い・慈しみ・憐れみ・豊かさ・生命力の甦りです。「光」は普通は透明ですが、分析すると赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と見ることもできます。神様の人間に下さる恵みは一つ一つの出来事を分類することもできますが、人智の及ばない、もっとダイナミックで捕え難いほど大きいものだと思います。 /n私達も赦され、癒される  さて、聖書に登場した病人を私達と置き換えて考えることができます。私達は罪に縛られ、神様の前に不自由で思うように動くことができていません。パウロでさえ、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(中略)肉では罪の法則に仕えています。」と神の前に不自由な自らを嘆いています。しかしイエス様の下に馳せ参じ、又は周りの人を取り込みながら、救いを得たい、信じたいと礼拝に集う私達をイエス様は憐れみ、赦され癒された病人と同じように助け励まして下さると信じます。

「命の言葉を告げる」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 40章6-8節 6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。 8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。 /n[使徒言行録] 5章12-26節 12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。 15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。 17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、 20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。 22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。 23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 24 の報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 25 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。 26 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 /nはじめに  弟子達を初め、イエス・キリストを信じる人々は、エルサレム神殿のソロモンの回廊に集まり<イエス・キリストは今も働かれている>ことを語り伝えていました。多くの男女がイエス・キリストを信じる群れに加わり、群れは大きく広がっていきました。使徒達はイエス様と同じように病人に手を置いて癒しを祈りました。神様の手の道具として使徒達の手が用いられ「イエスによる信仰が、あなた方一同の前でこの人(足の不自由な人)を完全に癒したのです。」(3:16)と証しし、ペトロ達の名前はエルサレム近郊にまで知れ渡り、多くの病人や汚れた霊に悩まされている人々が使徒達のもとに連れて来られ、「一人残らずいやしてもらい」(5:16)ました。 /nまことの癒し主  私達は病気になると、医者に診てもらうか、薬を飲むことをまず考えがちです。しかし私達の病気を癒すのは、私達に命を与え、命を支配されている神様です。私達は、神様こそがまことの癒し主であることを信じる信仰に立ち、神様に癒しを祈り、医者を必要とする時には神様が良き医療者を備えて下さるように、更に、その医療者が最善の医療を施すことが出来るように導いてくださいと祈りたいと思います。 /n天使を遣わして語らせる神様の命令  5章17節からは場面が変わり、大祭司とその仲間達が、使徒達に向けて激しい嫉妬と怒りを起こし、使徒達を捕まえて投獄してしまいました。理由は、使徒達による多くの奇跡やそれに伴う人々の尊敬や称賛でした。ところが夜中に主の天使が牢屋の戸を開けて「神殿で命の言葉を語るように」と命じました(19節)。使徒達は「命の言葉」を語るがゆえに、この世の権力者によって捕えられ、そして、「命の言葉」が語り続けられる為に、神の御使いによって牢から出されたのです。使徒達は神の使いが命じた通り、朝早く、神殿の門が開くとすぐ境内に入り、一日を宮で祈ることから始める人達に「命の言葉」を語り、教え始めました。 /n「命の言葉」を語る  命の言葉を語るとは、イエス・キリストについて語り、イエス・キリストの言葉、教え、その生涯(十字架と復活)について語り、イエス・キリストが神の御子であり、救い主であることを伝えることです。そして、イエス・キリストについて語られた言葉を信じる者には真の「命」が与えられます。命の言葉は、私達を罪から離れさせ、イエス・キリストへと導きます。そして、信じる者には「神の裁きと死」から解放されて、真の命がもたらされるのです。ねたみに燃えた大祭司と仲間達が使徒達を捕えて「命の言葉を語る」機会を奪おうとしましたが、神様は使いを送って再び使徒達に語らせ、今日までこの「命の言葉」は受け継がれ、求める者にはいつでも信仰によって真の命が与えられるのです。 /n神を見ず、人を見る罪  夜中の出来事を知らず、大祭司と仲間達は再び議会を招集して使徒達を引き出そうと牢に人を差し向けましたが、牢は空(から)であるとの報告が届きました。彼らは「どうなることかと、使徒達のことで思いまどい」(24節)ました。つまり自らの行為の正当性についての確信はなく、自分達の力を超えた現実を目のあたりにして途方に暮れたのです。彼らはこの時、自分達の伝道禁止命令が神によって破られたことを認めるべきでした。にもかかわらず大祭司とその仲間達はかたくなになり、神様の前に立ち帰ろうとはせず、使徒達の再逮捕に向かいました。しかし、民衆の反感を買って石を投げられることを恐れ(民衆は使徒達を称賛していた)、使徒達を乱暴に扱う事も出来ませんでした。ここでも彼らが神の前ではなく、人を見て行動していることが明らかにされます。 /n引き継がれている命の言葉  「命の言葉」は、時代を超えて継承され、今朝も私達に聖書を通して語られています。聞いて信じる者にはイエス・キリストの命が注がれ、私達を日々新しく生かしてくれます。イエス・キリストと共にある確信、救いの喜びが日々与えられるように祈りましょう。

「最初の殉教者ステファノ」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 86編11ー17節 11 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。 12 主よ、わたしの神よ/心を尽くしてあなたに感謝をささげ/とこしえに御名を尊びます。 13 あなたの慈しみはわたしを超えて大きく/深い陰府から/わたしの魂を救い出してくださいます。 14 神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。 15 主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる。 16 わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。 17 良いしるしをわたしに現してください。それを見て/わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。主よ、あなたは必ずわたしを助け/力づけてくださいます。 /n[使徒言行録] 7章54節ー8章3節使徒 7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。 7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、 7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。 7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。 8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。 8:2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。 8:3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。    /nはじめに  私達は、過去多くのキリスト教徒達が迫害を受けて殉教の死を遂げてきたことを知っています。今日はその最初の殉教者となったステファノと、迫害者達の言動から、信仰について学びたいと思います。ステファノは、恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていました。ところが、ユダヤ教徒のある者達がステファノに議論を試みます。ステファノは、十字架で殺され復活したイエスこそ、神様から遣わされた救い主であり、このイエス様以外には救いがないことを力強く語り伝えていたことでしょう。議論をしかけたユダヤ人達は、神様からの知恵と霊を与えられたステファノの前に歯が立たず、人々をそそのかして偽りの証言をさせ、更に宗教指導者達を巻き込んでステファノを捕らえ、神殿と律法をけなしたという理由で議会に訴えさせました。議会でのステファノは大祭司から証言を求められ、始祖アブラハムから始まる2000年の歴史を語り始めます。その内容はその場にいた人々も良く知っていることでした。では何の違いが、一方を迫害者とし、一方を殉教者としたのでしょうか。 /n聖書の読み方・歴史観の違い(1)  「木を見て森を見ず」という言葉があります。細かい点に注意しすぎて、大きく全体をつかまないという意味です。迫害者達は、自分達の先祖の歩みを聞いてはいましたが、歴史の背後に流れる神様の救いのご計画と、それに反逆し続けてきた人間の不従順については目を留めていなかったようです。ステファノを訴えた理由も、神殿と律法をけなしたということですが、彼らは今、目の前にある神殿のことしか頭になく、聖書がどのようにそれらについて教えているかの視点を持つことが出来ませんでした。 /n神殿と律法  アブラハムからダビデの時代までは神殿はなく、幕屋で礼拝をしており、初めて神殿を建てたソロモンは、天地の創り主である神様が人間の手による建物に住まわれることはないことを知っておりました。ただ神様がそこに名を置き、目を注いで下さる場所として神殿を奉献したのです。しかし迫害者達は神殿崇拝者となって、今、神殿がけなされたと訴えているのです。律法についても、迫害者達はモーセの権威にこだわり、字句一つ一つにこだわり、「神様を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を見る視点を持たないまま、律法の擁護者と自認しています。 /n聖書の読み方・歴史観の違い(2)  もう一つの違いは「まず神ありき」の、神様がおられるもとでの自分の人生か、或いは「まず自分ありき」の、自分優先での神様のいる人生なのか、ということです。迫害者達がイエス様を救い主として拒んだ理由の一つは、メシアはダビデの子孫から生まれるとの信仰が、ダビデ王国の華やかさや、戦争の勝利者という人間に都合のよいメシア像をつくったことです。そしてイエス様がナザレの村育ちであること、大工の息子であったこと、木にかけられた(十字架)者は神から呪われた者という伝統的な考え方などが、その理由に考えられます。いずれにせよ、自分達の考え方や願望に固守して聖書を読むのは「まず自分ありき」の読み方で、不従順な先祖たちと同じ道を歩くことになります。 /nステファノの信仰  ステファノは迫害者達に向かって、あなた方は神様から遣わされた預言者達を迫害し、殺してきた先祖達のことを知りながら、今、又同じ道を歩いている。預言者(バプテスマのヨハネ)を殺し、ついに神の御子、救い主イエスまで殺してしまったあなた方は「聖霊に逆らっている」と断罪しました。自信と自尊心と傲慢で頑なになっていた迫害者達は、ステファノの言葉に激しく怒り、歯ぎしりしました。ステファノは聖霊に満たされ、神様の栄光と主イエスの姿を見ました。ステファノが「人の子(イエス様)が見える」と言った途端、人々はステファノめがけて一斉に襲い掛かり、都の外に引きずり出し、石を投げ始めました。ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び、眠りにつきました。罪を憎み、自分を迫害する者の為に神様の赦しを祈った殉教者ステファノの信仰を、私達も受け継いでいきたいと願うものです。

「主が与えられる役割」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 51編12-19節 12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。 13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。 16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。 17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。 18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。 19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。 /n[マルコによる福音書] 5章1-20節 1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。 10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。 14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。 /nはじめに  神様は、預言者を通して、罪の世界に陥った人間を救う「救い主」を世に送るという約束をされました。その約束は守られ、実現され、それが、イエス様の御降誕という出来事になったことを、私達はこのクリスマスに学びました。神様の「御言葉は必ず実現される」という性質に加えて、今日の聖書には「神様の霊」の特性が表れています。 /n神様が計画された人間  創世記に、人間は「神にかたどって創造された。」(1:27)とあります。それは、神様がこの世を創られ、その素晴らしい世界を共に楽しみ共に維持していく為に、気持を交流し、互いに良い働きかけができるという関係をもてる対象として人間を創ったということです。そして神様は人間に「御自身の命の息」を吹き入れられました(創2:7)。この「息」という言葉は、ヘブライ語で「霊」も意味する言葉です。人間は、「神の霊」を授けられて初めて「本物の人間」になるということです。 /n悪霊  今日の聖書では、超自然的存在、神様に従うことを拒否し、人にとりついて、わけをわからなくさせ、肉体を傷つける存在として「悪霊」が出てきます。ここでは「レギオン」(当時のローマ軍の5千人程の組織)と名乗ります。何千というおびただしい数で一人の男の人に取りついていたからです。彼は自らを傷つけ、その形相や行動は周りからも恐れられていました。すべては悪霊の仕業です。イエス様は、走り寄ってきた男に取りついている悪霊に向かって「この人から出ていけ」と命令されます。この言葉は実現し、悪霊は男から出て豚に乗り移り、約二千頭の豚が湖になだれ込み、おぼれ死にます。ここに私達は悪霊がもつ破壊のパワーのすさまじさと同時に、イエス様の霊の力と権威は必ず勝利することも知ることができます。 /nこの出来事に立ち会った人々の三つの反応  第一の、豚の飼い主達は、その経済的損失とイエス様の霊力を恐ろしく感じたことで、イエス様を否定し、町から排斥しようとします。第二の、この奇跡を見ていた人々は、神様を崇めるのではなく、奇跡の話題性によって横のつながりを求め、この出来事を伝えます。そして第三に、悪霊を追い出していただいた本人はこの出来事の価値を理解し、イエス様に従いたいと願い出ます。 /nイエス様の指示  正気に戻されてイエス様に従うことを求めた人に対して、イエス様は二つのことを指示されました。一つは自分の家に帰ること。もう一つは、身内に、神様が憐れんで下さったことと自分に起こったこの出来事を知らせることでした。イエス様に従いたいという信仰を表わすことにより、異郷の地での、福音宣教の役割をイエス様から授かったのです。 /n私達の「霊」の中心  私達に与えられている「霊」の中心に、「神様の霊」を置くにはどうすれば良いのでしょうか。一瞬の幸せに惑わされて、「霊」の中心を「神の霊」以外のものに明け渡す時、後に待っているのは、破滅や孤独です。詩編51:19には「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれ悔いる心」という言葉が記されています。自分の殻、傲慢さが打ち砕かれた時、はじめて主なる神様が来て下さる受け皿が整えられる。自分の罪深さを深く認識することによって、そこから抜け出たいと思うようになる。にもかかわらず自分ではどうにもできない、神様なしではどうにもならないという心からの悔い改めが起こり、主なる神様を求める心が強くされ、「霊」の中心に神様をお迎えする土台ができる。そして、神様への呼びかけの回路を修復するために贖いとなって下さったイエス様の福音を信じることができるようになる。さらに、自分だけにとどめるのではなく、周りに宣べ伝える・・。そのような信仰の形ができてきます。 /n主が与えられる役割  私達は打ち砕かれた霊を献げものとして、主が与えてくださる各々の賜物に従った役割を悟れるように祈り求め、その役割に努め、主の栄光にあずかる者として歩み進んでいかれるよう、祈ってまいりましょう!