「荒れ野の誘惑」  牧師 佐藤義子

/n申命記 8:1-10 /nマタイ福音書 4:1-11         /nはじめに     私達は毎週日曜日、礼拝をささげます。礼拝では神様を賛美し、過ぎた一週間を振り返り、感謝と共に、神様に従い得なかった罪を悔改めます。悔い改めによって私達の罪は、イエス様の十字架の死による「贖い」により、神様から赦しが与えられていることを信じています。そして神様からの御言葉(説教)を聞くことにより神様の御心を知り、御心にそった歩みをしていくように祝祷をもって再び家庭に、社会に派遣されていきます。こうして私達は、「神の民」としてふさわしく造り上げられていくのです。 /nユダヤ人の、信仰の継承  選民(神様に選ばれた民)であるユダヤ人は、神様の教えを忘れず、代代子供達にも伝え続けています。申命記には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">今日、私が命じるこれらの言葉(律法)を心に留め、子供達に繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとしてひたいに付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい</span>。」(6:6-9)とあります。 私達は毎週の礼拝を通して、さらには家庭で聖書を読むことを通して、少しずつでも心の中に御言葉を蓄積していくことが大切です。御言葉がたくわえられていくことにより、日々の生活の中での判断や決断の時、又、あらゆる場面で御言葉が大きな力となって、私達を教え、導いてくれます。 今朝も、与えられた御言葉に耳を傾け、信仰の継承が与えられるためにも、先ず私達自身の内に御言葉をたくわえていきたいと願うものです。 /n悪魔の誘惑  今朝の聖書は、イエス様が、悪魔から誘惑を受けられて勝利された箇所です。悪魔は存在し、目には見えませんが人々の心を神様から引き離そうと日々活動しています。旧約聖書ではヨブ記で、新約聖書では、悪魔サタンが弟子のペテロやユダの心に入ったと記されています。ヨハネの黙示録によれば、最終的にはサタンは滅ぼされますが、終末が来る迄は、この世の支配者として今も私達を神様から引き離そうと働いています。 /n第一の誘惑  イエス様が40日40夜の断食後、悪魔から、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが神の子であるなら</span>」石をパンに変えてみよと誘惑されました。悪魔は空腹のイエス様に、神の子である証明として、空腹を満たすパンを求めました。世の人々がそれを見るならば、大勢の人々がイエス様のもとに集まって来るに違いありません。しかしイエス様は、人はパンだけではなく「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の口から出る一つ一つの言葉で生きる</span>」(申命記8:3)と応答されました。 パンは肉体の命を守りますが、命は肉体だけではなく「霊の命」もあるのです。この命は、神と共にある真の命であり、永遠の命でもあります。私達が困難や苦しみ、試練に会う時、御言葉が力となって励まされ、慰められ、忍耐出来るのは、「霊の命」が生かされているからなのです。 /n第二の誘惑 次に悪魔は、イエス様に、神殿の高い所から飛び降りるように誘いました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが神の子であるなら</span>」神の守りが必ずあることを、悪魔は聖書(詩編91篇)を引用して保証したのです。もし実証されたならば、人々もイエス様を神の子として認めるだろうとの誘惑です。イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神様を試してはならない</span>」(申命記6:16)と応答されました。神様は支配されるお方、従うべきお方であり、試すお方ではあり得ません。 /n第三の誘惑   最後に悪魔は、イエス様に、この世の権力・富・地位や名誉、あらゆる繁栄と引き換えに、悪魔を拝めと誘いました。これこそ悪魔そのものの正体です。イエス様は、申命記を引用して答えられました「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ</span>。」(6:13)。 神の子・イエス様は、神様からあらゆる力を頂きながらも、人間としての制約の中で生きられました。又、御自分を神の子として高めることなく、神様による以外に生きることをせず、過ぎゆくこの世の、いっさいのものに仕えることをせず、神様を真実に神様としてあがめ、神様を崇めることによってのみ神様の祝福を求める生き方を、生涯を通して私達に教えて下さいました。(フィリピ書2:6-11参照)

「最も大いなるもの」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

仙台南伝道所開設9周年記念感謝礼拝                     /n申命記6:1-5 /nマルコ福音書12:28-34 /nコリントの手紙12:31-13:13 /nはじめに 本日は三つの聖書の箇所を読んでいただきました。 この箇所について、一つは、イエス・キリストの言葉と旧約聖書を対比させながら見る、二つ目は、使徒パウロが語った言葉を見る、三つ目には、教育学者ペスタロッチの言葉を見る、その三つの側面から御一緒に考えていきたいと思います。 /n律法学者の質問 本日読んでいただいたマルコ福音書には、律法学者が登場します。彼は、イエス・キリストに質問をします。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。 旧約聖書は大変長い大きな書物ですが、その中で、どの掟が最も重要か、ひとことでいえば何か、と質問しているのです。この質問に対してイエス・キリストはすぐに返答をしています。それが12章の29節からです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスはお答えになった『第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』</span>。 イエス・キリストはこれに続いて、第二の掟も言っております。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない</span>。」そういう議論をしています。 /n律法の専門家 イエス・キリストは、律法の専門家の質問に対して、主を愛すること、そして人を愛すること、この二つにまさる掟はないのだ、と言い切ったのです。もし、私達がその場にいたら、一緒に議論に加わり、それでは、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということは、具体的にどのようなことをしたら良いのですか?と質問したくなります。実は、律法学者もイエス・キリストに答えています。「先生、おっしゃるとおりです。「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と、彼は、真ん中の二つをまとめて「知恵を尽くし」と言い変えています。律法学者というのは、ものを考えて一生懸命神様に仕えようとしていた人ですから、「知恵を尽くして」というわけです。 では私達の場合はどうか。それぞれの持ち場において最善を尽くすということだと思います。が、私達は律法学者のように、自分が都合のよいように言い換えるのではなくて、イエス・キリストが引用した旧約聖書を見てみたいと思います。 /n旧約聖書の申命記には・・ 申命記6章の4節以下には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。</span>」とあります。 あなたは、いつも、この言葉を語り聞かせ、自分自身も額(ひたい)につけ、家の門の柱にも書き記しなさいと言っている。神の言葉をいつも身近に置いておく。神の言葉から離れてはならないというのです。(今でも、ユダヤ人はそれを忠実に守り、祈る時は、カバンから四角い黒い小さい箱を出して、この申命記の言葉が書いてあるものを額につけたり腕にまいたりしています。又、同じような四角い箱を家の門に張っています。自分達は神様の言葉から離れない、ということを文字通り今日に至るまでやっています)。 神の言葉をいつも身近に置いておく。神の言葉からは離れないということを、イエス・キリストは、一番最初の大事な掟として語った。そして続いて「<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分だけではなくて隣人をも自分のように愛しなさい</span>」と、語った。律法学者もイエス・キリストもこの言葉がレビ記19:18の引用であることを知っていました。そしてその言葉に、律法学者は同意したのです。(ルカ福音書では、この後、律法学者が「隣人とは誰か」と質問し、イエス・キリストの、あの有名な「良きサマリヤ人」の譬えが始まります。10:25-)。 さらにこの言葉に注目するならば、隣人を愛するだけではなくて、自分のように愛する。「自分のように」ということについては、考えなければならない大事なことが込められていると思います。 /n弟子達への継承 イエス・キリストと律法学者の問答を要約するならば、主を愛しなさい。神様の言葉から離れないでいなさい、そして隣人を愛しなさい、自分のように愛しなさい、ということになります。これが大事な掟なんだ、ということを言ったのです。そのことは、イエス・キリストと律法学者との問答だけではなくて、イエス・キリストの教えとして弟子達にも継承されました。しかもイエス・キリストの弟子達は、「イエス・キリストの十字架」をやがて目撃していきます。愛するということは、命がけの生き方になっていくのであります。 特にパウロは、主を愛すること、隣人を愛することについて、コリントのキリスト者達に、手紙の中でそのことをくわしく具体的に論じたのです。 /nコリントの信徒への手紙13章 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">預言する賜物をもっていても、知識的な能力があっても、完全な信仰をもっていても愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人々にほどこし、目立つ活躍をしたとしても、愛がなければ何の益もない。愛というのは、忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかず、不義を喜ばず、真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。</span>」パウロは手紙の中で、こう表現したのです。 愛というものをどうにか説明しようとしてさまざまなことを表現しているのです。こんなにいっぱい話をして、何を言いたいのか、ひとことでこれを言うならば何だろう。パウロは、自分自身でもまとめています。8節を見ると、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">愛は決して滅びない。預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう</span>。」とあります。愛というのはすたれない。しかも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。</span>」と断じたわけです。どうして三つも立派な徳を挙げておきながら、愛が一番偉大なんだろう。「信仰」や「希望」を押さえて「愛」が一等賞とはなぜか。 /n「愛」によって、「信仰」も「希望」も確かにされる パウロは2節で、そのことについてすでに答えを出しています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無にひとしい</span>」。 山を動かすほどの完全な信仰を持っていたら、もう十分かと思うと、そうではなく、愛がなければ無に等しいといっているわけです。逆に言うならば、愛によって信仰は確かにされる。愛は、信仰をさらに確かなものにする。では、希望はどうか。コリントの手紙には希望については解説がありませんが、ローマのキリスト者達に宛てた手紙に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">希望は、わたしたちをあざむくことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです</span>」(5:5)とあります。私達の希望は、私達を裏切らない。なぜかというと、神の愛が私達の内に与えられているからだ。神の愛によって、愛があるから、希望は希望として私達の内に確かになる。希望も、愛によって確かにされる。信仰も希望も、愛によって信仰者の内に確かなものとされる。愛というのは、そのような意味で偉大なのだ、ということを、パウロは、イエス・キリストから教えられた愛を記して、その考えを継承している、と読み取ることが出来ると思います。 そのことを私達は聖書を通してわかる。しかし最後に考えたい三つ目のことは、私達はそのことをどのようにして実践することが出来るのか。私達は、本当に愛に根ざした信仰なり希望なり、その愛自体を実践することが出来るのかということです。そこで、これまで旧約聖書やイエス・キリストの言葉やパウロの言葉を概観してきましたので、もう少し時代を経て、近代の教育学者のペスタロッチという人の言葉を引用しながら考えたいと思います。 /n人は、神から恵みによって愛が与えられるゆえに・・ ペスタロッチという人は、「教育の父」と呼ばれた人で、次のようなことを語っております。「教育の根本は愛である。愛されて育つ子供は人を愛し、愛を分かち与える喜びを知り、生涯にわたって心豊かな人生を創造し続ける。同じように、人は、神から恵みによって愛が与えられるゆえに、人を愛することが出来る。そして、神を愛することが出来るのだ」。 どういうことかというと「愛を分かつこと・実践することが出来る人は愛を知っている人だ。自分が愛されることを知っていなければ、人を愛することは出来ない。だから、教育というのは、根本は愛が必要なのだ。 愛されて育つ子供は、人を愛することが出来る。そして豊かな人生を生涯にわたって送ることが出来るのだ」。 /n愛の実践 そうはいっても、手遅れだと思う人がいるかもしれませんが、しかし、そんなことはない。神から愛が私達に与えられているから、私達は人を愛することが出来るし、神を愛することができるのだ。すなわち、神から愛が与えられるからこそ私達は愛を知り、愛を実践することが出来るのだ。この愛を、イエス・キリストも、パウロも、ペスタロッチも、偉大なものとして私達に語り聞かせてくれているのです。 ここまでいろいろ教えられるとするならば、私達は自問自答したくなります。「信仰者は何を大事にして生きたら良いのか?」 それは、「愛」、のひとことに尽きるでしょう。 信仰者の集まりである教会は、何を第一として歩むべきか。 それも又、「愛」であります。  それを実践し得る。ある意味で、この世に於いて、まことの愛を実践し得る。それは、「神の愛を知っているわたしたちキリスト者」である、といっても過言ではありませんし、それは、教会の大きな働きの礎(いしずえ)だということを覚えたいと思います。

「神のものは神に」 牧師 佐藤義子

/n詩編52:3-11 /nマタイ22:15-22           /nはじめに 今日は10月の第一日曜日で「世界宣教の日」です。私は毎年この日が来ると、日本におられる外国人宣教師の方々や、海外に派遣されている宣教師の方々を思い起こします。又、先月には思いがけなく私達の伝道所にもウェイド宣教師が来て下さいました。アメリカ人でありながらアフリカという全く環境の違う場所で、家族と共に生活し宣教された方です。現在はインディアン伝道をされています。自分がアメリカ人であることから全く信頼関係を持てなかった状況の中で、祈りながらの日々、ある日神様から示されて、リーダー格のインディアンの方に対して、「過去のアメリカ人がインディアンの方々に犯した罪」に対して心から赦しを乞うた、その時、何かが変わり、そこから新しい関係が始まったことを伺いました。信頼のない所に信頼関係が生まれるために労苦し、御言葉と祈りによって神様からの力をいただきながら、パウロのように日夜、伝道されているすべての宣教師の方々が、この一年も神様の守りの中で良いお働きが出来るように祈ります。 /n仕組まれた質問  今日の聖書には、ファリサイ派の人々がイエス様をわなにかける相談をして、ヘロデ派と手を組んで、一つの質問をしたことが記されています。質問とは、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか?」です。 どちらの答えをしても困るように仕組まれています。当時ユダヤはローマに支配されており、ユダヤ人は国内の為に神殿税を払っていましたが、その他にローマ政府に納めなければならない人頭税がありました。ところが、申命記17章にはユダヤ人以外の王を立ててはいけないと定められています。もしローマという外国の皇帝に税金を納めるなら、そこの王権を認めることになり、それは偶像崇拝者の仲間になることだと考えて、ローマへの納税は、自分達の良心が許さないと拒否する人々が多くいたようです。彼らはそのため、家や畑を没収されたりしました。一方、税金を納めている人達も、本当は納税すべきでなく、自分達は悪いことをしているという思いがあったようです。もしイエス様が、納税は「律法に適う」と言えば、納税を神の教えに背くものとして良心の痛みを感じている人々の気持はイエス様から離れます。逆に、税金を納めるべきでないと答えるなら、納税は国民の義務と考えるヘロデ派を前にして、ローマへの反逆者の烙印(らくいん)が押されます。 /n「皇帝のものは皇帝に」  これがイエス様の答えです。ローマ皇帝の要求が、税金というお金にかかわることだけならば、納税で自分の良心を苦しめる必要はなく、そこに納め、返せばよいのです。納税は、信仰の本質にかかわるものではないのです。 /n「神のものは神に返しなさい」    イエス様は、このあと続いて「神のものは神に返しなさい」と求められました。神のものとは神様から与えられたものです。それは、旧約時代に預言者を通して与えられた「神様の言葉・律法」です。神様から与えられた御言葉と律法は、私たちを神と人への奉仕へと導きます。神様が与えて下さる光は輝かなくてはならず、神様のぶどう畑は、神様の為に実を結ばなくてはなりません。神様が下さる恵みに感謝をささげ、神様が統治されるところでは服従をささげ、御言葉には信仰をもって応答していくことが期待されています。 /n神様がわたしたちに与えておられるもの  さらに私達は神様から多くのものを与えられています。命を始めとして、命を宿す肉体、肉体を管理する能力、体力、知力、特技、長所、さらには家族、友人、知人との出会い、仕事などの収入の道など、どれ一つとっても、それらはすべて神様が下さったもの、或いは、与えられたものが土台となって、さらに与えられたものといえるでしょう。「神のものは神に」とは、神様から与えられたものを、ふさわしい内容で神様にお返しする、神様の御用のために用いることです。今週も、神様の御意志に従がうことが出来るように、イエス様と共に歩んでいきたいと祈り、願うものです。

「エジプトへの避難」   牧師 平賀真理子 

/nエレミヤ書31:15-17 /nマタイ福音書2:13-18            /nはじめに  今日の聖書は、東方の博士の帰国から始まっています。博士達はヘロデ大王とユダヤ教指導者達から「救い主誕生の地はベツレヘム」と教えられたので、人間的判断では帰り道に報告をすべきでしょう。けれども「そうするな」と夢でお告げがあったと記されています。「神様を知らない異邦人」として軽蔑されていた彼らに、神様からの働きかけがあったのです。 /n幼児虐殺の出来事 メシア誕生のニュースに不安を抱いたヘロデ大王は、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を殺せとの命令を出しました。18節の、「ラケルは子供達のことで泣き・・」というエレミヤ書31:15の引用は、民族の母と呼ばれるラケル(創世記35:16)が、お墓の中から、虐殺された子供達のために嘆き悲しんでいるとの、預言の成就として記しています。 /nエジプトへ  神様の働きかけはヨセフにもあり、ヘロデ大王の殺害計画を夢で知らされ、闇の中を厭わずに命じられるままにエジプトへと避難します。エジプトは、モーセがイスラエル民族を率いて脱出した異邦人の国です。この「出エジプト」の出来事は、イスラエルの人々にとって歴史的な大きな体験であり、彼らの待望する救い主は、モーセの「出エジプト」の形をとると考えられていました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した</span>」(15節)とのエレミヤ預言がこのあと成就する前提として、引用されています。 /n避難 「避難」とは大変な苦難から逃れることです。イエス様の救い主としての歩みは、最初から苦難の連続でした。生まれる前から母胎は旅路にあり、生まれる直前でも両親は宿屋を見つけることが出来ず、お生まれになっても用意されたベッドはなく飼葉桶に寝かされました。誕生後は外国へ避難せざるを得ず、しばらくはエジプトで過ごされました。ユダヤ人の考える「救い主=栄光の主」の姿とは全然違っており、その頂点が十字架でした。 /n十字架による罪のゆるし  幼児虐殺の話は、救い主誕生という喜ばしい出来事が、心根の悪い為政者によって悲しい出来事に変えられています。幼児達は人間社会の罪(武力で権力を持つ者の支配を許している大人)の犠牲者といえます。 イエス様の十字架は、まさしくこのことを表しています。逆に言えば、人間がいかに多くのぬぐい難い罪を背負っているかを物語っています。この「罪」を知らされて「自らの罪」と格闘し、最後は主の十字架によって罪が赦されたことを信じることにより救われることを知っているクリスチャンの行動は大変重要です。 /n東日本大震災 家族や愛する者を亡くされた方々、家屋財産を失なった方々、故郷に帰れない方々など、避難されている方々が沢山おられます。大震災も又、神様が造られた自然界の壮大さを忘れ、人間の力ばかりに頼る傲慢さ、用心を怠る慢心、行政の無力、自己中心、人間が自分の弱さや愚かさや悪さを忘れた「罪」を思い起こさせるために、被災された方々が、私達人間の代表として負われていると見ることができるようにも思います。 震災後の多くの問題に、私達がどのように考え、行動し、歩み続けるかを、贖い主のイエス様が見ておられます。クリスチャンは、表面的でなく、つけ焼刃でない「根本からの救い」が、主の十字架と復活によってもたらされていることを知らされているからです。 /n共にいて下さる神(インマヌエル・マタイ1:23) 今日の旧約聖書で「<span class="deco" style="font-weight:bold;">息子達は帰って来る。あなたの未来には希望がある</span>」と主は保証して下さっています!私達は、神なしに生きていた時の恐怖や孤独から解放され、「共にいてくださる神」が、ぬぐい難い罪や大きな苦難の中にいる私達に、わかる形で最善の道を示して下さいます(ヨセフや東方の博士達のように)。イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">聖霊があなた方にすべてのことを教える</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの名によって何かを願うならばかなえてあげる</span>」(ヨハネ14章)と約束されています。 今週も、人生の様々な問題の答えを教えていただけるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

説教要旨 「ヨハネの死」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 14章1-12節 1 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、 2 家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。 4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。 6 ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。 7 それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。 8 すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。 9 王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、 10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。 12 それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。 13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。 /nはじめに  今日の聖書では、ガリラヤの領主ヘロデがイエス様の評判を聞いて、「洗礼者ヨハネが生き返った」と恐れと不安を感じたことが初めに紹介され、次に、なぜヘロデがそのように、死んだヨハネのことを恐れているのか、その理由が説明されています。 /nバプテスマのヨハネ  預言者として活動したヨハネは、「悔い改めよ、天の国は近づいた。」「私は、悔い改めに導くためにあなた達に水でバプテスマを授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその履物をおぬがせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」と宣教しました。 /nヨハネの死  領主ヘロデが「ヨハネが生き返った」と、不安と恐れの中に置かれたのは預言者ヨハネを殺したからです。しかも自分の誕生日にヘロディアの娘が踊り、ヘロデを喜ばせたほうびとして「何でもやろう」と口にした結果のことでした。ヨハネはヘロデとヘロディアの結婚が、姦淫の罪を犯すことであると指摘して、逮捕され牢につながれていました。イエス様から「預言者以上の預言者、女から生まれた者の中で最も偉大な者」と言われたほどのヨハネが、なぜこのような死に方をしなければならなかったのでしょうか。 /n予告  マタイ福音書17章に「エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」(12節)。「その時、弟子達はイエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」(13節)とあります。 さらに、イエス様は「ぶどう園と農夫」のたとえ(21:33‐)を通して、預言者は必ず殺され、最後にはご自分も預言者と同じように殺されることを予告されました。 /n十字架を担う  イエス様は「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。」(10:38)と言われましたが、更に「私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(16:24) と言われます。又、「私のもとにきなさい。休ませてあげよう。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(11:28)とも言われます。 預言者を殺し、神の子を殺す「この世の人々」と私達は同じ地上で生きながら、彼らと一線を画す、その時に、自分の十字架を担ってイエス様に従っていく歩みが始まります。 /n同じ道を行く  教会は、イエス様への信仰が与えられた信仰者の群れであり、イエス様の弟子としてイエス様に従っていく群れです。私達は聖書を通して、ヨハネの死も、イエス様の死も「予告され、実現された」ことであったのを知ります。それでも尚、その道が正しく真理の道であるゆえに、私達はイエス様に従い、同じ道を歩いていくのです。今週も、一人一人に与えられた信仰が豊かに守られるように、そして、自分の担うべき十字架をイエス様も共に負って下さることを忘れず、平安と恵みの中を歩ませていただきたいと願うものです。

説教要旨 「幼子のようになる」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 18章1-5節 1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 /nはじめに  弟子達はイエス様に「一体誰が、天の国で一番偉いのか」と聞きました。一番,二番というのは私達が生きる人間社会においては日常茶飯事に使われている言葉であり、人の間に序列をつけることです。この質問の根底には、自分は偉くなりたい(出来たら一番偉くなりたい)、「他人よりも自分が!」という気持があります。さらにユダヤ教の影響があります。ユダヤ教では信仰を、己をたてる道、己を立派にする道と考えていました。 /nイエス様のこたえ  弟子達の問いは明らかに天の国を誤解している質問です。しかしイエス様は弟子達が正しく理解出来るように,一人の子供を弟子達の前に呼び、立たせて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。」と説明されました。 /n「天の国に入る」  弟子達は天の国に、仲間達とそのままエレベーターで移動出来るかのような感覚で話しているのに対して、イエス様は「天の国に入る」条件を語られました。 /n「はっきり言っておく、心を入れ替えて・・」  私達が心を向けるべきことは、「天の国で誰が一番偉いか」ではなく、「天の国に入る者とされる」ことです。このイエス様の言葉は他の三つの福音書にも記されていて(マルコ福音書10:15、ルカ福音書18:17、ヨハネ福音書3:3,5)、いずれも「はっきり言っておく」という前置きがあります。初期の教会で、重要な役割をもって伝承されてきた言葉です。私達の教会でも「心を入れ替えて子供のようになる」との御言葉を、洗礼時・役員選挙時・ 牧師招聘時の基準として大切に心に蓄えたいと思います。 人間の生まれながらの本性は、上に上に、大きく大きくなろうとします。「心を入れ替えて」とは方向転換をすることです。自分を他人より立派なものにするという競争社会の生き方(ゼベダイの息子達の母親や他の弟子達の姿を参照・・マタイ20:20-)からの方向転換です。 /n幼子とは?  幼子は社会的な地位を持たず、求めず、自分が出来ないことを知り、無条件の信頼の中で生きています。偉くなろうと思わず,ありのままです。 こう思われる為にこうするという偽善がなく、背伸びすることも、小さくなることもせず、貪欲でなく、自分にふさわしい小さなことで満足します。しかし私達は再び幼子に戻ることは出来ません(ヨハネ3:4)。 /n幼子になる道  ある聖書学者は創世記のアダムとエバの話を引用します。二人は食べてはならない実を食べて、自分達が裸であることに気付き神様の前に出られませんでした。3章21節によれば、神様はこの二人の為に皮の衣を作って着せられました。私達も今のままではアダムとエバのように神様の前に立つことが出来る義を持っていません。その為神様は、私達に皮の衣(イエス・キリストの義)を与えられました。 /nイエス・キリストの義をいただく  幼子のようになる道が、イエス・キリストを信じて義とされることであるならば、それは自分の努力によってではなく、神様の恵みの中で行われることであり、具体的には聖霊の働きによるものです。弟子達は「天の国で一番偉い者とされる」という目標を信仰だと考えましたが、それは信仰ではなく誇りです。信仰とは自分の偉さを見つめるのではなく、イエス・キリストの偉大さを知り、神様の愛から確信を得るものです。上を仰ぎ見て「あなたこそ慈愛に富んだお方である」と賛美しながら生きることです。 /n「私の名のために、このような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」(5節)  イエス様は子供と、ご自分とを一つにされました。子供は小さく力もない弱い存在です。子供と目線を合わせる為には、かがまなければなりません。イエス様がご自分を低くされたように,子供(のような存在)を受け入れる低さがなければ、「天の国に入ることはできない」のです。

説教要旨 「私の目が救いを見た」 牧師 佐藤義子

/n[ルカによる福音書] 2章21-35節 21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。 25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 31 これは万民のために整えてくださった救いで、 32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」 33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 /nはじめに  3本目のローソクに火がともりました。待降節の第一週目にともされた最初のローソクは、待つ時間の長さを表すようにずいぶん小さくなりました。私達にとって待降節の「待つ」という意味は、クリスマスを待つというよりもイエス様が再びおいでになる「再臨を待つ」というニュアンスの方が強いのですが、イエス様誕生以前のユダヤの人々にとってメシア待望の思いは、私達の想像をはるかに超える強いものであったと思います。 /n救いのご計画  多くの民族の中から神様はユダヤの民を「神の民」として選ばれ、人類に対する救いのご計画を預言者を通して明らかにされていました。救い主が与えられるという約束です。メシア(救い主)はエッサイの家系から出ると預言されておりました(エッサイはダビデ王の父)。ユダヤの人々は神の民(選民)でありながら、その歴史は悲惨でした。一時期非常に栄えた時代がありましたが(紀元前1000年前後にわたるサウル王・ダビデ王・ソロモン王の治世)、その繁栄は長続きせず、ソロモンの死後 国は分裂し、北(イスラエル)王国は紀元前8世紀にアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南(ユダ)王国も紀元前6世紀にバビロニヤ帝国に滅ぼされ、以来、ペルシャ、ギリシャ、ローマと常に外国の支配下におかれました。彼らは国を持てないまま、長い長い時代を苦しんで生きてきましたが、メシア待望の信仰が消えることはありませんでした。メシアを、この世的な地上での繁栄をもたらす王として待ち望む人々が多くいた中で、シメオンは違いました。 /nシメオン  聖書は彼をこのように紹介します。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。シメオンが聖霊に導かれて神殿の境内に入ってきた時、両親に連れられてきた生後40日のイエス様に会ったのです。 シメオンは幼子イエス様を腕に抱き、神様をたたえて言います「主よ、今こそあなたは・・この僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。 幼子イエス様を見て、シメオンは神様の約束の救いの「成就」を見たと告白したのです。何という信仰告白でしょう。彼の確信は聖霊の賜物によるものでした。正しく生き、信仰あつく、聖書の約束を信じて聖霊の賜物をいただいたシメオンに想いを寄せながら、自らの信仰を吟味したいと思います。 /n心にある思いがあらわにされる  シメオンは、神様の救いは「異邦人を照らす啓示の光」であると語り、マリアにはイエス様の将来を予告し、彼の存在は「多くの人の心にある思いがあらわにされる為」と語りました。イエス様は暗闇に生きる私に神様を伝える光として来られました。ヨハネ福音書では、イエス様は道であり真理であり命であると語られています。イエス様が来られたことにより、私達はイエス様に従う者になるのか、違う道をいくのか、心にある思いがあらわにされます。待降節のこの時、神様が私の罪を赦し私の魂を救う為に、そして永遠の命を与える為に、この罪の世の中にイエス様を誕生させて下さったことを深く味わいたいと願うものです。

説教要旨 「高ぶる者は低くされる」 牧師 佐藤義子

/n[サムエル記上] 2章1-10節 1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。 2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。 3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。 4 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。 5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。 6 主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。 7 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。 8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。 9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。 10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」 /n[マタイによる福音書] 23章1-12節 1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 /nはじめに  本日の聖書は、イエス様が群衆と弟子達に対して、律法学者達やファリサイ派の人々を見倣ってはならないことを教えられている個所です。私達はファリサイ派や律法学者と聞くと、彼らはイエス様を十字架へ追いやっていくイエス様に敵対した人々と考えて、自分とは関係のない人々と思いがちです。けれどもイエス様が彼らのどのようなところを断罪されたのかに注目し、それは自分にもあてはまると認めることができるならば、聖書の学びは私達に大きな意味をもってくるに違いありません。実際、キリスト教会においても、ファリサイ派(ユダヤ教徒)に匹敵するほどの危険な人達が現れて、マタイ福音書の著者は彼ら達に警告を発しなければならなかった、と考えられているからです。 /n「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」  イエス様は、律法学者やファリサイ派の言うことは行うように教えます。なぜなら彼らの教える律法は、神様がモーセを通して与えたものであるからです。律法とはモーセの十戒を中心とした教えです。イエス様は「私が来たのは律法を廃止する為ではなく完成する為である」(マタイ5:17)といわれ、さらに「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(同18)ともいわれました。律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することです。 /n「しかし、彼らの行いは、見倣(みなら)ってはならない。」  イエス様は彼らの行動を見倣うことを禁じます。なぜなら彼らは言行不一致であるからです。たとえば十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:8)とあります。律法学者やファリサイ派は、この戒めを厳格に守らせる為に、どこまでを「仕事」と規定するかを研究し、荷物を持って運ぶ場合は何キロまで、移動する場合は何メートルまで、・・というふうに、次第に細かい規定を作り上げ、エスカレートしていくことで、律法の重荷を重くしていきました。 /n「彼らは背負いきれない重荷を人の肩に載せる」  彼らは、すべき規則248、禁止条項365、計613もの細則を人々に強いたと伝えられています。初めから律法を守る意志のない人達は、罪人として社会から疎外されたようですが、律法を守ることが天国への道だと教えられている人々にとっては実行不可能な規則も多く、それが人々の日常生活の重荷になっていた現実がありました。 /n「そのすることは、すべて人に見せるため」  彼らは、人には律法遵守(じゅんしゅ)を要求しながら、自分は重荷を背負うことも、他の人の重荷を助けようともせず、何よりもイエス様が断罪されたのは律法を行う動機が人に見せる為であったことです。 /n生れながらの人間  聖書学者バークレーは、もし宗教が規則や規定を守ることだけを要求するなら、自分がそれをどんなによく守っているか、自分はどんなに敬虔な人間であるかを人前に示そうとする人物が必ず現れるといいました。目立ちたい、ほめられたい、認められたい、尊敬されたいという願いが強ければ強いほど、人の目を意識する誘惑に陥ります。生れながらの人間は、自分を自分以上に評価したい、されたいとの願いを持っています。その思いが「行動の基準を、外面に出る部分に置く」のです。本来、律法を守る事は神様に向かう人間の信仰から生まれる行為です。にもかかわらず、律法を守る行為が自己目的へと変わり、人々の賞賛が自分に集まることを期待するという逆転が起こるのです。 /n逆転の行動  当時人々は律法に従い、羊皮紙に書かれた4つの聖句(出エジプト記13:1-10,11-16、申命記6:4-9、11:13-21)の入った小箱をひもで結び、祈る時にひたいと左の腕につけ、又、肩掛けのようなものに青いひもでふさをつけて祈りました。イエス様は「(彼らは)小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」と、その目が人に向けられていることを指摘しました。このように、イエス様は私達の中にひそむ偽善的な部分に光をあてます。神のみを父としイエス様だけを教師として(9-10節)、へりくだりを教えて下さるイエス様に、今週も従うものになりたいと願います。

「契約の血」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章26-30節 26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 /nはじめに  聖書においては、「契約」という言葉はとても大切な重要な言葉であり、旧約聖書のヘブル語原典には285回も出てきます。旧約聖書の「旧約」がそもそも「旧い(ふるい)契約」という意味なのです。契約は一人では成り立ちません。私達の社会では契約は人間と人間の間で取り交わされる約束です。旧約聖書では、人間の間の契約のほかに「神と人間との間」に結ばれる契約関係が存在します。神とノアの契約(創世記9章)、神とアブラハムとの契約(同17章)、十戒に代表される神とモーセを通して民と結ばれた契約(出エジプト記20章以下)など、イスラエルは神様との契約のもとで、神の民として、その歴史を歩んできました。 /n契約の締結  司会者に読んでいただいた出エジプト記24章には、神様とモーセの間で執り行われた契約締結の場面が描かれています。民を代表してモーセだけが神様に近付き、契約の内容を聞き、民に聞かせ、民がそれらをすべて受け入れて守ることを約束します。そこでモーセは山のふもとに祭壇を築き、動物のいけにえを捧げます。この時、いけにえに伴う「血」が重要な役割を担います。血の半分は祭壇(目に見えない神様がそこにおられることを現す場所)に注がれます。モーセはここで書き記した契約の内容を民に読み聞かせ、それを聞いた民が「私達は主が語られたことをすべて行い、守ります。」と服従を誓った時、モーセは残りの半分の血を民にふりかけます。血が両者に振りかけられたことにより、契約は正式に締結されました。  日本社会では双方がサインと印鑑を押し(時には割印や捨て印も)て、契約が成立しますが、神様とイスラエルの民の間でかわされる契約は血が重要な役割を果たしていました。又、十戒の前文(出20:2)のように、契約者の神ご自身がどのようなお方であるかが明らかにされています。 /n主の晩餐  今日の聖書は過越の食事の中でのイエス様の言葉が中心です。イエス様は一つのパンを弟子達に分け与える為に裂きました。そして「取って食べなさい。これは私の体である。」と言われ、又、ぶどう酒を渡す時「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人の為に流される私の血、契約の血である。」と言われました。 /n「私の体・私の血」  パンをご自分の体に、ぶどう酒をご自分の血にたとえて、イエス様はここで三つのことを語られています。①「贖罪」、②「代償(身代わり)」③「契約」ということです。 /n①「贖罪(しょくざい)」について  贖罪とは「罪のあがない」ということです。あがないとは「代金を払って買い取ること」です。奴隷の身分から解放し救い出す為に、奴隷の主人にお金を払うことを意味したことから、贖罪とは「罪からの解放と罪からの救い」のことです。「贖う(あがなう)」のヘブル語は三つあり、一つは、土地・財産などが人手に渡ってしまった時、その家の一番近い親族が家をつぶさない為に買い戻す「あがない」。さらに、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったのを神が贖い出して下さった時の「あがない」。二つには「聖別されて神のものとなる」という時の「あがない」。三つには神に牛や羊を犠牲として献げ、そのことを通して人間の罪を赦してもらう「あがない」。 /n②「代償」(多くの人のために流される)について  イエス・キリストがこれから十字架につけられ、そこで流される血は、人間の罪に対する神様の赦しを得る為の、多くの人の為に流される血である、と言われました。 /n③契約について  旧約時代からずっと、エルサレム神殿では毎日動物がほふられ、その犠牲の血によって民の罪の赦しが祈られました。このような旧い契約での「あがない」はここに終了し、イエス様ご自身が十字架上で犠牲の血を流されることによって全人類に罪の赦しの道が開かれました。今や、「信じる者すべて」(ヨハネ3:16)が救われて,永遠の命が与えられています。

「本当に神の子だった」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[申命記] 6章4-15節 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 10 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、 11 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、 12 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。 13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。 14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。 15 あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。 /n[マルコによる福音書] 15章33-41節 33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。 /nはじめに  イエス・キリストは午前9時にゴルゴタの丘で十字架につけられ、午後3時に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。この言葉を聞きユダヤ人達は「預言者エリヤを呼んでいる」と言いました。預言者エリヤが天から降りて来てイエス・キリストを助けるのかと思ったようです。しかしイエスはやがて息を引き取りました。 これがイエス・キリストの最後・十字架の場面です。弟子達は逃げ去っておりました。数人の婦人(マグダラのマリア、ヤコブとヨセの母マリア、サロメ等)達が遠くから見守っているだけです。何とさびしい最後の情景でしょうか。 /n第一の目撃者  しかし一人の人がこの様子を十字架のすぐそばで,つぶさに目撃していました。それはローマの軍隊の現場責任者だった百人隊長です。百人隊長は十字架の出来事の第一の目撃者です。イエス・キリストが息を引き取る様子を見て、彼はまるで自分に言い聞かせるように「本当にこの人は神の子だった」とつぶやきました。「本当にこの人は神の子だった」。この言葉を彼は一体どのような意味でつぶやいたのか。彼の心にどのような変化が起きたのか。しばらくの間ご一緒に考えてみたいと思います。 /n百人隊長  ローマ軍の百人隊長というのは、百人程度の兵をとりまとめる責任者、兵士の命を預かる現場責任者でした。戦いのない時は兵士全体をまとめる等,軍の規律のかなめとなり戦時は最前線に立って指揮をとる勇者でした。百人隊長の戦死率は低くなかったといわれています。 /n聖書に登場する百人隊長  聖書には、部下の兵士が中風をわずらって寝込んでしまった百人隊長のことが記されています。この時、百人隊長はイエス・キリストのうわさを聞き、駆けつけ癒しを頼んでいます。「ただ、お言葉を戴かせて下さい。そうすれば私のしもべは治ります。私も権威の下にあるものですが、私の下には兵士達がいまして、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。又しもべに『これをせよ』といえばその通りにします。」だから言葉をいただければ十分だとこの百人隊長はイエス・キリストに救いを求めたエピソードが記されています(マタイ8:5-)。これが部下に対する百人隊長の姿でありました。 /n百人隊長とユダヤ人の信仰とのかかわり  さて、エルサレムに駐屯するローマ軍、特に現場監督である百人隊長はユダヤ人の信仰についてかなりのことを知っていました。むしろ知らなければエルサレムの治安を維持するという彼らの使命を遂行することが出来ませんでした。ユダヤ人の信仰をあらわす代表的な言葉が申命記に記されています。特に「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」は、今日でも、イスラエルの人々が口ずさむべき言葉として重要視されております。 /n別の百人隊長  カイサリア(地名)に、イタリア隊と呼ばれる部隊が駐屯しておりました。その部隊の百人隊長がコルネリウスという呼ばれる人でした。使徒言行録の証言によれば、コルネリウスは信仰心厚く、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた、と記されています(使徒言行録10:1-2)。このような記述からもわかりますように、百人隊長というのは必ずしも冷徹な戦士というわけではなく、心開かれた一人の人間であったのです。十字架の傍に立っていた百人隊長もそのような一人だったと思います。 /n十字架刑の執行責任者としての百人隊長  なぜイエスが十字架につけられなければならないのか。イエス・キリストは何を語り、何をしたのか。百人隊長はある程度承知していたでしょう。今日私達が聖書から教えられるイエス・キリストの姿をある程度理解していたと想像されます。しかも彼は現場責任者です。十字架刑を命じられて、それを責任をもって遂行しなければなりません。総督ピラトが、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて既に死んだかどうか尋ねた(マルコ15:44)とあるように百人隊長はむごたらしい刑の執行責任者であり、彼を取り囲む群衆の注目を浴びていた者です。おそらく彼は全身の神経を働かせて、イエス・キリストの十字架を見つめていたことでしょう。その百人隊長が十字架上のイエス・キリストが大声で「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになるのですか」と叫び、息を引き取る姿を見るや「本当にこの人は神の子だった」と語ったのです。 /n「本当に」  「本当に」という言葉は強い確信を表す言葉です。別の場面ですが十字架にイエス・キリストがかかる直前のこと、祭司長や民や長老達が遣わした人々が剣や棒をもってイエス・キリストを捕え、裁判を開き、死刑宣告をしようとした時のことです。弟子のペテロは逃げ去りましたが、やがて遠くからついていって事の成り行きを見ようと思い、裁判が行われている中庭に入って潜んだということがありました。ところがそこに一人の女中が近寄ってきてペテロを見て「あなたもイエスと一緒にいた」と叫びます。するとペテロは皆の前で「何を言っているか私にはそんなことはわからない」と打ち消したのです。すると別の人々も来て「確かにおまえもあの連中の仲間だ。言葉使いでそれがわかる」と言いました。ペテロがイエス・キリストを裏切る場面です。 /n「確かに」  人々がペテロを見て「確かにおまえもあの連中の仲間だ」という「確かに」という表現は、百人隊長が使った「本当に」と同じ言葉です。百人隊長は、「『確かに』『本当に』この人は神の子だった」と語ったのです。「本当に」「確かに」という表現は、これ迄聞いてはいた。調べてもみた。知識としては 知っていた。しかし十字架を見た時(イエス・キリストの死にざまを見た時)、これ迄の知識が単なる知識としてではなく納得する事実となった。わかった。腑に落ちた。信じた。というのです。その瞬間を百人隊長は「本当にこの人は神の子だった」と言い表したのでした。 /n「知る」と「合点がいく・わかる」とは違う  さて、百人隊長の心の中に起きた変化についてさらに考えてみたいと思います。1864年(明治維新の4年位前)のことですが、明治維新の代表的な人物で、思想家である横井小楠(しょうなん)という人物が「思う」ということの重要性について次のように語っております。「人はただ単に本を読んで知識を得るということではなく、それを自分自身で思う、というようなことがなくてはならない。多くの本を読むだけで終るならば、帳面調べのようなものである。読んだ後にそれを思うということによって、その内容を自分のものにすることが出来る。いわゆる合点しなければいけない。知ることと合点するということとは違う。」    他方、最近のことですが、2002年に出版された「『わかる』ということはどういうことか」という題の本があります。著者は神経内科医で、大学で教えている「山鳥」という先生であるそうですが「目や耳から入ってくる知識は意識するにせよ、無意識にせよ、どんどん私達の頭や心の中に入って蓄積されていく。しかしそれだけでは本当にわかったということにはならない。経験の中で知ったことが記憶され、蓄積され、整理され、筋が通った時に、人はわかったということになるのだ」と言うのです。そして次のように記しています。「『納得する』という言葉があります。『なるほど』と思うことです。『わかる』の別の表現です。あるいは『合点がいく』とも言います」。  興味深いことに、150年前の横井と同じことを主張しているのです。すなわち「知る」ということと「合点」がいくということとは違う。重要なのは、合点がいく・わかる、ということだと言うのです。 /n百人隊長と十字架  振り返って、百人隊長の姿と重ね合わせたいと思います。彼はイエス・キリストの言葉や行ないを聞いて知っていました。時には実際に目撃したかもしれません。知識は少なからず蓄積されていたのです。しかしイエス・キリストが神の子である。人の罪の救いをもたらす方である、ということに納得し合点していたわけではなかったのです。軍人としての職務を忠実に担い、十字架による死刑執行を遂行しました。だが、イエス・キリストの最後を目の当たりにした時、これまでの知識と経験が整理されて筋が通ったのです。イエス・キリストのそばに立ち尽くす中で「合点した」、「納得した」のです。その彼の口を突いて出てきた言葉が、「本当にこの人は神の子だった」であります。イエス・キリストの十字架が、百人隊長の心を変えたのです。 /n私達の信仰  さて、私達もイエス・キリストを知っています。聖書には次のようにまとめた形で紹介がなされています。 >> 「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、 正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペテロ一 2:22-25)。 <<  これが私達に示されているイエス・キリストの姿です。そのことを私達は聖書の言葉によって知っています。私達は知る者として毎日の経験を積み重ねています。特に十字架の出来事は、私達の合点すべき事柄として提示されているのです。納得する、信じる、ということによって、十字架のイエス・キリストは、ただ知るだけではなくて私達の内の一部とされます。  聖書に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(エフェソ3:17)と書いてある通り、十字架のイエス・キリストを信じる時、それはイエス・キリストが私達の内に存在する時ともなるのです。 /n信仰は新しい人生の歩みの原動力  ところで,イエス・キリストを合点する・信じるということは新しい私達の人生の歩みの原動力となります。奇しくも先ほど引用した「横井」も「山鳥」の二人も同じことを言っています。横井は次のように言います「合点するいうことは、その理(ことわり)を自分のものにするということで、それによって、別のこと(もの)に接しても、その理は十分に通用する」。又、山鳥も次のように記します「『本当にわかった』ということは応用出来ます。知識はそのこと限りです。しかし知識の裏にある原理が理解出来れば、その知識は他の現象にも応用出来るのです。」まさにその通りです。 /n「キリスト我が内に在りて生くる」(ガラテヤ2:20)  聖書の言葉「イエス・キリストが我が内に生きる」ということ、イエス・キリストを信じる、合点するということは、知識のレベルにとどまらず、私達の生きる原動力として働くのです。どのような場面でそれが働くかに関しては、正解や見本はありません。  イエスキリストに生きる者一人一人において、千差万別のことがらで原動力となるからです。  強いて共通するものを挙げるとするならば、あの百人隊長と同じように、百人隊長と共に「イエス・キリストは神である」、と告白し、共に神を賛美するということではないでしょうか。(文責:佐藤義子)