定期集会・行事

/n定期集会 -日曜礼拝            毎週日曜日 午前10時半-11時半 -子供の礼拝           毎週日曜日 午前 9時半-10時 -成人クラス           毎週日曜日 午前 10時 -10時20分 -祈祷会・聖書の学びと祈り  毎週木曜日 午後 13時- 14時 -全体祈祷会            毎月第一日曜日の礼拝後、共に祈ります。(自由参加です。) -キリスト教入門(いずみ会)   毎月第二水曜日 午前10時半-12時頃     /n行事  2月 スキー教室  8月 サマー・スペシャル・プログラム(一泊2日) 10月 芋煮会(野外礼拝) 12月 クリスマス礼拝・祝会     子供クリスマス ※東北学院、宮城学院と同じキリスト教です (ものみの塔、モルモン教、統一教会とは関係ありません)

説教要旨 「あなたは私を何者だというのか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章13-20節 13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 /nはじめに  本日の聖書の箇所は、4章途中から始まったイエス様の教えとその活動の中心的部分となる結びでもあり、クライマックスの部分ともいわれています。イエス様の働きを実際に目で見、聞いてきた弟子達が、今イエス様から「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われた場面であり、弟子の代表としてペテロが明確に信仰を告白した場面だからです。 /n大なことを打ち明ける前に  フィリポ・カイサリア地方に行った時のことでした。イエス様はここで初めてご自分がエルサレムで死ぬことを弟子達に打ち明けられますが、この重大なことを語られる前に、イエス様が語られ、又,行なってきた出来事を通して、人々がご自分をどのように見ているのかを弟子達に尋ねられました。この質問は、第二の質問を引き出すための問いです。 /n人々のこたえ  ある人々はイエス様を洗礼者ヨハネがよみがえったのだと考えました。ヘロデ王が神の道に背いて洗礼者ヨハネを殺したので、神様がヨハネをよみがえらせて人々に説教を続けさせている、と考えました。彼らはイエス様の説教の中に、ヨハネが語った罪への裁きと悔い改めによる赦しを聞いたからでありましょう。又、エリヤだと考えた人(マラキ書3:23参照)、エレミヤだと考えた人(エリヤと同様、終末に現れるとの伝説)、預言者の一人と考えた人達がいた一方で、待望のメシヤであると考える群衆はいませんでした。それは当時の人々は、メシヤとは、自分達をローマの圧制から救い出してくれる偉大な王(かつてのダビデ王のように)としてこの世の権力を握る人を想像していたようです。イエス様の奇蹟の力を見ても、そのへりくだる身の低さは自分達の運命を変えてくれるようなメシア像とかけ離れていたことでしょう。 /nそれでは、あなたがたは?  人々の評価・評判についての質問の後、イエス様が弟子達にされた質問は「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか?」でした。弟子を代表してペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。この告白は、教えられたことを口にしたのではなく、全く自由な自発的な返事としてなされた信仰告白でした。 /n生ける神の子  「生きておられる神」の御子とは、「あなたは命の根源であり、創造者であられる神様の御子であられる」「あなたは神様のすべての約束を満たすお方、神様のすべての意志を実行するお方、すべての悪に対して勝利されるお方、永遠の命をもたらすお方、あなたこそ、そのお方です」という告白です。 /n信仰を告白せしめる主体   「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」(17節)。 ペテロが、イエス様をそのようなお方だと見ることが出来たのは人間の力によるものではない、とイエス様は言われました。 イエス様をそのようなお方だと認識させたのは神様の働き、神様のわざであるというのです。   イエス様のこの言葉を聞く時、信仰とはみずから生み出すものではなく、まさに神様から与えられたことを素直に受け、告白することだという思いを強くします。 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ書10:17) /n新しい名前  ペテロが信仰告白をした時、イエス様は新しい名前、シモン・バルヨナ(ヨナの子シモン)から、シモン・ペトロ(私達はペテロと 呼んでいます)を与えました。イエス様は、このペテロ(岩の意味)の信仰告白の上にわたしの教会を建てると言われました。(18節)。教会はイエスをメシア、生ける神の子であるとの信仰告白の上に建てられています。教会とは建物を指すのではなく、この信仰告白のもとに集められた群(信仰告白共同体)です。仙台南伝道所はまだ会堂はありませんが「イエス様を神の子・メシアと告白する信仰者の群-教会」です。 /n天の国の鍵  イエス様はこのあと、ペテロに天の国の鍵を授けるといわれました。鍵とは扉を開けたり閉めたりするものです。ペテロが宣教の使命を託されて御言葉を語る時、それを受け入れた者には扉を開き、拒む者には、神様の恵みの中に入る扉を閉める決定権を委ねられたということです。裁判官が有罪か無罪かを決定するようにペテロは神様からの力を与えられて、彼の裁きも赦しもそのまま天において遂行されるという約束です。事実、ペンテコステの日に「ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わ」りました(使徒言行録2:41)。このペテロに授けられた天の国の鍵は,その後今日まで教会のわざとして引き継がれています。すべてのキリスト教会において、イエス・キリストの言葉が語られ、それを聞く人々には「あなたはイエス様を神の子、救い主として受け入れますか」との(恵みの)問いが用意されています。そして「イエス様は生ける神の子です。天におられる神様が私達を罪から救う為に遣わされてきた神の御子です」と告白する時、教会は扉を開けて、罪の赦しを宣言し、バプテスマ式を執行いたします。 /nメシアであることを誰にも話すな  イエス様は、たった今告白されたこのメシアの事実を誰にも言ってはいけないと言われました。それは、この時を境として以後、十字架に向かっての歩みを始めることになるからです。イエス様のメシアとしての歩みはこの時点では完成されていません。今は、他の人々にイエス様がメシアであることを明らかにする時ではないのです。これから弟子達は十字架への厳しい道のりをイエス様と共に歩いていくのです。弟子達はイエス様の中に、今告白した「神の子」を見,続ける限りにおいて、 イエス様のもとにとどまり続けることが出来るのです。私達も、いついかなる時も(試練の中でも)、この告白のもとに歩みたいと願います。

説教要旨 「身代金として命を献げる為に」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 20章17-28節  17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。 18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」 20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 /nはじめに  今日の聖書には、イエス様の三回目の「十字架の死と復活」の予告がされています。イエス様の受難は、まずユダヤ人に引き渡されて死刑が宣告され、その後異邦人(ローマ人)に引き渡され、侮辱され、むちで打たれてから十字架刑の執行を受けるという予告です。そして死の後、三日目に復活することが宣べられています。 最初にイエス様がこの予告をされた時(16:21)、弟子のペテロはむきになって否定しました。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエス様はペテロに、「サタン引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱りました。二回目の受難予告の時(17:22)は「弟子達は非常に悲しんだ」と記されています。今回は、イエス様は一般の人々から12人の弟子達を引き離して(17節)「今,私達はエルサレムに上っていく」と言われました。その決意の言葉から弟子達は、エルサレムの旅の先にはイエス様の受難と死が待っていることを感じとったでありましょう。 /nヤコブとヨハネとその母の願い事  この後、ヤコブとヨハネ(兄弟)の母親が願い事をする為に、二人の息子と一緒にイエス様のところにやってきました。この二人は12弟子の中でもペテロと一緒にいつもイエス様と行動を共にしていた弟子でした。母親の願いとは、将来、自分達の息子をイエス様の右と左に座らせて欲しいというものでした。それが母として息子の為に出来る最大のことであると考えて、その約束を希望として生きていこうとしたのでしょう。 /n三つの問題点   しかしこの願いに対してイエス様は三つのことを教えられています。一つは、イエス様が将来王座につくことになるのは、これから迎えることになる受難の一つ一つのプロセスを、神様から与えられた使命として従順に従うその結果です。イエス様の左右に座る者は、イエス様と並んで、イエス様と共に苦難の道を歩くことを意味します。イエス様は二人に、 「私が飲もうとしている杯(受難と死)を共に受けられるか」と尋ねられました。二人は即座に「出来ます」と答えています。しかしこの後二人は(ペテロも一緒に)、ゲッセマネで悲しみもだえて祈られるイエス様のすぐそばで眠ってしまいましたし、剣や棒を持って捕えにきた人々を前にしてイエス様を見捨てて逃げ去っています。イエス様は二人に「確かにあなたがたは私の杯を飲むことになる」といわれました。これはイエス様の復活と昇天後、聖霊がくだった後の伝道者としての二人をさしています。(使徒言行録12:1‐2他) /n二つ目の問題点  二つ目の問題点は、母親は願う相手を間違えているということです。イエス様は確かに神の国において主でありたもうお方です。しかしイエス様の力の根源は父なる神様への服従に基づいており、父なる神様の決定こそイエス様の原則です。誰が左右に座るかということは、父である神様がお決めになることです。 /n三つ目の問題点  三つ目の問題点は、この願い事を知って腹をたてているほかの弟子達も含めて、「天の国においては、この世のあり方とは違う」ということがわかっていないことです。この世では、支配者は支配される者に力をふるい、彼らを従わせることが偉大なこととして評価されています。弟子達は 自分を他者より優位にたたせようとしています。イエス様は 「あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆のしもべになりなさい。」(26節-27節)と教えられました。 /nへりくだり、従順であられたイエス様  イエス様は周囲から抜きんでて他人を見下げるような、他人を小さくするような力を退けます。他者を大きくし、他者を高め、他者を強くするように力を用いることを教えられます。イエス様は、人を富ませることはあっても、ご自分を富ませることはなさいませんでした。そして最後に、私達人間を罪の支配から救い出して自由を与える為に、ご自身の命を身代金としてささげられました。私達の命と体が罪にとらわれていたのを、御自分の死と引き換えに、罪から解放してくださいました。イエス様はこのために、つまり、人々に仕え、命をささげる為に来られたと語られています。 /n<フィリピ書2章3節-11節>  「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリストイエスにもみられるものです。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上の者,地上の者、地下の者がすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が「イエス・キリストは主である」とおおやけに宣べて、父である神をたたえるのです。 /n  本日の礼拝は、召天者記念礼拝として守っています。生まれながらの私達人間は、罪ふかく、誰一人として天の国に行くことは出来ません。もしイエス様が来て下さらなかったら、私達にとって死は絶望でありました。死はすべてのものを無に帰するものではなく、聖書の信仰によるならば、死は刑罰の意味を持っています。ロマ書7章には「罪が支払う報酬は死です」とあるように、死は、罪の結果として与えられたものです。しかし神様は、イエス・キリストを遣わして人間が受けねばならなかったこの刑罰を代わりに引き受けて下さいました。このイエス・キリストの一回的な死によって、全人類の罪が赦されたのであり、それによって死はもはや信じる者にとっては刑罰でも、恐怖でもなくなりました。 死は、イエス・キリストを信じる者にとっては「永遠の命」に至るプロセスです。 ここに飾りました写真の方々は、イエス・キリストを信じる信仰を家族に、(そして隣人に)遺していかれた方々です。信仰は伝達、継承されていくべきであります。基督教の命は、信仰者が、キリストの復活の証人として家族に、隣人に伝えていくことにあります。写真の方々によって伝えられた信仰が今、ここで礼拝をささげる群れへとつながっていることを覚えて、神様に感謝したいと思います。

説教要旨 「福音のはじめ」 川上麻里先生(岩沼教会伝道師)

/n[イザヤ書] 55章6-7節 6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 7 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる /n[マルコによる福音書] 1章1-8節 1 神の子イエス・キリストの福音の初め。 2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 /nはじめに  天地を創造された神は人間をとても愛して下さり、親しい友人のような交わりを持ちたいと思っておられます。あなたは今、神とそのような交わりを持っておられるでしょうか。もし、私にとって神がとても遠くにおられる方であるなら、その神との交わりを妨げているものは何でしょうか。それはきっと、神なしで生きていけるという思い、自己中心が、あなたと神の間を(隔てたのです。)聖書ではそれを「罪」であるというのです。 /nイエス・キリスト  罪とは「的外れ」という意味です。今、救われてクリスチャンになった私でさえ、かつては自己中心で傲慢な人間でした。私は無神論者の家庭で育ち、何で神を必要とするのかわかりませんでした。このような私に神が近づいて罪を示して下さったのは、生きる意味を失って死のうとさえした時、自分が自分ではどうしようもなくなった時でした。憐れみ深い神様は、神を神とも思わない傲慢な私のために死んで下さり、私の罪をまったく赦して取り除いて下さったのです。この神こそ私達の愛する神の御子イエス・キリストでした。このお方は私だけでなくあなたの罪をも赦し、父なる神との交わりを回復して下さいました。あなたも、このキリストを信じることによって、天の父なる神と親しく語り、交わることが出来るようになるのです。 /n祈り  クリスチャンになると祈ることを知ります。祈りの冒頭には必ず「天におられる父なる神様」と呼びかけ、最後には「イエス・キリストの御名によってアーメン」と祈ります。イエス・キリストの名前によって祈るなら、すべて父なる神様に通じていく。こんな素晴らしいことはありません。ここに神との交わりが成立するのです。人間は一人でこの世に生れ、一人で死んでいかねばなりません。家族や友人も永遠のものではないのです。そういう意味では人は誰しも孤独な存在です。それはクリスチャンであっても同じです。しかし神に祈る人は、天からくる喜びを知る人です。たとえ人間同士でつまずき傷つけ合うことがあっても、神に祈るなら、必ずそこから解決が与えられるのです。誰でも人に言えない悩みうめきを抱えて生きています。人に理解されない悲しみ・痛みを持って生きています。 そのような私のすぐそばに来て、「わたしに(委ねなさい」とすべての重荷、わずらいを取り去ってくださるのが、私達の主イエス・キリストです。 /n神の子イエス・キリスト  今朝のマルコ福音書の冒頭は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一言から始まります。マルコの福音書の特長は、第一に「最初に書かれた福音書である」、第二に「誕生の記述がない」、第三に「イエス・キリストとは誰なのか」を速やかに語っています。この第三の答えが、冒頭の「神の子イエス・キリスト」なのです。  イエスとはギリシャ語の読み方で、ヘブル語では「ヨシュア」となります。ヨシュアとは、「ヤハウェ(神)は救いなり」という意味があります。キリストとは「油注がれた者・救い主」という意味です。つまりイエス・キリストとは、イエスは神の子でありキリストだというのです。この(福音)(良き知らせ)が、これから始まる物語であるということです。イエスがどんな神の子で、どのような救いをもたらしたのかが、このマルコ福音書16章の中に書かれています。 /nバプテスマのヨハネ  さて福音書の初めに登場するのは何とイエスではなく、道を整える者としての洗礼者ヨハネです。2節のカッコ内は旧約聖書の引用です(イザヤ書3章の他、マラキ書3章、出エジプト記23章)。洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)は偉大な預言者の再来として現われました。なぜここに洗礼者ヨハネが登場しなければならなかったのでしょうか。それは、神との交わりの回復のために、どうしても必要なことがあったからです。彼の役目は人々を悔い改めに導くことでした。彼の声は荒野に響き渡り、人々の心の奥深くにある罪をえぐり出したのです。主の道をまっすぐにするというのは、まさに人々が神の福音を受け入れやすい状態を作ることに他なりません。今まで神のことに無関心だったり、自分の罪を考えたこともなかった人、この世の生活に十分満足していた人に飢え渇きを起こさせ、もっと素晴らしいお方を迎えられるように一人一人の魂を整えたのです。彼は罪の赦しの為、悔い改めの洗礼を授けていました。人々はヨハネのメッセージを聞く為に、ぞくぞくとやって来ました。ユダヤの全土、エルサレムの全住民が自分の場所を離れて彼のもとに集まってきたのです。 /n神の声を聞く  ここに隠されている真理は、人々が「自分の居場所から出かけて行って、福音を聞こうとした」ことです。私達も神の声を聞く為には慣れた生活の場所を離れなければならないのです。生活の変化を恐れたり、出て行くことにちゅうちょしていては、いつまでたっても福音を自分のものにすることは出来ません。あなた自身が変わりたいと思うならば、神の恵みの中に出ていくことを決心することです。今の時代の私達の出ていく場は教会です。神のメッセージが語られ、罪のゆるしと救いが宣言される場所が教会だからです。 教会は神の声を聞く場所なのです。 /n方向転換  「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは(背いた)お前達をいやす。」(エレミヤ書3章22節)。神に背けるイスラエルの民に、神は大きな愛をもって悔い改めを(うながしておられました。再三再四呼び掛けられました「私に立ち帰れ」と。「立ち帰れ」とは、神に背を向けていた人が向きを変えて、神の方を向くことです。「悔い改め」とはそのように心の方向転換のことなのです。神は想像を絶するほどの愛で人の罪を赦そうとされるのです。又、背きの罪を赦すだけではなく、ここでは「いやす」とさえおっしゃるのです。背きのゆえに傷ついた私達をいやすとは、一体どんな大きな愛でしょう。どんなに神を忘れ、神をおろそかにした人でも、神は悔い改めのチャンスを用意しておられるのです。 /n集団から個人へ  旧約時代と新約時代はイエス・キリストを境にして変わりました。神の目は、集団から個人に向けられました。エレミヤ書では「背信の罪」はイスラエル全体のことでした。しかし洗礼者ヨハネのもとに来た人は、各々、自分の罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けたのです。今、神は一人一人に呼びかけておられます。あなたは今、神の前に赦していただかなければならないことはありませんか。神にさからって生きていませんか。私達は誰一人として罪を逃れる人はいないのです。聖書の民・神の民・選びの民であった「イスラエル」でさえ、悔い改めることなしに福音を受け入れることは出来ませんでした。パウロは、ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪のもとにある(ロマ書3:9)と指摘しました。神の民も、そうでない異邦人も、全て同じ罪のもとにあるということなのです。今まで律法を守れば救われると思っていたユダヤ人でさえ本質的に罪が支配している事をパウロは大胆にも指摘しました。 /n罪を告白し、祈る  ではクリスチャンは一度罪を告白したらそれで良いのでしょうか。  確かに救いの為に必要な悔い改めは一度で十分です。けれども主イエス様が教えて下さった主の祈りには罪の赦しの祈りがあります。主の祈りを、私達は礼拝の中でだけで祈っていますが、礼拝の中だけの祈りではありません。私達の生活のただ中で祈る時、その力が発揮されてくるのではないでしょうか。私は今日この礼拝に初めて参加させていただき、「ざんげの祈り」に喜びを感じました。悔い改めは、神の恵みの大きな一歩なのです。悔い改めは神の前に自分を(空)しくして聖霊の働きやすい心となるのです。自分の罪を認めること・・これほど福音に対する備えはありません。自分が正しく自分が中心でこの世が廻っている間は見えなかったものが、見え、聞こえなかったものが、聞こえてくるからです。神の前に自分を低くして赦しを求める心こそ、神様の賜物・プレゼントなのです。新しい選択・新しい人生は、自分の罪を告白し、悔い改めることから始まります。 /nイエス・キリストを指し示したヨハネ  さて聖書に戻りますが、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めを勧めたのは、彼の後に来られる方の為でした。彼の後に来たのは、まぎれもなく福音そのものの御方、イエス・キリストです。しかしこの時、まだイエス様は現れてはいませんでした。ヨハネはまだ見ぬ救い主の為に「私は、その方の履物のひもをとく値打もない」と言いました。履物のひもを解く行為は当時奴隷の仕事だったようですけれども、ヨハネは自分を、その方の奴隷の値打ちもないほどだと自らを低くしています。ヨハネ自身も多くの弟子を作り、ヨハネ教団といわれるものを形成していたにもかかわらず、自分をそのように言いました。洗礼者ヨハネはあくまで後から来られるイエス・キリストを指し示す者でしかありませんでした。けれどもヨハネのことを、イエス様は「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11:12)と言われました。  なぜでしょうか。それは彼の役割が罪を告白するまでのものでしかなかったからです。もし罪を指摘されるだけで終ったならば、その人はどうやって立ち上がれるでしょう。水のバプテスマは悔い改めの洗礼ですが、イエス様の洗礼は救いをもたらす洗礼だったのです。ヨハネは言います。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」イエス・キリストは神の子ですから、彼には神の霊が豊かに注がれているのです。マタイとルカでは「聖霊と火でバプテスマをお授けになる方」と書かれています。これは裁きをも表しているのではないでしょうか。一体誰が、聖霊と火によるバプテスマに耐えられるでしょうか。それは心から神の前に自分を低くして悔い改めた魂ではないでしょうか。聖霊と火には大きな力があります。火は不必要なもの・役に立たないものを焼きつくす力があります。聖霊は人々の心の奥にひそむ汚れた思いさえ見抜いてしまいます。見かけはきれいに飾っていても、聖霊は魂の中に入って真実を明らかにするのです。だから主イエス様は「隠されているもので知られずに済むものはない。」(マタイ10:26)と言われたのです。 /n神の愛が電流のように  私達は今、「聖霊と火によって洗礼を授けてくださる方こそ救い主イエス・キリストである」と信じています。今は、受難節です。主の御苦しみをより深く心に刻み、主の苦しみは「私達、罪にあえぐ一人ひとりを救い出して神の御国へ連れていく為である」ことを心に留めたいと思うのです。あの方の死と復活-イエス・キリストの死と復活-なしに、私達の真の救いはないからです。そして何よりも、「あのお方の死が私の為である」と心から思える時、きっと神の愛が電流のように流れて、体のすみずみまで沁(し)み渡ることでしょう。まことの悔い改めし魂にこそ、神の愛が豊かに注がれるのです。   (文責:佐藤義子)

「持っている人は更に与えられる」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 25章14-30節 14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」 /nはじめに  今日の聖書はイエス様の有名なたとえの一つであるタラントンの話です。ギリシャ語のタラントンは、元来、はかり、量られたものを意味し、それが重量の単位となりましたが、新約聖書の時代にはタラントンは重量と通貨と両方に使われ、1タラントンは6000デナリオンと同じでした(当時1日の賃金が1デナリオンで、1タラントンは約20年分の賃金相当額にあたる)。たとえでは主人が僕達に1タラントン、2タラントン、5タラントンを預けて旅に出ていますが、それぞれ莫大な財産を預けられたことになります。 /n「力に応じて」  三人のしもべに預けられた金額が違うのは「それぞれの力に応じ」(15節)てなされたからでした。主人はしもべ達の力をよく知っていたということです。その内の二人は、主人が出かけると早速行動を起こし、預かったお金を元手に商売を始めて増やしていきました。ところが一タラントンを預けられたしもべは、出て行って穴を掘り、お金を隠してしまいました。 お金を隠すということは使わず、減らさないことでもあります。しかし・・ /n「怠け者の悪いしもべだ」  帰ってきた主人は、このしもべに対して「怠け者」「悪い僕」「役にたたない僕」と言っています。彼が預かっていた一タラントンは取り上げられ、さらに彼は外の暗闇に追い出されました。 /n彼はなぜ預けられたお金を用いようとしなかったのか。  このしもべは、主人が自分に一タラントンものお金を預けていったその理由を考えようとしませんでした。自分に、一タラントンのお金を有効に使える力があることを見抜いて託していった主人の気持ちを理解せず、主人の為に働いてその財産を増やそうとは考えませんでした。彼は主人のことより自分のことを考えたのでしょう。大きな金額のお金を管理することの重荷から、減らす危険から、失敗して怒られる恐れから逃げました。しかも彼は自分のした行為を悪いとは考えず、ご主人に「ご覧下さい。これがあなたのお金です。」と、減らさず返したことを誇らしげに報告しています。確かに彼はご主人のお金を着服しておらず、損害を与えたわけでもありません。しかし彼は預けられたものを有効に用いなかった「怠け者」の「悪い僕」であり、「役にたたない僕」と断定されました。 /n忠実な良いしもべ  このしもべとは対照的に、五タラントンおよびに二タラントン預けられたしもべは、商売をして主人の財産を増やしました。主人は、彼らの報告を聞いて非常に喜びました。二人とも「忠実な僕」と呼ばれて更に今までより多くのものを管理させられ、より重い責任を与えられることになります。何よりも彼らは「主人と一緒に喜んでくれ」と、主人の喜びの中に招かれる光栄に浴します。 /nたとえの意味  このたとえは、直接的には十字架の死を目前にしたイエス様が弟子達に語られたものです。弟子達はイエス様から、イエス様の所有している財産を預けられました。イエス様の財産は、神様の霊であり、神様からいただく言葉であり、神様からくる平和であり、祈りによる神様への近づきです。イエス様の財産を預けられた弟子達は、同時に、イエス様の為に奉仕する義務をも与えられました。この弟子達への委託は使徒達へ、そして教会へ(私達キリスト者へ)と引き継がれています。このたとえは、委託を受けたキリスト者の中に、主人であるイエス様の為に働く者と、自分のことしか考えない者がいることをも教えています。 /n喜びの席に・・  私達は自分に預けられたイエス様からの賜物をよく知り、それを大いに用いて福音が広がっていく為に用いられたいと願います。福音を自分の中だけに閉じ込めて、福音の命を失わせてはなりません。この財産は使えば使うほど増やされていく性質を持っています。自分の持てるすべてが神様からの預かりものであることを知り、それを神様の御用のために用いていただきましょう。そしてご主人の喜びの席に招かれましょう。

「神の権威」 伝道師 平賀真理子

/n[列王記上] 17章17-24 17 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。 18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。 20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」 21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」 22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。 23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。 24 女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」 /n[マルコによる福音書] 1章21-34節 21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33 町中の人が、戸口に集まった。 34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 /nはじめに  今日の聖書には、汚れた霊や病で苦しむ人々に対するイエス様の癒しの奇跡が初めて出てきます。神様の力がイエス様を通してはっきりと示されています。それは選民として自負していたイスラエル民族の人々でさえも、今まで見たことも聴いたこともない、神様の凄い力でした。 /n預言者を超える神の御子の権威  歴史の中で神様は、御自分の意志や人間への祝福・約束を必ず言葉で表明され、指導者や預言者を通して必ず実行されてきました。ここでは神様の権威をそのまま引き継ぐ御子イエス様の業の力が、会堂で教える御言葉と悪霊退治や病気の癒しという行為で、はっきりと公けのものとされます。 /nイエス様の説教と汚れた霊  カファルナウムで「安息日に会堂に入って教え始められた」イエス様は、それ迄ユダヤの民が慣れていた律法学者の説教のようではなく、神の国の到来を、神の権威のもとに語られました。その力は溢れており、「人々は非常に驚いた」のも無理はありません。そのとき、汚れた霊に取りつかれた男が「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」(24節)と、叫びました。「構わないでくれ」の直訳は「あなたと我々の間に何があるのか。(何もない)。」です。 /nエリヤと寡婦  今日の旧約聖書でも、預言者エリヤによって恵みを受け、日々の糧を得られるようになっていた寡婦が、最愛の息子の死を前にしてエリヤに「あなたは私にどんなかかわりがあるのでしょう。」と言ってしまいます。そして「息子を死なせる為にきたのか」と食ってかかります。(エリヤは、主に願ってその息子の命を元に返し、その親子を救います。) /n人間の愚かさ  寡婦も汚れた霊も、神様の清さを認識し、それと一線を画して我が身を守ろうとしました。しかしその清さの前に自分達が滅ぼされる存在であることを告白して、愚かにも最後の悪あがきをしてしまうという醜い姿が露呈されています。悪の試みを受ける時、悪の最後の無様な姿を知っておくことは私達の強みになります。神様につく者は勝利します。 /n汚れた霊の敗北とイエス様の熱病の癒し  汚れた霊はイエス様から出て行くよう叱りつけられて、必死の抵抗も空しく命令に従わされます。神様の権威の下では汚れた霊は従わざるを得ません。この後イエス様はシモンの姑の熱病を癒されました。イエス様は神様からいただいている力を惜しみなく弱っている女性に与えられました。病が癒され、もてなしができるほどの回復は、神の力によるものです。しかしそばに寄り添い、手をとって、立てるように支え促されたイエス様の姿は、それだけで人を勇気付けるものだと思います。 /n「悪霊にものをいうことをお許しにならなかった」(34節)  神様と悪霊は「何のかかわりも」ありません。神様は、悪霊から証しされる立場では決してありません。神の御子イエス様が中心の神の国は完全な善なる世界であり、悪は完全に打ち滅ぼされなくてはなりません。実際イエス様はその後の歩みで、十字架の後、復活されたことにより「死」という悪の最たるものに打ち勝たれました。それは、父なる神様の側の絶対的勝利をもたらし、神の権威があまねく地上にも行き渡ることになったのですから、そこに悪が主体となる隙はないのです。 /n神の権威  イエス様がお持ちの「神の権威」は多くの人々を納得させ、最も反抗的な悪霊をも沈黙させると同時に、「助けたい」人をすぐに助けられる力(愛から生まれた意志をすぐ行動に移すことのできる力)でもあります。(ギリシャ語で「権威」は『…する権利・自由がある』という言葉から生まれた)。(中略)。イエス様は「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」(8:34)と言われました。御跡に従うことが重要です。あなたが生かされていること、あなたが生きることの本当の意味の問題と解答が、神様の権威によって与えられます。

「礼拝としての生活」 倉松 功 先生(元 東北学院院長)

/n[詩篇] 95:1-11 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。 9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。 10 四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」 /n[ローマの信徒への手紙] 12:1-2 1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 /nはじめに  「礼拝としての生活」・・このような言い方はあまり聞き慣れないかもしれません。パウロがここでいう「礼拝」とは、私達がささげている礼拝と、キリスト者の生活という意味での礼拝の両方を意味していると思います。今朝はこの二つの「礼拝」の関連について学んでみたいと思います。 /n「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。」  冒頭の「こういうわけで」とは、ロマ書1章から11章の終りまでの全体を指しているように思いますが、「神の憐れみ」は特に3:21から11章の終りまでに関係しています。「神の憐れみ」とは神が私達に御子イエス・キリストを与えて(送って)下さった、(神様の側からみれば罪人の私達を神が憐れまれた/私達の側からすれば神の恵み・神の愛が与えられた)そういう「神の憐れみ」によって勧める、と言っています。重要なのは神様の憐れみ(恵み)です。それゆえに「今ささげている礼拝」も、「私共の日常生活が礼拝である」という礼拝も、神様の憐れみ(恵み)からきているということです。 /nパウロの勧め  パウロは勧めます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。これはすぐには読めない大変厳しい言葉です。生ぬるい私共の生活から比べると「いけにえとして献げる」とは大変な言葉です。「これこそあなた方のなすべき礼拝」というこの「礼拝」が、パウロが勧める「礼拝としてのクリスチャンの日常生活」と考えるとこれは受け入れ難い、そばに寄ることも出来ない言葉のように思います。しかしこの言葉と、冒頭の「神の憐れみによって勧める」との言葉は大変深く関係しています。もしも神の憐れみ(恵み)がなければ、私共にはこの言葉は受け入れられません。  神が私達に求めておられることは、「生けるいけにえとして献げる」ことです。完全なクリスチャン生活に至る人々(たとえば宮城県には重要なキリシタンの迫害の地があり、戦後に至るまで洞窟で礼拝をささげた人達)の生活を念頭に置いて考えてみても「いけにえとして献げる」との言葉は私達には厳しい言葉です。ですが「神の憐れみ」がそれを私達に勧めています。 /n礼拝は「奉仕」  礼拝には「奉仕」という意味があります。日曜礼拝は「サンデー・サービス(Sunday service)」といいます。奉仕をするとは(どのような形であれ)周辺の人が助けを必要としている時に助けることです。聖書には隣人愛という形で表れますが、それも又奉仕です。礼拝という言葉を中心に考えると、日曜日の礼拝と日常の生活における何らかの形の奉仕が「礼拝」という言葉と結びついています。パウロの厳しい勧めの言葉にかかわらず、クリスチャンの日常生活は、礼拝と密接に関連しています。 /n神が私達に奉仕をした  今日のキーワードは「礼拝が奉仕である」ということです。日曜日の礼拝は「神が私達に奉仕をした」ことを聞くことです。神がキリストを私達に送って下さったその意味を学ぶことです。それによって何が起こったかということを教えられるのです。これは神の私達(全人類)に対する奉仕です。礼拝は「神の奉仕」というところから見ると、私共の日曜礼拝とクリスチャンの日常生活とは無縁ではない、といえるでしょう。 /n礼拝の意味  次にパウロは礼拝の意味(礼拝がどういうものであるべきか)を語っています。12:2「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。これは特に日曜日の礼拝にあてはまるように思います。なぜなら、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことが出来るからです。これは日曜日の礼拝なくしては出来ません。しかし礼拝において「神に喜ばれること」「完全なこと」を学んだ事柄に基づいて、私共が日常生活で少しでも実践する、具体化していく、ということがないと身にはつかず、信仰の生活というものにはなりません。神様が求めておられる事はすべてクリスチャンにとって善です。神様の求められる事を行なうということは神様にとって喜びです。ですから少しでも語られたことを行なうということがないと、信仰生活とはいえません。 /nなすべき礼拝  このことから1節の「なすべき礼拝」というのが何であるかがよくわかると思います。「心を新たにして自分を変えていただき、神に喜ばれる善いこと、完全なことを学ぶ」ことが日曜日の礼拝です。「なすべき礼拝」とは、英語では「リ-ズナブル(reasonable)な礼拝」となっています。元の言葉では「ロゴス的・理性的・合理的」な礼拝となっています。キリスト者の礼拝はそういう礼拝でなければならない、とあるのは大変重要です。(それ迄の礼拝は、動物をささげたり、お供え物をささげたりするのが一般的)。そして日曜日の礼拝において、神のみこころを学ぶ(何が善く、何が喜ばれ、何が完全であるか)ことは、理性的に歩もうとする者にとって、きわめて重要なことだと理解してよいでしょう。 /n礼拝の持つ使命  私達の世界では、さまざまな形で善についての議論がなされています。社会生活や改善する時の方針、教育の在り方など考える時、必ず理性的、善・悪を問題にします。戦後の教育基本法などに出てくる善とか価値というものについて見る時、それがいかに聖書の教えに関連しているかということを知ります。何が善で何が神に喜ばれる全きことであるかについて、現代においてキリスト教がもっている使命、礼拝が持っている使命は、きわめて大きいと思います。 /n日常生活においてなすべき礼拝 (12:3以下)  3節以下には「日常生活においてなすべき礼拝」「教会の中の生活」において一番重要な仕事が語られています。「預言・奉仕・教え・勧め・施し・指導・慈善」との言葉が出ています。大事なクリスチャンの基本になる「教会生活」の中でなされている仕事です。パウロが「キリストの体である教会」と言った時の体(手の働き、足としての働きなど、枝々の生活。交わりの生活。礼拝の生活)の中でなされている仕事です。 /nルター「キリスト者の自由」  「キリスト者の自由」の最初にでてくる「二つの言葉」は今日の聖書に非常に関連があるのではないかと思います。 >> 1.「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な君主である」。 <<  キリスト者は神によってキリストを通して罪が赦され、罪から解放され、キリストの持っているすべての物が与えられ、すべてのものの上に立つ、すべての者から自由である者です。キリストと同じ自由が与えられているわけですから、まさにこれは「神の憐れみ」であります。ところがそれに続いて、そういう神の恵み、それは具体的に生活でどういう形で表れるかというと、 >> 2.「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕である」。 <<  これがキリスト者の実践です。「奉仕するしもべ」ということについてルターは「万人祭司」といいます。祭司とは人々に仕える人のことです。日々神に礼拝をささげながら人々に仕えていく、という役割をもっています。男であれ女であれ子供であれ、手工業者、農耕者、商人、すべての人が祭司であるといいます。教会の中の仕事をし、日常的には、家庭にあって職場にあってその場で神に奉仕する。これが万人祭司です。このルターの「万人祭司」という考え方を、ここにあてはめて理解することができるのではないでしょうか。 /n私達は礼拝に招かれている。そして日常生活の奉仕へ。  私達は具体的な日常生活において、仕事をしながら神に奉仕をするとは考えないかもしれません。しかしそこを離れて人に仕えることはないでしょうし、人に仕えることを離れて神に奉仕をするということは考えられません。それだけに私達の日常生活は大変なことです。大抵は自分が求めるあり方、希望している生活(営み)にはならず、赦しと救いを必要としています。私達は神の憐れみ、神の愛を必要としています。そこに又、日曜日の礼拝において私共は再び神によって罪の赦しをいただく。或いは神の前にざんげする。そういう必然性を私共は与えられている。そういう形で私共は日曜の礼拝に招かれている。そういう形で日曜日の礼拝から日常生活において奉仕をするように勧められております。

「神を欺いた夫婦」 佐藤義子 牧師

/n[箴言] 12章17-22節 17 忠実に発言する人は正しいことを述べ/うそをつく証人は裏切る。 18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。 19 真実を語る唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬。 20 悪を耕す者の心には裏切りがある。平和を勧める人の心には喜びがある。 21 神に従う人はどのような災難にも遭わない。神に逆らう者は災いで満たされる。 22 うそをつく唇を主はいとわれる。忠実を尽くす人を主は喜び迎えられる。 /n[使徒言行録] 4章32節-5章11節 4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。 36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、 37 っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、 2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 3 ると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。 4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。 6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。 7 れから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。 8 トロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。 9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」 10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。 11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。 /nはじめに  今日の聖書には教会の中で行われた愛の行ないについてと、それに伴う二つの実例が語られています。 信仰によって一つとされた群れの交わりは心も思いも一つにされ、全てを共有するという愛の法則が生まれていました。そして聖霊の賜物を豊かに受けて大胆に御言葉を語り、イエス・キリストの復活を語っていました。今朝は、この群れの中で起こった具体的な実例から学びたいと思います。 /n二つの献金  一つの例はバルナバです。彼は自分の畑を売ってその代金すべてを使徒達に託しました。(バルナバについては、このあと使徒言行録13章にパウロと福音宣教の旅に出ていく使徒として再び登場します)。もう一つの例はアナニアとサフィラという夫婦の例です。彼らも又、土地を売った代金を使徒達に託しました。この二組の行為を私達が「献金」として見た時、金額の違いはあったにせよ群れのために献げられたということで、全く問題はないように思われます。ところが、同じ「献金」でもアナニア夫婦の献金には罪が入り込みました。アナニア夫婦が陥った罪とは代金をごまかすという罪でした。 /n偽りの罪  夫アナニアは妻サフィラと相談して、土地代金の一部を手元に残し、そのことを隠して、これが自分達の土地を売ったすべてですと偽りの報告に基づく献金をしました。代金の一部を手元に残しておけば、何かあった時に教会に頼らなくてもすむと考えたのか、あるいは、自由に使えるお金が欲しくなったのか、あるいは、信仰深い夫婦だ、愛も深いと称賛されたいという名誉欲に襲われたのかもしれません。 神に従おうとする者を罪へと引きずり込むサタンの力は強力です。彼はその誘惑と戦う必要がありました。しかし彼は戦うべき誘惑とは意識せず、自分のごまかしを信仰者の群れの中で通用させようとしたのです。教会は、神の霊でありイエス・キリストの霊である聖霊が満ちているところです。 私達は聖霊を通して神様のご臨在に触れ、神様の恵みをいただき、喜びや愛、救いの確信や交わりが生まれてきます。それに伴って私達は真理に立ち、光の中を歩むという使命も与えられています。教会の清さを保つには、不正をあばき偽りを明るみに引き出さなければなりません。ペトロが言っているように、アナニアは土地を手放す必要はありませんでした。売らなければいつまででも彼の所有であり続け、又売ったとしても、その代金はすべてアナニアのものでした。 /n神の裁き  しかしアナニアは罪を犯しました。そしてペトロの「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」との言葉を耳にして「アナニアは倒れて息が絶え」(5:5)ました。続いて聖書はアナニアの妻サフィラについても述べています。彼女は夫の死がまだ知らされていない状況の中でペトロと会い、ペトロは妻サフィラに、悔い改める機会を与えました。すなわち土地を売った代金の金額を尋ねたのです。けれどもサフィラは偽ったまま、真実を述べる機会を見過ごし、悔い改めという恵みの時を持とうとせず、(夫と同じように)倒れて息が絶えました(5:10)。 /n私達へのメッセージ  「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れ」(11節)ましたが、この初期キリスト教会の出来事は、今を生きる私達をも恐れさせる事件です。 私達は今日の聖書から、教会は真理の中、光の中を歩み続けていくことが求められていること、神様は隠れた罪を決してそのままにはされず、必ず罪を取り除いてから先に進まれることを心に刻みたいと思います。教会は内的に強くされていかなければなりません。そのために私達に与えられているこの仙台南伝道所が信仰者の群れとして、使徒言行録の教会のように心も思いも一つにされ、愛の法則が教会を支配するように祈り求めていきたいと願うものです。そしてウソ、偽りをこの群から追い出して下さるように・・。それらの誘惑から守られるように・・。いつも真理の中・光の中を歩む共同体として造り上げて下さるように・・。心を合わせて神様に祈り求めていきたいと願うものです。

「私とは何者か」 鈴木ペーソンヒ牧師(石巻山城町教会)

/n[詩編] 40編2-5節 2 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/しっかりと歩ませ 3 わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。 4 かに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。 5 わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。 /n[ローマの信徒への手紙] 3章21-26節 21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 /nはじめに  私が洗礼を受けたのは中学校2年生の時でした。中学校1年生の時、知り合いのお姉さんに「教会に行くと楽しいよ」と言われたので行くと、ハンサムなお兄さんもいたので何だかわくわくして一年間教会に通いました。そうするうち突然、先生から「あなた、洗礼を受ければ」と言われました。周りのお姉さん達も「洗礼を受ければいいよ」と言いました。 洗礼が何の意味かはっきり分からないまま、私も、教会にずっと通う為に悪くはないなと思い、一ヶ月間の洗礼準備の勉強会に出ました。先生が、「このような質問の時にはこのように答えなさい」と全部教えて下さったので、その通りにして洗礼を受けました。これが私のキリスト教との出会いの始まりです。大抵の方は、聖書の話を深く理解し神様がどのような方であるかを知ってから、或いは、真剣に自分の信仰的な決断をしてから洗礼を受けることを考えますが、人間はいつ迄たってもそのようなことはなかなか難しいと思います。今考えてみると私は何も分からないで洗礼を受けました。ある面、牧師先生が、どうかこの子を神様に結び付けておきたいという半強制的な愛で導かれたと思います。今考えると、それこそ神様の恵みではなかったかと思うところです。その後、神学校に入ることになりました。神学校に入学したことや、牧師になったことが本当に良かったのかとの思いがしばしばありました。しかし今振り返ってみると、私が洗礼を受けたのも、神様の特別な恵みと愛であった。何も分からず歩いてきたらいつのまにか神様が私をここ迄導いて下さった。そう考えています。 /n教会生活  洗礼を受けてしばらく教会へ一生懸命通いましたが、高校に入り、一年過ぎた後、教会に行きたくなくなり、だんだん教会から離れていくのですが、その理由を整理してみると、おおむね二つの理由からでした。一つは、牧師先生が講壇で、いつも「私達は罪人です。」ということです。又、祈るおばさまを見ると「神様、この罪人を許してください。」といつも泣いているのです。私から見ると、人の物を盗んだり人を殺したりするような、そんな悪いことをしているような感じでもないのに、いつも「罪人」、「罪人」という。牧師も講壇から「私達は罪を悔い改めましょう。」と言う。よくよく考えてみても、私はそんなに罪を犯した記憶がないのです。私なりに正しく真理を求めて生きていこうとしているのに、なぜいつも罪人と言われなければならないか。そのような抵抗がありました。  もう一つは、牧師先生が講壇から説教をして「このように信じていきましょう」というと、みんな「アーメン。信じましょう。」と答える。私は聖書に関して「これはおかしい」「これは何か」「これは合わない」と思うことがありました。たとえば全知全能である神様は人間が善と悪の木の実を食べるのを分かっているのに、なぜその木をそこに置いたのかという疑問です。そのような質問をすると「まあ、聖書のことはあまり深く考えないで信じましょう。」とおっしゃる。するとこの人達はあまり考えないで盲目的に、無条件的に信じているのではないか。教会に来ている人は利口のようだが、どこかちょっと抜けているのではないか。私達の理性を超えた神様に、考えずにただ「従っていきましょう」と言っている。そのような感じを受けました。これらが離れた理由です。 /n再び教会へ  教会に行かないまま高校を卒業して大学に入ろうとしましたが、思い通りにいかず浪人生活をすることになり、さらに、家のことも重なり、悩む時期がありました。そのような私を見て親しかった友達が又教会に誘ってくれたことがきっかけとなり、再び教会に通うことになりました。小さな、仙台南伝道所のように開拓伝道する教会へ導かれました。立派な説教をする先生ではありませんでしたが、その時は先生のメッセージを聞いていると涙が出てその通りだと思えました。そしていつのまにか私は、かつて私が非難した人達のように、神様の言葉を自分の心の中に入れている人になりました。 /n罪に気付く  ある日、教会で一生懸命祈っている時、聖霊が自分の上に注がれるような体験をしました。自分が祈るのではなく、何か、神様によって導かれて自分が祈っているような不思議な体験でした。その時、私の心の中で(頭の中で)浮かび上がったのは自分が犯してきた罪でした。今まで悪いとも思わなかったそのすべてが、スライドのようにス-っと私の目の前を通り過ぎながら、私がいかに自己中心的で自分だけのことを考えていたのか。いかに多くの人を傷つけて今まで生きてきたのか、もう最後は声を出して大きな声で泣きながら祈りを捧げました。聖霊によって、神様の光に照らされて、私は自分自身がどのような者であるかを知ることが出来たのです。今迄気付かされなかった罪の深さがどれ程か、それもその時分かりました。 /n私達は神のかたちに似せてつくられた  創世記1章26節に、神様はこの世をすべて創造され、人間を造ろうとした時、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」とおっしゃることから始まったことが記されています。私達は「神のかたちに似せて」造られたのです。私達がこのように生きていながら「この人はとても良い人だ」と思う人も沢山いますが、時には「この人はこの地球からいなくなってもいいのではないか」と思わせられるような人もいます。しかしその人の中にも神様のかたちがある。神様がご自身のかたちに似せてその人も造られたというところに、私達は人間の尊さ、人間の価値を見ます。私達の目には要らないと思われる人であっても、いかに大切な存在であるかを考えるのです。神様のかたちにかたどられた人間を見て、神様はよしとされ喜ばれました。又、エデンの園に全てのものを備えて、それを神のご命令によって人間が支配するようにしました。それなのに人間は、神様の命令に背くことによって、エデンの園から追放されることになります。その後、生まれた子供が自分の弟を殺す。またその次の人間の歴史を見ると、復讐に復讐を重ねて血まみれの歴史が始まっています。自分の弟を殺したカインは不安と恐怖の人生になりました。憐れみ深い神様によって、カインは何とか死から守られる人生になりましたが、この世をさまよい、底もつかない不安の中で生きるものになりました。 /n悲しみのあとの癒し  皆さんは今、幸せな中で生きている方もおられると思いますけれども、そのような人達も、悲しい演歌やいろいろな歌(クラシック音楽なども)を通して悲しい歌や音楽を聴くと、何となく私達の心が深くその悲しみに沈みながら、自分が癒されるような気持になる時があります。私が研究した北森嘉蔵先生は特に歌舞伎が好きだったらしく、歌舞伎を見ながら慟哭する。はらわたが痛むほど泣く。そのような後で自分がすっきりしたような気持になるというのです。なぜ私達はこのように悲しい歌、悲しい映画を見ながら涙を流すことによって自分が癒される気持になるのでしょうか。それは、私達の人生が、又、私の心の深い深いところに、深い悲しみと嘆きを持っている。音楽やドラマがそのようなところを引き出して、共に泣くことによって自分が癒される気持になる。私達の人生が深い悲しみをもっているのはなぜでしょうか。それは、神様の前で喜んで生きるしかない私達が、神様に背いてしまう。それでお互いが憎み合い殺し合う・・そのような人生の中を生きる私達の中には、故郷を失った旅人のように、そのような嘆きが深いところに潜んでいるのではないでしょうか。 /nオウム真理教や統一教会に向かう人達  オウム真理教や統一教会に惹かれる人達がいます。(キリスト教徒の中でも、彼らを導き出す為の活動をする方々がいます)。私達から考えてみると、とんでもない、なぜあんなところに惹かれるのか。愚かな人達のように思われます。しかし大学を卒業して、又、暖かい家庭で、何の問題もないような人達が惹かれていきます。今まで見聞きして感じられたことは、この世を生きる不安と、理由も分からない悲しみから、どこかより頼むところ、どこかに自分が所属しているところが欲しいと求める気持があるのではないかと思われます。自分自身をコントロールすることが出来なくなる。虚無と、どうしようもできない問題の前で、自分自身が決断し責任をもってしっかり歩む価値観を失うことで自分自身を失っていく。ですから悪い所であっても、自分が確信をもってより頼むところを求めているのです。「何かおかしい。ここはだめだ。」と感じながらも、そこに、はめられてしまう。 /nもう一つの法則  使徒パウロは、ロマ書7章15節で「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです 」と言っています。これは「私が憎んでいることなのにやってしまった」ということです。私も時々、ある人の行為に対して嫌だなと思う時がありますが、いつのまにか自分も同じことをしている。そのことを思わされる時があります。使徒パウロは又、言います。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか 」。ここだけを読んで見ると、使徒パウロが何か悪い事をしているように思われますけれども、使徒パウロは熱心なユダヤ教の信徒でした。有名な律法の先生のもとで勉強し、律法を一生懸命に守ろうとしました。ですから律法に反するキリスト教の人達をつかまえて牢にいれて、自分が一生懸命に信じている信仰を守ろうとしたのです。ある面、本当に真実に、神様に喜ばれる者として一生懸命生きていこうとしていたのです。そのような使徒パウロがイエス様に出会って、このような告白をしている。なぜでしょうか。真実に生きていこうとすればするほど、真実とは違う自分の深い所の罪。愛そうとすればするほど、愛せない自分。他人を理解しようとすればするほど、理解できない自分。律法を一生懸命守ろうとすればするほど、挫折してしまう自分自身がいたのです。それで言うのです。律法では救いがない。律法では、いつもあなたの罪はこれで、これが間違っています、と自分を責めるばかり。しかし、私達の主イエス・キリストに感謝します。イエス・キリストが十字架で私の為に死んで下さった。それで私のこの罪を許して下さった。ただし無償で。義とされる恵みを与えて下さった。 /n私の努力ではなく、イエス・キリストを信じる信仰のみによって  私は無力で、弱くて、いかに真実に生きていこうとしても出来ない。神様のことを深く理解して、神様の前で自分なりに欠けがないような信仰告白をして、洗礼を受けようと考える。しかしそれではいつまでも出来ないのです。私に「とにかく洗礼を受ければいいよ」と言った、半強制的な先生の導きは正しかった。ただイエス・キリストの、その御導きによってのみ、それに結ばれた私達は義とされる。本当の恵みの人生に生かされることが出来るのです。神学者ルターは、どうすれば私は神様に救われるのか。どうすれば神様に喜ばれる人生を送ることが出来るのかと考え、修道院に入り、様々な体験をしました。祈りをし、階段をひざで歩いて上まで昇り、下まで降りて、自分自身を痛み傷つけながら、肉の欲望をおさえながら、何とか「主による人生」になるようにもがいた。しかしルターが発見したのは、使徒パウロが言うように、私が一生懸命努力して神様に認められることはない。ただ、自分の罪の惨めさを知るだけ。私の為に十字架で死んで下さった、そのイエス・キリストの贖いによってのみ、それを信じる信仰によってのみ私は救われる。それをルターも発見したのです。使徒パウロは、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされたのです。」と語りました。私達は主イエス・キリストに結ばれて、主イエス・キリストを通してその神様の光のもとで自分自身を知ることが出来る。私がいかに空しく弱い存在であるか。又、その中で私の隣にいる相手がいかに弱いものであるか、いかに傷つきやすいものであるか。そのところで、私達はその人を赦し、愛することが出来るのです。そして私のような存在を受け入れて下さって、私の為に十字架で死んで下さったイエス様の恵みを知る時、<神様のかたちをとっている、神様に造られた>他人を愛することが出来るのです。 /n主にのみ、望みを置く  詩編の作者は言います。「主にのみ、私は望みをおいていた」(40:2)。そうです。主にのみ私達には望みがあるのです。時々フィギュアスケートの選手やスポーツ選手達の試合前のインタビューで「勝つ自信がありますか」という質問に「私を信じて行きます。」という答えを聞きます。勿論、自分自身が一生懸命努力して、そのように信じようとする。人間的には気分がわかります。しかし本当に自分自身を信じることが出来るのでしょうか。使徒パウロさえ、私は望むことはしていない。自分が憎んでいることをいつのまにかしている、その惨めな自分自身、私自身を信じることが出来るのでしょうか。いくら私を愛してくれている両親であっても、妻であっても夫であっても、その人も神様の前では弱い存在である。その人に望みがあるのでしょうか。望みはありません。それを悟った詩編の作者は「主にのみ、私は望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった」。つまり、私の祈りを聞いて下さるということです。それで「滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、私の足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、私の口に新しい歌を、私達の神への賛美を授けて下さった。」(同3-4)のです。神様が、ただ私達の叫びだけを聞いて、それで終るならば望みはありません。しかし私を滅びの穴、泥沼から引き上げて下さり、私の足を岩の上に立たせて下さる、しっかりと歩ませて下さる。つまり姿は見えませんが、私の生きるこの現実に働いて下さる。生きておられ神として、私の歩む道に共におられ導き働いて下さる。それを私達は何によってわかるのでしょうか。 /nイエス・キリスト  神の独り子イエス・キリストが見える形で、人間になって、私達の所に来て下さった。神様が見える形で、私達の人間歴史の現実に来られた。言葉が肉となった。私達が聖書を読んでこの説教を聞いて、神様の御言葉を聴きますが、それが見える形になることを私達は信じていくのです。私が信じるこの御言葉が肉になる。私の助け主になる。私の滅びの穴、泥沼から、様々な問題から、私を引き上げて下さる。それで、私の口に、この世を超えた新しい歌と賛美を授けて下さる。それを私達は信じているのです。そのような告白が私達の礼拝であり、又、そのような確信を再び持って私達はこの場所に座っているのです。「人はこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む」(同)。結局、私達の信仰の結末・肝心なことは、益々主により頼む。良い事があっても悪いことがあっても時には教会の中でも問題があります。その時こそ主に依り頼む。「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。」(同5)。自分の子を失ったような悲しみの中でも教会から離れず、ただ主に依り頼む。 /n私は何者か  私達は問題があって牧師に相談する時、牧師はいつも「共に神様に祈りましょう。神様の愛と恵みを信じましょう」。いかに偉い先生に言っても答えはこれだけです。人間の手には何も出来ないからです。共に祈ることによって、生きておられる神様が働いて下さることを私達は望み、聖書に記されている神様の愛を共に信じていくしかないからです。共に信じていく。そこで主が働いて下さる。私の問題に手を伸ばし、私の嘆きを聞いて下さり、愛する独り子をこの世の中に一番低い所に送って下さった。そのような神様に、牧師が共に手を握って祈るしかないのです。 私は何者でしょうか。結論は、望みがない。神様の前に無力。罪の中に生まれ、罪の中に死ぬしかない。しかし神のかたちを持っている尊い存在として神の恵みに生かされている。神によってのみ大事な、貴重な、かけがえのない存在なのです。そのような私達は告白することができるのです、「主にのみ、私は望みを置いている。主は耳を傾けて、叫びを聞いて下さる」。私の叫びを聞いて下さっている主が、私に一番良いものを与えて下さった。私は皆さんが、神様の光のもとで、私が何者であるかを確信し、「ただ主に依り頼む者」として、そこにだけ望みをおいて生きることができる。そのような勝利者になることを願います。

「ここに愛がある」 佐藤義子 牧師

/n[ホセア書] 11章8-11節 8 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。 9 わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。 10 獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき/その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。 11彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから/鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。 /n[ヨハネの手紙一] 4章7-21節 7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。 /nはじめに  クリスマスおめでとうございます。 ここにおられる全ての方にとって、イエス様が、この私の為に生れてきて下さったということが、事実として心に刻まれますよう祈りつつ、御言葉に耳を傾けたいと思います。創世記によれば、人間は神様に似せて造られました。私達の社会では、「あの人は神様みたいな人だ」という言葉が使われることがあります。その場合、親切で心が優しく、自分をかえりみず、人に対して尽くす人を言い表したりします。(たとえばマザーテレサのように)人々が、人間に対して「神様みたいな人」という言葉を言わしめる姿があるということは、「人は神に似せて造られている」ことの一つの証しといえましょう。 /n罪が入り込む   神様に似せて造られた人、アダムは、神様が人の為に用意された楽園で、何不自由なく過ごしておりました。しかしアダムの助け手として造られたエバが、蛇の誘惑に負け、神様の言葉に逆らったことから「罪」がこの世界に入り込みました。聖書でいう罪とは、神様に造られた人間が、創って下さった神様に従わないことです。自分の欲望を、神様の言葉より優先させるのは、自分を神様よりも上におく=自分を神様とする=罪です。 /n罪は裁かれる  人間社会において罪を犯す者は必ず法で裁かれるように、命の与え主である神様を無視して生きてきた人間に対し「罪」への裁きがあるのは当然でしょう。そして私達の「神様が命じられる事を行なってこなかった罪」が裁かれた時、すべての人は、自分の罪をつぐなうことはできません。なぜなら私達はあまりにも度々、神様を忘れ、又、神様を無視した生活を送ってきたからです。人間という人間は、皆、有罪判決を受け、その結果、私達人間は死を迎えるのです。(ロマ書6:23参照) /n救いへの道  しかし神様は、この罪ある人間を憐れみ、救いの道を用意して下さいました。人間を滅びの道から救い出す「救い主」を私達の住む世界に送って下さったのです。その救い主が、人間の全ての罪を引き受けて、本来人間が受けるべき罰を代わりに受けて下さいました。それが主イエスの十字架の死です。十字架は、神の独り子、主イエス・キリストの、全人類のこれまでに犯した罪、さらにこれから犯す罪も一切含めた「罪」が赦される為の、犠牲の死です。私達はその死によって罪が赦されて神様と再びつながることが出来るようになりました。 /n神様とつながる道  具体的に、どうしたら私達は神様とつながる道を生きていけるのでしょうか。それは、永遠の命をもってこの世に来て下さったイエス・キリストを信じて、イエス・キリストにつながることです。イエス様を信じ、永遠の命をいただいて生きるということは、この世界に罪が入り込み、神様に似せて造られた部分を失ってしまった人間が、その部分を回復する道へと戻されたことを意味します。コリントの手紙には、「つまりアダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(15:22)とあります。 /nここに愛があります  今朝の聖書にはこう記されています。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。ここに神の愛が私達の内に示されました。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。・・私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。」このクリスマスの喜びが、イエス様を信じて歩もうとされる全ての方に満たされますよう心から祈るものです。