説教要旨 「あなたの信仰は立派だ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 15章21-28節 21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がユダヤの国境外のティルスとシドン(地中海東のフェニキア)地方に行かれた時のことです。イエス様がそのような地方に出かけられるのはめずらしいことで、おそらく群衆から離れ、静寂を求めて、或いは弟子達を教える為に・・と推測されています。この地にはカナン人(昔ユダヤ人から追われたパレスチナ住民)が住んでおり、彼らはユダヤ人を歓迎せず、ユダヤ人も彼らを神を知らない汚れた異教徒として、そのままでは救いから排除されている民として軽蔑していました。 /nカナンの女  イエス様の名前は、この地方にまで既に伝わっていたようです。一人のカナン人の女が出てきてイエス様に向って「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけました。病気の娘を助けて欲しいとの叫びでした。ユダヤ人の間では「ダビデの子」=「メシア・救い主」を意味しました。しかしこの外国の地で、女からそのように呼びかけられることは異例のことでした。「しかし、イエスは何もお答えに」なりませんでした(23節)。女はイエス様が振り向いてくれることを切に期待し、叫びながら後をついていきました。 /n弟子の困惑  弟子達は後をついてくるカナンの女を追い払うようにイエス様にお願いしました。(別の訳では「去らせて下さい」・・早く解決して欲しい)。 /n「私は、イスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない。」  これが弟子達への、イエス様の答えでした。  イスラエルの失われた羊とはイスラエル全体をさしています。民全体が確固たるものを失って、神の導きを求めて頼りげなくさまよう状況をあらわしています。「私は・・しか遣わされていない」とは、遣わしたお方(父なる神様)がおられ、イエス様は派遣されたその目的を逸脱することは出来ない、ということです。(異邦人伝道は復活後、大宣教命令が出された後。マタイ28:19)。 /nイエス様の拒絶  カナンの女は近寄って来てイエス様の前にひれ伏し「主よ、どうかお助け下さい」と、自分ではなく娘の為に(娘の苦しみは自分の苦しみ)訴えました。しかしイエス様は、母親の願いがどんなに切実でも必死でも、それによってご自分の使命を変更しようとはされませんでした。「子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」(26節)。(子供=イスラエル、子犬=異邦人、パン=神様からの救いの祝福)。 /n「主よ、ごもっともです。しかし、子犬もパン屑はいただくのです。」  母親はあきらめませんでした。イエス様のおっしゃることは正しい。ユダヤ人から見れば自分達は汚れている民族である。パンをもらう資格はない。でもパンを食べる時にはパンくずが出る。子犬はそのおこぼれのパンくずを食べられる。だから私にもパンくずを下さい!と、イエス様が用意されている神様からの救いの祝福は、ユダヤ人の分をすべて使い果たしてもなお余りあるものであり、イエス様の溢れ出る豊かな力に自分もあずかれるのではないでしょうかという信仰です。 /n「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」  イエス様がこう女に言われたその時、娘の病気はいやされました。この母親は、「神様の御計画による順序」を受け入れました。「異邦人は選びから外れている」ことを受け入れ、イエス様は正しいお方であることを前提にしながら、なお、イエス様から離れまいと一生懸命でした。   /n詩編・叫びの祈り  旧約聖書の詩編にも、叫びの祈りがあります >> 22:20 「主よ、あなただけは私を遠く離れないで下さい。私の力の神よ、今すぐに私を助けて下さい」 << >> 30:11 「主よ、耳を傾け、憐れんで下さい。主よ、私の助けとなって下さい」 << >> 31:17 「あなたのしもべに御顔の光を注ぎ、慈しみ深く私をお救いください。」 << >> 69:2 「神よ、私を救ってください。大水がのどもとに達しました。私は深い沼にはまり込み、あしがかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流が私を押し流します叫び続けて疲れ、のどは涸れ、私は神を待ち望むあまり目は衰えてしまいました。 << >> 79:9 「私達は弱り果てました。私達の救いの神よ、私達を助けてあなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、私達を救い出し、私達の罪をおゆるしください。」 << >> 119:86 「あなたの戒めはすべて確かです。人々は偽りをもってわたしを迫害します。わたしを助けてください。」 << >> 119:94 「私はあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令をわたしは尋ね求めます。」 <<    私達は幸いなことに祈ることが出来ます。そして祈りは神様が良しとされる時に聞かれます。ヨハネ福音書にはイエス様がぶどうの木のたとえを語られた箇所がありますが、その中で「あなたがたが私につながっており、わたしの言葉があなたがたの内にあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる、との約束があります(15:7)。さらにヨハネ手紙1の5章にはこのようにあります。「何事でも神の御心に適うことを私達が願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対する私達の確信です。私達は願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことはすでにかなえられていることも分かります」(14節)。 /n恵みが取り去られた時も・・  神様が祈りを聞いて下さらないことがあります。祈っても祈ってもこちらを向いて下さらない。そのような時に、私達はあきらめずにこの母親に答えて下さったイエス様に信頼し続けたいと思います。  私達は、神様の恵みを頂いていることがいつしか空気のように当然のように考えて、困難に陥ると神様はなぜそっぽをむかれるのかと問いたくなる時があります。しかし私達は本来恵みを受ける資格がない者です。受ける資格のない者が、神様の憐れみによっていただいているのが恵みです。恵みが取り去られた時、それが神様のなさることである以上、神様のなさることはすべて正しい、としてまず受け入れることを母親から学びます。その後で、「主よ、助けてください」と叫び、祈るのです。    今週一週間も、カナンの女の祈りに答えて下さったイエス・キリストの父なる神様と共に歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「七の七十倍ゆるす」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書]18章21-35節 21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」      /nはじめに   ペテロがイエス様に質問しました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」  当時のユダヤ教指導者達は同じあやまちは三度までゆるされるが、四度目からは赦されないと教えておりました。ペテロは当時の「三度」を二倍にして、さらに一度加えた数「七回」までかと聞いたのでした。 /nイエス様のこたえ  その答えは驚くべきものでした。「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」でした。これは、1回2回と数えて覚えていられる数ではありません。すなわち「無限に、無制限に、限りなく」赦しなさいとイエス様は教えられたのです。 /nたとえ  このあとイエス様は一つの譬え話をされました。それは王様と借金を返せなくなった家来の話です。家来は多分地方長官と考えられ、集めた税金の一万タラントを使い込んでしまったと考えられます。当時、ガリラヤとベレアを治めていたヘロデ・アンティパスが受け取った年貢は200タラントといわれ、父ヘロデ大王でも年収900タラントといわれますから、一万タラントはヘロデ大王の年収の10年分以上の額にあたります。この莫大な借金をした家来が返済出来ないことを知った王様は、全財産を処分し、家族を奴隷に売って、ともかく返済するように命じました。(当時、奴隷は一人500デナリオンと言われました。1デナリオンが当時の1日分の賃金で、1タラントは6000デナリオン)。返済出来ない家来は王の前にひれ伏し、待ってくれるように嘆願します。王様は「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにして」(27節)あげました。投獄を免れ自由が保証された上に、全部の借金が返済免除になったのですから、ものすごい事がここで起こったということです。 /nところが・・  この家来は帰り道、自分が100デナリオンを貸している仲間に出会いました。彼は仲間に「借金を返せ」と要求します。仲間はひれ伏して「どうか待ってくれ」と頼みます。しかし彼はその願いを聞き入れず、仲間を牢屋に入れてしまいます。これを知った王様は,家来が仲間を憐れまなかったことを怒り、再び借金返済を迫って牢に入れました。 /nたとえの意味  王は「神様」、一万タラントという莫大な借金を負っている家来は 「私達人間」のことです。この話は「人間は一生かかっても つぐなうことの出来ない罪を負っていること」。「その大きな罪を神様に赦していただきながら、その一方で、小さな人間同志の罪を赦さないでいる。」その愚かさ、しかもそのことに気付いていないことを教えています。  私達が人を1回赦した、2回3回と数えている間は赦したのではなくただ我慢しているだけです。赦すというのは、相手があやまった瞬間それで終りにすることです。ルカ福音書には「1日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回「悔い改めます」と言ってあなたの所に来るなら、赦してやりなさい」(17:4)と教えています。 /n私達の負っている借金とは・・  神様は私達に命を下さいました。家族を与えて下さいました。私達に能力や賜物や健康を与えて下さり、生きていくのに必要な太陽や空気、水など自然の恵みを与えて下さり、必要な食物で養って下さいます。  私達は造り主である神様に従って正しく生きていかなければならないのに、うそをついたり、人を憎んだり、赦さなかったり、自己中心に生き、自己主張をしながら、自己保身的に生きてきました。正しくないことを知りながらの言動、自己制御すべき時にブレーキが利かなくなったりもしてきました。何よりも神様をないがしろにして生きてきました。今、私達が裁判所で立たされた被告のように神様の前に立つならば、無罪判決を宣告される人は誰一人いません。すべての人は有罪と宣告されます。この有罪こそ、一万タラントの借金です。 /n借金の返済免除  神様は、たとえの王様のように私達を憐れみ、このつぐないきれない借金を無償で(イエス様の十字架の死と引き換えに)免除して下さいました。  自分自身が、神様の前にあっては、一万タラントという一生かかっても返済不可能な莫大な借金をしている者であり、イエス・キリストの十字架のゆえに「無償のゆるし」を与えられたことを信じることが出来た者は幸いです。この借金の重みを知れば知るほど、赦された喜びと感謝は大きくなっていくでしょう。 /n仲間を赦さなかった家来  たとえに登場する「家来」は、一万タラントという借金に真剣に向かい合わなかったゆえに、自分が赦されたことの背景にある「王様の大きな大きな憐れみと恵み」に鈍感になって、わずか100デナリオン(自分の借金の60万分の一)の貸しを赦そうとしませんでした。  振りかえって見ると、私達人間は、自分の利益や名誉が損なわれると怒り、正義と裁きを要求します。何かあれば当然のように隣人につぐないを要求します。自分の権利が失われることに敏感です。人を赦すことがなかなか出来ません。私達もこの家来のように、人に貸していることは忘れず、自分自身に「無罪放免」が与えられた事実を忘れています。 /nたとえの結論  イエス様は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(35節)と言われます。これは厳しい警告です。神様の「無償の赦し」を忘れて、私達が仲間の罪をいつまでも赦さないならば「無罪放免」は取り消されます。私達が自分に与えられた赦しを忘れて他者を苦しめるならば、この地上が終る時、二度目の裁き(終末の裁き)で再び有罪となるというのです。  イエス様を信じる信仰と悔い改めを通して「私の罪」(莫大な借金)は神様から赦されています。この大きな憐れみと恵みを味わい、感謝し、この恵みの中で,私達の心に起こる「赦せない気持」に向かい合い、七を七十倍までも赦しなさいと言われたイエス様に従いたいと願うものです。 /nおわりに  神様の憐れみについての聖書の箇所を一緒に聞きたいと思います。 >> 詩編103:8-13  「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。主は私達を罪に応じてあしらわれることなく 私達の悪に従って報いられることもない。天が地を越えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠いほど 私達の背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」 << >> 詩編145:8-9  「主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを 憐れんでくださいます。」 << >> マタイ5:7  「憐れみ深い人々は、幸いである、その人達は憐れみを受ける。」 << >> ヤコブ書 2:13  「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」 << >> 第一ペテロの手紙 3:9  「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐ為にあなたがたは召されたのです。」 << >> ヨハネ第一の手紙 3:15‐18 「兄弟を憎む者は皆人殺しです。あなたがたの知っている通り、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは私達のために命を捨ててくださいました。・・世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」 <<

説教要旨 「新しい朝に」 石巻山城町教会 鈴木淳一牧師

/n[創世記] 32章23-33節 23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。 /n[コリントの信徒への手紙二] 12章7b-10節 7b それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 /nはじめに  夜明け前です。川の水の面も暗くひっそりとしています。この暗さの中で、ヤコブは自分の妻、側女、子供、牛・羊など向こう岸に渡して、今、一人になっています。ヤコブはずっと前に、何も持たずに父イサクのもとを発ちましたが、その間、時間が随分経つ内、財産もいろいろ増えました。妻や子供達もたくさん持つようになりました。ところが今、再び一人になったのです。自分の持ち物を全て向こう岸に渡し、暗闇の中で一人になっています。 /n暗闇  この暗闇は、ヤコブにとって彼の人生の陰の部分を表しています。彼の罪や後ろめたさがこの暗闇の中にあるのです。ヤコブは今、一人になって、この自分の陰の部分と一人向き合おうとしています。彼は兄エサウと父イサクを欺(あざむ)きました。エサウの「長子の祝福」が欲しい為に母リベカと計略をたてて、父イサクを騙(だま)したのです。兄エサウはそのことを根に持って弟ヤコブを憎むようになり、殺意まで持つようになったのです。この事を知って母リベカはヤコブに逃げるように勧めます。そのようなわけで、ヤコブは兄エサウを避けて故郷から離れました。ところが、考えてみて下さい。それにもかかわらず、ヤコブは神様から祝福を受けて念願が叶ったというのですけれども、果たして幸福で嬉しい人生になったでしょうか。兄を騙(だま)したという後ろめたさと、いつ兄が襲って来るかわからない、そういう不安の中で生きていたのではないでしょうか。人には決して言うことの出来ない、暗い過去におびえて生きる人になったのです。 /n暗闇での格闘  ヤコブは義理の父・ラバンの家から多くの財産と大勢の家族を伴ってくるわけですが、そこには「長子の権利」を騙(だま)し取られ、悔しい日々を送っている兄エサウが待っていたのです。ヤコブはもうすぐそのようなエサウに会わなければならないのです。兄エサウはきっと怒りを抑えながらヤコブを殺す機会を待っていたかもしれません。そのような兄エサウとの再会を前にして、ヤコブが兄の敵意をどうにか和らげようと図り、又一方で、エサウが攻撃してきた時の為に必死で備えをする様子が聖書にはよく記されています。いったい自分の実(じつ)の兄に会うのに、こんなに不安で恐れていなければならないとはなんて不幸なことでしょうか。いろいろな人を狡猾に騙(だま)して生きてきたヤコブは今、そのような人生の裏側の暗さに直面しているのです。表(おもて)は確かに成功者に見えます。父から祝福を得たし、子供も財産もたくさん持つようになりました。しかしその成功の裏にある狡猾さ、人を欺(あざむ)いてきたことが彼を不安にしているのです。今ヤコブについて語っていますが、この、人生の裏側・暗い部分、それによる不安・恐れというのは、私共の人生にもあります。この陰の部分が時折、私共の生活の中で顔を出すのです。ヤコブは今、まだ夜明け前の暗闇の中に不安と恐れに包まれています。そして唯一人,神の前に立っています。彼が神様の前で取り組まなければならなかったことは、自分の人生の暗い部分、自分の過去、罪に直面することであり、今その時が来たのです。しかし、その格闘の背後には神様がおられます。つまり、自分自身の暗い部分を通して神様と格闘したのです。暗闇の中で、唯一人で戦いました。  私共もヤコブのように、唯一人になって自分の暗い部分の中で格闘するしかない時があるのです。そしてその格闘の時間を通してこそ神様に出会うことがあります。ヤコブは出来れば避けたい相手、殺されるかもしれない危機を前にして、神様との格闘の機会が与えられました。私共も人生の内でヤコブのような危機に直面することがあるのではないでしょうか。その時こそ神様に出会い、神様と組み合いをする一つのチャンスかもしれません。 /n祝福への執念  ところでヤコブはそのような格闘に勝ったのでしょうか。或いは負けたのでしょうか。 >> 「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿(もも)の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言った・・」(26-27節) <<  ヤコブは、腿の関節が外れているにもかかわらず、その人を去らせようとしません。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と、粘り強く必死に祝福を求めていたのです。そこでその人は仕方なく、ヤコブを祝福します。出口がない危機に直面して全てをかけたヤコブの祈りであったに違いありません。私共もある問題や危機に直面した時、それを神様の前に出して神と格闘する迄、根気強くその問題に神様の答をもらおうと取り組んでいるでしょうか?「神様、どうか私の過去の罪をお赦し下さい。そして私を祝福して下さい」と粘り強く願っているでしょうか?ヤコブのように・・。 ヤコブの祝福に対する執念というのは、この時ばかりではないのです。兄エサウとの敵対関係になったのも、もともと兄エサウが父から譲ってもらうべき長子としての祝福を、父を騙(だま)して奪い取ったのです。ヤコブは手段と方法を選ばないで、何よりも祝福に固執した人でありました。  _____________________  ある日、兄エサウは疲れ切って野原から帰ってきました。兄エサウは狩猟をする人でした。その時ヤコブは煮物をしていました。お腹が空いていたエサウはヤコブにその煮物を食べさせてくれるように願うのです。その時ヤコブは言います「まず、長子の権利を譲って下さい」。お腹が空いて死にそうになったエサウは、長子の権利等どうでも良いと言いながら、誓いを迫るヤコブの言いなりになって煮物を得る為に「長子の権利」をヤコブにすんなりと譲ってしまうのです。 神様は「長子の権利」よりも「煮物」を選んだエサウを選ばず、ずる賢こく狡猾ではあったけれども、長子の権利を重んじて神様の祝福を求め願ったヤコブを選んで下さいました。エサウの最大の失敗は神様の祝福を軽んじたところにあったといえるでしょう。人間にはお腹がすいても死にそうになっても、命をかけて守らなければならないということがあるのです。どのようなことがあっても絶対に譲ってはならない、そのような領域がある。エサウはそれを知らなかった。軽んじたのです。 /nヤコブからイスラエルへ  ヤコブは神の人との格闘の末に名前が変わります。「もはやヤコブではない。イスラエルと呼ばれるのだ」と神の人から言われます。ヤコブという名前は「足をつかむもの」という意味で、ヤコブが生まれる時に、兄の踵(かかと)をつかんで生まれてきたのでそのように名が付けられました。それは奇しくもヤコブの性格をよく表わしているのです。負けず嫌いで奪い取ろうとする性格、その通りヤコブは祝福を自分のものにする為に、騙(だま)しあざむき、又逆に自分もあざむかれ、だまされ、傷だらけの人生になりました。しかし今、そのような自分の性格と過去のゆえに、不安と恐れの時間に置かれていたのです。それでも今、ヤコブはイスラエルに代わりました。足をつかむ者は、神と戦う人・イスラエルになったのです。名前が新しくなるというのはもう古い人ではなくなったということです。もはや彼は、人の足をつかむ狡猾なヤコブではなく、神と戦って勝った祝福された者・イスラエルになったのです。神から選ばれた者として変えられたのです。神がヤコブの人格の暗さ、罪だらけの暗い人生に光を当てて下さったのです。私共は自分の罪に向かい合う時、それはとても辛い時間です。しかしその向こう側に神様がおられる、そしてその戦いの中で神様の御手によって私共の暗い部分は明るくなるのです。独り子イエス・キリストを私共の為にお送り下さった神様はヤコブの為に、ヤコブの一番辛い時間、ヤコブの所に降(くだ)っていかれたのです。  人は神の御手によって変わります。見方も価値観も変わります。神の祝福には、人を根本から変える力があります。ヤコブが神の人との格闘を終え、神様から祝福され、そこを去ると太陽は昇ってきました。夜明けになったのです。それはヤコブ自身にとってきっと忘れられない素晴らしい夜明け、朝であったに違いありません。自分の罪や狡猾さからきた暗闇から解放された朝でありました。 ヤコブの暗い人生に神様からの光が差し込んできたのです。 /n夜明け  その後、ヤコブは兄エサウと再会するのですけれども、このエサウはヤコブを赦して受け入れるという、実にほほえましい場面が出てきます。神様がヤコブを変えただけでなく更にエサウの憎しみをも変えて下さった。しかし{ヤコブが神様の祝福を重んじ強く願い求めた。だから神様に選ばれた}とは言えないのではないでしょうか。それは、そこにはヤコブが生まれる以前に神様の大きな恵みがあった。不義な者を選び、義として下さる憐れみ深い神、その神様の選びがあったのではないかと思います。人間的には罪だらけのヤコブを義とし、祝福して下さる神様であった。そして祝福の光によってヤコブの陰は消え光の内を歩む人となったのです。これがペヌエルを過ぎてヤコブが迎えた夜明けでした。暗い時間は過ぎ去り、今、光の中を歩むヤコブ-いえイスラエルになったのです。 /nパウロのとげ  しかしヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていました。弱さを持つ人間になったのです。それゆえ今、自分の力でなく神様に頼る人生になりました。恵みによって生かされる、神のものとなったのです。新しい朝を迎え、新しい人生を歩み始めたヤコブが一つの弱さを持つようになったように、パウロも、思い上(あが)ることがないように一つのとげが与えられました。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」(?・12:5)と言っています。彼はいつも自分を苦しめる刺(とげ)がありました。弱さがあったのです。パウロはそれを取り除いて下さるように三度、神様に願いました。その時、神様から言われたのです。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(同9節)。そこでパウロはこのように告白します。「私は弱い時にこそ強いのです(同10節)。もはや自分の力で生きる人間ではなく、主の力によって生きる者となったのです。 パウロは名門の家庭に生まれ、当時有名な先生のもとで学び、最高の学問であったギリシャ哲学にも精通していました。又、律法を熱心に守っていた宗教人であったのです。パウロはユダヤ人でありましたが、特別な権利のしるしであったローマの市民権を持っていました。いわば当時の人々が欲しがるすべてのものを持っていたといっても過言ではないでしょう。しかし主イエス・キリストに出会った時にそれが誇りではなく、むしろ主から与えられた棘(とげ)、その「弱さ」が誇りであるということを知ったのです。棘(とげ)がある人間になったパウロを、主は、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として選び、用いて下さるようになったのです。 /n祝福への道  又、神様は、独り子イエス・キリストを通して私達をも選んで下さった。私達がどのような者であるにせよ、どのような過去を持っているにせよ、どのような弱さ・とげがあるにせよ、それは関係がありません。私共の暗闇の部分に向き合い、又、神様の祝福を願い求める時、主なる神様は必ず祝福して下さる。その時、暗闇の時間は過ぎ去り太陽が昇る夜明け、「新しい朝」が訪れるのです。 そして自分の弱さを通して、主によって新しく生まれ変わった自分自身を見ることができるのです。

説教要旨 「そのとき」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章15-31節 15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、 16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。 18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。 19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。 21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。 22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。 23 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。 24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 25 あなたがたには前もって言っておく。 26 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。 27 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。 28 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」 29 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 30 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 31 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 /nはじめに  私達はまだ見ぬことに対して信じることに慎重であり臆病です。この世の中は偽りが横行し、信じていても騙されることが多い為に自分で自分をガードし、与えられるものを警戒します。科学が発達するにつれ、ますます信じるということが困難な時代になっています。その一方で、価値観の多様化がすすみ、いつでもどこにいても簡単に多くの情報を得ることが出来る時代になると一体どこに自分の軸足を置いたらよいのか、何をもって自分の基準とするかが問題になってきます。自分の判断基準を持たない者は、良いか悪いかということさえも周囲を見て数の多い方になびくことになり、そのように生きていると、いつしか自分で判断することが出来なくなるという危険性をはらんできます。 /n教会は聖書を正典として聞く  教会で聖書が語られるのは、聖書がキリスト教の正典だからです。正典(カノン)のもともとの意味はまっすぐな棒、さお、定規という意味です。そこから尺度、基準、原則という意味に使われています。(ラテン語ノルマは規範、標準、模範の意)。教会は、人間が人間として生きていく上でなくてはならない価値基準、判断基準となるべきものがこの「聖書」であることを信じ告白しています。聖書を学ぶならば、神を知り、人間を知り、更に、人間が神に逆らう存在であり、神に許されなければならない存在であり、そのために神は御子イエス・キリストを地上に送って下さり、イエス・キリストは私達に「言葉」を通して神様の救いのご計画を明らかにして下さった、ということを知ることが出来ます。 人間はなぜ生きているのか、人間はどのように生きるべきか、何が正しく何が間違っているのか、世界はどのように創られ、どのように終るのか、そのことがこの一冊の聖書に記されています。 /n終末の予告  イエス様は今日の聖書の個所で、ダニエル書の預言が実現するその時に備えてどうすべきかを教えます。預言の通り、聖なる場所(神殿-現代では教会)を荒らす憎むべき破壊者がこの世界の終りにやってきます。その時すべてをそのままにして先ず逃げることを教えています。悪から逃げる、その破壊者がもたらす災いから逃げる、悪に対してもたらされる神様の裁きから逃げる・・16節では「山に逃げなさい」と教えます。 /n大きな苦難  その時に受けなければならない苦難は、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難(21節)と言われています。この苦難の時を神様は選ばれた人達の為に、ちぢめて下さるともいわれます。この苦難の時、にせもののメシア(救い主)や、にせものの預言者が表れて大きなしるしや不思議なわざを行ない人々を惑わそうとします。(にせものでも、大きなしるしや不思議な業は行なえることに注意!) /n再臨の予告  本物のメシアであるイエス様は「稲妻がひらめき渡る」ように、誰の目にも明らかなかたちで来ます。再臨の時、天変地異が起こります。イエス・キリストがこの地上に来た時にはベツレヘムの馬小屋でひっそりと誕生され、地上の生活においても栄光を直接現わすことはありませんでした。しかし再臨の時には、大いなる力と栄光を帯びて来られます。「天の雲にのって」(30節)とは神様の臨在を表す表現です。その時神様から選ばれた人達(信仰を与えられた者達)が天使によって呼び集められる(31節)との言葉で予告は閉じられています。 /n希望  神様を信じる者は神様の所有とされ、この世の終りの日にイエス様のもとに一つに集められるという約束(希望)を聞き,信じる者は幸いです。「知恵ある心を得ることができますように(詩篇90:12)」と祈りましょう。

「福音伝道に必要なもの」 伝道師 平賀真理子

/n[エレミヤ書] 16章16-21節 16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。 17 わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。 18 まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。 19 主よ、わたしの力、わたしの砦/苦難が襲うときの逃れ場よ。あなたのもとに/国々は地の果てから来て言うでしょう。「我々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。 20 人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」と。 21 それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる/わたしの手、わたしの力強い業を。彼らはわたしの名が主であることを知る。 /n[マルコによる福音書] 1章14-20節 14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 18 二人はすぐに網を捨てて従った。 19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 /nはじめに  今日の新約聖書の箇所は、イエス様が「ガリラヤで伝道を始める」ことと「四人の漁師を弟子にする」内容が書かれています。ここで、イエス様の第一声が明らかになります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」です。 /n「時は満ち、神の国は近づいた。」  『時』とは「神様が定められた時」という意味があって、ここでは、父なる神が御子を世に遣わし、罪深い人間達すべてを救おうと予めご計画されていた時がついに来た!との宣言です。『神の国は近づいた。』は、イスラエル民族が期待していた、メシアの政治的な国が建てられるということではなく、神の特性である愛の支配が間近に迫っているということで、神と人間、更には人間と人間の関係が御子の働きによって回復するという、本質的な希望にあふれたメッセージなのです。 /n「悔い改めて福音を信じなさい。」  『悔い改めて』は、誤解しやすい言葉です。「してはならないことをしてしまった」「良くない思いを心に抱いてしまった」ことを後悔することや、“反省”して落ち込むことでもありません。神様がイエス様を通して語られた「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから。」という呼びかけに対し、これを受け入れて、応じることを意味します。「悔い改める」の元々の意味は、心を変えるということです。心の向きを変えるとも言えます。神様の呼びかけへの応答は、神様に背いた生き方、即ち、反抗的な生き方、惰性に従った生き方、曲がった生き方などから、方向転換して、信仰を持ってキリストにおける神に向かって生きることです。 /n方向転換  「大きな悔い改め」が求められる時があります。生き方の大いなる方向転換の時です。つまり、イエス様を「主」として「キリスト」として受け入れていく決意をする時です。多くの人はイエス様の御言葉や生き方や聖書を通じてその決意が与えられます。「与えられる」と言いました。これは、聖霊によって与えられるとしか言いようがありません。しかし、神様は神様に向かって生きる人に聖霊を送ってくださるのです。 又、悔い改めは、「大きい悔い改め」の後にも必要になる時があります。人生の大きな選択で悩んでいる時、巧みなサタンの誘惑にあっている時など、多々あります。罪ある私達は、日々、神様に方向を向ける確認をしていないと、それてしまいやすいからです。そんな時こそ聖書を読み、神様に祈っていく態度が必要です。そのことによって聖霊(神の霊)が与えられて、正しい方向へ軌道修正してもらえます。それは大いなる恵みといえます。悔い改めは厳しいもののようにイメージされることがあるかもしれませんが、実は裁きではなく、救いに与る希望の源なのです。 /n「福音を信じなさい。」  福音とは「よき知らせ」という意味です。神の「よき知らせ」=神様が罪の世界に陥った人間を救うべく計画を立ててくださり、御子イエス様をこの世に送り、イエス様の十字架上での死によって、人間すべての罪を贖ってくださったこと、そして、その死にも打ち勝ち、復活されたことで、神様と人間の関係が回復されたこと、又イエス様が人間として歩まれた時にお教えくださった御言葉や癒しの奇跡など、救いの喜びの中身です。神様が私達をいかに愛して下さっているかを切に感じます。イエス様はその証となられるお方です。 /n「信じなさい。」  これは確信を抱くとか、信頼するという意味を含んだ言葉です。「そうである!」と強く思い、それをプラスに受け取っていく意味です。讃美歌や祈りの最後の「アーメン!」は、「まさにそうです!」という意味です。私達は礼拝や信仰生活の中で、神様やイエス様に向かって生きることを肯定され、人生を積極的に歩んでいけるように祝福された存在なのだということを、示されています。 「福音を信じる」こと、それを証することで主に招かれているわけです。 /n弟子の選び  イエス様は、まず御言葉を宣言されましたが、次になさったことは、弟子の獲得でした。地上に基盤を立て、伝道するための礎となる人々を探し出すことでした。神様の御用の為に働くのであれば、イスラエル社会ではレビ族出身者ときまっていました。しかし、イエス様はそんな掟はお構いなしに、旅の途中の通りすがりにその場で働いている人に実に無造作に呼び掛けています。そして、呼び掛けられた二組の兄弟達も、すぐにすべてを捨てて従っています。私のように持ち物が多く未練がましい人間から見れば、彼らの行動はついつい、「本当?」と疑ってしまいます。シモンとアンデレという兄弟の家も、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの家もそれほど貧しいわけでもなく、特に後者のヤコブとヨハネの家は雇い人もいるので、かなりの資産があったのでは?と言われています。でも、四人ともすぐにすべてを(家族も財産も)捨てて「わたしについてきなさい。」というイエス様の呼びかけに従ったのです。シモンとは弟子の筆頭となるペトロのことです。この4人は12使徒に選ばれていますし、その内三人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)は核になる弟子として、死んだ娘の蘇生(5:35-43)、山上の変容(9:2-13)、ゲッセマネの祈り(14:32-42)など、重要な場面にイエス様が三人だけ許して立ち合わせておられます。 /n主の召しに答える  二組の兄弟は、主の召しにすぐに答えそれまで積み重ねてきたものすべてを捨てて、主に従うという行動をしました。「主の召しに答える」ということでは、アブラハムやモーセの信仰を思い起こします。主が安住の地に導くことを約束され、それをひたすら信じていけばいいのです。彼らはそう信じ、そう行ない、神様の祝福を得ました。思い煩いの多い私などがその立場になったら、途中の困難に出会うたびに、いちいち立ち止まって動けなくなるな~と予測できます。四人の弟子達は核になる弟子と言いましたが、実は、いろいろ失敗して、イエス様を激しく怒らせたり、絶望させていますし、イエス様の受難の際には逃げ去ってしまっています。しかし、イエス様の復活の後は、悔い改めて、許され、福音伝道に邁進したのです。彼らの歩みは、実にこの点で後に続く信徒の慰めになります。 /n後に続くわたしたち  「イエス様の福音に触れ、従う」という大きな決意をします。「悔い改め」です。「主の教えを学べる立場」になります。これが、「礼拝をささげて、説教を聴き、御言葉の解き明かしを聴く」ことになります。そのような恵みにありながら、時々主の意にそぐわない言動をしてしまいます。「神様に赦しを請う」ため祈ります。イエス様のお働きにより聖霊が働いて、赦しを得、その恵みに感謝します。その「恵みを広めたい」と思うようになり「そのように働く」ものとなります。この一連の流れは一日の単位でも、一週間単位でも、一年単位でも、人の信仰生活上でも起こり得ることです。進んで、失敗しなさいといっているわけではありません。神様に心を向けていれば、必ず聖霊が働いて赦しを得ることができ、力強く歩んでいけることを四人の弟子達が表している、とお伝えしたかったのです。 /n「人間をとる漁師」  今日の聖書に「人間をとる漁師」という表現がでてきます。「漁師」ということで、今日の旧約聖書のエレミヤ書などでは、敵を表現するもので、あまりいい意味はありません。「漁師」ではないのですが、わたしもかつて、この世で、人をとる仕事をしていました。採用係といって、企業に働き口を求めてやってくる学生さん達を選んで採用する仕事です。会社や社会システムの矛盾を疑問に思いながら、「うちの会社はいい会社です。あなたの可能性を高めます」などとあまり思ってもいないことを言わなくてはならず、うそをつかねばならない罪悪感の中で仕事をしていました。会社説明会でも大勢の前で説明する立場になり、「どうせなら真実を語る口にしてほしい」と秘かに願っていました。ちょうど教会の門をたたいた頃でした。  数年たって洗礼を受ける決意を与えられましたが、礼拝だけは守る姿勢で歩んできました。恵みを受けて、このたび、福音宣教の仕事を担わせていただけるようになりました。信仰の基準が高いわけでは全然ありません。この期に及んで御言葉を勉強中です。この世の中にありながら、どうにかこうにか心を神様に向け、なんとか守られたとしかいいようがありません。かつてこの世をアップアップしながら泳ぎつつ、神様の清さと愛の大きさにあこがれつつ、生かしていただいてきた自分を思い出します。 /n福音伝道に必要なもの  仕事やこの世での生活で大変な思いをされている人が多いと思います。しかしそこに埋もれないで、心を神様に向け続けて下さい。イエス様はそのために、あなたを救いに入れるために福音を宣べ伝えて下さったのです。説教題の「福音伝道に必要なもの」。「もの」をひらがなにした理由を話します。二つ意味があります。「物」として、福音伝道に必要な物は「あなたの、神に向けられた心」です。「者」として、福音伝道に必要な者は「福音に触れ、神に心を向け、主に従う決意をした者」です。即ち、神の側につくと決意できた者です。あなたがそうなることを神様は愛を持って待っておられます。

「ユダヤのベツレヘム」 牧師 佐藤 義子

/n[ルカによる福音書] 2章1-7節 1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 /nはじめに  ベツレヘムはパレスチナの中央山脈地帯に属するユダの町で、最も肥沃な地帯の一つです。北側の丘にはオリーブが茂り、東側のゆるやかな斜面には小麦が豊かに実りました。ベツレヘムは昔エフラタと呼ばれ、旧約聖書にはエフラタとベツレヘムの両方の名で出ています。ベツレヘムはダビデの出身地として知られ、さらに時代をさかのぼれば、ルツの夫の出身地でもありました。 /nルツ-ダビデ-マリアの夫  ルツ記の初めに「ききんが国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れてユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人の名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。」とあります。ナオミの夫エリメレクはその後亡くなり、二人の息子達はモアブの女性を妻に迎えますが、10年後には二人の息子も死んでしまいます。ベツレヘムのききんがおさまったことを知ったナオミは一人故郷に帰ることにして、若い二人の嫁には実家に戻るように説得します。ところが嫁の一人、ルツはナオミについていくと聞かず、ついにナオミは説得をあきらめルツを連れてベツレヘムに帰ります。ベツレヘムで落ち穂拾いに出かけたルツは、農夫達の後について畑に入ると、そこはたまたま夫の父エリメレクの親族ボアズの畑でした。やがてルツはボアズと結婚して男の子(オベド)を産み、オベドは成人してエッサイの父となり、エッサイの末の息子がダビデです。羊飼いだったダビデはやがてイスラエルの国王となり(BC1000)、このダビデの家から救い主が生まれるとの預言が与えられ、イスラエルの民は長い間、救い主(メシア)を待ち望んでいました。マタイ福音書の系図によれば、マリアの夫ヨセフはダビデから数えて26代目にあたります。 /n人口調査  今日の聖書には、ローマ皇帝から全住民に登録の勅令が出たとあります。人口調査です。強制的に出身地に戻っての登録のため、ナザレに住んでいたヨセフとマリアは120キロも離れたヨセフの出身地ベツレヘムに帰ることになりました。絵画等でマリアがろばに乗り、ヨセフがたずなをひいて歩く姿が描かれていますが、当時、臨月のマリアをつれての旅は、どんなに大変で、また危険が伴っていたことでしょう。 >> 「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6-7節) << /nべツレヘム 「エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを治める者が出る。」(ミカ書5:1) 預言者ミカ(BC750-686)は、神様がこの小さな町ベツレヘムをメシア誕生の場所として選ばれていることを預言しました。それから700年以上の年月を経て、イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになった。これは、たまたまではなく、偶然でもなく、神がこの世の権力者の人口調査という計画を用いて、ベツレヘムのダビデの血をひく、さらにはモアブの女性ルツの血を引くヨセフという男性を父親として選び、婚約者マリアをベツレヘムまで導かれた、ということです。これは神様のご計画による約束の成就!以外の何ものでもありません。 /n飼い葉おけ  イエス様が誕生されて初めてのベッドが家畜の為の飼い葉桶でした。ユダヤ人として生まれたイエス様は、始めからローマ皇帝勅令によって旅の途中で誕生し、イスラエルの国の歩みの苦しさと貧しさと共に生きられました。飼い葉桶の理由を口語訳では、「客間には彼らのいる余地がなかったから」と説明しています。お腹の大きなマリアの為に自分のベッドを譲る人は誰もいなかった、ということでしょう。この世の権力からも富からも、そして人々の愛からも遠く離れたこの飼い葉桶に寝かされた幼子は、しかし神様の深いご計画の中で何の支障もなく、誰にも邪魔されず、神様の大いなる恵みの中で天から地上に降られたのでした。(後略)

「ペトロの説教」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 44章21-23節 21 思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。 22 わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。 23 天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。山々も、森とその木々も歓声をあげよ。主はヤコブを贖い/イスラエルによって輝きを現された。 /n[使徒言行録] 3章11-26節 11 さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。 12 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。 13 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。 14 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。 15 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。 16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。 17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。 18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。 19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。 20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。 21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。 22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。 23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』 24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。 25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。 26 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」 /nはじめに  本日は、しゅろの日曜日(パームサンデー)です。ヨハネ福音書12章にはイエス様がエルサレムに来られると聞いて、大勢の群衆がなつめやし(しゅろのこと・英語では、date-palm)の枝をもって迎えに出たことが記されています。しゅろの日曜日から始まる一週間を、受難週(Passion Week又はHoly Week)と呼んでいます。私共の伝道所では受難週の月曜日から金曜日まで毎日30分間を黙想会として持ちます。約2000年前のイエス様の最後の一週間の足跡をたどり、受難と死の意味(自分が罪赦された者とされ、あがなわれたこと)を黙想するひとときです。 /nペトロの説教  今日の聖書は、祈る為にエルサレム神殿の中に入ってきたペトロとヨハネにつきまとっている男が、エルサレム神殿の「美しい門」のそばで施しを乞うていた生まれつき足の不自由な男だと知って、人々が驚きをもってペトロとヨハネのもとに集まって来ました。そこでペトロは話し始めます。 ペトロは、まず彼らの誤解を解くことから始めました。民衆は、立つことも歩くことも出来なかった男が今、目の前に立って歩いているのはペトロとヨハネがいやしたからだと考え、こんな奇跡を行うペトロとヨハネに対して驚きのまなざしで見つめています。しかしそのように見る限りこの出来事を説明することはできません。ペトロはまず「これは私達の力や信仰によるのではなくイエス・キリストによるものである」と宣言しました。男を癒したのは「イエス・キリスト」であり弟子ではないのです。イエス・キリストは神から遣わされたお方です。奇跡は神のみが行う業であり、神の御名が崇められることに、奇跡の業の根拠と目的があります。歩けるようになった男は、神様がイエス・キリストの名によって、神のみ業をなされた、そのあかしでもあります。 /nイエス・キリストの現臨  このいやしは、イエス・キリストに対する信仰が呼び起したものです。弟子達の信仰はイエス・キリストの言葉と行為を通して植えつけられた信仰であり、今弟子達はその信仰によってイエス・キリストに呼びかけ、イエス・キリストからいやしを受け取ることによってイエス・キリストの栄光が現わされることに奉仕をしています。使徒言行録では「イエス・キリストの名によって」罪が赦され,救いが起こされ,悪霊が追放されます。「名による」とは、そこにイエス・キリストが現臨することです。 /n預言の実現  ペトロは民衆に、このいやしの奇跡を起こされたイエス・キリストを、あなたがたは殺してしまったが、それは無知のためだった。しかしイエス・キリストのご受難は、あらかじめ旧約聖書で予告されていた神様の救いのご計画の中にあったこと、イエス・キリストの死は結果としてイスラエルの不信仰と罪によって、神の救いのご計画を実現することになったことを語りました。それゆえにユダヤ人達は、「その罪を離れ、回心して、自分達が殺してしまったイエス・キリストを救い主メシアとして信じる」道が用意されているのです。 /n悔い改めは罪の赦しの第一歩  ペトロは、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(19節)と迫りました。ユダヤ人のみならず全ての人は、悔い改めて神のもとに立ち帰るならば、神の赦しを受け取ることができ、その罪から解放されるのです。第二に終末と再臨の約束が語られます。ペトロはこの時を「主のもとから慰めの時が訪れる」と表現します。今、私達にはさまざまな苦痛があり、悲しみがあります。しかしその時には、神様の栄光が現れ、歴史の苦痛に満ちた歩みは、終りを告げます。 この時を迎えるために私達がなすべきことは、旧約聖書の言葉に従うことであり(22節以下)、それはイエス・キリストに聞き従うことです。

「インマヌエルの恵み」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 8章9ー13節 9 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。 10 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。 11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。 12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。 13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。 /n[マルコによる福音書] 3章7ー19節 7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。 /nはじめに  前回は、安息日に手の不自由な人を癒されたイエス様に対してファリサイ派を中心とする反対勢力がイエス様を亡きものにしようとする計画を立て、ここに十字架への道が始まったことをお話しました。  今日の箇所は、イエス様が神の国の福音をできるだけ広める為に、反対派の本拠地である「会堂」を出て御自分の本拠地ガリラヤ湖畔に戻ってこられた時のことです。イエス様が来ると知った人達は、地元のガリラヤ地方からだけでなくユダヤ全土や、国境を越えた地域からイエス様の「そばに」押しかけました。 /nそばに  今日の新約聖書には「そばに」という表現は合計5回でてきます。前半の「そばに」は、目的を表す前置詞が使われ、イエス様の新しい教えや癒しの業に救いを求めて来た人々の切実さが表されています。後半の「そばに」は、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」とあるように、「共に」「一緒に」と言う意味で、飲む、食べる、祈る、笑う、泣く、住むなど人間の基本的な行動の動詞と一緒に使われる言葉です。この言葉は7節の「弟子たちと共に」でも使われています。イエス様が、神の国を広めるために、使徒や弟子たちと行動を共にし、交流し、愛していこうとされている恵みを読み取ることができます。又、たとえ話で比ゆ的に語られる民衆とは違い、使徒達は神の国の性質や働きについて直接的にイエス様から解き明かしを受け、学びを深めていくことができました。イエス様からそのように愛を受け、育くまれ、学んで、信仰者として一人立ちして外の世界に出され、福音を宣べ伝えられるようになり、同時にイエス様の力を分けていただいて、悪霊を追いだす力をいただくことが出来るようになりました。 /n12使徒の選び   イエス様が山に登り、特別な働きのために12人の使徒を選ばれたことが13節以下にありますが、特にシモン(ペトロ)・ヤコブとヨハネ(雷の子ら)は別の名前が与えられ、12人の中でも核になる存在でした。最後に出てくる「イスカリオテのユダ」には、「このユダがイエスを裏切った」と説明がつけられています。これを見ても、悪魔に支配されたこの世の罪深さを思います。この「罪」が最終的に神の御子イエス様を十字架につけるのです。逆に、そのような罪をあがなってまでも神様は人間を愛したい、一緒に歩もうと呼び掛けて下さっているのです。 /n群衆と使徒  今日の聖書の二つの段落は実に対照的です。前半は自分が救われる為に神の御子の権能を利用しようとした群衆について記され、後半には、イエス様の招きに従い自分の生涯を献げ、役割を与えられた使徒達について記されています。どちらもこの時、イエス様の「そば」にいる恵みを与えられています。違うのは、「従う覚悟」と「神様が期待する役割」です。群衆にとってイエス様は、無料で病気を治してくれる都合のいい医者であり、自分の利益のための神様です。一方、使徒にとって、イエス様は自分の全生涯をかける救い主です。彼らは、神の国建設の働き手であり、その働き手としてふさわしくなるよう、イエス様のもとで教育を受け、成長させられていくのです。私達はどちらでしょうか。なぜ今、私達はイエス様の「そばに」いるのでしょうか。   /n「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」  イエス様はこのように福音宣教を始められましたが、まだその御旨は完了していません。御言葉を知らない人々の救いが残っているからです。しかし私達は神様が共にいて下さる恵みを知っています。私達は神様の恵みを得てイエス様の教えを生涯かけて信じ、従っていく決意をした者です。そのことを心から感謝し、イエス様が取り組まれた「この世に神様の御国を建てるため」の御旨に用いていただけるように、成長させていただけるように、神様に祈り求めてまいりましょう。

「神に受け入れられる人」」 佐藤義子 牧師

/n[申命記] 10章12ー18節 12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、 13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。 14 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。 15 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。 16 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。 17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、 18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。 /n[使徒言行録] 10節1ー48節 1 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、 2 信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。 3 ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。 4 彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。 5 今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 6 その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」 7 天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、 8 すべてのことを話してヤッファに送った。 9 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。 10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、 11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。 12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。 13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。 14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」 15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 16 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。 17 ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、 18 声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。 19 ペトロがなおも幻について考え込んでいると、““霊””がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。 20 立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。 21 ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。 22 すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」 23 それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。 24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。 25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。 26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」 27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、 28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」 30 すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、 31 言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。 32 ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』 33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」 34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」 44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。 /nはじめに  本日の聖書は、内容から6つに分けられます。コルネリウスが見た幻について、ペトロが見た幻について、ペトロとコルネリウスの使者との面会、ペトロとコルネリウスとの対面、ペトロの宣教、そして異邦人にも聖霊が降(くだ)ったという出来事です。 /nコルネリウス  彼は、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」人でした。ある日、幻の中で天の使いからペトロという人を招きなさいと命じられます。彼はすぐに使者を遣わしました。 /nペトロ  他方、ペトロも幻を見ます。幻に、獣や空の鳥など(レビ記11章で清くないとされるもの)が入っている大きな布のような入れ物が天から降りて来て、それを食べるように言われます。ペトロは、清くない物は食べたことがないと断りますが「神が清めたものを、清くないなどといってはならない」と声が聞こえ、このやりとりが三度あって入れ物は引き上げられます。ペトロが幻の意味について思案に暮れている時、コルネリウスの使者が到着します。すると神の霊が、ペトロに彼らと一緒に出かけるようにと促します。 /n異邦人との面会  ユダヤ教徒はユダヤ人以外の外国人(異邦人)と付き合うことは禁じられていたので、ペトロは異教徒を家に招き入れて話をすることなど考えられませんでした。しかし彼は神の霊に従うという信仰の決断をして、使者を家に泊らせ、翌日、彼らと一緒に出発しました。 /nコルネリウスとペトロの対面  コルネリウスは、親類や親しい友人達を呼び集めて、ペトロの到着を待っていました。ペトロはコルネリオと会い、彼の幻の話を聞き、家で待っていた大勢の異邦人に福音を伝える宣教の使命を確信します。 /nペトロの説教  ペトロは、自分が見た幻から始まる一連の出来事が、すべて神様のご計画の中にあり、ユダヤ人とか異邦人とかの区別なく、「神様を畏れて正しいことを行う人は、神様に受け入れられる」ことを宣言しました。そして、イエスを救い主として信じる者は誰でもキリストの名によって罪の赦しが与えられることを宣言したのです。 /n聖霊が異邦人に降る  ペトロがまだ語っている最中に、そこにいた異邦人達の上に聖霊が降(くだ)りました。ペトロは異邦人にも聖霊が降ったのを見て、その場で彼らに水の洗礼を授けました。 /n異邦人への救いは、神様の御計画。  コルネリウスは、自分の民族の宗教に甘んじることなく、ユダヤ教の伝える天地創造主である神様を信じ、聖書の教えに従い、隣人への愛に忠実でした。家長としての役割も果たし、幻で与えられた指示にもすぐ従いました。神様を愛し、人を愛し、真実を求めて生きていたコルネリウスを、神様は異邦人への救いの道を開かれる時の証人とされました。 ペトロは、清くない物を食べるようにと言われた天からの声を、最初は理解できませんでしたが、神様に従順でありたいと願う信仰によって、「神様は人を分け隔てなさらない」ことを知らされ、民族の壁を越えて宣教の使命を果たしました。 私達はこの神様の導きに従って歩む者です。

「生きておられる神」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 19編2-7節 2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。 6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように 7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。 /n[使徒言行録] 14章8-20節 8 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。 9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、 10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。 11 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。 12 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。 13 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。 14 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで 15 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 16 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 17 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 18 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。 19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。 20 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。 /nはじめに  今日の聖書には、リストラ(地名)で起こった3つの話が記されています。一つは、生まれた時から歩いたことがなかった男の人がいやされた話。二つ目は、パウロとバルナバが、神の化身と間違えられたこと。三つ目は、追いかけてきたユダヤ人達により石を投げつけられ、倒れたことです。 /nまことの癒し主  9節に、「この人が、パウロの話を聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」たとあります。ロマ書に、<span style="font-weight:bold;">「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」(10:14)</span>とあります。この男の人はパウロの話に耳を傾けました。信仰はまず聞くことから始まります。そしてこの人は聞いたことを信じて聴き続けました。パウロは彼を見つめ、彼の信仰を見て、彼の信仰がいやされるにふさわしい信仰であることを認めて、大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と呼びかけました。この呼びかけは、神様から聖霊をいただいているパウロを通しての、神ご自身の呼びかけでもあります。この人は、この呼びかけによって、生まれて初めて「自分の足で立ち、躍り上がって歩き出し」ました。14章の3節に<span style="font-weight:bold;">「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」</span>とありますが、この不思議な業の主体は常に「主」イエス・キリストであることを、使徒言行録は伝えています。これによって賛美され、崇められるべきお方は神であり、主キリストです。 /n伝説  この地方には、かつてゼウス神と、神の使いヘルメスが変装して地上を訪問した時、神と知らずに冷たく迎えた者と、暖かく迎えた者についての伝説がありました。人々は今目の前で起こったいやしの行為者であるパウロとバルナバを神の化身として崇め、二人にいけにえを捧げようとしました。それを知った二人は、驚きと嘆きで服を裂き、群衆の中に飛び込んでいきました。そして、群衆の誤った神に対する考え方を正し、天地創造主である本当の神、「生ける神」に立ち帰るように叫びました。 /n「生ける神」  生ける神とは「天と地と海と、その中にある全てのものを造られた神」(15節)のことです。この神様と比べるなら人間の手による偶像は無の世界、死の世界に属します。生ける神様は、異邦人にはこれまで彼ら自身が悪の道を歩むに任せておられたので、異邦人は、神について勝手に自分達で考え出した宗教を作り、空しい偶像を作り出しました。しかし神様は異邦人にご自分を現す手段として、天から雨を降らせ、雨と共に土を豊かにして実りの季節を与え、食物を得ることによって彼らの心を喜びで満たして、神様のいつくしみを表わしてきました。この、心に喜びが与えられるという神様のいつくしみの業こそ神様のしるしであるから、今こそ空しいことを捨て去り、パウロ達を神々として祭るような、馬鹿げた愚かな、古い宗教に終止符を打ち、生きて今も働いておられる神様に立ち帰るよう説得したのでした。 /n石打ち  この後、伝道を阻止しようとやって来たユダヤ人達が、又もや群衆を扇動してパウロ達に石を投げつけました。パウロは倒れたまま動かなくなったので、ユダヤ人達は死んだと思い町の外へと引きずり出しました。20節にはパウロの周りを「弟子達」が取り囲んだとあります。「弟子達」とは新しくイエス・キリストを信じた人々です。このリストラの地でも、新しいキリスト者の群が生まれていたのです。死んだように見えたパウロでしたが、神はパウロを殺させませんでした。彼は起き上がり、町に再び入り、翌日には、次の伝道地デルベに向かいました。ここに、パウロの命を守り、起き上がらせ、歩く力を与えておられる主イエス・キリストの力を見ます。伝道は着実に前進していきました。