ペンテコステ礼拝 「聖霊とわたしたち」 倉松功先生

/n[イザヤ書] 59章20-21節 20 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。 21 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると/主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊/あなたの口においたわたしの言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/あなたの子孫の子孫の口からも/今も、そしてとこしえに/離れることはない、と主は言われる。 /n[使徒言行録] 2章1-4節 1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4 すると、一同は聖霊に満たされ、““霊””が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 /n[使徒言行録] 2章32-33節 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 /n[使徒言行録] 2章38節 38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 /nはじめに  今日はイエス・キリストが復活なさった過越しの祭りから数えて50日たった五旬節(ペンテコステ)の日で、教会がこの日に始まったという記念の日です。使徒言行録2章には、当時の全世界といってもよい、七つの民族と九つの地方(9節‐11節)から、五旬節の為に人々がエルサレムに集まっていたことを伝えています。その時に「聖霊」がくだって教会が始まったのです。  今日は全世界の教会でペンテコステを記念する礼拝が守られています。大事なことは、教会が始まった時に聖霊が降った(くだった)ということですから、「聖霊とは何か」ということを聖書から学び、心の中にきちんと入れておきたいと思います。そこで今日は、以下の三つのことについてヨハネ福音書14章から学びたいと思います。 +聖霊とは何か +聖霊はいつ降ったか +聖霊と私達の関係 /n1.聖霊とは何か >>  「わたしは父(なる神)にお願いしよう。父(なる神)は別の弁護者(ヘルパー・助け主)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(16-17) <<  この言葉から、主イエスが聖霊(助け主)を父なる神にお願いする、ということがわかります。しかもその霊は「あなた方と永遠に一緒にいるようにしてくださる」のです。同じことが26節でもいわれます。 >> 「しかし、(助け主である)弁護者、すなわち、父(なる神)がわたし(主イエス・キリスト)の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方 にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。 <<  ここでは父なる神が、主イエス・キリストの名によってお遣わしになるのが聖霊です。(*16節では、主イエスが父なる神に願う)。「真理の霊」(17節)は、主イエス・キリストについて「何をなさったか、どのような教えをされたか」ことごとく思い起こさせて下さいます。 /nまとめ +聖霊は父なる神と主イエスから遣わされる +聖霊は助け主・真理をあかしする霊として、常に永遠に、私達と共に、主イエスについて、あかしをする。  使徒パウロの言葉でいえば、「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(Ⅰコリント2:11)。わかりやすくいえば、神のことは、神の心を持っている人以外には知らないということです。又、「聖霊によらなければ、誰もイエスは主であるとは言えないのです。」(同12:3)。 /n2.聖霊はいつ降(くだ)ったか  聖霊はペンテコステに降ったことが使徒言行録に記されていますが、主イエスご自身が前もって語っておられます(ヨハネ16:7)。 >>  「しかし、実をいうと、私が去っていくのは、あなた方のためになる。私が去って行かなければ、弁護者(助け主)はあなた方の所に来ないからである。私が行けば、弁護者(助け主)をあなた方の所に送る。」 <<  主イエスが昇天すれば、助け主なる聖霊をあなた方の所に送ると主イエスご自身がここで言われています。これは主イエスが父なる神のもとに昇天されるということです。主イエスが昇天されて父なる神のもとに行くと、神と主イエスから聖霊がこられる。ここにキリスト教の教え「三位一体」ということが非常にはっきり出て来ます。キリスト教の教会では、聖霊降臨日の前に主イエス・キリストが昇天する「昇天日」(五旬節の10日前・今年は17日)があります。 /n3.聖霊と私達の関係  イエス・キリストが言われたように聖霊がくだりました。使徒言行録にあるように、当時の全世界の人々が集まった所に、聖霊が降って教会が始まりました。聖霊と私達の関係とは、教会が建てられた(始まった)ということです。教会を通して、主イエス・キリストが語られるということです。主イエスが何をなさったか、どういうことを教えておられるかということは教会でしか語られません。勿論私達は個人で聖書を読んだり聖書の話を聞くことが出来ます。しかし、「主イエスの名のもとに2、3人集まり」(マタイ18:20)、そこでイエス・キリストがなさったこと、教えられたことをきちんと語られるのは教会です。自分で納得出来る聖書の読み方も大切ですが、牧師(神様によって聖書を証しする為に召された)を通して聖書の言葉を聞くということ、「二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)のが教会です。 >> 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)。 << >> 「私達から神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」(Ⅰテサロニケ2:13)。 <<  教会によってキリストが語られる。語られる言葉を、私共が主イエスの言葉として受けとめ、主イエスの言葉として私共の中で力になる。それがまさに聖霊の働きです。主イエスが父なる神にお願いして、父なる神が主イエスの名によって主イエスのなさった事、教えられたことを証しする。そこに聖霊が降る。それが教会の最も中心的な営み、業(わざ)です。聖霊は、父なる神が主イエスの名によって、主イエスについて証しする時に、それを受け入れる時に働く力、神の力、それを私達は聖霊と理解することが出来るし、そのように教会で働く聖霊の力、それが私共にとって最も大事なことではないかと思います。そういうわけで、「説教」というのは、私共が主イエスの所に連れて行かれるか、主イエスが私共の所に来るところ、と宗教改革者ルターは言っております。大変わかりやすい言葉です。「説教」は、主イエスについて語られるわけですから、そこに聖霊が働いて、説教によって神の言葉が証しされることによって主イエスが私達の所に来られる、あるいは、私共が主イエスの所に導かれる、というふうにも理解出来ると思います。「主イエスを証ししない説教」は、聖霊は働きません。人間の言葉、人間の政治的な意見、人間の社会的な意見とかには「聖霊は働かない」 と言わざるを得ません。キリストを離れて聖霊は存在しません。主イエスとかかわらない聖霊は、聖霊とはいえません。霊の高ぶり、心をゆさぶられる、感動した、等ありますが、主イエスに関係しない心の高ぶり、感動というものは、感情の働きではあるけれども、聖霊の働きとはいえないでしょう。  聖霊によって教会が始まったということ、そして聖霊によって私達は主イエスのところに導かれ、あるいは主イエスが私達に届けられる、ということから、聖霊というのは、教会を中心にして考えられます。  最後に私達と聖霊の関係について、もう少し日常的な信仰生活のことについて考えてみたいと思います。 /n聖霊とわたしたち >> 「霊の初穂(聖霊)をいただいている私達も、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私達はこのような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。私達は、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、「霊」も弱い私達を助けて下さいます」(ローマ書8:23)。 << >> 「私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜らないはずがありましょうか。」 (同8:32)。 <<  このことは、使徒言行録2章と密接に関連しています。それが以下のペテロの説教の中心的な部分です。 >> 「神はこのイエスを復活させられたのです。私達は皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて 注いで下さいました」(32-33)。 <<  主イエスは私共の罪のために十字架につけられた、そしてその御子は復活され天に上げられた。そのことを言っています。 >> 「私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜らないはずがありましょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。誰が私達を罪に定めることが出来ましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達のために執り成して下さるのです」(ロマ8:32-34)。 << >> 「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことは出来ないのです。」(同38‐39) <<  パウロは、「父なる神が私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」と語りましたが、これが神の愛です。主イエスが昇天をして父なる神とご一緒におられ、そこから父なる神が主イエスの名によって、聖霊を送ってくださる。これが 「キリストを通して神が私達と結び合う力」です。 「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物 (神以外の人間・自然)も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことは出来ない」のです。なぜならば、主イエスの名によって、聖霊の力によって結ばれている からです。これがペンテコステにおいて、私達と聖霊との関係の一番重要なところではないかと思います。

説教要旨 「一匹の羊」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 18章10-14節  10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 11 *人の子は、失われたものを救うために来た。 12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 /nはじめに  これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(10節)とありますように、私達は気をつけていないと、小さな者を軽んじてしまうことがあることを警告しています。人は人に対して優劣をつけたがります。特に相手の人が自分より優れているか,そうでないかによって相手への態度を決めたがります。初対面の場合、その判断のもとになる情報を相手から聞きたがります。社会では、肩書きがある人、学歴や地位、財産など力がある人に対して、一目おく空気があります。 /n教会の中にも  教会にもこの世の価値観が入り込んできます。ヤコブ書に「私の兄弟達、栄光に満ちた、私達の主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、又、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたはこちらの席におかけください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、私の足下に座るかしていなさい』というなら、あなたがたは、自分達の中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。良く聞きなさい。神は世の貧しい人達をあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさったではありませんか。」(2:1-5)とあります。 /n小さな者  小さな者がどれほど大切であるか、イエス様は譬え話をされました。 主人公は100 匹の羊を飼っていました。彼は羊に草を食べさせ水を与え、獣や羊泥棒から杖や石投げを使って群れを守りました。家に戻る時に、一匹足りないことに気付きました。羊は視力が弱く、放っておけば自分で群れに戻ることは不可能といわれます。野獣にかみ殺されるか、谷底に落ちるか、羊泥棒にさらわれ売り飛ばされるか、飢え死にします。  飼い主はこのまま迷い出た羊を放っておくことはありません。99匹を山に残して迷い出た一匹を探しに行きます。そしてついに羊を見つけて、「99匹より、その一匹のことを喜ぶ」(13節)という譬え話です。 /n山とは教会  ある註解者は99匹が山に残されることに注目します。山はイエス様が集中的に福音を伝え教えられる場所であり、そしてイエス様が変貌された場所(17 章)でもあり、さらに又、復活したイエス様が弟子達を招いて宣教の使命を与えられた(28:16)場所でもありました。山は聖なる特別な場所で「教会」が暗示されていて、教会で100匹の羊が,羊飼いイエス様に導かれて養われていると理解します。しかしそこから一匹の羊が迷い出た、つまり、信仰の挫折、信仰から離れてしまった状態になった時、羊飼いの愛はそのまま放ってはおきません。 /n神様の御心  結論は「小さな者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではない」(14節)ということです。一人のとうとさ、かけがえのなさ、その一人を徹底的に探し求められる神様の愛を心に刻み、私達教会の群れも失われた羊を探し求めて連れ帰ることを忘れてはなりません。 /n教会の群れの所有者は神様です。  それゆえ弱くても、小さくても、神様の所有である羊どうし互いに軽んじないように気をつけましょう(10節)。エゼキエル書にこうあります。 >> 「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群を探しだし、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっている時に、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。私は彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。私はイスラエルの山々、谷間、又,居住地で彼らを養う。私は良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。私が私の群を養い、憩わせる、と主なる神は言われる。私は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(34:11‐16)。 << /nすべての人は、羊飼いに守られるべき羊  豊かな人も貧しい人も、若い人も高齢者も、健康な人も病める人も、障害をもっている人も、仕事のある人もない人も、教会の門から入ってくるように、門は開かれています。そして、教会の中には序列はありません。牧師は説教の役割が与えられ、信仰告白共同体の群れのお世話を、役員と一緒にしますが、序列ではありません。私達すべてが羊であり、羊飼いはイエス様です。私達は聖書を通してイエス様の言葉に聞き従っていく群れです。教会は、牧師や役員が所有している群れではなく、所有者は神様です。それゆえ、群れの中に弱い者、小さな者がいたとしても、神様の所有であるゆえに、私達は軽んじてはならないのです。強くても弱くても、大きくても小さくても、神様の目からご覧になれば、みな等しくかけがいのない、愛する羊、愛する魂なのです。 /n迷い出た羊は、1人では戻れない  迷い出た羊は一匹だけで生き延びることはできないように、教会から離れた魂は自分だけで命の泉から水を汲むことはむつかしく、滅びの道へとつきすすみます。この世の支配、私達を神様から遠ざけるこの世の罪の支配は、すさまじいほどに強く、私達の目をくらまします。小さな者が1人でも滅びることは、父なる神様の御心ではないゆえに、私達は互いに祈り合い、支え合い、羊飼いのイエス様の後をしっかりついていきたいと願うものです。

2008年元旦礼拝 牧師 佐藤義子

/n[テサロニケの信徒への手紙一] 5章12-28節 12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、 13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。 14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。 16 いつも喜んでいなさい。 17 絶えず祈りなさい。 18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 19 ““霊””の火を消してはいけません。20 預言を軽んじてはいけません。 21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。 23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。 25 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。 26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。 27 この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。 28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。 /n  19世紀に生きたイギリスの牧師にスポルジョンという人がいます。彼の残した説教の中に「妥協はしない」と題したものがあります。アブラハムがしもべに、息子のための嫁さがしを命じている聖書の個所を取り上げたものです。アブラハムが僕に命じたことは、一人息子イサクの妻は、現在アブラハムが住んでいるカナンの娘から探すのではなく、アブラハムの一族が住んでいるアブラハムの故郷、メソポタミアのハランの町に行って探すように、というものでした。(カナンとハランがどれくらい離れているかを、聖書に添付されている地図1頁で確認してください。)しもべはアブラハムに尋ねます。もしも自分が見つけた女性が、ハランからカナンに移り住むことを嫌がる時には、その時には、息子の方を、アブラハムの故郷ハランに移り住んでもらっても構わないでしょうか、という質問です。アブラハムの答えは明快でした。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」(創世記24:6-8)  説教題の「妥協はしない」というのは、おそらくここからつけたものでしょう。スポルジョンは説教で語ります。しもべが出発前に主人の意見を聞く。私達も仕事をする前に、まず神様に向かって語り、聞く。その仕事の困難さを考えているならそれを打ち明け、神様が何を期待し、又助けて下さるかを聞きましょう!と。私達は、最初に地上における目に見える人や事柄に対して向き合おうとするけれども、そうではなくて、まず神様に向かって祈ってから、それから人や事柄に向かうということです。しもべは、自分に命じられたことの中で心配していることを尋ねます。その結果、主人アブラハムからは明快な答えを聞くことが出来ました。  このしもべに与えられた仕事は、主人の後継ぎの結婚という、とても責任の重い仕事であり、むつかしい仕事でもありました。彼は知らない土地を長旅しなければなりませんでしたし、主人の息子にふさわしい女性をみつけねばなりませんでした。その女性は、息子イサクの喜びとなり、イサクの愛すべき伴侶となるのです。そしてアブラハムが神様に与えられた約束を受け継ぐ者となるのです。しもべは、自分に与えられた使命を果たすために努力を惜しんではなりませんでした。自分の能力の限りを尽くして、主人から与えられた使命を果たさなくてはなりませんでした。神様の導きと守りがなければ、出来ることではありません。彼が、たとえ「この人だ」と確信する女性を見つけ出したとしても、はたして彼女は生まれ故郷を離れて遠い国にいくことを承知するだろうか。自分が伝えるイサクという人物と、聞いただけで結婚を承知するだろうか、との心配もあります。さらには彼女がメソポタミアを去ってカナンに来るということは、それまでの生活からの断ち切りが求められますし、農耕の定住生活から、天幕の移住する生活へ切り替わることを意味します。スポルジョンはこの説教で、私達をしもべにたとえて、キリスト者として生きるということが、どういうことなのかを考えさせます。  さて今年度の聖句として私達に与えられた御言葉は、「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」との御言葉です。この御言葉のあとに、こうあります。「これ、キリストイエスによりて、神の汝らに求め給う所なり。」私達の訳では「これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 /n常に喜べ  常に喜ぶとは、どういうことでしょうか。聖書においては、たとえばフィリピ書では「主において」という言葉と一緒に用いられていますし、テサロニケの手紙1章にはこのようにあります「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」。すなわち聖書が教える喜びは、嬉しいことがあったから喜ぶ、悲しいことがあったから喜べないというような、目に見える事柄によって左右される喜びではありません。順境の中にあっても逆境の中にあっても、変わることなく喜びにとどまる、永続性を伴う喜びです。一時的突発的衝動的な歓びとは区別され、イエス・キリストを根拠とする、イエス・キリストを信じる者の喜びであり、湧き上がってくる喜びです。しかし「喜べ」と命令形になっているのは、本人の自覚が必要であるということであり、努力が求められるからです。信仰からくる喜びは、神様が私と共にあって働いて下さるとの喜びであり、たとえ逆境の中にあっても、そのことが神様のゆるしたもうことであり、神様のご計画の中に置かれていることだと受け止められるならば、この喜びを奪うものはいないのです。  さきほどのアブラハムの話でいうならば、しもべの与えられた使命は重く、困難の伴う仕事でありました。しかし彼は、その仕事をおそれながらも喜んで担いました。私達はイエス様を信じる信仰が与えられているゆえに、それを家族、友人に伝えていく使命があります。その使命は重く、自分のような不完全な弱い者には、それを果たしていくことは不可能だとしりごみします。自分は口下手である。自分は消極的である。自分は何々だから、それは無理だ・・と。もっと別な、もっと口の上手な人がやればよいと考えます。しかし、あの偉大な指導者モーセも口下手でした。彼は神様にこのように断わっています。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたがしもべにお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全く私は口が重く,舌の重い者なのです。」神様は、このモーセの言葉を受け入れられたでしょうか。受け入れられませんでした。神様はこのように答えられています「一体、誰が口を聞けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また、見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と。(出エジプト記4章10-) /n絶えず祈れ  私達が御言葉を通して、教えられ、命じられていることは、私のわざではなく、神様のわざです。神様のわざは、私達の力が不十分でも、神様が私達を通して働いてくださるゆえに、しりごみするようなことではないのです。アブラハムのしもべが祈ってこれに向かった時、イサクの妻になるべき人は、向こうの方から近寄ってきたのです。(創世記24章11節-21節)  つまり、私達の使命が果たせるのは、私達の祈りを神様が聞いて下さった時なのです。私達の使命は、イエス様のことを伝えることと同時に、今、自分自身がおかれているその場で、真剣に誠実に生きるということでありましょう。夫であれば夫として真剣に誠実に生きる。妻であれば妻として真剣に誠実に生きる。親であれば親として真剣に誠実に子供に向かう。子供であれば、親に対して誠実に生きる。学生であれば勉学に対して真剣に取り組む。仕事があれば、仕事に対して真剣に誠実に取り組む・・。しかし私達の生活は一つだけでなく、複雑に入り組んでおり、バランスよくまんべんなく、パーフェクトに生きることは困難であります。しもべが心配したように、 ようやく主人の息子の嫁となるべき人物に出会っても、その人物が結婚は承諾しつつ、故郷を離れるのはいやだということも起こり得ます。事柄は必ずしも私達が願うようにはいきません。その時にはどうすべきか。しもべがご主人の考えを聞いたように、私達は神様に祈り尋ねるのです。答えが出ないときには答えがでるまで祈り続けるのです。神様は必ず私達にわかる仕方でその方法を示して下さいます。 /nすべてのこと感謝せよ  シュラッターという神学者は、私達が感謝できるのは、私達が、神様の現臨の中に生きている時であり、私達の魂が神様を対話の相手として、自分の行動の隅々までゆきわたっている場合だけであると限定しました。そうである時、すべてのことが感謝のもととなり、どんな経験の中でも、神様の恵みが絶えることなく、良い贈り物を届けて下さり、私達はその贈り主を知るゆえに、そのお方に感謝して神様を崇めます。  私達は喜ぶことがあるにもかかわらず見過ごし、あるいはその喜びを芽を自分から摘み取っていないでしょうか。  私達は祈りを沈黙させてはいないでしょうか。上を見上げる時間を惜しみ、横と下ばかりに時間を費やしていないでしょうか。  私達は感謝を絶やしてしまっていないでしょうか。  もしそうであるなら、私達はすでにイエス・キリストを失なっています。私達は日々、イエス様によって神様の恵みを受け取っています。そこから、かき乱されることのない喜びと、絶えることのない祈りとすべてのものを包む感謝が生じるのです。  2008年、仙台南伝道所の歩みが、そして伝道所にかかわるすべての者が、この御言葉を愛し、この御言葉と共に、この御言葉のもとで歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「福音の力」 倉松功先生(もと東北学院院長)

/n[詩篇] 71:1-8 1 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 2 恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 3 常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 4 わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から/悪事を働く者、不法を働く者の手から/わたしを逃れさせてください。 5 主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 6 母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。 7 多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。 8 わたしの口は賛美に満ち/絶えることなくあなたの輝きをたたえます。 /n[ローマの信徒への手紙] 1章16-17節 1 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 2 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 /nはじめに  「福音」という言葉は良い知らせ・Good News といわれるものです。ロ-マの信徒への手紙の冒頭には、福音とは「御子イエス・キリストに関するもの」(3節)と記され、マルコ福音書には「神の子・イエス・キリストの福音」(1:1)と記されています。「・・の」は所有格ですから、イエス・キリストの持っている福音=イエス・キリストご自身の福音、であり、福音はイエス・キリストと切り離すことが出来ないだけでなく、主イエス・キリストご自身が福音であると理解して良いと思います。 /n福音をイエス・キリストに置き換える  「私は福音を恥としない。福音は・・」という言葉を「私は主イエス・キリストを恥としない。(なぜなら)主イエス・キリストは、・・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(16節)と読みますと、主イエス・キリストがもっと具体的に私達に迫ってくると思います。 /n救いをもたらす神の力  この言葉はイエス・キリストの内容、イエス・キリストがどういう御方であるかを最も簡潔に語った言葉ではないかと思います。「救い」という言葉は、一人一人違うのでよくわからない言葉です。その人がどういうふうに救われたか、その人の救いがどうなっているのか、その人の救いがどのように起こったのか、わかりません。実際、福音書を読みましても「中風の患者が救われた」「ヤイロの娘が救われた」と具体的にありますが、それぞれ状況が違い、その人の生きている中でどういう救いが起こったのか外からはなかなかわかりません。そういう中で福音書には、「罪よりの救い」「死の体からの救い」「命を救う」との表現が多いのではないかと思います。具体的に一つの例を見ていきたいと思います。 /nザアカイの例(ルカ福音書19章)  「今日、救いがこの家を訪れた。」(9節)。(「今日、救いがこの家に起こった」と訳すこともできる。)この言葉は、主イエスに向かってザアカイが示した態度を主イエスがご覧になって語った言葉です。 それはザアカイの「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)します。又、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」という告白に対してでした。ザアカイは徴税人で、同胞のユダヤ人からローマの占領軍の為に税金を集める仕事をうけ負っていました。徴税人は家族の生活の為、税金を上乗せして集めていましたから、人々からは罪深い男と見られていました。その彼が「半分を貧しい人々に施します」と告白したのです。これは大変具体的な告白です。「新しい人になろうとする」「これまでと違った生活をしようとする」その力一杯のザアカイの生活の中で出来た、「新しい人になること」を決意している告白の言葉であるといえると思います。 /n悔い改め  「誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」この言葉は、疑わしい生活の中にあったザアカイの持っていた罪の意識(これでは駄目だ。やむを得ないかもしれないけれど、これではダメという罪の自覚)を含んだざんげの気持が入っている悔い改めの言葉だと思います。新しい生活への決意、それはざんげの言葉と一緒になってザアカイから主イエスに告白の言葉として告げられたものです。 /n「今日、救いがこの家に来た」  この前後の関係を見ると、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」との主イエスの言葉があります。ザアカイのざんげは、この主イエスのザアカイに対する熱い心(愛といっても良い)が、告白をうながしたことは間違いないでしょう。「今日、救いがこの家に来た」と、救いをもたらした主イエス、そこに「福音・救いの力」というものが表れていると見ることができるように思います。「福音」というのは人間を新しくする。「新しくする」というのは主イエスによってもたらされる神の救いの力によって「新しくされる」。そこに福音が表れる。力である主イエス・キリストがそこに立っておられる、来ておられる、ということです。 /n「福音には、神の義が啓示されている」(17節)  「福音=主イエス・キリストには神の義が表れている。明らかに示されている。」といえます。「キリストにおいて明らかにされた神の義」とはどういうものであったでしょうか。それを一言で説明しているのが讃美歌262番「十字架のもとぞ いと安けき、神の義と愛の合えるところ(一緒になっている)」です。この神の義は、福音のもとに表れる(正義がそこに現れる)、或いは、悪を裁き罪をこらしめるということにとどまらず、神の義と愛が一緒になっている。つまり神の義がイエス・キリストに表れるということは、敵をも愛し、罪をも赦す。そういう愛、救いの力と同時に神の義が表れている。それがイエス・キリストに表れた神の義でしょう。 /nザアカイに見る神の義と神の愛  別の見方をすれば、イエス・キリストにおいて神の義と愛があらわれているということがザアカイに見た救いに具体化されている、といえないでしょうか。ザアカイの「四倍にして返す」というざんげ・・それはまさに、神の義が直接ザアカイの生活の中に反映しているともいえましょう。そして「財産の半分を施す」は、キリストの愛に基づく新しい生活への歩みを示しているといえましょう。神の裁き「正義」というものと、「神の愛」によってうながされた人間の在り方、というものがザアカイに反映しているといえます。「福音に神の義が表れる」ということはそういうことです。実際、「主イエス・キリストにおいて神の義が表れる」ということは大変重要な言葉であって、宗教改革はこの言葉から始まりました。ルターは詩編71篇の2節をロマ書1章17節のこの言葉を媒介にして理解し、それによって宗教改革へとうながされました。 /n「恵みの御業(みわざ)によって助け、逃れさせてください。」(詩篇71:2)  口語訳聖書はこの個所を「あなたの義をもって私を助け、私を救い出して下さい」と訳しています。つまり原語は、神の「義」とも「恵み」とも訳される言葉です。宗教改革は「神の義」がイエス・キリスト(福音)に表われる時に、罪人である私共を赦して義として下さる「神の愛」が表れる、と理解することから始まりました。それは神の愛、恵みの業が神の義とも訳されると同じように、聖書全体を通した神の救いの力を表現した言葉です。 /n「それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(17節後半)  17節前半は、イエス・キリストにおける事柄、後半は私共に対する主イエス・キリストに表れた福音との関係について語っています。「神の義は信仰を通して実現される」。ここに私共の立つ立場、イエス・キリストへの私共の対し方が出ていると思います。福音が主イエス・キリストである。主イエス・キリストに神の義が表れている。そのイエス・キリストに対する信頼、と理解することが出来ます。ザアカイはイエスキリストを信頼した。「ぜひ、あなたの家の客になりたい」と言ったイエス・キリストを受け入れた。「私はあなたを迎えるのにふさわしくない」という言葉は出ていません。「罪を赦してザアカイを受け入れ客となる」イエス・キリストを素直に受け入れた。信仰とは信頼です。17節後半は「初めから終わりまで信仰を通して、福音であるイエス・キリストは私共の中に受け入れられていく。それは主イエスに対する信頼に他ならない。」といえます。キリストにおいて明らかにされた神の義は悪や罪を裁くと同時に罪人への愛を示している。それが救いの力です。 /n「正しい者は信仰によって生きる」  「正しい者」とは主イエス・キリストを信頼することによって、救いの力を信頼することによって正しい者とされた者です。主イエス・キリストは私共に(丁度ザアカイの時のように)近づいてこられます。「二・三人集まる所には私もその中にいる」(マタイ18:19)といわれるように、御言葉を通して私達に迫ってくる主イエスです。そういう主イエスによって呼び起こされるのが主イエスに対する信頼です。信頼である信仰によって新しくされる。信頼によって私共は生涯を歩むことがゆるされている。そのことがハバクク書に「神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)と記されています。ここでは「正しい者は信仰によって生きる」と書いています。決して私達は初めから正しいわけではありません。誰一人、初めから正しい人はいないのです。キリストが近づくことによって、救いの力によって正しい者とされるのです。それはキリストに対する信頼によって生きることです。それを「神に従う人は信仰によって生きる」と書いているのです。   

「ゲッセマネの祈り」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章36-46節 36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 /nはじめに  イエス様は、地上を去る時=「死」が刻一刻と近づいているのをご存じでした。イエス様は殺されるようなことはしておらず、神の国について宣べ伝え、真理を語り、人々を教え、導き、多くの病人をいやされました。何一つ間違ったことをせず、言わず、神様を愛し、隣人を愛することを教え、自ら実践されました。暗闇の中に光としてこられたイエス様です。そのイエス様がこの世の権力者から憎まれ、嫉妬され、敵意を抱かれ、殺意をもたれ、今、ぬきさしならない状況にありました。又、イエス様の行方を探すユダヤ当局者は、弟子の一人ユダにイエス様の居場所を密告させるはずです。残されている自由な時間はもうわずかしかない、という中で、イエス様はその時間を「祈る時」としてゲッセマネと呼ばれる園に弟子達を連れてやってきました。そして、八人の弟子に園の入口で座って待つように言われ、ペテロとヤコブとヨハネの三人を連れて奥に進んでいかれました。イエス様は悲しみ悶え始められ、「私は死ぬばかりに悲しい」と言われました(37-38節)。 /nイエス様の悲しみ  イエス様の、死ぬほど悲しいと悲しまれているその中身は一体何でしょうか。もしイエス様のこの悲しみを私たちが理解できたならば、私達もイエス様のその祈りに、わずかでもあずかれるのではないかと思います。 /n苦難のしもべ  イエス様は十字架の死を、弟子達にあらかじめ予告されておりました。  イエス様はいつも聖書に書かれていることを中心に語られておりましたから、預言書(旧約聖書)の中の、メシア・救い主の記述を読み、ご自身がそのように生きることを使命と考えておられたに違いありません。特に「苦難の僕」で有名なイザヤ書53章を繰り返し繰り返し読まれていたと想像します。その中に以下の言葉があります。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは私達のとがの為であった。彼の受けたこらしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。・・捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。・・彼は自らをつぐないの献げものとした。・・彼は自らをなげうち、死んで、罪人の一人に数えられた。多くの人のあやまちを担い、そむいたものの為にとりなしをしたのはこの人であった。」 /n十字架の死の意味  上記の「彼」の部分を「イエス様」に置き換えて読む時、「イエス様の死の意味」が明らかにされます。イエス様は私達人間の罪を神様にとりなし、罪をつぐなう為の犠牲のささげものとして十字架に向かわれるのです。殺される体と流される血潮によって救いの道が開かれるのです。 /n罪をつぐなうために  イエス様にとって十字架はすべてのものを放棄することです。全人類の罪を背負うということは、罪なきイエス様が罪人になることであり、罪人になるということは、神様に敵対する人間になるということです。それは、神様の助けも憐れみも、御子としての特権も捨てることを意味します。さらに宣教のわざを続けることも、弟子達を教え励まし守ることも、もう出来ません。イエス様を待っているのは、罪人として神様から捨てられて、神様の怒りと呪いを受けることです。 /nゲッセマネの祈り >> 「父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし私の願いどおりではなく、御心のままに」。「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」 <<  ゲッセマネの祈りは、「父なる神様が十字架という苦悩を自分に与えるならば、この苦悩を受け取ります、父なる神様が苦い杯を自分に手渡すならば、それを飲みます」という服従の祈りです。私達人間の罪の深さを知り、創り主である神様と造られた人間の「罪による断絶の深さ」を知るイエス様は、神様の怒りをご存じでした。「十字架によるとりなし」の道が神様の御心ならば、御心のままに、と祈られました。ここに人間と神様との和解の福音の道が開かれたのです。

「あけぼのの光を待ち望む」 伝道師 平賀真理子

/n[マラキ書] 3章19-23節 19 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。 20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。 21 わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。 22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。 23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 /n[ルカによる福音書] 1章67-80節 67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。 68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。 73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、 75 生涯、主の御前に清く正しく。 76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。 78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」 80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。 /nはじめに  本日は仙台南伝道所で礼拝が献げられるようになって6周年となりました。これまでの神様の御導きと御守りを、ご一緒に感謝致しましょう。これからも、イエス様の福音を正しく宣べ伝えていく群れとして歩んでいくことができますよう、ご一緒に祈っていきましょう。  礼拝室には立派な大きなリースがかかり、玄関には御降誕の情景が飾られ、今日は「待降節」の第一主日です。一年をイエス様のご生涯に当てはめて、その歩みを思い起こす為の暦(教会暦)がキリスト教の歴史の中で使われてきました。クリスマス、イースター、ペンテコステの三大祝祭日をはじめ、受難節など他にもあります。教会暦の最初は「待降節」から始まります。「待降」とは主イエス様のご降誕を待ち望むという意味です。 /nこよみの最初が「待降節」!  一年の初めの第一歩が、いきなり「御降誕」のお祝いではなくて「主を待ち望む、待降節」であることに深い意義を覚えます。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である。神が御子を世に遣わされたのは世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である。」(ヨハネ3:16-17)との御言葉は、毎週「赦しの言葉」として、私達の「懺悔の祈り」の後に戴く御言葉です。イエス様は十字架の死から復活され死に打ち勝たれたので、私達は罪の世界に沈んだままではなくイエス様を通して神様との関係を修復していただけるようになりました。太陽の光から身をひそめれば、その暖かさの恩恵にあずかることはできないように、神様から離れた生活や考えのままでは神様の愛を存分に味わうことは出来ません。神様の豊かな愛にふさわしく歩むために、神様の「聖(きよ)さ」を我が身に帯びさせていただきたいと思うものです。レビ記に「私(神様)は聖なる者であるから、あなた達も聖なる者となりなさい。」(11:45)とあるように、「待降節」を「悔い改め」という準備期間として過ごしたいと思います。 /n洗礼者ヨハネ  神様は、御降誕の準備として特別な使命をもった人をこの世にお送り下さいました。洗礼者ヨハネです。預言通り(イザヤ40:3、マラキ3:1)「救い主到来の直前にやってきて、民の救済の為に主の道を準備する者」です。ある日、祭司ザカリヤに天使が現れ、子供が授かること、その子は救い主の為に準備する者となると告げられます。しかしザカリヤは信じなかったので口がきけなくなります。予言通り、まもなく妻エリザベトは身ごもり男の子を産みます。天使の言葉に従い名前を「ヨハネ」とつけた途端、ザカリアの口が開き(1:64)、神様を賛美し始めます。 /nザカリヤの預言(ザカリアの賛歌)  今朝の聖書は三つに分かれ、①「神様は、多くの預言者が言っていた通り、ダビデの子孫から救い主を立て、敵の手から自分達を救って下さる。それはイスラエル民族の先祖アブラハムと主が契約を結んだことを忘れずにいて下さる憐れみによるのだ」、②「自分の息子として与えられたヨハネの使命が神からの特別なものであることの誇りと感謝と喜び」、③「救い主の到来と平和へ導かれる希望」が語られます。 78節の「あけぼのの光」とはイエス様のことです。抑圧されて希望のない人々を「暗闇と死の陰に座している者たち」と表現し、そこに高い所から希望の光、即ち、救い主が訪れ、平和へ導かれる。それは、天から与えられる救いへの望みです。マラキ書では「義の太陽」(3:20)と表現され、「その翼にはいやす力がある。あなた達は牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る」とあります。昔、「人間は誰でも心に闇を抱えている。他人には言えない闇もある。しかしそれを抱えたままでも自分の闇を闇だと認識して、その暗さを暗闇として認識していればこそ、光の明るさが分かる。闇の暗さを感じなさい。それが深ければ深いほど、光のありがたみが分かる。」と説教の中で聞きました。闇を闇と認識できれば、その戦いは自分一人だけではなくイエス様が共に歩んで下さる。神の御言葉が光の武具となって助けて下さるのです。 (後略)。                   

「イエス・キリストの名によって」 佐藤義子 牧師

/n[ダニエル書] 6章1-11節 1 さて、王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった。彼は既に六十二歳であった。 2 ダレイオスは、王国に百二十人の総督を置いて全国を治めさせることにし、 3 また、王に損失がないようにするため、これらの総督から報告を受ける大臣を三人、その上に置いた。ダニエルはそのひとりであった。 4 ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。 5 大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった。 6 それで彼らは、「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関してなんらかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話し合い、 7 王のもとに集まってこう言った。「ダレイオス王様がとこしえまでも生き永らえられますように。 8 王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同相談いたしまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。すなわち、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と。 9 王様、どうぞこの禁令を出し、その書面に御署名ください。そうすれば、これはメディアとペルシアの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなります。」 10 ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。 11 ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。 /n[使徒言行録] 3章1-10節 1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。 2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。 3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。 4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、 6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。 9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。 10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。 /nはじめに  捕虜として連行されたダニエルは、捕囚の地・バビロンでも毎日三度、祈りと賛美の時をもっていました。今日の聖書には、ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時に神殿に上って行ったとあります。ペンテコステの日、弟子達が一つに集まっていた時に聖霊が降りましたが、それは朝9時のことでした(2:15)。更に10章にはペトロが祈る為に屋上に上がったのが昼の12時頃と記されています。イエス様の時代、ダニエルと同じように初代のクリスチャン達も、一日三回、決まった時間に祈りを捧げていたということを、私達は心に覚えたいと思います。 /n祈り  一日三回祈るということは、一日最低三回は神様を仰ぎ見る時間を持つということです。社会で働いておられる方々は、朝起きた時から夜寝るまで追われるように次から次へと休みなく体を動かしておられることでしょう。しかし忙しくしているといつしか神様が自分と共におられるということを忘れ、自分だけで働いている気持になる、という誘惑があります。又クリスチャンは、信仰的に霊的に、御言葉から切り離された生活に陥る誘惑が毎日、いつもあります。先週の説教でも、信仰生活にブレーキをかける重荷や、からみつく罪のとりこになる誘惑について語られましたが、毎日決まった時間に祈るということは、これらの誘惑を断ち切り、神様の守りから離れずに一日を終えることが出来る恵みの時となるでしょう。  一日三回、何を祈るのでしょうか。私達人間にとって最も大切なことは、自分の創り主を正しく知ることです。イエス様を通して神様を知ることにより、私達は何を祈るべきかを学んでいきます。私達人間が生きる目的は、自分の生涯を通して神様の栄光をたたえることである、と学んだ時、私達の口は、それにふさわしい人間としてつくり上げて下さい、と祈るのです。 /n「美しい門」で。  午後3時、ペトロとヨハネは祈る為にエルサレム神殿に上っていきました。二人が神殿の境内に入ろうとした時、お金を恵んでほしいと、憐れみを乞う男の声を聞きました。ペトロとヨハネは男の顔をじっと見て、「私達をみなさい」と命じました。男は何かもらえる、と期待して二人を見つめていますと、次の命令が与えられました。 「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」 /n「イエス・キリストの名によって」  「イエス・キリストの名前で」ということは、名前の中に神様の人格的な力があって、名前を呼ぶことによりその力が引き出されるのです。弟子達がイエス・キリストの名前で行動する時、イエス・キリストがそこにおられるのです。洗礼も又、イエス・キリストの名において授けられます。ペトロは彼の右手をとって彼を立ち上がらせた、その時、彼の足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだしたのです。 /n大きな賜物  男が求めたものはささやかな施しでしたが、目を合わせて見つめた後に与えられたものは施しよりもっともっと大きな、彼にとって一番必要とする「命令」でした。「歩きなさい」という命令そのものが大きな賜物だったのです。ペトロが、イエス・キリストの全権をもって語り行動し、この男に「イエス・キリストの名によって」と言った時、男はイエス様に自分の意識を向け、自分の全信頼を置きました。右手を取ろうとするペトロに右手をゆだね、神様の力が自分の身に起ころうとすることに身をゆだねました。これが信仰の従順です。彼はいやされました。いやされた彼の喜びは、歩き回り踊ったりして神様を賛美し、二人と一緒に祈るために境内に入って行ったことに表わされています。 /n人々の驚き  10節には、これを見た人々が「我を忘れるほど驚いた」とあります。神様の業はまさに驚きの連続です。私達人間のなしえないことを私達の創り主であられる神様はなさることがおできになります。この信仰が、ここにおられる私達すべてのものに与えられることを祈りましょう! /n私へのメッセージ  私達すべてのものは霊的な意味で、生まれながら歩けない足を持ったようなものではないか。そして本当に願うべきことは「歩く」ことなのに、いつしか歩くことを願わずに、ささやかな施しで満足してしまうような、この男の人と同じような状況にあるのではないか。聖書は、「私達が必要としているもの・求めるべきものは、今あなたが望んでいるものではなくて、もっともっと根本的なことである」ことを教えているのではないか。そして聖書は、イエス・キリストの名によって願う時に、必ずそれは与えられる、と教えているのではないか。今日の聖書を通して、そのように語りかけているようにも思えます。聖書はいつも、他人にではなく、あの人にではなく、この私自身にメッセージを語る神の言葉です。お一人お一人が、今日、この聖書から自分に語る神様の言葉を聞きとることが出来るように祈るものです。

「小さい者も大きい者も神を知る」 倉松 功先生(元東北学院院長)

/n[エレミヤ書] 31章31-34節 31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 /n[ローマの信徒への手紙] 10章1-4節 1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。 4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。 /nはじめに  「神はあるか、ないか(いるか、いないか)」という神の存在の証明は、人間の長い文化の歴史の中でいろいろ試みられてきましたが、結局この試みは成功しませんでした。しかし私達の周辺には小さな神は沢山あります。旧制高校の同窓会などに出席しますと、スクラムを組み校歌や寮歌を歌う姿に「ここには疑似宗教がある」と思わされますし、企業の精神や企業の団結を通しても、一つの宗教が働いているのではないかと思います。しかし「神を見た者はいない。一人もいない。」というのが聖書の大前提です。(一ヨハネの手紙4:12参照)これは神があるかないかではなく、「神を知る」ということを聖書は私達に語ろうとしています。 /n誰でも神を知る  本日の旧約聖書に「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。その時、人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。」と記されています(エレミヤ31:33-34)。子供も大人もみんな神を知っている。神のことは誰でも知っている。そういう時がくると聖書は言っています。さらに続いて「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(同34)とあります。これは非常に重要な言葉です。これは、イエス・キリストのことを言っています。「赦し」のことを言っている。キリストが最後の晩餐で弟子達にブドウ酒を渡し「これは罪の為に流す私の契約の血である」と、契約の血としてご自身の贖罪に言及されました。聖書が語る「神」とは、旧約聖書と新約聖書を貫いている「神」であり、キリストが(ご自身の体で)十字架におつきになることによって証言した事柄と結びついた神様です。 今朝はそのことを考えてみたいと思います。 /n心に記されている律法  エレミヤ書31:33には「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」とあります。律法は私達の心に記されています。たとえば、イエス・キリストの教えであるマタイ福音書15:18に「しかし口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」とあります。これは律法と呼ばれる代表的なモーセの十戒(殺すなかれ・姦淫するなかれ・盗むなかれ・偽証するなかれ)と同じことを言っています。たとえば、悪意・殺意は「殺すなかれ」という形で私達の心にすでに記されているのです。ローマの信徒への手紙にも、「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こう言う人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししている」(2:14-15)とあります。 /n私達の良心  考えてみますと、「良心」はモーセの律法よりもずっと以前、神様が人間を創られた時にすでに心に刻まれており、良いことについての理解を持ちながら、それに反することをした場合には、それを「とがめる」という形で良心が働きます。そういう心は誰でも持っています。これと結びついているのが神です。つまり、罪に対して罰する、罪に対して赦さない・・というのが旧約聖書を通して知られてきた神の働きです。ところが本日のエレミヤ書では(これとは違う形で)「『主を知れ』と教えることはない」と、誰でもが知っている「良心」とかかわった形で神様が知られています。全ての人には良き心が与えられています。しかし悪いことをチェックする働きは弱い(現代でも弱い)。悪いことをする前に良心が働いて、悪いことをチェックするはずが、アダムとエバが禁断の木の実を食べた時から、悪いことをした後で神にとがめられて、初めて「しまった」と思った。行為の前に、それを差し止めるという形ではなかなか働かない。してはならないこと、言ってはならないことをした後で気付くのです。それが良心の働きです。神様は私達を創った時にその良心を植え付けた。これこそ、神様がご自分に似せて人間を創られた残照です。 /n「新しい契約を結ぶ」(エレミヤ31:31)  ここで「新しい契約」と言われていますが、ここで言われる律法は今までの古いモーセの律法・十戒とは違っておらず、事実イエス・キリストは「私が来たのは律法を完成するためである。・・律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17-18)。と言われています。イエス・キリストは律法を新しく強化しました。ロマ書に「キリストは律法の目標であります」(10:4)とあるように、究極のところ律法はキリストを目標としています。言い換えれば、キリストご自身が律法を完成されたのです。キリストの最大の教えは「神を愛しなさい。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉にまとめられます(ガラテヤ5:14参照)。キリストが完成され、キリストが実行されたものです。私達が目標とするもの、私達が歩む生活の目標がここにあります。それは神様が人間を創られた時に神様が植え付けてくださった「良心」を満足させるものです。エレミヤ書の、「誰も『主を知れ』と言って教えることはない」一つの決定的な理由は、私共が神に似せて創られた(良心が植え付けられた)からです。 /nキリストを目標として  キリストが目標で、キリストの教えが良心の目的・完成した姿であるならば、私達はそれに従って行けば良いということになります。それによって私達はさらに具体的に神を知ることになります。しかしキリストの教えを実行することで神を知ったという人はいないでしょうし、そういう知り方は自分自身を神とすることになります。「私」がした事柄、「私」が良心に従った行ない・・それで良いということになれば、神は必要でなくなる。そうではなく聖書によって、イエス・キリストの教えを通してキリストが行なったことに照らし合わせて、「これではだめだ」ということに気付き、良心のうずきが起こるのです。  エレミヤ書は、新しい契約をもたらすその方・イエス・キリストは、「彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」(31:34)というのです。キリストご自身が律法の完成者であり、契約のしるしです。そして、イエス・キリストを十字架につけたローマの役人やファリサイ派の人々をはじめ、すべての人に対して、キリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。イエス・キリストの贖罪(罪のあがない)、キリストの教えられた隣人愛は、そういう形でキリスト者に教えられました。キリストが教えられた道、キリストが歩んだ道に従う・・そういう形の生き方をキリストは私達に教えて下さった。古い律法の教えに満足するのでなく新しい形でキリストに従って行く道を教えて下さったのです。 /nすべての人に神が知られる  全ての人に神が知られるという時には、私達の良心を超えた、私達の良心ではもう行き着くことが出来ない所、良心では行なうことが出来ない善・・、そういうものを超えて、そういうものに気を止めなくても、キリストに従うことによって、良心に従う道を歩むことが出来ます。「神を知る」とは、決して私共の良心に反することではなく、むしろ、神が私達を神に似せて創られた創造の時に植え付けられた「良心」を積極的に満足させる道、それが「新しい契約」としてキリストによって与えられるのです。良心によっては罪を積極的に赦すことが出来なかった、そのことがキリストを通して新しく赦すことが出来るようになる。そういう形でキリストに従うことが許されているのです。 /n終りに  重要な事柄は、誰でも良心を持っている。良い心が神様によって創られている。それを通して「神を知る」という道が旧約聖書・新約聖書を通して語られているのです。          (文責:佐藤義子)

「イエス・キリストのわざ」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 121編1bー8節 1b わたしの助けはどこから来るのか。 2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 /n[使徒言行録] 9章32ー43節 32 ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。 33 そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。 34 ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。 35 リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。 36 ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。 37 ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。 38 リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。 39 ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。 40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。 41 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。 42 このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。 43 ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。 /nはじめに  本日は「聖徒の日」として召天者記念礼拝をささげます。「聖徒」とは、神様に対してきよめられた者のことで、すべてのクリスチャン・キリスト者をさす言葉です。しかし「きよめられた者」とは、道徳的な意味でなく、コリントの手紙1:30「神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。とあるように、その人自身が聖いのではなく、イエス・キリストの持っておられる義と聖を与えられた者、キリストの所有されておられるものを転嫁された者であるということです。「誇る者は主を誇れ」とあるように、私達には誇るものは何もない。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって私達は義とされ、聖いものとされている、ということです。 /n私達は旅人   ヘブル書では、信仰をもって生きる者は地上にあって天にあるふるさとを求めて歩む旅人であると表現しています(11:13-)し、フィリピ書には、「私達の国籍は天にある」(3:20)とあります。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きる永遠の命が約束されていますので、特に今日は信仰をもって生き抜いた天上の聖徒の方々を覚えつつ、礼拝をささげます。いずれ私達は、この写真の方々と同じように神様から召される時を迎えます。その時、私達は、地上での生涯を神様に深く感謝し、神様のもとに喜んで召される者でありたいと願うものです。キリスト者の死は、この世での絶望的な死ではなく、天国への凱旋であり、神様のご計画のもとに召されていくという、神様にお委ねした平安の時でもあります。地上においては愛する家族との別れがあり、残されていく家族への思いは測り知れないものがあります。しかしその悲しみ・心の痛みも、やがて必ず来られるイエス・キリストの再臨の時までで、残された家族には神様の慰めといやしを信じることが出来るのです。パウロは手紙でこう記しています。「私は世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦いぬき、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けて下さるのです。しかし、私だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます」(テモテ4:6-8)。この信仰を与えられるように共に祈りたいと思います。 /nアイネアとタビタ  今日の聖書には、二つの出来事・・一つは、8年間中風で寝たきりのキリスト者がいやされた話、もう一つはクリスチャンの婦人が生き返った話です。ここに、私達の生も、死も、病も、すべてを支配されるお方がおられることが伝えられます。私達は自分がいつ生まれていつ地上を去るのか、自分で決めることはできません。病についても同じです。私が出会ったある入院患者さんはこう私に言いました。「結核という病気がどうして起こるのか、その原因については知ることができます。でも私が知りたいのは、その結核という病気になぜ、この私がならなければならなかったのか、それが知りたいのです。」この言葉は、おそらく病気の方、すべての思いではないかと思います。しかし、この問いに対する答え、それを聞くべきお方は、神様以外にはおられません。 /nイエス・キリストのわざ  私達は被造物(神によって造られたもの)で、神様の支配の下で生かされているゆえに、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」「タビタ、起きなさい」という、神様の創造者としての力、命を支配されるお方の力を、イエス・キリストが弟子ペトロを通して、この二人に働かれたのを見て、神様を崇めます。

「主を頼みとする」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 119編57-64節 57 主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します。 58 御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、わたしを憐れんでください。 59 わたしは自分の道を思い返し/立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。 60 わたしはためらうことなく/速やかにあなたの戒めを守ります。 61 神に逆らう者の縄が/わたしをからめとろうとしますが/わたしはあなたの律法を決して忘れません。 62 夜半に起きて/あなたの正しい裁きに感謝をささげます。 63 あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人/わたしはこのような人の友となります。 64 主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。 /n[使徒言行録] 14章1-7節 1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。 2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。 3 それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。 4 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。 5 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、 6 二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。 7 そして、そこでも福音を告げ知らせていた。 /nはじめに  今日の聖書は、使徒パウロとバルナバが、ピシディアのアンティオキアの町で伝道した結果、多くの人々がパウロの語るイエス・キリストの福音を信じて受け入れましたが、パウロ達にねたみを抱いたユダヤ人達が、パウロ達を町から追い出した、その後の活動が記されています。 /n追い出した理由  パウロとバルナバが町から追われたのは、二人の語るイエス・キリストの福音が、町中の人々の関心を集めて、多くの人々が二人のもとに集まってきたことがユダヤ人のねたみを買ったからでした。ねたみの感情がどれ程人間にとってコントロールがむつかしいか、私達は経験して知っています。人類最初の兄弟殺しとして知られるカインとアベルの話も、兄が弟をねたんだことから始まっています。相手を自分と比較し、相手が自分よりも弱ければ優越感を感じ、その逆ならば劣等感もしくはねたみをいだく・・。これが生まれながらの人間の罪の姿です。ユダヤ人達の妬みは発展し、貴婦人や町の有力者達を扇動して二人を町から追い出しました。 /n扇動  扇動とは人の気持をあおりたてて、ある行為をするようにそそのかすことです。イエス様が総督ピラトの裁判を受けていた時も、イエス様が無実であることを知ったピラトは、イエス様を助けようと恩赦の制度を持ちだしましたが、祭司長や長老達に扇動された群衆は、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と激しく叫び続けるだけでした。ピラトは暴動が起こりそうなのを見て手を引いてしまったのです。いつの時代でも、どこの国でも扇動される人間がいます。自分で善悪を判断することを放棄し、力ある側に身を委ね、長いものにはまかれろ式の生き方です。言いかえれば、変化を望まず、自分の身を安全圏に置き、自分が加担しているにもかかわらず、なされている事柄・結果に対しては責任を負いません。ユダヤ人達の扇動は成功し、パウロとバルナバは町を出ざるを得ませんでした。 /n真の勝利者  見えるところでは、パウロ達はユダヤ人達に負けました。しかし使徒言行録13章の終りには、「他方、弟子達は喜びと聖霊に満たされていた」とあります。弟子達とは、パウロとバルナバの伝道によって新たに救われた異邦人達のことです。すなわちこの地には、新しく信仰を与えられたクリスチャン達が残されました。彼らは喜びに満ち、聖霊を与えられていました。この事実こそ、イエス・キリストの「復活の勝利」の姿であり、福音を阻止した(阻止できた)と思いこむユダヤ人の敗北といえるでしょう。「私は犯罪人のように鎖につながれています。しかし神の言葉はつながれていません。」(テモテ二2:9)とあるように、ここでユダヤ人達が追放したのは使徒達だけであり、神の言葉までは追放出来ませんでした。 /n主を頼みとする  次にパウロとバルナバは、約140キロも離れたイコニオンの町で伝道します。ここでも大勢のユダヤ人やギリシャ人が信じましたが、その一方で信じようとしないユダヤ人による扇動が起こり、二人に悪意を抱かせる妨害行為を受けました。しかし3節に、「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」とあります。迫害やあらゆる形の嫌がらせ、多くの誹謗中傷にもかかわらず二人は可能な限りイコニオンに長くとどまることが出来ました。なぜでしょうか。その理由は「主を頼みとした」からです。(イザヤ書30:15、詩編32:10、同62:8-9、同84:12-13、同125:1、箴言3:56参照)。 二人が語り伝える神様は、イエス・キリストの父なる神様であり、絶対信頼するに足るお方です。AD150年頃、小アジアのスミルナの主教のポリュカルポスは、信仰のゆえに捕えられましたが、彼に同情した役人からキリストを呪うなら許してやると言われて「86年の間、私は彼に仕えましたが、彼は私に何も悪いことはなさいませんでした。私を救って下さった私の王を、どうして呪うことができましょうか」と答えて殉教したと伝えられています。 常に、私達に先立って守り導いて下さる、父なる神様と、その神様をあらわして下さったイエス様と、今も共に働いてくださる聖霊に、私達も生涯をかけて信頼し、従っていきましょう。