「死者の中からの復活」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 116篇1-11節 1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 3 死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。 6 哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。 7 わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。 8 あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。 9 命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。 10 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 11 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。 /n[コリントの信徒への手紙二] 4章7-15節 7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 /nはじめに  今日はイエス・キリストの復活を記念してお祝いする日です。キリスト教大事典によると、復活日はギリシャ語ではパスカとよばれ、このパスカの礼拝は、はじめ土曜日の夕方から日曜日の明け方にかけて守られ、その中で洗礼式が行われていました。私達は復活節(復活祭)又はイースターと言っていますが、イースターという呼び方は事典によれば、ゲルマンの春の女神に由来する呼び方だといわれるが、確実なことはわかっていないということでした。キリスト教が全世界に広がっていく時、土着の宗教と混合することは十分あり得ることで、テレビで(世界遺産などで)紹介されるキリスト教が、聖書からかけ離れたお祭りになっているのを見ることがあります。私達は聖書を正しく理解し、継承していくべきものと、そうでないものとを見極めていく目を養っていかなければならないと思います。 /n復活  「霊魂不滅」という考え方があります。霊魂は体の中に閉じ込められているが、死によって霊魂は自由にされて永遠の世界に帰るという考え方です。しかし聖書はこの考え方を全く否定します。霊魂と肉体は一体であり「私の霊」とか「私の魂」という時、自分の全存在をさします。キリスト教において「死」は霊魂の解放ではなく、全存在の死を意味するのです。その全存在として死なれたイエス・キリストが復活された。これが新約聖書の根本です。使徒言行録のペテロの説教では「しかし神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」(2:24)「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(同32)と語っています。パウロも「そして、キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」(コリント15:14)と語り、さらに「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人達の初穂となられました。」(同20節)と語ります。 /n神様の働きとしての復活  イエス・キリストが「よみがえられた」「復活された」という信仰は、神様がイエス・キリストの誕生と共に私達の住む歴史に入ってこられたことを信じる信仰から信じることができます。天地万物を創造し、命を支配なさる神様がイエス・キリストをこの地上に送って下さり、そして「イエスは、私達の罪のために死に渡され、私達が義とされるために復活させられたのです。」(ロマ4:25)。すなわち、キリストの十字架の死を通して私達の罪が赦され義とされる、神様の働きとしての復活です。 /n「私達はこのような宝を土の器に納めています」(7節)  土の器とは、土のちりから造られたといわれるこの体です。宝とは「福音」あるいはすぐ前の「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」のことです。土と宝とは全く対立するもので、相容れないものです。宝石をそのまま土に埋める人はいないでしょう。しかし神様は土に等しい私達人間を、宝石を入れる器として下さいました。この宝石は「神のものである、並はずれて偉大な力」(7節)即ち「私達は四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8節)力です。パウロは、自分は土のように弱いが、宝として与えられている神の力によって彼を襲う絶望と破滅から常に守られていると証言します。それは宣教者としての召命と伝道が、人間の力によらずに神様の力から出るものだからです。「私達は、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(10節)。パウロが受ける死の危険は、イエス・キリストの苦難が、自分の体において継続したものであり、それはパウロがキリストと苦難を共にし、苦難の中にあってキリストとの交わりの中に置かれており、この苦難は克服と勝利を力強く約束しています。パウロという弱い土の器の中で、復活したキリストの命が現れているのです。