「賜物としての聖霊」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[詩篇] 51:12-14 12 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 13 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。 14 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。 /n[使徒言行録] 2章32-42節 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 /nはじめに  本日はペンテコステを記念する礼拝です。50を意味するギリシャ語に由来するペンテコステという言葉は五旬節(五旬祭)とも訳されています。過越しの祭りから数えて50日目にユダヤでは麦の収穫を祝う祭(春の穀物収穫祭)が執り行われて、それをペンテコステと呼んでいました。本日のペンテコステの礼拝は麦の収穫を感謝する礼拝ではなく、もっと特別な、イエス・キリストにかかわる礼拝です。  イエス・キリストは、最後の晩餐(過越しの祭の食事会と思われる)の翌日に十字架にかけられています。そして3日目に復活し、その後40日間にわたって弟子達など人々の前に現れました。そしてやがてイエス・キリストは天に昇る。弟子達は地上に残される・・。そんな状況の中で弟子達はペンテコステの祭りを迎えました。ペンテコステの日の出来事とは一体何であったのか。そしてその日を境にして一体何が変わったのか、ということをご一緒に考えてみたいと思います。 /n40日間とペンテコステの出来事  ペンテコステの日に起きた出来事とそれ迄の40日間の出来事との兼ね合いで考えてみたいと思います。聖書は大きく三つのことを集中して記録しています。第一は、「復活した,ということを弟子達に認識させる」ということに集中しています。たとえば、エマオに行く途上にあった弟子達二人が、イエス・キリストが十字架で死にそして復活したということを聞いたその道すがら、一人の人(復活したイエス・キリスト)が現われましたが、弟子の二人はイエス・キリストと認識することが出来ず、話の中でこんなことを言っています。「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人達が言った通りで、あの方は見当たりませんでした」。それを聞いて、復活したイエス・キリストが、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者達の言ったことすべてを信じられない者達」と嘆いたというのです。この二人の弟子達が「復活したイエス・キリストが実は自分達の横に立って話をしてくれたのだ」と認識出来たのはその日の夜に食事を共に囲んだ時、パンを裂いてもらった時でした(ルカ24:13-)。イエス・キリストが復活したということは弟子達にとってなかなか実感し難い出来事でした。死が終りではなく復活という出来事があるのだ、終末の出来事が先取りとしてこのイエス・キリストに起きた、ということを弟子達はなかなか理解することが出来なかったのでした。 /n第二のこと  集中的に聖書が語っている第二のことは、復活したイエス・キリストの体についてです。あの疑い深いトマスは、自分で指をわき腹のさされた穴に当て、手に打ち付けられた釘の後を触らなければ信じられないと言いました。イエス・キリストは「触りなさい」と言って「<span style="font-weight:bold;">信じない者ではなく、信じる者になりなさい</span>」(ヨハネ20:27)と語ったあの場面です。あの場面でイエス・キリストは、戸にはみな鍵がかけられてあったのに、真ん中に来て立ったと記されています。しかも彼らと一緒に食事をしたとあります。イエスはシモン・ペテロに「私を愛するか」と問い、ペテロは「はい、私があなたを愛しているのは、あなたがご存知です」と答えると「私の小羊を飼いなさい」と言われたのも、食事が終わった後の場面です(ヨハネ21:15-)。復活したイエス・キリストが、幽霊のような幻影ではなくて触れることが出来、又食事をとる、そのような方である。不思議な出来事、そして常ならぬ姿としてのイエス・キリスト。聖書が集中して語ることは、復活したイエス・キリストがイエス・キリストである、ということと、その姿でありました。 /n第三のこと  集中的に聖書が語っている第三のことは、その復活したイエス・キリストが弟子達に命令を与えたということです。 <span style="font-weight:bold;"> 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」</span>又<span style="font-weight:bold;">、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」</span>そしてイエスは弟子達が見ている前で天に挙げられて、雲のかなたに見えなくなってしまった、と聖書は記しています。イエスはこの言葉を与えて天に昇ってしまった。他方弟子達はこの約束の言葉と共に地上に残されてしまった。そして数日後に巡ってきたのが、ユダヤの祭り・ペンテコステの祭りであったのです。 /nペンテコステの日の出来事  ペンテコステの祭りの日に弟子達は一つ所に集まっていました。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると弟子達は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し始めたというのです。聞きなれない言葉をしゃべり出す弟子達、それを見て祭りに集まっていたユダヤの人達は「どうも祝いの葡萄酒を飲みすぎて酔っ払っているのではないだろうか」と怪しんだというのです。それを聞いたペテロは毅然として語り始めます。 /nペテロの説教(説教の最後の部分が本日のテキスト)  ペテロは人々に告げます。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。イエス・キリストの死と復活の意味を、ペテロはここではっきりと人々に告げました。周りの人達はぶどう酒に酔って訳の分らない言葉を語り始めていると見ましたが、ペテロは「聖霊が降った」ことの本質的な(内的な)意味をここで明確に示したのです。「あのイエス・キリストはメシアである」と。 /nどうしたら良いのですか?  人々はペテロの説教を聞いて大いに心を打たれ、「兄弟達、私達はどうしたら良いのですか」と聞きました。ペテロは「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」と答えています。これがペンテコステの日に起きた出来事です。 /nこの出来事を境にして何が変わったのか。  「ペテロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(41-42節)。それ迄の弟子達はイエス・キリストの思い出に生きていた120人程の小さな集団でした。しかしこのペンテコステの日の出来事を境にして、特にイエス・キリストの<span style="font-weight:bold;">「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」</span>というあの約束の言葉が動き出した日でもありました。その日に三千人ほどが仲間に加わったとあります。まさに教会が誕生した瞬間でした。 /n教会の存在の原点  さて教会は二千年ほどの時を経て存続しております。エルサレムから見れば地球の反対側に位置する日本にも、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた者達が存在し、使徒の教えである聖書の言葉を聞き、相互の交わりをなし、パンを裂くこと(聖餐式)を守り、祈ることに努めています。聖霊を与えられた弟子達が神の言葉を全世界に告げ知らせた結果、教会は全世界に建て上げられていきました。教会というものが存在すること自体が、「賜物として与えられた聖霊」によって実現されたものでありました。いうならば「教会は賜物としての聖霊それ自体を証しするもの」です。教会こそがまさにイエス・キリストの約束の言葉の実現でありました。ペンテコステを記念するこの朝の礼拝において、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」初代教会のその姿、教会の本来的な姿、存在の原点というものを、今日においても再確認したい。それがペンテコステの礼拝の思いであります。