「主はわが飼い主」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

/n[詩篇] 23編1ー6節 1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[ヨハネによる福音書] 10章7ー18節 7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 /nはじめに  昨年のクリスマスに、教会から全員にホームカレンダーを頂き、それを壁に貼ってあります。そのカレンダーには、マーガレット・タラントという画家が書いた絵がついています。その絵の構図は、長い杖を持った羊飼いが中央に立っており、その周りに20匹ほどの羊と数人の子供達がいる。そしてその絵の下の所に、詩編23編の1節から2節の言葉が書いてあり、その絵の説明として「羊を愛する羊飼い」という言葉が記されております。今年はもう10ヶ月以上もそれを見てきたことになります。 /n詩編23編  詩編は150編もある大きな書物で、大体、旧約聖書の中央に位置していますから、聖書を真ん中からちょっと右の方を開くと詩編が開かれます。その150編ある詩編の中でも特に有名なのが、この23編です。はじめに「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。」と記されております。神様と私達の関係は目に見えないものですが、この目に見えない関係を、目に見える関係として表現すれば、羊飼いと羊の関係にたとえられる。そういう比喩が用いられての詩編です。本日は、この詩編23編を最初に見ながら、神様と私達の関係について、最初に3つの点から学んでみたいと思います。 /n主は羊飼い  学びたい第一のことは、「主は羊飼いである」ということです。以前、使用していた口語訳聖書では、「主は私の牧者」と訳されておりました。今日、私達が使っている新共同訳聖書は「私」という部分を訳さずに、「主は羊飼いである」と訳しています。原文では「わたし」という文字が記されていますので、この箇所を直訳するならば、「主は我が飼い主」、「主は私の飼い主、私を導いてくれる方」という訳になります。先ほどカレンダーの話をいたしましたが、その絵に描かれている羊飼いは、左手に長い杖を持っていて、私共も羊飼いの杖というと連想出来ますが、杖の先の方が、ぐーと曲がっております。この杖というのは、狼などの野獣から羊を守る為の武器であると同時に、普段は、羊は目がそれほど良くないというか近眼のようなもので、目先のことしか見えませんので、羊が群れから迷い出ようものならば、その首のところを曲がった部分でひっかけて、元の場所へ戻す。そういうことの為に杖は使われる。その杖をもっている主は、私を導く羊飼いである、と冒頭で言っています。 /n王をも導かれる主  1節の冒頭に「ダビデの詩」とあります。ダビデというのはイスラエルの王様、人々を導く最高権力者でありました。王ですから大勢の人を導くのですが、自らをも、自分をも導かれる。自分も導かれる主が必要である。「自らを導く飼い主が、まさに主である」ということを、先ず冒頭で言っているということです。いうならば「全ての人の飼い主である」ということが言える訳です。ずっと後の時代ですが、ユダヤ人の男性は頭に小さなキャップをのせています(キッパと言います)。ユダヤ教だけではなくカトリックのローマ法王や、枢機卿も頭に小さなキャップをのせています。それは、自分達が最高ではなく本当の導き手なる方がいる。その方は私達をも招き導く飼い主で、それは「主である」ということを忘れないように、頭の上にそれをのせているという説明を聞いたことがあります。「主は私の羊飼いである。」そのことが、まず最初に詩編23編で言われていることです。 /n「わたしには何も欠けることがない。」  学びたい第二のことは、一節の後半部分「私には何も欠けることがない」ということです。羊飼いが、青草へ・水へと導いてくれるので、羊は「私には何も欠けることがない」と語るのです。必要な物は十分に備えられているので満足しているという状態です。羊にとって青草と水は必要なものであり、その必要なものがあればそれで十分なわけであり、それで十分だと満足する、ということを歌っているわけです。 /n飽きることを知らない蛭の娘  もしこの羊が、青草や水だけでは十分でない、もっともっと欲しいものがある、と、ぜいたくを求めるならば、まだまだ欲しい、満足ではない、欠けだらけだと叫ぶのかもしれません。まるで、箴言に出てくる蛭(ひる)の娘のように・・。「蛭の娘はふたり。その名は『与えよ』と『与えよ』。飽くことの知らぬものは三つ。十分だと言わぬものは四つ。」(30:15) /n食卓を整えてくださる主  しかしそうではない。羊は、主に養われる時に自分に必要な物が与えられて満足だ。そういう状態にあるということが歌われています。「食卓は整えられ、その杯は溢れている」とまで歌うのです。今日は収穫感謝祭!私共にも必要な物が与えられている。それは「満足」、満たされているということを覚えるものでもあります。羊は、羊飼いに導かれる時に「我が食卓は整えられ、杯は溢れている」と歌うのです。 /n恵みと慈(いつく)しみ  そんな羊と羊飼いの歌は、23編の最後で、もう一つのことが言われています。学びたい第三のことですが、6節に、「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。」と歌っています。一生涯、恵みと慈しみは、いつも私に付き添ってくるということです。「恵み」と「慈しみ」という言葉がここに書かれています。詩編もそうですが、聖書の中では、恵みと慈しみという言葉は同じ意味で使われることがあります。この二つの言葉で一つのことを総合的に表現しようということです。 ルツ記という書物の中にこの慈しみ(ヘセド)が何度も出てきます。ナオミという姑と、嫁のルツ二人とも、夫を異郷の地・モアブで亡くしてしまいます。そしてこの二人はそのモアブの地から、故郷ベツレヘムへ引き揚げてくるのですが、帰ってきてみると日毎の食べ物にも事欠く状況に陥ります。そのような時には、よそさまの麦畑に行って落穂を拾っても良いということになっておりましたので、嫁のルツは日ごとの糧を得ようと、ボアズという農夫の畑に落穂を拾いに出かけて行きます。ボアズはルツが落穂を拾いに来るということを聞いて、農夫達に、このように命じる箇所があります。「麦束の間でも、あの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけではなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ、あの娘がそれを拾うのをとがてはならぬ」(2:15b)。普通、落穂ですから刈り取った後の畑から拾って食べて良いことになっていますが、刈り取っていない部分でも拾わせてよい。しかも、わざわざ束から穂を抜いて、刈り取った後の畑に落とし、それを拾うのをとがめてはならない、と、そのように農夫たちに命じる・・。これは、農夫ボアズがルツに示した、慈しみであると表現されております。 /n神のいつくしみ  一方的に恵みとして与えられるものですから、恵みと慈しみというのは同じような意味で使われ、人間が人間に示す慈しみがルツ記にそのように表現されておりますが、この23編で言われている慈しみは、人からではなくて、神から与えられるというのです。羊飼いから羊に与えられる。ですから自分の努力や手柄で獲得するものではないのです。自分が努力すればいっぱいもらえるとか、自分が何か立派なことをすれば得られるというものではなくて、全く一方的に神から与えられるもの、それが恵みと慈しみであり、それが「いつも私を追う」と表現されています。受身形で、自分から追うのではなく、向こうの方から追ってくるのだという表現が使われています。それは勿論「慈しみと恵み」ですから、一方的に与えられるものとして受身のような表現がなされていますが、その後で、劇的な変化がこの羊に起きております。それは受身ではなくて、主体的に、自分の判断で語る部分が最後に記されています。それは、「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」というのです。羊は自主的に、羊飼いの所に身を寄せると決断している。 最初に申したように、これは神と私達との関係を比喩的に表現しているもので、まさに、神とキリスト者の関係を二重写しにしている表現であるといえます。それが詩編の23編。それゆえに詩編23編はしばしば引き合いに出され、珠玉の詩編として何度も読まれる詩編なのです。 /n「わたしは良い羊飼い」  羊飼いと羊にたとえて、神様との関係を私達が教えられるというのは、この詩編23編だけではなく新約聖書にもあります。その新約聖書にある一例を、先ほど、ヨハネ福音書10章で読みました。特に11節からは羊飼いが出てまいりますが「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。― 狼は羊を奪い、また追い散らす。― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 23編と、特にこの箇所が徹底的に違うことは、羊飼いに、悪い羊飼いと良い羊飼いがいるということです。特に今読んだ後半は、悪い羊飼いであって、狼が来ると羊を置き去りにして逃げる。自分の羊ではないということで、さっさと、多分羊を守る為の杖を放り出して逃げるということです。ですから自分に責任がある命を失ってしまっても、自分の命だけは助かりたいというのが悪い羊飼いだというふうにここでいわれています。 ところで悪い羊飼いといいますが、羊の命と人間の命を比較する。人の命と羊一匹の命を比較する。私共は人の命の方が尊いと判断するのは自然であって、そうならば、あながち、この悪い羊飼いが、羊一匹二匹の命のために、自分の命をそこにかける、羊に対してかけるということは、それは、いかがなものかと言う意見がでるのは当然ではないかと思います。 /nサタンの抗弁  そのような議論は旧約聖書のヨブ記にもあります。神様の所にサタンがやってきて、神様と対話する場面です。神様がサタンに対して、「この世の中でヨブという人ほど立派な信仰を持った者はいないだろう」と、彼ほど正しく生き、神を畏れて、悪を避けている者はいない。お前はその信仰者ヨブを見たか、という対話の場面があります。するとサタンは神様に対して抗弁をします。そういうことはないだろう。皮には皮をと申します。まして命の為には全財産を差し出すものです、と、そんな風に抗弁します(ヨブ2:4)。サタンの言い分は、人間というのは自分の命が大事なもので、その命を守るためには全財産を投げ出しても、無くなってもいいものである。だからヨブは、神様が大事なのではなくて、自分の命が大事なのだというのです。人間の心の底にある利己主義を、サタンは冷ややかに分析しての発言でした。 /n普通の価値観を打ち破って  それが普通の価値観であるとするならば、その普通の価値観を打ち破ったのが「良い羊飼い」です。良い羊飼いは、羊の命を守るために自らの命をかけるというのです。とするならば、これはもう私達の常識では人間業とは思われない価値観です。確かに三浦綾子の塩狩峠の話が連想されますが、人類の歴史を通して挙げることのできる出来事としては、これはもう人間業ではなくて、あの、イエスキリストの十字架をおいて他にそれはない、ということです。 /n良い羊飼いとは十字架で命を差し出されたイエス・キリスト  新約聖書で「良い羊飼い」という比喩をもって伝えようとしたのは、実に、イエス・キリストの十字架でありました。十字架という出来事によって、自らの命を羊の為に差し出した羊飼いの姿が表わされています。「羊飼い」という比喩は、詩の世界の単なる文学的技法のように思われるかもしれません。しかし十字架の出来事によって、それは「神を信じる者」と「神」との関係を保証する歴史的な出来事となったのです。すなわち「イエス・キリストを信じる者とイエス・キリスト」との関係が、まさに「良い羊飼いと羊」の関係として表現されていたのです。私達はそれをこの聖書から学ぶのです。とするならば、私共にとって23編の最後「主の家に私は帰り、生涯そこにとどまるであろう。」の御言葉は、今日のキリスト者の信仰告白でもあることを覚えたいと思います。