「救い主の十字架」   牧師 平賀真理子

/n詩編22:17-31 /nマルコ福音書15:21-32     /nはじめに  今年の受難節は3月5日から4月19日でイースターは4月20日です。少し早いですが、主の十字架における苦難の御姿を学びたいと思います。 イエス様は、ローマのユダヤ総督ピラトの裁判を受け、判決後に鞭を打たれました。鞭は先の方に骨片や小石などがつけられ、それで打たれると気絶し、死にそうになったそうです。しかし十字架前に死なせてはならず、今日の聖書のように、十字架を別の人間に背負わせたようです(21節)。 /nキレネ人シモン たまたまそこを通りかかった人が「キレネ人シモン」でした(キレネは今の北アフリカ)。過越祭のためかその他の理由か、エルサレムに来た目的は知る由もありませんが、シモンは人間的な見方からすれば偶然、主の十字架を肩代わりして負う役目を与えられたのです。しかしこれは、おそらく父なる神様のご計画の一端を顕著に表すものと見ることができるように思います。本来、主の十字架を共に負うのは弟子達のはずでした。ところが弟子達はイエス様の逮捕に恐れをなし、「死なねばならないとしたら共に死にます」と誓ったにもかかわらず逃げ去ってしまいました。予定されていた者(弟子達)ではなく、全く備えのなかった者(キレネ人シモン)が神様の特別な恵みにより十字架を負う大変重要な役目を果たすことになりました。 /n「アレクサンドロ」と「ルフォス」の父  シモンは「アレクサンドロとルフォスとの父」と記されています(21節)。この二人の名前は、当時の教会の人々(A.D.70年頃)には知られていたのでしょう。シモンも二人の息子も異邦人伝道の初穂として、父なる神様に選ばれたのではないでしょうか。  思えば私達も、神様の一方的な恵みの内に、福音を信じる者として変えていただきました。最初は「神様の導き」を無理やりな感じで受け取られた方もいらっしゃるかも知れません。しかしその選びによって、私達は、「罪の世」から解放されて「自由」の恵みを受けたのです。 /n「ヴィア・ドロロ―サ」(苦難の道)  裁判の場所から処刑場のゴルゴタの丘までの道を「ヴィア・ドロロ―サ」と呼ばれています。巡礼者達が主の苦難を偲んで歩む道です。  ゴルゴタの丘では、イエス様は十字架にかけられる直前、慣例に従い、没薬をまぜた葡萄酒を飲ませられようとします(十字架の苦痛を和らげる鎮痛剤として)。しかしイエス様はお飲みにならず十字架につけられました。旧約聖書詩編22編にある「救い主が罪人に囲まれて、悲惨な目に遭う」ことが、イエス様の十字架で本当に起こった!預言が成就した!との聖書の証言が、24節の詩編引用聖句を通して私達にも伝わってきます。 /n主に寄り頼む者の勝利  詩編22編は、ダビデ王が敵に囲まれて絶体絶命の中、神様に助けを求め、その救いを信じ続けて本当に助けていただき、そのことによって、神様を賛美する気持がわき起ることをうたっています。敵に囲まれ悲痛な心情から救いを得て、最後は神様の救いが世界中、子子孫孫に広がることを預言し、その世界を賛美しています。この詩編が預言として示されていることは、現状がいかに悲惨で負けているような状態でも、「主」により頼む者の最後は、「主」による勝利、時空を越えた喜びの世界の到来の「希望」を持つことができるということを暗示しています。イエス様がゴルゴタで、人間界の刑罰による死を迎えようとも、その先には「神様側の絶対的な勝利の希望」があるのです。 /nイエス様の愛  今日の聖書では、救い主イエス様の愛が三つの形で表わされています。一つは、十字架の前を通りがかった人々から「他人は救ったのに、自分は救えない」とののしられながらも御自分の為にその御力を使うことはなかったことです。二つには、筆舌に尽くしがたい苦痛の中に置かれても神様からの「人間の罪を肩代わりする使命」の為に、「神の御子」の身分を捨ててへりくだって忍耐されたことです。三つには、苦しみを伴う役割を、薬などで誤魔化さず、正面から受けられたことです。このイエス様が、後に授けられた復活の勝利により私達を招いておられます。