10月29日の説教要旨 「信仰による義」 牧師 平賀真理子

創世記12:1-7  ローマ書3:21-26
はじめに
今日は、宗教改革記念礼拝の日です。特に、今年は宗教改革の口火が切られてちょうど500年目にあたります。今から500年前の1517年10月31日に、マルティン・ルターという人が、カトリック教会の教えに異を唱える貼り紙を、ドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に貼り出しました。当時のカトリック教会では、「免罪符」を買えば、聖人の功徳をいただけ、買った人の罪を埋め合わせていただけると教えていました。それは間違っているとルターは冷静に抗議しました。このルターの主張を支持する人々は「抗議する」という意味の「プロテスタント」という呼び名で呼ばれるようになりました。私達の教会が所属する日本基督教団もその流れを汲むプロテスタント教会のグループであり、毎年10月31日に近い聖日を宗教改革記念礼拝日としています。
神様は「恐ろしい存在」⇒「人間を助けてくださる存在」
ルターは元々はカトリック教会の修道院の修道士でした。けれども、その中で教えられることを行っても、「神様は人を裁く恐ろしい存在」としか思えませんでした。まじめなルターはこのことに苛(さいな)まれました。ところが、この後、ルターは大学で神学を教えることになったために、聖書を研究することになり、その聖書の中にある御言葉によって、神様はただただ恐ろしい存在ではなく、「神の義」によって自分の助けを呼べる御方だと再発見したのです(参照:詩編31編2編や71編2節。但し、新
共同訳聖書では「恵みの御業」と意訳されているが、原語は「神の義」)。
次に、詩編103編10節では「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。」との御言葉を再発見し、神様の憐れみの大きさを知ったのです。
そして、更に、新約聖書のローマの信徒への手紙を研究し始めて、大きな発見に導かれました。それが1章17節です。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」「神の義」が信仰によって実現されるという御言葉によって、ルターは、神様への理解が、恐い存在から、恵み深い存在へと大転換しました。神様が人間を義としてくださる、人間はそれを受けるだけでよい存在とされていることへの安心感たるや、大変なものだったようです。「パウロ書簡のこの箇所は私には天国の門となった」とルターは証ししています。この「神の義」の恵みを聖書で再発見できたことで、ルターは信仰の勇者となり、これが宗教改革の原動力となったのです。
「神の義」
「神の義」については、前述の箇所以外にも、今日の箇所を含むローマの信徒への手紙3章21-31節や5章、また、ガラテヤの信徒への手紙2章15節-3章まで、いろいろ説明されています。
今日の箇所はローマ書3章21節から26節までとしましたが、ここで
まず押さえておきたい「神の義」を、聖書の後ろの「用語解説」での「義」の解説を参考にしながらまとめると、大きく分けて二つの捉え方ができると思います。一つは、聖書の神様の御性質の一つだということです。神様御自身がどんな時も正義や基準や法則や約束を守る御方であり、これを途中で投げ出なさい御方です。もう一つは「神の義の働き」を捕らえた説明ですが、聖書で言われる神様は決して堅物と言われるような御方ではなく、人間を御自分にふさわしい者に正しく導きたいと熱望し、そのとおりに行うことがおできになるということです。
これを「人間の罪」に焦点を当てて言うと、罪の虜となって自分では抜け出せない人間に対して、神様は人間をそこから脱出させ、次には御自分の目から「良し!」と言える存在に、人間を変えてくださる御方であるということです。そのために、神様が人間の罪を肩代わりして埋め合わす方法を取られたのです。それが、旧約聖書ではユダヤ民族の信仰を通して人間が救われる方法でしたが、これは、人間の罪によって完全な成就にまで至りませんでした。次に神様が考えてくださったのが、神の御子を人間としてこの世に派遣し、この御方の命を犠牲にして、そのことで人間の罪を贖うという御業です。つまり、イエス様の十字架上での死による贖いです。
「イエス・キリストを信じる信仰」
そして22節に、「イエス・キリストを信じる信仰」とありますが、ここで、イエス様の何を信じるかが問われていると思います。二つあると思います。まず、一つ目は「イエス様の十字架上の死は私の罪を贖うためである」と理解して信じることです。24節には、罪ある人間が「神の恵みにより無償で義とされる」とあります。イエス様の贖いの御業を信じる者には、神様は御自分にふさわしい存在として、御自分のお持ちになっている、良いものすべてを授けたいと願っておられるのです。良いもの、それは、例えば「聖霊」「光」「愛」等です。神様から義とされていれば、これらがいただけるのです。日頃の自分を顧みて、信仰をいただく前と変化がないのならば、何かが足りないと言えます。しかし、ここで自分であきらめてはなりません。良きものをいただけるように、神様にふさわしく成長できるように、希望を持って祈ることが必要です。私達はそれが許され、しかも、主の贖いによって私達は神様に繋がっているので、祈りは必ず神様に聞き届けられるのです。
さて、イエス・キリストの何を信じるのか、二つ目ですが、これは先述のルターが著作の中で記していますが、「キリスト御自身が語り給うキリストの言を信じる信仰」です。ルターは、更に続けて説明しています。
「どこかで、誰かをとおして語り給うキリストへの信仰である。キリストは、恐らく、ほとんどの場合、我らの考えも及ばぬ方法により、人を通し、どこかの場所において、そこで、その時に語り給うのである。」と。これは何を言っているかと言うと、イエス様の御言葉そのものを信じることも含みますが、「イエス様御自身が私達に何をしてくださったか、そして私達に何を求めておられるかを、聖書朗読や説教による説き明かしの御言葉を積極的に聞いて学ぶように努めなさい」ということだと思います。
人間の罪の重さとイエス様の十字架の贖いの重み
「神の義」の中で、神様御自身が「義」の法則を決して破らない御方だと申しました。それに神様が決して恐いだけの御方ではないことを話してきました。さて、神様御自身も守られたルールとは何でしょうか。それは、人間の罪を償うためには「犠牲の血」が要求されるというルールであり、これは決して変えられない厳然としたルールです。それほど、「人間の罪」の責任は重いのです。旧約の段階では、牛や羊といった獣の血でしたが、これは完全に人間の罪を贖えることはありえず、繰り返されました。だから、新しい贖いでは、一度きりの「神の御子の血」ですべての罪の贖いとなったのです。私達アジア人は、血の犠牲について実感としてあまり良くわからないかもしれません。だからこそ、私達はその重みを学び、その重い罪に対しての「主の贖いの重み」を知るべきです。
「主の言葉」に従う信仰者
「信仰」や「義」について想起するのは、創世記15章6節「アブラ(ハ)ムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」の御言葉です。同じ書の12章4節では、更に明確に書かれています。アブラハムは「主の言葉」に従ったのです。プロテスタントもこの原点に立ち返ったのです。私達は主の言葉の意味を深く知る信仰者として成長し続けられるように祈りましょう。