2月25日の説教要旨 「悪と戦うキリスト」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書2:1-13 マルコ福音書3:20-30

はじめに

今日の新約聖書箇所は、23節以降のイエス様の例え話を端緒とした御言葉が中心です。しかし、その前の記述は、その御言葉が語られた状況が説明されており、そのことをよく知ると、御言葉の意味を、より一層はっきりと読み取ることができます。ご一緒に見ていきましょう。

今までの先生達とは違う圧倒的な御力で人々を救ったイエス様

ここに至るまでに、マルコ福音書では、イエス様のなさったことが、大まかに分けて二種類書かれています。一つは、イエス様の御言葉が「権威ある者としての教え」(1:21-22)として、人々を驚かせたことです。それまでのユダヤ教指導者達とは全然違うものだったと思われます。

もう一つは、悪霊を追い出したり、病いに苦しむ人々を癒したりする御業を行ってくださったことです。これも、それまでそのことに従事していた専門家とは、全く違う次元の、圧倒的な力を、イエス様は示されたと記されています。苦しみに直面していた人々は、イエス様の圧倒的な御力は神様からいただいていると素直に理解し、それに頼ろうとしました。苦しみは人間的に見れば避けたいものですが、しかし、苦しみを通して、人々は更に真剣に神様に頼ろうとするものです。それで、「群衆」がイエス様に押し寄せていると描かれているわけです。

神様から御力をいただくイエス様を認めない二つのグループ

今日の箇所には、そうでない人々が二グループ出てきます。一つは、イエス様の「身内の人たち」、もう一つは「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。前者は、ユダヤ人社会の中で、家族の一員が常識と違った言動を取れば、その家族が、常識に戻す責任があると考え、それを第一に考えて行動しています。この「身内の人たち」は、イエス様の御業の内容を率直に見極めようとするよりも、「気が変になっている」という人々の噂を信じて、イエス様の御業を止めさせようとしました。また、後者も、ユダヤ社会での責任、特に「神様を信じる」件での人々の動きには責任があると思っていました。自分達とは違う、圧倒的な神様からの御力で、福音を語り、悪霊を追い出し、病いを癒せる「ナザレ人イエス」を調査するために、中央の都エルサレムから離れたガリラヤに下って来ました。イエス様を排除したいという自分達の思いを第一に実現することが第一の目的だったと思われます。

反対派を論理的に論破なさったイエス様

この「律法学者たち」は、イエス様の御業に現れた神様の御力を素直に認めず、あろうことか、その圧倒的な力の源を、本当の神様とは全く逆の「ベルゼブル(異教の神々の一つ)」と言ったり、イエス様御自身を「悪霊の頭」と呼び、悪評を立てようとしたのです。これに対して、イエス様は例え話によって彼らの主張を完璧に論破なさいました。23節後半から27節までの例え話は、論理的で、誰でも理解できると思えます。

「聖霊を冒瀆する者は赦されない」

では、その例え話と28節から29節までの御言葉が、内容の上で、つながっているように思えるでしょうか?理解するためには、29節に出てくる「聖霊」の働きについてのユダヤ教の伝統的な教えが参考になります。まずは、「神の真理」がこの世に啓示される出来事が起こるということ、次に、その出来事について、それが神様が起こしてくださっていると人間に悟らせること、それが「聖霊の働き」です。「群衆」はイエス様の御業を神様からのものと理解している=「聖霊の働き」を理解し、認めています。一方、「身内の人たち」や「律法学者たち」は、イエス様の御業の上に「聖霊の働き」が確かにあるのに、それを決して認めませんでした。「聖霊」は「神の霊」、つまり、イエス様が最も愛する「父なる神様」の霊であり、父なる神様の御心によっていただく賜物です。それを認めず、他の名で呼ばれることをイエス様は決してお赦しにはなれません。「聖霊」を「汚れた霊(30節)」と言われることはお赦しになれません。イエス様は「聖霊」を認めず、他の名で呼ぶ「悪」と。論理的に、敢然と戦われました。

「聖霊の働き」を祈り求めることができるという私達の幸い

今や、私達は、イエス様を救い主と信じる信仰で、主の恵みを賜わること=「聖霊の働き」を祈り求めることが許されています。その源である「主の十字架の贖い」を再び想起し、「復活」の恵みに感謝しましょう。

2月18日の説教要旨 「荒れ野の誘惑」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書31:31-34 マルコ福音書1:12-15

はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が救い主として歩まれる「公生涯」の初めに、洗礼を受けた後、荒れ野でサタン(悪魔)の誘惑を受けたと記されています。まずは、その順番に従って考えていきましょう。

罪がないのに、罪を清める洗礼を受けたイエス様

イエス様は救い主として「公生涯」を始めるにあたり、洗礼をお受けになりました。罪のない神の御子なら、罪を洗う洗礼は必要ありません。けれども、イエス様は御自分が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」(神様の御心に適うという意味)とおっしゃって、洗礼をお受けになりました。それは、罪のないイエス様が、救う対象である私達罪深い人間と同じ立場になってくださることを示しています。

それから、“霊”によってイエス様は荒れ野に連れ出されたとあります。“霊”とは「聖霊」「神の霊」「主の霊」という意味です(聖書の初めの「凡例」の三の⑵参照)。だから、神様が、人間と同じ立場で洗礼を受けたイエス様に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けるように導かれた訳です。

洗礼の後に、悪魔の誘惑⇒信仰者(受洗者)への試練の先取り

私達と同じ立場になるため、イエス様が洗礼をお受けになって誘惑を受けたなら、その順番が、私達が信仰の歩みと逆だと思われませんか?悪魔の誘惑や人生における試練を経て、人間はこの世の限界や偽りを感じ、真実を求めて教会に来て、福音に出会い、洗礼を受けることになるという順番の方が多いでしょう。しかし、イエス様の歩みは正反対の順番を示しておられます。これは、公生涯の始まりの後に、悪魔が信仰者にも誘惑(試練)を仕掛けてくるということを暗示しています。それは、神様に愛される者を、サタンも狙うからなのです。イエス様だけでなく、信仰者も、洗礼によって「公生涯」が始まると言っていいでしょう。受洗者は、神様の御前に神の国の民として生き方を見守られているのです。サタンは私達受洗者=神の民が神様からの愛を受けている故に、自分側に引き込もうと激しく誘惑するのです。イエス様の洗礼の後の悪魔の誘惑は、洗礼後の「神の民」への悪魔の誘惑の先取りです。

荒れ野の誘惑の内容と撃退法(マタイ4:111、ルカ4:1-13

私達は、イエス様が悪魔に勝利した「荒れ野の誘惑」の内容とその撃退法を知る必要があります。私達にも降りかかる誘惑だからです。その内容を、マタイ福音書の順番で見ると、以下の通りです。①自分の欲望を満たすためにこの世の物を変えたらよいではないか。②自分の願いを叶えるために、神様を試してみたらどうか。③一度だけ、少しだけでいいから、神様でないものを拝んでみたらどうか。以上です。3つ全部が、「神の民」である故になおさら、陥りやすい誘惑です。①の誘惑に対して、イエス様は、欲望(食欲)を満たすこの世の物ではなく、主=本当の神様の口から出る御言葉によって人間は本来生きるものだとお教えになりました(申命記8:3)。②の誘惑は、特に要注意です。神の民が願ったことをすぐ、神様が奇跡を起こして助けてくれるはずだから試してみたら?という誘惑です。私達は祈りでは自分の思いを当然素直に表しますが、神様の御心よりも、自分の思いを叶えるために神様を試すようにその御力を求めるのは本末転倒です。人間が神様を自分の思い通りに動かそうと企てることが罪なのです。イエス様は、再び、御言葉(申命記6:16)により「主を試してはならない」と誘惑を退けました。③も信仰生活でしばしば見かけます。神様に関わること(礼拝等)よりも、自分の都合を優先することを最初は1回だけと巧みに誘い、次第にその回数を増やし、最終的には信仰生活から離れさせる罠を悪魔は信仰者に仕掛けます。イエス様は、3度目も御言葉(申命記6:13)により、悪魔を拝むことを敢然と退け、「主にのみ仕える」と宣言されました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)

洗礼と試練の後、イエス様は「救いの時の到来」を天地に宣言なさいました。「時は満ち、神の国は近づいた。」という業をなさるのは神様です。神様が御計画して人間を救う時が押し寄せています。それを受ける側の人間がなすべきことは、悔い改め=自己の欲望中心の生き方を止め、神様の御心に従う生き方に変えることです。その準備ができた者の心に福音が入り、それを信じて生きる信仰を神様が与えてくださるのです。