2022年8月14日の説教要旨 詩編78:23-39・ヨハネ福音書6:41-59

「いのちのパン」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私たちにとっての命のパンとは、どのようなものなのでしょうか。本日の詩編は、旧約聖書の出エジプト記の出来事を思い起させます。イスラエルの民は、荒れ野の旅の中で、モーセに向かって飢えと渇きを訴え(民11~)激しく不満を言いました。神様は民の不平を聞いて下さり、朝には天から「マナ」を、夕べには「うずら」から肉がもたらされました。

*マナ

「マナ」は朝、宿営の周りに降りた露(つゆ)が蒸発して、薄くて壊れやすいものが大地の霜のように残ったものです。民はそれが何か知りませんでしたが、モーセは「これこそ主があなた達に食物として与えられたパンである。」と教えています(出エジプト16:13~)。マナはコエンドロ(水辺に咲く。調味料とされる)の種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味でした(出エジ16:31)。マナにはヘブル語で「何だこれは?」という意味があります。彼らは知らないもの、理解できないものを目にしたのです。

*民の欲望と不信仰

(詩編78:22~29節)。「彼らは神を信じようとせず 御救いにより頼まなかった。それでもなお、神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。・・神は食べ飽きるほどの糧を送られた。神は東風を・・送り 御力をもって南風を起こし 彼らの上に肉を塵のように降(ふ)らせ 翼(つばさ)ある鳥を海辺の砂のように降らし・・神は彼らの欲望を満たして」下さいました。しかしイスラエルの民は、欲望から離れることはなく、その結果、「神の怒りが・・燃えさかり、肥え太った者を殺し、・・若者達を倒したそれにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し 驚くべき御業を信じなかった。」(31~32節)のです。神様は彼らの不信仰を見て、彼らを滅ぼそうとなさいました。彼らはそれに気付くと立ち帰って神様を捜し求めました。が、彼らの心は定まらず、神様との契約(律法、守りごと)に忠実ではありませんでした。それでも神様は、彼らを滅ぼすことなく繰り返し怒りを静めらました。「神は憐れみ深く、罪を贖われる」(38節)とあり、続いて「人間は肉に過ぎず、過ぎ去って再び戻ってこない風のような 滅びゆく存在である」ことを御心に留められたことが記されています(39節)。

*「わたしは天から降(くだ)って来たパンである。」(41節)

 本日のヨハネ福音書でイエス様は、ご自分のことを「パン」と言われました。それは物質的なパンではなく、心の癒しや生きる力を与えて下さる「霊のパン」です。このパンを食べる者(イエス様を信じる者)は、永遠の命を得たものであり永遠に生きることを教えています。 

しかし「天から降って来たパン」との言葉に、ユダヤ人達はつぶやき始めました。なぜなら彼らは、イエス様の両親を知っていたからです。

 イエス様は、ご自分が天から降ったことを説明するために「(神)」を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見た」と言われ、ご自分が神から遣わされた御子であることを宣言されました。

*「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させる。(54節)」

このイエス様の言葉は、ユダヤ人達の間に大きな議論を起こし、多くの人達がこの言葉につまずきました。けれどもイエス様は十字架で肉を裂かれ、血を流し、亡くなられました。イエス様の肉を食べイエス様の血を飲むとは、イエス様の十字架の死を、自分のこととして信じ受け入れることです。十字架の死は、私達が、自分の罪のゆえに死ななければならなかったのにイエス様が代わって死んで下さった、それにより私達の罪は赦され、永遠の命が与えられた出来事です。これは丁度私達の命をイエス様の命と交換していただいたことと同じです。私達は罪の中に生き、肉体の死と共に滅びゆく存在でした。にもかかわらずイエス様が私達の罪を引き受けて下さったがゆえに、神様の恵みにより信じる信仰によって「永遠の命」と復活が約束されています。私達はイエス様が日々与えて下さる「命のパン」によって生かされ、神様との出会いと交わりが与えられていることを感謝して、今週一週間も歩んで参りましょう。