9月27日の説教要旨 「平地の説教③-人を裁くな-」 牧師 平賀真理子

詩編79:8-9・ルカ福音書6:37-42

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて3回目です。今日の箇所の直前は「敵を愛しなさい」という教えです。私達にとって、この教えは高い目標ですが、イエス様は十字架で「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と敵のために祈られています。

 「裁く」「罪人と決める」「赦さない」

「裁く」とは、良いものと悪いものとに区別するという意味があります。区別するには「基準」が必要になります。自分の考える基準に達しないものに対して、「悪い」と言ってとがめだてることを人間はしがちです。今日の御言葉はまだ続きます。自分以外の人を悪い者、つまり、「罪人」として決めつけたがる…、多くの方が思い当たる節があるのではないでしょうか。御言葉は更に深くなっていきます。「赦しなさい。」(37節)……人を「罪人」と決めつけて「赦さない」という人間に対して、「赦す」という大変大きな目標が掲げられます。

 「自分の量る秤」

そのような人間の中心にあるのは「自分の量る秤」です。人には、各々が正しいと思う秤=基準があって、その基準に合えば「良い」としますが、自分の基準に合わないと「悪い」として、その範囲に入る人を裁き、罪人と決めつけ、更には、「赦せない!」と思う傾向があるように思います。「自分の秤」は正しいと多くの人が思うのです。けれども、本当にそうでしょうか。限界のある人間が、不完全なこの世の中で、時間や範囲が限られた世界の短い人生経験の中で、正しいと思っている基準が、永遠で無限で完全な神様の基準と比べて、絶対に正しいと言えるでしょうか。

 「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして」

38節の「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」の目的語は「秤」です。「量りをよくして」とは、「量りを大きくして」という意味です。自分の持っている秤の枠を押して広げ、中身がより多く入るように秤を揺すって、秤をあふれ出るほどにして、自分の秤の容量を増やすよう求められています。中身である相手ではなく、相手を裁こうとしている自分の秤の方を変えて大きくすることを求められています。

 「量り返される」

自分の秤を大きくするように求める理由を、イエス様は「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(38節)とおっしゃいます。では、誰に量り返されるのでしょうか。一つは、周りの人々(自分が裁こうとした人々)に。もう一つは、神様に、です。信仰者は、やがて自分が神様の御前に立たされて、神様から裁き(良い悪いという評価)を受けると知らされています。その時の神様の秤が、自分が他人を量った秤の大きさと同じだと言うことを肝に銘じなければなりません。だからと言って、自分の秤を持つことを否定しているわけではありません。御言葉に従って自分の量る秤を持つことは、信仰者として成長するために必要です。しかし、それを、他の人に当てはめることを、主は戒めておられます。自分の基準は、人に当てはめられません。人それぞれ、神様が与えられた賜物や生まれ育った環境で感じ方・考え方が違います。コリントの手紙Ⅰの8章の「強い人」「弱い人」の話を思い出します。信仰において、「強い人」と「弱い人」があるのですが、強い人が弱い人に対して配慮すべきことが書かれています。なぜなら、強い人のためだけでなく、弱い人のためにも「キリストが死んでくださった」(11節)からです。主の十字架に示された自己犠牲の愛は、「私に」だけでなく、主に導かれた人すべてに分け隔てなく注がれています。

 イエス様が話された2つの例えから

39節の「盲人達」は、自分の大きな欠点で人や物事を正しく見ることが出来ない人々であり、主に出会う前の人々と言えます。その人々が、「師」と言われるイエス様に出会い、訓練されれば、主の正しい基準によって人や物事を正しく見ることが出来るようになることを例えています。

後半41節以降の「兄弟」とは、神様によって兄弟となった信仰者同士です。「兄弟の目の中のおが屑」とは、「他の信仰者の僅かな欠点」です。「丸太」と例えられる自分の大きな欠点に気づかず、他人の小さな欠点が大きく見えて「裁く」人間の罪深さが表されています。罪深い人間の基準はあやふやで、愚かなものです。私達は、自分自身の基準から、イエス様がくださった基準のもとに歩めるよう、訓練されていきたいと願っています。