10月4日の説教要旨 「平地の説教④-良い実を結ぶ-」 牧師 平賀真理子

箴言11:30・ルカ福音書6:43-45

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて4回目です。今日の箇所の直前にイエス様は「人を裁くな」という教えを語ってくださっています。他の人のことを、心の中や口に出して、裁くことの多い私達に対して、です。

 「人を裁くな」 

「人を裁くな」の御言葉の段落で2つのことを知らされています。一つは、自分が周りの人に当てはめている秤で自分が量り返されることです。「人を裁くな」はイエス様が私達に語ってくださった御言葉ですが、その教えに従っているか、自分を振り返って、すんなりとOKと言えるでしょうか。残念ながら、主の恵みの洗礼を受けた後でさえも、私達は、「人を裁く」習性から抜けきれていないのではないでしょうか。 だから、日々の悔い改めが必要なのです。もう一つは、信仰者として思い起こすべき「主の十字架」です。イエス様は「神の御子」として「人間を罪から救う」という、最高に善い目的のためにこの世に来られたのですが、イエス様に反感をもった「敵」と言うべき人々は、自分達で解釈した「律法」という秤で、主を裁いて十字架につけました。にもかかわらず、イエス様は神様に彼らへの赦しを願い、「執り成しの祈り」をなさり、裁くことをしなかったのです。

 誰に向かって語られたのか?

今日の箇所は、同じ内容がマタイによる福音書7章にもありますが、そこでは、偽預言者を見分けるために語られました。しかし、ルカによる福音書では、弟子達やイエス様に聞き従おうとする者に対して語られています。イエス様の恵みによって「主から訓練を受け、主に近づこうとする者」の生き方を指し示す御言葉として伝えられています。

 「木」と「実」

 43節、44節では、木の性質が語られています。神様が「天地創造」で木をそのように造られたのです。朝顔の種からは朝顔、ひまわりの種からはひまわりの花しか咲かない、違うものには絶対にならない。よくよく考えると不思議です。これは、この世の大きな決まりであり、神様がそのようにお決めになったということです。 例として挙げられている「いちじく」と「ぶどう」は、共に、豊かな実り、平和と繁栄の象徴として、旧約聖書では良いものとして表現されてきました(ミカ4:4等)。一方、「茨」や「野ばら」は、土地を荒らすもの、または、土地が荒れた結果、生えるものと言うように、性質の悪さを表すものとして表現されてきました。

 「実によって木を知る」

「木は、それぞれ、その結ぶ実によって」分かります。「毒麦の例え」(マタイ13;24-30)のように、当時の人々は、実によって、その木が何の種類なのか、最終的に判定したこともあったでしょう。神様による「天地創造」の法則を掘り下げて考えると、神様から授けられた本来の性質に従って、木は、神様から決められた実を結ぶように成長していくということになります。その原則を45節では人間に当てはめています。善い性質の人は、良いものを心の倉に入れて、良いものを出す、逆に悪い性質の人は、悪いものを心の倉に入れて、悪いものしか出せない…。結局、人の口からでる言葉が「実」として、その人の心の倉に何があるかを明らかにしていると主はおっしゃるのです。

 「悪い実をつける悪い木」のままの人間

「悪い言葉」が実となって口から出てくる例の一つに、「人を裁く」ということがあります。信仰者は、神様の憐れみによって赦されていて、罪から卒業することを保証されているのに、「人を批判する」、つまり、悪い言葉を「実」として口から出してしまうということは、その人はまだ悪い性質の「木」のままであることを暴露しています。

 「良い木となって良い実をつけるために」

「良い木となって良い実をつける」には、良いもので心の倉を満たす、良いものを収穫することが必要です。キリスト者は、信仰によって、救い主イエス様の木に接ぎ木され、根から豊かな養分を受けられるようになった者であると、ロマ書11章17-24節にあります。養分を受け続けましょう。