10月11日の説教要旨 「平地の説教⑤-御言葉を行う-」 牧師 平賀真理子

詩編19:8-15・ルカ福音書6:46-49

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて5回目です。今日の箇所は、「平地の説教」の最後の部分、結論にあたる部分ですから、今までにもまして重要だと推測できます。

 「主よ、主よ」と呼びながら、言われたことを行わない者 

イエス様のことを「主」と呼んで尊敬しているようで、しかし、その教えを実行しない人がいるとイエス様はおっしゃっています。「主よ」と呼びかけをするばかりで、自分を御言葉に従わせようと考える人が少なかったということでしょう。この「平地の説教」は、弟子達やイエス様に従って御言葉を聞いている人々に向かって教えられたことです。そういう人々の中にさえ、うわべだけの信仰者がいたわけです。

 「神の国」の御言葉を聞ける恵み

イエス様の素晴らしさは溢れて、多くの人の心を動かします。現代の人々の中でさえも、福音を伝えると、「イエス・キリストっていいこと言うわね」「なんか清められたわ」と言う方はたくさんおられます。しかし、話を聞き終わって教会を出たら終わりで、教会に来る前と何ら変わることなく、この世に再び埋没してしまう人達が多いものです。イエス様が教えてくださった「神の国」は、神の愛の溢れた世界です。それは、この世=自分が一番大事という罪の世界とは全く違う世界です。「神の国」に入るには、人間の力だけでは無理で、神様の霊(聖霊)の助けが必要です。実は、福音を聞いた方々というのは、「神の国」のことを聞くことができたということで、聖霊の助けをいただいているのです。

 聞いて、信じて、行う

このように、御言葉を聞けたということは大きな恵みです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ書10:17)という御言葉どおり、御言葉を聞くことは信仰の出発点ですが、その「聞くこと」から、信じ、そのとおりに行い、更に、成長していくことを、私達は神様から期待されています。

 行わなければ、忘れる

御言葉を聞くだけ、御言葉を受けっぱなしで何もしないままでは、大事な御言葉を忘れてしまうことが、私達人間は多いものです。ヤコブの手紙2:23-24には、御言葉を聞くだけで行わない者について、自分の顔を鏡に眺める人のようだと書いています。その場を離れると忘れてしまう、人間の忘れっぽさを思い起こさねばなりません。大事な御言葉もただ受けただけでは、残念ながら、人間は忘れることが多いのです。けれども、実行しようとして労苦した場合には、決して忘れませんし、むしろ、労苦が多ければ多いほど、心に刻み付けられます。

 御言葉を行うことの労苦

御言葉を行うことは労苦を伴います。例えば、この「平地の説教」の中にある「敵を愛しなさい」とか「人を裁くな」という御言葉を実行しようとすれば、自分の感情や考え方を犠牲にしなければなりません。簡単にはできません。心の中では「血を流す」感覚と言っても過言ではありません。それまでは、「自分を憎んでいる人は自分も憎いから憎む」「自分の基準に合格しない人はダメ人間のレッテルを貼る」といったこの世の常識の中にいました。しかし、聖霊の恵みに

よって御言葉を聞けたことを感謝するならば、その御言葉を本気で実践したいと願うでしょう。そして、自分を御言葉に合わせるよう、努めるでしょう。

 岩の上に土台を置いて家を建てる

イエス様御自身は、「御言葉を行う」ことを、家を建てる時の土台を据える作業に例えられました。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた」とおっしゃいました。反対に、御言葉を聞くだけで行わない、つまり、楽な作業をする例として、掘り下げる労苦はせず、一見安全に見える平坦な砂の上に家を建てることを挙げられました。表面的には、同じように家が建ちますが、「川の水」が押し寄せると、楽に建てた家はひどい倒れ方をするのです。「洪水」や「川の水」とは、試練とか、欲望とか、思い煩いなどの例えです。そのようなことが信仰者の人生を襲った時、岩の上に土台を据えた信仰者は押し流されずに済みます。難儀なこと=御言葉を聞いて行うことに努めた信仰者には、「岩」と例えられる神様がしっかりと土台となって支えてくださいます。洪水になって「川の水」が押し寄せて来ても 揺り動かされない家を建てるような信仰者となるために、御言葉の実践者として歩んでいきましょう。