11月8日の説教要旨 「死者のよみがえり」 牧師  平賀真理子

列王記上171724・ルカ福音書71117

 はじめに

イエス様と弟子達と大勢の群衆がナインという町に近づかれた時のことです。(ナインは、イエス様の宣教の拠点カファルナウムから約8㎞の町です。)ちょうど、ある家から棺が担ぎ出されるところでした。

 絶望した母親を憐れむイエス様

一人の若者の死でした。彼の母親は、夫を亡くした「やもめ」でした。母一人子一人で生きてきたのに、その一人息子が亡くなったのです。この母親は絶望して泣き叫んでいます。13節に「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」とあります。この母親の大変深い悲しみや絶望を憐れまれました。この「憐れむ」という言葉は、「腸」という言葉を語源としています。人間の情がこの「腸」から生まれ、存在すると考えられていたのです。表面的にではなくて、心の底から同情するということを言い表しています。深い悲しみや絶望に捕らわれている人々の所に、主が先ず訪れてくださり、その気持ちに寄り添ってくださることを示しています。

 「死」から若者を解放された主

主の憐れみによって、更に偉大なことが起こります。この母親の悲しみ・絶望の源が取り除かれたのです。主は「息子の死」を取り除き、この若者を生き返らせてくださいました。イエス様が、「死」から若者を解放するという御業をなさったのです。この姿はまさしく、イザヤ書で預言されていた「救い主」の姿です。「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)この町の大勢の人々がこの母親のそばにいたとありますから、多くの慰めの言葉がかけられていたことでしょう。しかし、本当の慰めを与えることができるのは、「死」に打ち勝つ御力を持つ御方、つまり、神の御子・救い主であるイエス様しかいないことが知らされています。直前の段落では、イエス様は瀕死の病人を元気になさるという御業をなさいましたが、今回は完全に死んで棺に入っている若者をよみがえらせたということで、イエス様の御力は「命」をお与えになることのできる素晴らしいものだということが明確になっています。

 神様を讃美した人々の言葉

イエス様の御業を目撃した人々の、神様を讃美した言葉が16節に書かれています。最初の言葉は「大預言者が我々の間に現れた」です。大預言者とは、この場合、もちろんイエス様のことです。ただ、ユダヤ人達は、「大預言者」という言葉の奥に、列王記上17章以降に記されている「預言者エリヤ」を思い浮かべているのです。預言者は、神様の言葉を受け取って、人々に伝える使命を神様によって与えられた人です。また、神様の言葉だけでなく、更に神様の御力も与えられることもあります。だから、エリヤのように、死者さえもよみがえらせることもできたのです。イエス様も神様の言葉を語り、神様の御力もいただいている御方ですから、大預言者と言われれば、そういう一面もあります。けれども、それ以上の御方です。次の讃美の言葉「神はその民を心にかけてくださった」の奥には、歴史上の出来事「出エジプト」の記憶があるのです。そして、出エジプトと言えば、当時のリーダー「モーセ」が思い出されているのです。人々は、イエス様のことを、偉大なモーセのような、凄い御力を持つリーダーだと思ったのでしょう。人々は、自分達の理解や過去を通して、ナインでの出来事から、イエス様の偉大さを感じているようです。しかし、例えているのは、エリヤやモーセのような「尊敬する人間」です。しかし、イエス様は、人間としての歩みをなさいましたが、本当は全く次元の違う「神の御子」、つまり、神様です。一方、イエス様の「死者のよみがえり」の御業に対して、人間は人間の範囲でしか、理解できない、表現できないという限界が示されています。(そこに聖霊が働いてくださらない限り、神の御子については、人間の力だけでは理解できないのでしょう。)

 我が身に起こる「救い」

ナインの人々は神様の御業を讃美しましたが、イエス様をメシア=救い主とまでは言い表せませんでした。人間に対しての「救い」の出来事がその場で即座に理解されることはむずかしいことがわかります。しかし、「救い」は私達一人一人に、自分の理解を越えた所で我が身に起こります。そのことを知らされている「後の時代の者」として、主に心を向けて目を覚ましてい続けたいと願います。