5月31日の説教要旨 「よく生きるということ」 牧師 佐々木 勝彦先生(東北学院大学教授)

詩編139:1-24
ヨハネ福音書9:1-12

はじめに
本日の旧約聖書の箇所は、詩編139編全編です。詩編とは、昔の人々の讃美歌です。当時の人々は節をつけて曲として歌っていました。今は、この旧約聖書にあるように歌詞だけが残っているというわけです。

詩編139編に示されている神様
詩編139編の幾つかに示されている神様、つまり、「聖書の神様」について、特徴を学んでいきましょう。
4節「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる」神様は、私達人間が話すよりも前に、全てをご存じだということです。
19節「どうか主よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。」人間にはどうしても憎く思う人、許せないと思う人がいます。それを言葉に出せずにいると、その感情が内向きになり、うつ状態になります。素直に言葉に出してよいのです。但し、神様の御前で。この箇所にあるのは、人間の心からの素直な祈りを神様は必ず聞いてくださるという、神様への絶対的な信頼です。ただ、それだけではありません。
13節「あなたは、わたしの内蔵を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」生まれる前から神様がいらっしゃるのです。神様がいらっしゃるのを、私は後で知ったにすぎません。
これらのことから、次のことがわかります。日常生活において、私達は祈ることが出来なくなることがありますが、その時にさえ、神様が居てくださるのです。私達が祈る前に、既に、神様が私を知っておられるからです。更に言うと、神様が私のことを祈ってくださっている、つまり、私達は神様から祈られている存在だということです。そのことを知って生きることが「よく生きる」ということです。

「生ける神様」であるイエス・キリスト
人間は、問題を抱えて生きるものです。今日の新約聖書の箇所にも、大変な問題を抱えた人が出てきます。生まれつき目の見えない人です。このことについて、人間は、何か原因があるはずだと思うものです。ここにあるように「本人か、両親が罪を犯したからだ」などというように。しかし、そうではないのです。ここで、神様は、祈りを期待しているのです。人間は悪い思いで、裏切ったりするのですが、神様は決して裏切らないのです。どんな状況にあっても、「神の期待に応えて生きる」というのが、「よく生きる」ということです。
「目が見えない人」に対して、生ける神様であるイエス・キリストは、原因を究明するのではなく、「神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃいました。神様は、この「目の見えない人」が、神様に祈り、信頼して生きること、つまり「よく生きる」ことを何よりも期待されていることを教えられました。

「祈り」について
神様さえ祈ってくださっていますし、私達人間も、手足が動かなくなっても他人のためにできることとして「祈る」ということがあります。この「祈る」ということが、即ち、「よく生きる」とも言えます。祈りの幅は世界に広がります。(若い学生達にも、地球の裏側をイメージして祈る人間になるよう、私は伝えています。)「祈る」という言葉を、別の表現をすれば、「期待する」ということです。また、「祈り合う」ということを通して、「祈りの友」ができます。それも本当に大きな恵みです。
「信仰」とは
ヨハネ福音書9:1以下の段落の「目の見えない人」についての主の御言葉「神の業が現れるため」(3節)は、私達一人一人に向けられているのです。このように生きることを「信仰」といいます。「チャレンジ」とも言えるでしょう。神の期待に応えようと、一歩前に出ることが大事です。

「ハレルヤ!」=「神様万歳!」
説教の前に讃美歌20番を歌いました。歌う機会の少ない讃美歌のようですが、歌詞の各節の最後にある「ハレルヤ!」の繰り返しが特徴です。「ハレルヤ」とはどういう意味か、御存知でしょうか?「神様万歳!」という意味で、喜びの爆発の言葉なのです。このような「神様に向かっての祈りの言葉を持てるか?」が信仰生活には大切です。祈りの言葉の中でも是非覚えてほしいのが、「主の祈り」です。この祈りをどんな時にも祈る信仰者となっていただきたいと思います。