12月27日の説教要旨  「シメオンとアンナの証し」 牧師 平賀真理子

イザヤ5247 ルカ福音書22538

 はじめに

 日本では、12月25日が過ぎると、クリスマス気分は終わってしまい、お正月の準備がなされていきますが、教会では、1月6日の公現日までは降誕節として、神様の御子のご降誕を祝うべき期間です。

 シメオンとアンナ

 イエス様は、神様によって、ヨセフとマリアの夫婦の初めての子供として、この世に生まれることになりました。この信仰深い夫婦は、律法に従って、「初子を献げる儀式」をエルサレム神殿で行うことにしました。この時、ヨセフとマリアと幼子イエス様に出会う恵みをいただいたのが、シメオンとアンナです。聖書では、シメオンは高齢であるという記述はありませんが、「高齢の男性」と教会では伝えられています。アンナは「非常に年をとっている」と2章36節にあるとおりの高齢の女預言者です。2人とも、神様の御心をまず第一に考える信仰深い人々でした。

 聖霊に導かれて幼子イエス様に出会ったシメオン

シメオンについては、神様の御前に「正しい人であり、信仰があつく」とあり、更には「イスラエルが慰められるのを待ち望み」と説明されています(25節)。自分の救いだけに関心があるのではなく、周りの人々も救われることを望んでいる、まさしく信仰者の鑑と言えるでしょう。そして注目すべきことは、シメオンの上に聖霊がとどまっていたことです。25節から27節にまでに、聖霊について3回も言及され、強調されています。シメオンは、聖霊によるお告げをも受けて「死ぬまでに救い主に絶対会える」と確信が与えられ、聖霊の導きにより、主に出会うことができました。それだけではなく、幼子イエス様を腕に抱き、その存在を自分の感覚全部で体感することができたのです。

 シメオンの賛歌

 29節から32節までは「シメオンの賛歌」といって、待降節や降誕節に想起される3つの賛歌の一つです(ザカリアの賛歌、マリアの賛歌)。神様が自分へのお告げのとおりに救い主に出会わせてくださり、安心してこの世を去ることが出来ることへの感謝が献げられています。神様は私達人間が死んだ後でも永遠におられる確かな存在です。神様に全てを委ねてこのような絶対的な安心の下で死ぬことができるということこそ、長年信仰深い生活を続けてきた高齢者への大いなる恵みと言えるでしょう。30節で「あなたの救いを見た」と述べていますが、この「救い」こそ、イエス様のことです。そしてシメオンは、その「救い」が神様によって準備されたと証しし、32節では、「救い」であるイエス様によって、イスラエルの民と、そうでない「異邦人達」双方に光り輝くような「救い」がもたらされることを証ししています。

 「救い主」の定めを預言したシメオン

34節から35節には、シメオンが母マリアに告げた言葉が書かれています。「救い主」到来という恵みを受けるこの世の人々は、イエス様を「救い主」として「信じる」か「信じない」か、どちらかに分かれます。中間のグレーゾーンはありません。「信じる」者は、救い主の存在や御言葉によって、過酷な現実から立ち上がることができます。一方、「信じない」者は救い主の存在や真実の御言葉によって倒される時がやってきます。34節後半から35節を見る限り、多くの人々は、罪に染まった悪い思いから、イエス様を救い主と信じられずに、苦しめることが暗示されています。これは「主の十字架」に対する預言といってもよいでしょう。聖霊の恵みの下にあったとはいえ、この世で長く過ごした高齢の信仰者だからこそ、主の重要な定め=人々の罪の償いのための十字架 を告げることができたのだと思われます。

 アンナの証し

36節から37節を読むと、アンナは若い時に夫に死に別れて、長い間、孤独と貧困に苦しんだのではないかと思います。恵まれた状況とは言い難いでしょう。しかし、アンナは苦境に置かれたために神様から離れたのではなく、むしろ神殿を離れずに断食や祈りに励みました。自分の利益や快適さよりも、神様の御心に適う生活を選んだのです。恐らく、神様からの報い(ごほうび)として、アンナも幼子イエス様に出会う恵みを与えられたのでしょう。そして、その恵みを自分だけの喜びとしてしまい込まずに、周りの人々と共有したいと願い、幼子イエス様のことを「救い主」として証しする役割を感謝しつつ喜んで果たしたと思われます。私達も良き証し人として用いられるように信仰深く歩んでまいりましょう。