12月3日の説教要旨 「主の御降誕の予告」 牧師 平賀真理子

イザヤ書51:4-11 ルカ福音書録1:26-38
*はじめに
今日は、キリスト教会の暦の上では、いわゆる「元日」に値する「歳の初めの日」です。また、私達の仙台南伝道所では、もう一つ記念すべき日です。それは礼拝開始15周年を迎えたということです。この伝道所で礼拝が始まる以前には、その存続を危惧する方々もいたそうですので、人間の予想を越えたこと、つまり、神様が御計画されたことが起こっていると言えると思います。ここで、洗礼を受ける思いを授けられた会員や充実した信仰生活を送っている会員がいること、また、求道者の方々が与えられていること、このことに改めて感謝を献げたいものです。
*「救い主の御降誕」の前に、「洗礼者ヨハネ」を準備された父なる神
さて、今日から「アドベント」「待降節」に入りましたが、主の誕生日とされる12月25日までの期間は、救い主を迎える準備をする時です。今日の新約聖書箇所の一つ前の段落は「洗礼者ヨハネの誕生の予告」について書かれていますが、その中の1章17節では、洗礼者ヨハネは「『準備のできた民』を主のために用意する」者だと天使が告げたと書かれています。神様が救い主イエス様をこの世に送ってくださったことも感謝ですが、その前に、人々が救い主を迎えられるために、その準備をする人物さえも御計画してくださったことに更なる感謝を覚えます。
*御降誕についてのルカによる福音書の特徴
新約聖書では、救い主イエス様の御降誕について、マタイによる福音書とルカによる福音書、この2つに具体的に書かれています。ルカ福音書の特徴として、イエス様だけでなく、その先駆けの「洗礼者ヨハネ」の誕生も、神様の御計画のうちであることが示されていると言えます。
イエス様も洗礼者ヨハネも、主なる神様の御心を、親になる人物に告げられています。洗礼者ヨハネの場合、父親である「祭司ザカリア」に天使ガブリエルが現れます。一方、イエス様の場合は、母親となる「ナザレ町の若い娘マリア」に同じ天使が現れました。ここに、ルカ福音書の特徴が現れています。人間社会で尊重される、男性・身分の高い祭司・年長という要素が揃った「祭司ザカリア」のところではなく、女性・田舎の庶民・若年という、人間社会では軽んじられる要素しかない「マリア」に、神様
は、御自分の御子・愛する人類の救い主を託したのです。これは聖書で証しされてきた神様の特徴と一致します。軽んじられる立場・弱い立場の人間を愛してくだるという特徴です!
*マリアが救い主の母に選ばれた理由
このようなマリアが、「救い主の母」として神様に選ばれたのには、理由があるはずです。たくさんあるのでしょうけれども、今日の箇所から、二つの理由に思い至りました。一つは、マリアがダビデ王の家系の男性ヨセフと婚約していたことです。ダビデ王にナタンという預言者が「あなたの身から出る子孫に跡を継がせる」と神様の預言(サムエル記下7:12)が伝えられていて、それをイスラエルの民全体が知っていたからです。神様が預言を実現される、まさにその時に、神様に導かれて、ダビデ家の男性と婚約していた女性がマリアだったのでしょう。二つ目は、マリアが、思慮深い性格であり、信仰によって物事を肯定的に捉えられる女性だったと思われるところです。29節の天使の祝福の最初の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」という謎めいた言葉に最初は動揺したものの、その意味を「考え込んだ」とあるからです。この「考え込んだ」という言葉は、元々の言葉では、否定的な意味はなく、「思案を巡らす」です。
*ザカリアの不信とマリアの戸惑い
一つ、気になることがあります。神様の出来事が身に起こった時、通常、人間は驚いて、すぐに信じることは難しいと思われます。実際、ザカリアとマリアも、間髪を入れずに信じるとはならず、両者とも、まず驚いています。ザカリアの方は、天使を見て「不安になり、恐怖の念に襲われた」と1章12節にあります。ここから、ザカリアは祭司なのに、神様の出来事が実現すると100%の思いで信じているわけではないと、不信な思いが透けて見えるように思います。案の定、彼は「主の言葉」を信じなかった罰として、子供の誕生まで口がきけなくされました。一方、マリアの疑いは「戸惑い」と表現され、天使の抽象的な言葉に対して、「どういう意味?」という「信じたい思い」からくる積極的な問いだったと思われます。そのような素直な問いには素直に答えたくなるものです。天使も、マリアの問いに対して答えていき、天使とマリアの間で一問一答のように、会話の形が成立していきます。救い主の母となる人物に対し、その重要な役割を理解してほしいという神様の願いも天使は背負っていたのでしょう。
*「お言葉どおり、この身になりますように。」(38節)
聖書の「神様」は、この世に対し、御自分主導の出来事を起こせる御方であり、救い主を本当にこの世にお送りくださったのです!私達信仰者は、マリアのような素直な信仰によって、主からの出来事を待ち望みましょう。