3月18日の説教要旨 「人の罪を贖う『主の十字架』」 牧師  平賀真理子

哀歌3:18-33 マルコ福音書10:32-45

はじめに

今日の新約聖書箇所は、見出しにあるとおり、イエス様が御自分の死と復活の3度目の予告の段落から始まります。「人の子(ここでは、イエス様を指す)」の死と復活こそ、人々を罪から救うために神様が御計画くださったことで、イエス様はその重大な意味を弟子達に伝えたいと願い、愛する弟子達に3度も宣言なさったのでしょう。

 

エルサレムに向かうイエス様の御姿

3度目の予告の前に、マルコ福音書では、イエス様が一行の先頭を進んで行かれたとあり、それを見た弟子達は驚き、従う者達は恐れたと書かれています。イエス様は神様の御計画が実現することを第一に歩まれたので、たとえ御自分が死ぬことになろうとも、それが、御自分の贖い主の使命であり、これが神様の御心だと確信しておられます。だから、自分が死ぬ定めの都へ敢然と向かうことがおできになったのです。

 

「救い主の死と復活」の予告の重大性を理解していない弟子達

イエス様は、御自分の救い主としての道が、まずは「苦難の僕」であり、それは、弟子達を始めとする人間達の救い主のイメージ「栄光の王」とは全く逆の姿であり、これが大きなつまずきになること予想し、3度も予告された訳です。しかし、予告は3度とも、弟子達は、その重大性を全く理解できていないことをマルコ福音書は書き残しています。1度目の予告(8:31)の直後に、一番弟子のペトロが予告の意味を理解できずにイエス様をいさめ、逆に主から叱責されたことが記されています。2度の予告(9:31)の直後には、弟子達が自分達の中で誰が一番偉いかを競っていたと書かれています。そして、3度目も、主要な弟子二人が、主の死を理解しつつ、その後の自分達の地位の約束を取り付けようと願い出ています。主の死を迎えるにあたり、主を思いやるのではなく、まず最初に自分達の利益を優先している姿を見て、イエス様は、弟子として大事な心構えを教えようとされています。

 

「杯」「洗礼(バプテスマ)」

「栄光の時に、主に次ぐ地位を望んだ」二人の弟子達に対し、イエス様は、まず苦しみを共にする覚悟があるかを尋ねたのです。御自分の飲む杯を飲み、御自分が受ける「洗礼」を受けることができるかと質問なさいました。この「杯」とは、旧約聖書に出てくる表現で、神様が一人一人にお与えになる「定め」「役割」を指します。また、ここでの「洗礼」も、(イエス様が洗礼者ヨハネから受けた「洗礼」を指すのではなく、)この世に来られたイエス様が天に帰られる前に果たさなければならない「血の洗い」を指します。つまり、「杯」も「洗礼」も、具体的には「主が十字架刑で死ぬ定め」の例えで、壮絶な受難を意味しています。主の弟子には、同じような苦しみを受ける覚悟で主に従えるかが問われるのです。

但し、「杯」という表現には、苦しい定めに限られるのではなく、本来は、「神様がくださる定め」として喜びなども含まれる場合があります。また、「洗礼」も一度死なねばならない訳ですが、しかし、そこから新しく生きるという意味があります。救い主はまず死ぬ定めですが、次にはよみがえるのです!3度の予告すべてで、主は「死」だけでなく、「三日の後に復活する」と予告なさっていることも覚えたいものです。

 

「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(45節)

救い主が最終的に栄光を賜るとしても、なぜ最初に死なねばならないのでしょうか?45節の御言葉「多くの人の身代金として自分を献げる」が、明確な理由として宣言されていることに注目したいと思います。これがイエス様の主要な役割(定め)です。「身代金」は現代の私達の間では、残念ながら、誘拐事件の時に聞くことになる言葉です。イエス様から見れば、この世で生きる人間は、サタンに誘拐されている者達と思われるのではないでしょうか。イエス様は、サタンに誘拐されている人間達を「神の国」に取り返そうとして、「救い主としてのこの世の御自分の命」、即ち、「とても尊い身代金」を献げてくださったと言ってよいでしょう。「身代金を払う」ことが「贖う」ということです。だから、イエス様は、私達一人一人の「贖い主」と言えるのです。受難節のこの期間、「主の十字架上の死によって、この私の罪が贖われた!」ことに、感謝の思いをより一層深められるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

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