7月22日の説教要旨 「神の御言葉、とこしえに」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書40:6-8 ヨハネ福音書1:14

 はじめに

本日は、皆さんと一緒に、聖書の御言葉を味わいたいと思います。イザヤ書40章6節-8節に集中して、お話をしていきたいと思います。

 

 「草は枯れ、花はしぼむ」→この世の「栄枯盛衰」を表す

砂漠は温度が高い所ですから、朝に草が生えても夕方には焼けて干からびてしまいます。しかし、ここで、イザヤは植物のことを言いたいのではありません。栄えていたものもいずれは衰えます。企業も団体も国もそうです。これは万物の法則と言えるでしょう。栄枯盛衰はこの世界の定めです。この世界に全く変わらずにいつまでもあり続けるものがあれば、それは頼りがいがあるに違いありません。

 

 この世に、本当の意味で頼りがいがあるものがあるのか?

この世で頼りがいのあるものは何でしょうか?答えとして、今も昔も「お金」だったり、「幸福」とか「愛」とか「家庭」とか「健康」等があげられるでしょう。しかし、死にゆく時はすべて捨てていかなければなりません。この世で完全なものはありません。

 

 「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」

今日の旧約聖書の御言葉「神の言葉はとこしえに立つ」は、旧約聖書全般を通しての教えです。いつまでも神の言葉はなくならない、存続すると言っています。それはそれでわかりますが、何か頼りないと私達は感じます。言葉は、言いっぱなしで人をその気にさせますが、私達は手で触れて確かめることのできるものを信頼したいと思ってしまいます。

 

 人間が発するのではなく、神様からいただいた「預言」

このイザヤの預言は約2500年前になされましたが、この時代に頼りになったのは、多くの兵隊や軍隊、大きな要塞、豊かな食料や宝石などだと考えられた時代です。そんな時代に「神の言葉がとこしえに立つ」と宣言した教えは、この時代では、異様なことでした。これは人間には言えないことで、神様が預言者イザヤや民に教えてくださった大切な御言葉だと心に留めたいと思います。

 

 イスラエル民族の歴史を振り返って

イスラエルの民の国家であるイスラエル王国は、ダビデ王やソロモン王の時、大変栄えました。しかし、その王国もやがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。そして、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国だけになりました。それもまた、紀元前586年に、バビロニア帝国に滅ぼされました。南王国の王様と貴族は、バビロニアの都バビロンに連行されました。イスラエルの民にとってつらいことは、国を失っただけでなく、「神から見捨てられた」ことで、大変に絶望しました。アブラハムの時代から、神様にお前達は特別だと言われていた民にとって、ショックだったことでしょう。その時こそ、預言者達が活躍し、彼らは、イスラエルの神様に従わなかったことで不幸がもたらされたと言いました。こういう中で、イスラエル民族は、旧約聖書を巻物として整え、今まで気づかなかったことに気づいていくようになります。

 

 奴隷に自分達の神々の像を拝ませたバビロニア帝国

さて、バビロニアは、征服した敵国の人々を奴隷にして、都バビロンで繁栄しました。そのバビロニア帝国は、年2回のお祭りをして、バビロンの神殿(高さ90m)で、奴隷達をバビロンの神々の巨大な像の前で跪かせて拝ませました。イスラエル民族は神の像を刻まない民なのは幸いだったと言えるでしょう。ところが、約50年後にバビロニア帝国は東から興ったペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民は晴れて故郷に帰れるようになりましたが、故郷は廃墟と化し、復興の苦労が続きました。

 

 バビロンにあった、巨大な神々の像の末路

バビロンから解放される時、イスラエル民族は凄いものを見ました。それまで拝まれていたバビロンの神々の巨大な像を撤去せよということで、家畜を使って、多くの巨大な像が丸太の上を砂漠に向かって転がされ、砂漠の果ての死の世界にまで運ばれる様子です。彼らはこの時、「草は枯れ、花はしぼむ」ことが身に染みてわかったのです。この世の物、地上の物は土くれのように失われると教えられたのです。

 

 「神の言葉を心に刻め」

イザヤ書46章1節以降にそのことが表現されています。ここで言われる「ベル」は「マルドゥーク」というバビロンの最高神の別称ですし、「ネボ」はその息子と言われています。その巨大な神々の像が横たえられて、家畜によって運ばれ、重荷となり、沈んでいく、滅んでいく…。

ここに、繁栄したバビロニア帝国が滅びた様、神々を祭った人々の滅びが描かれています。地上のものを神と祭ってはならないとイスラエルの民は悟ったのです。砂漠で神の像を刻んだ宗教は全部滅びました。十戒にあるように「あなたがたはいかなる像でもって神を刻んではならない」のであり、「神の言葉を心に刻め」と「神の民」は言われていたのです。この戒めを守って生きていくことこそ、神の民に相応しいのです。これがイザヤ書40章になり、それが新約聖書に受け継がれました。

 

 旧約聖書を受け継いだヨハネ福音書:「神の言葉が肉となった」

ヨハネによる福音書1章14節には、「神の言葉」が肉となり、私達の間に宿られた、それが、イエス・キリストであるとあります。そのことをヨハネは感動の思いで記しています。民が長い間待ち望んだ神の言葉が、人間となったことが素晴らしいのです!

「イエス・キリストは偶像じゃないのですか」と問う人がいます。しかし、初期の教会の人々は、イエス・キリストを像に刻まず、偶像化しませんでした。その言葉や教えを心に刻みました。その御言葉を大事にすることを使徒パウロは「信仰」と呼び、ガラテヤ書4章で「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、産みの苦しみをする」という内容を記しました。この「形」は言葉です。この言葉を信仰として心に刻み、愛に満ちて生きていくように言われています。このように、イザヤ40章8節は未来に向けて語られた言葉であり、これがイエス・キリストに集約して、預言が完成して、新約聖書に記されています。

 

 福音書の疑問:主イエスが言葉を発するだけで実現するのはなぜ?

主が言葉が発するだけで、なぜ事実が伴うかという問いが生まれます。癒しにおいて、イエスが「清くなれ」と言うと相手は即刻癒されました。中風の人に床を担いで歩きなさいと言うとその通りになりました。

修辞学者でもあったアウグスティヌスは、言葉は何かを指し示すために使うものであると言っており、だから「言葉が肉を取り、イエスにおいて、言葉と現実が一つになったのだ」と言ってやまないのです。

一つの例として、主イエスが、ナインで一人息子を亡くした母親を見て憐れに思い、その息子に甦(よみがえ)るように言われて、そのとおりに生き返った出来事がありました。イエスの御言葉が素晴らしいだけでなく、現実にその通りになりました!人々は旧約の預言が、現実に肉となってイエス・キリストになったことに感動しているのです。旧約で教えられた「神の言葉」が、私達の中に現れたのが、イエス・キリストです。

 

 今や、「神の言葉」は主イエスの中に現れている!

 「言葉」とは出来事の葉っぱです。旧約聖書の時代では、神の言葉を頭につけたり、衣の裾に書き入れたりしていたのですが、今や、新約時代になりますと、イエス・キリストの中に神の言葉は凝縮されて現れたのです!人々は、この御方を心に受け入れて、生活を始めたのです。

 

 ヨハネ福音書における「主イエスの御言葉」

「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)とは、何かの奴隷になっている私達を、真理(キリスト御自身)が解き放ってくださっていると言えます。また、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の御言葉も挙げたいと思います。主は、私達人間に、何かをしなさいとはおっしゃっていません。わたし(主イエス)自身が道であり、真理であり、命であるから、わたしの上を通っていけ」とおっしゃっいました。その他にも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)という御言葉もあります。人はその御言葉につながり、そのまま聞いて心に留めるべきであり、イエス御自身が貴い「神の言葉」です。また、死んだラザロも、主イエスに出て来なさいと言われて、甦りました!(11章)主イエス御自身も、3日目の復活を預言し、現実になりました。私達は新しい目や新しい心をもって、聖書を読むべきです。

 

 聖書の読み方

今日の旧約聖書箇所のイザヤの預言が、主イエスに具体的に示されていることが新約聖書に現れており、その恵みに私達は預かっています。私達はそのように受け止めて聖書を読んでいきたいと願います。