7月29日の説教要旨 「天からの権威、人からの権威」 平賀真理子牧師

出エジプト記11521 ルカ福音書2018

はじめに

ルカによる福音書を読み進めてきて、イエス様が、この世で歩まれた最後の一週間の箇所に入りました。イエス様が神の都エルサレムに入った出来事を「エルサレム入城」、その後に、エルサレム神殿で商売人達をイエス様が追い出した出来事を「宮清め」と言います。今日は、その後に行われた、イエス様と反対派の人々との論争の箇所です。

 

エルサレム神殿を、神様の御言葉で満たしたイエス様

「宮清め」の後、つまり、エルサレム神殿で本来行われるべきでない商売を直接排除なさった後に、イエス様は、まず、中身として大事なことを行われました。それは、神様についての「本当の教え」、または、御自分の教えを信じることによる「救い」を民衆に伝えることです。エルサレム神殿を、この世の「金銭」ではなく、「神様の御言葉」で満たしていかれたのです。このことは、後の時代の信仰者の私達から見れば、なんと素晴らしいことをなさったのか!という思いにさせられますが、既に自分達に都合の権利を得ていた人々(反対派)の立場から見れば、イエス様を一刻も早く排除したいと思ったことでしょう。

 

反対派(祭司長、律法学者、長老達)からの質問とイエス様の逆質問

だから、彼らは、イエス様の言動の源について質問しました。イエス様が神殿内で教えている、その言動は、誰の許可を取って行っているのか?という問いです。そして、結局、誰からも権威をもらっていないことを明確にして、エルサレム神殿で教えさせないことをもくろんでいたと思われます。これに対して、イエス様は、逆質問する形をお取りになりました。しかも、その逆質問は、イエス様御自身の権威について直接の問いではありません。御自分ではなく、「ヨハネの洗礼」の権威についての質問でした。これに対して、反対派の人々は、「自分達の質問に答えず、逆質問する権利がどこにあるのか?」などと言わず、その質問に答えられなくて右往左往しています。イエス様からの逆質問は彼らの矛盾を深く突くものだったのです。

 

 「ヨハネの洗礼」の権威は、天から?、人から?

 ユダヤ社会においては、救い主誕生の前に、主の道を備える者(マラキ3:1)が現れると預言されていて、それが「洗礼者ヨハネ」だとルカ福音書は証しするべく、このヨハネの誕生や、彼が行った悔い改めの説教と洗礼が神様の御計画であると伝えています。「もしかして救い主では?」と期待された、このヨハネは、自分はそうではなくて、その前に主の道を備える者に過ぎないと事前に語り、イエス様が自分の所に洗礼を受けに来た時に、「この御方こそ救い主であり、神の子である」(ヨハネ1:29ー34)と証ししました。このことは当時のユダヤ社会で有名な話で、反対派の人々も知っていたはずです。だから、彼らは「洗礼者ヨハネの洗礼」は「天(神様の呼び名の別称)からの権威」と知っていたはずなのです。

 

洗礼者ヨハネも救い主イエス様も「天からの権威」

洗礼者ヨハネの洗礼が「天からの権威だ」と答えたならば、そのヨハネが「救い主」と証ししたイエス様を主と認めないのは「神様への不信仰」です。反対派の人々にとって「不信仰」とされることこそ、受け入れがたい不名誉です。だから、彼らはヨハネの洗礼を「天からの権威」とは答えられません。また、もう一つの選択肢の「人からの権威」と彼らが答えたならば、「洗礼者ヨハネ」を神様から遣わされた人物であると信じて、彼から洗礼を受けた、大勢の民衆が、指導者達は、自分達とは見解が異なると知って暴動を起こすだろう、そんなことは指導者として避けたいと考えたのでした。神様の御業を認めようともせず、民衆の評価と勢いを第一に恐れた彼らは、結局、イエス様の逆質問に答えないことを選びました。実は、この逆質問は、彼らへの悔い改めへの招きでした。この機会に、彼らはよく考えて、または、真摯に祈り求めて、イエス様を「救い主」と受け入れることもできたのです。けれども、彼らはそれを拒みました。そんな彼らに、救い主イエス様も答えを拒んだのです。

 

イエス様を「救い主」と受け入れる者達(私達)への大いなる恵み

天からの権威による「救い主イエス様」を知りながら、面と向かわない者は、結局、主の救いに与れません。一方、何の功績もない私達が、主の救いを受け入れるように導かれました。その恵みに感謝しましょう!

 

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