1月5日の説教要旨

イザヤ書40:27-31・テトスへの手紙3:1-11

「良い行いに励む」 

有馬味付子牧師(成増(なります)キリスト教会・東京)

*はじめに

 クリスマスの大きな恵みの中に、喜びと感謝にあふれて新しい年を迎えることができ、こうして共に礼拝をささげられますことを、深く感謝いたします。由子先生が入院なさっていて大変な中ですが、義子先生はじめ教会の方々が祈りを合わせ、力を合わせて、教会を守っておられることも感謝です。 私を用いて下さいましてありがとうございます。

共に御言葉からメッセージをいただきましょう。

*イザヤ書のみ言葉

 私たち人間の力は、元気も権力も、地位も、名誉もやがて衰え、弱り、倒れます。しかし主を待ち望む者には、どんな困難な状況にあっても、必ず「新たな力が与えられ」鷲(わし)が翼を張って、ゆうゆうと大空を舞うように、ゆうゆうとその困難の中を生きることが出来ます。

 今朝はまずこのことを深く心に覚えましょう。

*テトスへの手紙

 この手紙は、使徒パウロからパウロの愛する弟子テトスに宛てた手紙の形をとっていますが、研究者の大方の意見では、パウロよりも50年位あとの時代に書かれたものです。それで、この手紙の著者やテトスという弟子については、さておいて、この手紙が私たちに投げかけているメッセージを受け取っていきたいと思います。

*「テトスへの手紙」のメッセージ

 この手紙で教えていることは、まだ主イエスさまの十字架と復活が伝えられていない土地で、どのようにその福音を伝えていけば良いのかということです。キリスト教がどういう教えであるのか、全く分かっていないところで福音を伝えていくことが、どれだけ困難なことであるかは、仙台南伝道所の17年の歴史の中で、義子先生も邦廣先生も教会員の方々も、実感しておられると思いますが、この手紙のメッセージはそういう困難をよく承知の上でなお「勇気を失わないで伝道しなさい」ということです。

*「伝道するために、しっかりした教会をつくりなさい」

 そのために、長老を立て、監督を立てなさい。そして長老たるもの、監督たるものの資格が言われています。また教会員を育てなさい。そのために教会員はこうであるようにと勧められています。

非難される点がない、不従順であってはならない、など、それぞれの年代別に、男女別にたくさんのことが挙げられていますが、その中で浮かび上がってきたことがあります。それは「分別がある」ということと「不従順でない」ということです。

*「分別がある」ということ

 これは「思慮深く」や「慎み深く」という意味と同じです。

ある人は「人が見ているか見ていないかにかかわらず、悪いことはしないという精神だ」と言い、ある人は「自分の本能や情欲や欲望や快楽を完全に制することの出来る精神だ」と言っています。私たちは、「それはとても無理です」と即座に言ってしまいそうですが、これは、「主イエス様の十字架によって、私は罪から救われました。聖(きよ)められました」という、その心を「分別がある」という形で表しなさいということです。私たちが普通「分別がある」「思慮深い」という言葉からイメージするのは、人間同士の横の関係だけで、神様と私という縦(たて)の関係とは考えません。しかし、このテトスへの手紙では、「分別がある」ということは、神の恵みによるのだと教えています。

2章の11節から13節を読みましょう。

ここで11節の「神の恵み」というのは、イエス様の十字架によって私たちの罪が赦されることです。罪が赦されることによって、この世的な欲望を捨てて、分別ある生活が出来るのです。さらに、分別がある生活は、私たちの唯一の希望である「永遠の命」に直接結びついているのです。

神の恵みと行いがこれほど密接な関係であるというのは、このテトスへの手紙の大きな特徴です。

*「不従順でない」ということ

 不従順というのは反抗的だということ、言うことを聞かないことです。人の言うことを聞かないばかりでなく、ここでは神様のおっしゃることを聞かないということです。神さまのみ心を無視する、神さまのみ心に従わない、これはまさに罪ということです。このどうしようもない私たちの罪が赦されるために、イエス様は、十字架で殺され、死んで下さったのです。ですから「不従順でない」ということも、人間同士の横の関係ばかりでなく、神さまとわたし、神さまと私たちという縦の関係であるということを、しっかり心において、従順というものを追い求めて行きましょう。

*テトス3章3節

わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。

これが、神さまを、イエスさまを知らない時の私たちの状況です。

「いや、私はこんなにひどくなかった」と、思われるかもしれません。

しかし、イエスさまの十字架を知らない時、あるいは認めない時は、まさにこういう状態なのです。人間同士の関係ならまあまあ大丈夫でも、神さまと私との関係では、どんな人もこのような最悪な状態であるということを覚えたいです。

*神さまの慈(いつく)しみと、何ものにもまさって私たちを愛して下さる愛

 このような最悪の状況から私たちを救って下さったのが、神さまの一方的な愛と恵みです。これによって、私たちは永遠の命をいただくことが出来るのです。先日のクリスマスは、神さまの限りない愛と恵みを、イエスさまという私たちの目で実際に見ることができる姿であらわして下さったことを、心から感謝したところです。

*私たちの良い行いを見て

 2節に「すべての人に心から優しく接しなさい」とあります。私の頭にひらめいたのはAさんがBさんにされたことです。高齢のために自分では出来なくなっていたBさんのために、Aさんは仙台と東京を何度も往復して助けておられました。私にはとてもまねできないと思っていました。

「優しくする」とは、その人の弱さに対して思いやりを示すことです。

私たちの良い行いを見て、家族が、友人が、回りの人が、イエスさまを知ってくれれば、本当にうれしいことです。

 良い行いに励むことは、道徳的、倫理的なものを越えて、「私が聖(きよ)められること」です。

このことを覚えて歩んで行きましょう。

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