9月13日の説教要旨 「平地の説教②-敵を愛する-」 牧師 平賀真理子

出エジプト記23:4-5・ルカ福音書6:27-36

 はじめに
キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて2回目になります。直前の段落の最初20節にあるように、イエス様はまず、弟子達に向かって御言葉を語られたのですが、今日の箇所の27節「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と、聞き手の範囲を広げて語ってくださっていることがわかります。

 「御言葉を聞く」
「聞く」という言葉に注意する必要があります。右の耳から左の耳に音声を聞き流すという聞き方ではありません。御言葉を聞いて、それに従って生きていく覚悟で聞き、その教えを心に留めると言う意味です。
御言葉に、尊敬の念を持ち、聞き従いたいと望む者達に語られています。
後の時代の私達も、聖書を通して、主の御言葉に出会う恵みを与えられています。時代を越えて真剣な聞き手を渇望しておられる主の期待に応える者として、御言葉を心から渇望する者となりたいものです。

 「愛敵の教え」
27節後半で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とあります。「愛敵の教え」といわれていますが、常識と違う教えを聞き、「私には難しい」と思ってしまう方が多いのではないでしょうか。

 「敵が思い浮かぶ」
その前に、愛敵の教えを聞いて、自分の「敵」を具体的に思い浮かべられるなら、そこに問題があります。「敵がいる!」のです。私達は、全く関係のない人を「敵」とは思えません。人生の中で何らかの関わりのあった人達の中に、「敵」=「愛せない人」を作り出してしまうのです。今日の聖書箇所で言うなら、自分を憎んでいる人、悪口を言う人、自分を侮辱する人、自分を痛めつける行為をする人(した人)、自分の持ち物を奪う人(奪おうとする人)です。神様が愛情を持って、私達に適切な時代・場所・環境を選んで置いてくださったにもかかわらず、その中で人間は「敵」を作ってしまう、これこそ、罪の一つです。そして、この世の常識では、敵は憎むべきもの、自分の受けた損害と同じものを返して当然です。

 愛敵の理由
そんな「この世のルール」から私達を解放してくれるのが、「愛敵の教え」です。
人間的な感情に従うならば、敵は許せませんが、その怒りなどの悪い感情に自分を従わせて仕返しするのは、自分をこの世のルール・罪の世界に更に縛り付けることです。直前の段落の言葉で言うならば、「不幸」=「神様の祝福をいただけない」状態から抜け出せないままです。それは、私達を「神の国の民」としたいと切望されている神様の御心とは全く相いれないもの、御心に適わないことです。

 愛敵の教えのとおりの生き方
イエス様は、「敵を愛する」という教えだけでは、罪ある人間には難しいことをおわかりになっていたのでしょう。イエス様御自身が「愛敵の教え」のとおりに生きる姿を見せてくださったのです!イエス様を妬み、憎み、「敵」と見なした権力者と追随者達は、イエス様に対して悪口を言い、侮辱し、服をはぎ取り、十字架で命を奪ったのです。してほしくないことばかりした人々に対し、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです。
(ルカ23:34)」と執り成しの祈りをなさいました。御自分を敬愛せず、受け入れようとしない人々に、究極的な「神の愛」、御自分を犠牲にしても相手の幸いを願う愛を「祈り」という行為で示されました。この教えは、聞き従う者達への教えではありますが、イエス様の歩みの預言でもあったのです。

 黄金律
31節「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は、「黄金律」として、キリスト教の大事な教えです。主の十字架の御姿を思い浮かべつつ、神の国のルールを第一に思って行動する基準が心に立っているでしょうか。相手の反応に左右されず、徹底的な愛を持ち、神の御心に従う良い行いをしましょう。

 「神の国の民」としての期待を受けて
「敵」に良い行いをするのは大変厳しいですが、「神の国の民」とされている私達は、まずは、今日の旧約聖書にあるとおり、自分の感情を脇に置いて、「敵」を助けるよう、努めましょう。最終目標は、罪の世界のルールから解放され、主のように敵の為に祝福を祈り、親切な行いをするという「神の愛」の実現者になることです。目標に向かって、成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。