説教要旨 「主の言葉は永遠に残る」 飯島 信先生(池袋台湾教会)

/n[ペトロの手紙一] 1章22-25節 22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。 25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。 /nはじめに  ペトロの手紙一は大きく三つに分けられます。�「救い」についての解説、�「救い」を望みつつ、この世の生活をどのように過ごすべきか � 勧告です。主題は、教会内部の結束と迫害に対する忍耐です。今朝私達に与えられた聖書は、キリスト教信仰の基となる「救い」についての解説と、その救いを確信させようとしている箇所です。 /n「あなたがたは、・・兄弟愛を抱くようになったのですから」 (1章22節)  1章15節に「聖なる者となりなさい」とあります。聖なる者とは真理(神から賜った救い)を受け入れた者であり、魂が清められた者です。信仰のゆえの患難(かんなん)に満ちた状況であればこそ、聖なる者達が 偽りのない清い心で深く愛し合い、結びつくことが重要であって、この互いを結びつけるものが兄弟愛です。この兄弟愛こそが教会のあるべき姿、交わりの本質、土台を示すものです。 /n兄弟愛は可能か  このような兄弟愛の実践は可能か?信仰を持つゆえに与えられた患難に満ちた迫害の中にあって、人は自分を守ることで精一杯であり、時として自分を守る為に他の人を犠牲にすらするのではないか・・? このような疑問に対してペトロの手紙の著者は、兄弟愛を可能にするのは、信仰者が「新たに生まれた者」(自然の草木のように朽ちる種からではなく神の変わることのない生きた言葉という朽ちない種から生まれた者)だからだと語ります(23節)。そして、あの有名なイザヤ書を引用します。 /n「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」  この元になっているのがイザヤ書40:6-8です。 >> 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが 私達の神の言葉はとこしえに立つ。」 <<  このイザヤ書の言葉の前には、バビロン捕囚の地からのイスラエルの民の帰還の預言があり、この言葉は人間の無常について語っています。天上からの呼びかけと地上からの応答・・二つの霊の対話です。 神(ヤハウェ)の栄光の前にはすべての被造物はやがて滅び、カルデヤ (バビロニア)の文化の繁栄でさえ 野の花のごとくやがて枯れ しぼまねばならない。アラビアの砂漠の熱風が吹けばたちまち枯れてしまう。しかし神(ヤハウェ)の言葉のみは変わることなく、永遠である。と語ります。   /n詩編103篇  このイザヤ書の言葉は、詩編103編と呼応しています。 >> 「主は私達をどのように造るべきか知っておられた。私達がちりにすぎないことを 御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。」(14節-16節) <<  人の一生は短く、しかし神のいつくしみは永遠である。すなわち人は神によって土のちりから造られ、死して又、土のちりに帰るもの。しかし神はこの人間を常にかえりみて いつくしみ給う、と歌います。 /n人間の一生のはかなさと、それに対する永遠に立つ神の言葉  いかなる迫害の下にあっても、たとえ殺されることがあっても、信仰に固く立ち続けなさい。なぜなら人間の命ははかなく、栄枯盛衰は繰り返されるが、主の御言葉は歴史を貫いて永遠(とこしえ)に 変わることがないから、とイザヤ書も詩編も語っています。 ……………………………………………… /n小説「クオ・ヴァディス」Quo Vadis Domine(シェンキェヴィチ著)  私はこの春、神学校時代の仲間と共に小説「クオ・ヴァディス」の舞台ともなったアッピア街道に立ちました。この小説は紀元1世紀のローマを舞台に皇帝ネロの迫害下で信仰を守り通す初期キリスト教徒を描いたものです。小説では、迫害を避けてローマから逃げていくペテロが、アッピア街道を、自分とは逆にローマに向かって歩み来る人の姿を認めます。その箇所を少し読みます。 _________________________________________________________ 次の日の明け方、カンパニア平原に向ってアッピア街道を進んでゆく二つの黒い人影があった。一人はナザリウス(少年)、もう一人は使徒のペテロで彼はローマとそこで苦しみを受けている同信の仲間を後にして行くのであった。(略)道は人通りがなかった。・・旅人たちがはいている木の靴が、山の方まで国道に敷き詰めてある石だたみを踏む度に、あたりは静けさを破ってこつこつとひびいた。やがて太陽が丘の狭間から上ったが、それと同時に ふしぎな光景が使徒の目を射た。金色の環が空を上へ上へとはのぼらずに、丘を下って道をこちらへ進んでくるように彼には思われたのである。ペテロは立ち止まって言った。「あの明るいものが見えるかね。私達の方へ近づいてくるようだが」「何も見えません」ナザリウスは答えた。しかし使徒はすぐに片手で目をおおって言った。「誰かが日の光の中をこちらへ歩いてくる」しかし彼らの耳にはかすかな足音すら聞こえなかった。あたりはしんと静まり返っていた。ナザリウスに見えたのはただ,遠くでまるで誰かがゆすぶっているように木の葉がゆれ動いたことだけであった。(略)「ラビ(先生)、どうなされました」彼は心配そうに叫んだ。ペテロの手からは旅の杖が、はたと地に落ちた。目はじっと前を見つめている。口があいて、顔には驚きと喜びと恍惚の色が浮かんだ。突然彼は両手を前に広げてひざをついた。口からはしぼり出すような叫び声がもれた。「キリスト!キリスト!」彼は頭を地につけた。長い沈黙が続いた。やがてむせび泣きに途切れる老人の言葉が静寂を破ってひびいた。「クオ・ヴァディス・ドミネ?」(ラテン語。主よ、どこへ行かれるのですか?)その答えはナザリウスには聞こえなかったが、ペテロの耳は、悲哀を帯びた甘美な声がこう言ったのを聞いた。「おまえが私の民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」 使徒は身動きもせず、一語も発せずに、顔をほこりの中に埋めたまま地面にひれ伏していた。ナザリウスは、使徒が気絶したか、それとも死んだかと思ったほどであった。けれどもペテロはやがて起き上がって、ふるえる手で巡礼の杖を取り上げ、ひとことも言わずに七つの丘の都のほうへ向き直った。少年はこれを見ると、こだまのように使徒の言葉を繰り返した。「クオ・ヴァディス・ドミネ?……」「ローマへ」使徒は小声で答えた。そして引き返した。 _________________________________________________________ そしてペトロは捕らえられ殉教の死を遂げます。 /nパウロも・・ パウロも同じでした。キリスト教の歴史、それはこの初期キリスト教徒達の歩みを追うまでもなく迫害と殉教の歴史でした。ヨーロッパにおいても、そして日本においてもキリシタン迫害の歴史です。 /nなぜ?  キリスト教はなぜこのような迫害と殉教の歴史をたどらねばならなかったのか。その歴史に耐え、信仰を捨てなかった私達の先達の中に生き生きと脈打っていた信仰の真実とはどのようなものであったのか。このことを考える時、思い起こさずにはいられない御言葉があります。 /nフィリピの信徒への手紙 1:21-24  >> 「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」 << /nなぜ、パウロは自分の生と死について、このように語れたか。  それは、ガラテヤの信徒への手紙 2:20にあります。 >> 「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 << /nおわりに  >> 「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる。」 <<  私は、この言葉にこそキリスト教2000年の歴史を貫いて生き続けるキリスト者の生命の輝きを見るのです。そしてその輝きは2000年をはるかに越え、あの旧約の時代から約束された主の言葉の解き放つ永遠の輝きとなって、私達の(神に従う)道を照らし続けているのを覚えるのです。 (文責 佐藤義子)