宗教改革記念礼拝 「キリストによる和解」 原口尚彰 先生

/n[コリントの信徒への手紙二] 5章16-21節  16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 /n  多くの教会では、マルティン・ルターの宗教改革を覚える日として、10月31日に最も近い日曜日を宗教改革記念礼拝として守っています。1517年10月31日、ドイツの小さな町 ヴィッテンベルク大学の聖書学の教師マルティン・ルターが、城教会の扉に95か条の提題を貼り出しました。提題はラテン語で書かれ、聖職者・神学者達に対して神学的な討論を呼びかけた文書でした。中味を簡単にいえば、当時は免罪符というものが売られており教会建築などに当てられていましたが、ルターの根本的な批判は「人の罪が赦されるのは真摯(しんし)な悔い改めというものがなければいけない。それは他人が代わる事は出来ないし、ましてや立派な信仰者の功徳(くどく)にあずかる為に、お札をお金で買って罪を赦されることはない」というものでした。95か条の提題を貼り出す前も、後も、ルターは何度もそのことを語っています。この当然すぎる主張が大きな反響を呼び,教会の権威への挑戦という意味を持ちました。ルターは同じ文章をマインツの大司教アルブレヒトのもとに届け、アルブレヒトはそれを教皇庁に送りました。教皇庁はこれを非常に問題にして異端とし、ルターは教皇庁の審問を受けることになりました。最初は免罪符というお札の効力の問題でしたが、討論をする過程で、もっと根本的な「人はどうして救われるか」「福音とは何か」「教会はどうあらねばならないか」という議論に入っていきました。その結果、当時の教会と正面衝突をすることになりました。ルターはもともと新しい教会を作るという意図はありませんでしたが、結果として1521年、カトリック教会は彼を破門することになりました。  その年、ルターはヴォルムスでの神聖ローマ帝国の国会で審問を受け、今迄の彼の言動を取り消すかどうかを問われました。彼は「聖書と良心に照らして、全く取り消す余地はない。」と答えました。その結果、彼は神聖ローマ帝国の市民権を停止されました。当時の教会はルターの主張に耳を傾けませんでしたが、神学者や一般市民(貴族・諸侯・庶民・農民)の多くがルターに賛同し、彼の主張はドイツ中に広まり、  ヴィッテンベルク がドイツの宗教改革の中心になりました。更に彼の主張は(活版印刷の技術も手伝って)ヨーロッパ中に広がりました。少し後に、チューリッヒにはツヴィングリという改革者が、又、もう少し後に、ジュネーブにはジャン・カルヴァンが中心となり改革がすすめられ、大きな運動になっていきました。  ルターの行動の根本にあったのは、社会を変えるというよりも我々の信仰のあり方そのもの、「人間はどのようにして救われることが出来るのか」ということであり、彼はそれを聖書-パウロの言葉-に従って 「神の義」ということを問題にしました。神の義についての彼の根本的な確信・認識に照らして当時の教会のやっていることが正しいのか?彼がそれを問題にする背景には、彼が救いを求めて修道院に入り、修道士として非常に厳しい修道生活をした、その修道院での彼の霊的な歩みが根本にありました。彼は神の義が恐くて仕方がありませんでした。いくら善行や修行を積んでも罪の意識は少しもなくならず、神の前に自分の罪意識は深くなるばかりでした。彼にとって神の義は、義にしたがって裁く義でありましたから、彼は裁きを恐れました。その過程の中で彼が見出した結論は「人が神から義とされるのは、律法のわざや良いことを行ったからではない。ただイエスキリストを信じる信仰によって神の前によしとされる」。このことは、パウロがロマ書やガラテヤ書で語っていますが、そこに立ち至りました。神の義とは、神は正しい方で、審判者として人間を裁くのではない。むしろ罪ある人間を良しとする。それはキリストのゆえに出来る。キリストを信じる者を義とする。それは人間にとって、自分が良い行ないをしたとか良い人間であるという功績として受けるのではなく、ひたすら恵みとして受けるものである。このことをルターは「恵みの賜物」と言っています。「恵みの神」の発見、「福音」の再発見ともいわれるこのことは、聖書で言われていたことが教会の長い歴史の中で見えなくなっていたということで、そこに立ち帰ったということです。  新たに再発見された「福音の理解」に従って、ルターは「教会の教えと実践」の全体を見直しました。その結果、福音主義の教会が成立して、私達もその流れの中に立っています。ルターの「実践」の部分の改革では「礼拝」の改革が一番大きかったのではないかと思います。礼拝が正しい形であるべきというのは当然のことでありました。当時の礼拝はラテン語によるミサで、特別な教育を受けた者や聖職者にしかわかりませんでした。聖書朗読と説教の割合は小さく、中心は聖餐式(カトリックでは聖体拝領)でした。キリストの体と血にあずかる。しかもぶどう酒は聖職者のみで、信徒はパンにあずかることが礼拝でありました。宗教改革でまずやったことは、礼拝をわかるものにする為、民衆の言葉であるドイツ語で礼拝がなされました。礼拝では説教(御言葉が語られて説き明かしがなされる)を自分達の言葉で聞くことが出来る。その言葉を繰り返し繰り返し聞くことによって信仰が養われるという私達の礼拝のかたちはここからきています。  当時の礼拝の様子を描いた絵が残されていますが、16世紀の教会にはイスがなく全員立って礼拝をささげていました。讃美歌は聖歌隊が歌い、音楽的には高度でしたが会衆は聞くのみでした。ルターは、会衆が参加出来る簡単な讃美歌(聖書のメッセージを載せた)を作り,広めました(267番「神はわがやぐら」等)。又、当時の聖書はヒエロニムスが訳したウルガタ(ラテン語訳)聖書でしたが、ルターは信徒一人一人が聖書を読めなければならないと考え、ドイツ語に聖書を翻訳しました。<テューリンゲンのヴァルトブルク城に幽閉されていた時、原語のギリシャ語からドイツ語の新約聖書を完成(1922年9月)、その二年後、原語のヘブライ語から旧約聖書を完成させ、このルター訳聖書はドイツの標準語の形成にも大きな役割を果たしました。>  又、ルターは信徒の教育についても心を配りました。教会を廻った時、牧師も信徒もキリスト教教理の基本についてあまりわかっていないことに気付き、牧師の為には「大教理問答書」信徒の為には「小教理問答書」を執筆しました。現在でもルター派の教会では、小教理問答書を受洗者の教育の為に用いています(内容は、十戒・主の祈り・使徒信条・洗礼と聖餐について)。その後「ハイデルベルク信仰問答」(改革派)、「ウェストミンスター教理問答」(長老派)が生まれました。  今日は、改革者ルター・教育者ルターに焦点をあててお話しました。それらを踏まえた上で、その後のカトリック教会の歩みについて少しお話したいと思います。  現在のカトリック教会は16世紀のカトリック教会と同じではありません。大きく様変わりをしました。現在カトリック教会は16世紀に対立した福音主義教会と和解をしようとしています。16世紀にはルターを中心とする宗教改革の流れに対してカトリック教会はノーと言いました。16世紀の中頃トリエント公会議を開いたカトリックは,プロテスタントが「信仰のみ」といえば、「善いわざも!」と言い、プロテスタントが「聖書のみ」といえば、「教会の伝承も!」と言いました。しかしカトリックの歴史を見ると、改革に反対しただけではなく自分達の教会を内側から改革していこうとする動きもありました。  イグナティウス・ロヨラは新たな修道会を作りました(イエズス会)。そして世界中に宣教師を派遣し、その中にはインド、インドネシアを経由して日本にやってきた宣教師がいました。それから数百年たち20世紀の後半になってカトリック教会は大きく改革の方向に舵(かじ)を切りました。教皇ヨハネ23世が召集した第二バチカン公会議で、現代世界における教会の思い切った刷新をしました。その中に、教会憲章では教会を「地上を旅する神の民」といっています。プロテスタントでは、教会は何よりも「聖徒の交わり」といいました。正しく御言葉が語られ、正しく聖礼典が行われる所が教会であり教会は建物・組織を意味するものではないとの主張にカトリックは近づいてきました。礼拝に関する定め「典礼憲章」の中ではミサによる聖書朗読・説教の重要性を強調しました。多様性における一致が基本理念でありましたが、各国語によるミサをやっても良いことになりました。それ以後、各国の国語で礼拝が持たれるようになりました。又,会衆全体で典礼聖歌が歌われます。現象面では五百年たって、カトリック教会とプロテスタント教会は礼拝が非常に似たものとなってきました。  又、公会議ではエキュメニズム(教会一致運動・違う教派の教会が互いに協力しあい、相互理解を深める運動)についても採択されました。その中で東方教会(ギリシャ正教やロシア正教など)やプロテスタント教会を「分かたれた兄弟」と呼び、教会一致のための対話を始めました。カトリックが舵(かじ)をきったので、カトリック主導で様々な神学的な対話を行うようになりました。例えば私が体験したのは、アメリカで1970年代から80年代にかけて代表的なカトリックの神学者とルター派の神学者が集まり定期的に協議をし、教会の重要な教義について一致点を見出していました。洗礼の理解や、ニカイア信条・使徒信条など古代の信条については両者ともあまり変わりませんでした。教会の職務については、カトリックは教皇制があるので難しいです。最後に義認の問題について「神の前にいかにして人は義とされるか」というところまでやりました。予想するよりも多くの一致が出来てきました。ドイツでも同じような試み(草の根的な協議)がなされ、それを踏まえた上で、カトリック教会全体とルター派の教会(世界ルーテル連盟)の代表者達が1990年代、協議を持ち、(ルター派の立場)「教会が立ちもし、倒れもする義認についての教え」「人は神の前にどうやって義とされ、救われるか」の基本的な合意がなされ、1998年、両方の教会の名前で義認についての共同宣言がなされました。「人が神に義とされるのは『恵み』により『キリスト』による」。この原則を共通理解として確認しました。そして16世紀に宣言された相互の断罪は現在の両方の教会には妥当しないこと、それは歴史の一頁であるとしました。  そして次の年の10月31日、ドイツのアウグスブルグで両方の教会の代表が共同の儀式を行い共同宣言を出しました。こんにちの10月31日はルター宗教改革記念日と同時に、カトリック教会とルーテル教会が歴史的和解をしたことを覚える日ではないかと思います。宗教改革記念日は宗教改革を覚えるだけでなく、我々が和解という大きな流れの中にいる、ということを考える日ではないかと思います。  最後になりましたが、さきほど読んだ第二コリント5:16-21は和解の務めについて語っている箇所です。この箇所においてパウロは勿論、「キリストにおける神と人との和解」ということを言います。人間の犯した罪は、神と人との間をそこないます。神と人間との間は敵対関係にあります。その敵対関係を解消して本来の関係に戻す為には両者は和解をする必要があるわけです。神は人間に対して罪の責任を問わないで、かえって御子を通してその罪を取り除いて下さいました。御子イエス・キリストが罪を負って十字架にかかって下さった。その死を通して罪を赦して下さった。そのことによって和解が実現した、ということが大前提になっています。  パウロのような宣教者の務めは、この事実をまず語ります。そして聞く者に、神が与えて下さったこの和解にあずかるようにすすめる、ということを強くいっています。しかし神と人が和解したとはどういう意味なのか。そこから人と人の和解が当然出てこなければいけません。神と人の和解-平和-を語る教会や聖職者がお互いに対立して争うということは和解の精神にもとるものです。  16世紀にはお互いに断罪をしました。しかし500年たちましてその歩みの中でルターが発見した福音の基本的な理解にカトリック側が歩み寄ってきました。両方が同じキリストの体につながる枝として和解したということは非常に意味があるといわざるを得ません。私達はこのように歴史的和解の流れの中に,歴史的な和解の光の中にいるのではないでしょうか。  そのことを覚えながら、私達も神と人との和解、人と人との和解、和解の精神のうちに歩んでいきたいと思います。(文責 佐藤義子)