説教要旨 「礼服を着る」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 22章1-6節 1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」 15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 /nはじめに  今日のたとえは王様が主役です。王は愛する王子の為に結婚の披露宴を開きます。結婚は本人にとっても喜びでありますが、親である王にとっても大きな喜びです。私達は結婚式に招かれた時、新郎新婦の新しい門出を喜ぶと同時に、育ててきた両親と喜びを共にいたします。たとえの中の王は神様、王子とはイエス・キリスト、最初に招待されていたのは選民イスラエル(ユダヤ人)のことです。ユダヤ人は当然、祝いの席に座り、招かれた者の光栄を思い味わいつつ、王や王子と共にこの日を祝い、喜びを受け取るように定められていた人々でした。 /n招待を拒否  ところが彼らは、この光栄ある招待を断るどころか無視(5節)しました。一人は畑に一人は商売に出かけました。彼らは生きる為の経済活動を優先させました。その他の人々は家来を捕まえて殺してしまいました。人は、パンを食べなければ生きていかれません。畑の労働も、商売も大切です。しかし「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)のです。 この婚宴への招待は、招待状を受け取っていた彼らにとって、もはや喜びではなかっただけでなく、王子に対して憎しみさえ抱いていた、ということが想像されます。 /nそこで王は・・  来ようとしない彼らに対して、王は はじめ忍耐をもって別の家来を使いに出しますが(4節)、彼らの応対を知った王は怒り、軍隊を送って町を焼き払ってしまいます。(これはローマ軍によって、紀元70年にエルサレム神殿が破壊され、徹底的に滅ぼされたことを意味しているといわれています。) /n代わりに招かれた者  王は、『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい。』と命じます。そこで家来達は通りに出て行き、善人・悪人問わず、誰でも招きましたので婚宴は客で一杯になりました(8節-10節)。祝いの席には招かれていたユダヤ人ではなく、異邦人が座りました。 /nところが・・  その中に一人だけ礼服をつけずに来た者がいました。王はその理由を尋ねますが彼は答えません。礼服は、王の結婚披露宴の招待に感謝し、敬意を表すものです。逆の言い方をするならば、礼服を着ないことは、招いてくれた相手に、そして招待されたことに対して、軽く見ているということです。王は彼を外の暗闇に放り出すよう側近に命じました。私達は王(神様)の恵みによって招かれて、神の国の祝いの席についていると考えることが出来ます。神様から招かれたことに対して畏敬の念を持ちつつ、招かれた恵みを感謝するものです。礼服を着ていない者とは、「罪を赦されながら、尚、罪を自分のもとにとどめようとする者」「キリストを自らの主と呼びながら、自分自身にだけ仕えている者」という解釈があります。また礼服は、あふれる喜び(義でない私達が義とされた喜び、聖でない私達が聖とされていく喜び)を表していると言われます。私達は祝いの席に礼服をつけて座っているでしょうか。 /n「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(14節)  御言葉を聞く機会が与えられながら聞こうとしない人や、御言葉を聞いても素通りしてしまう人が多い中で、「選ばれる人」とは、御言葉を聞く機会を逃さず、聞くにふさわしい態度で聞き、聞いた御言葉にとどまる人です。御言葉にとどまり従っていこうとすれば必ず戦いが起こります。戦いが起これば弱い私達は助けを求めて祈ります。御心にかなう祈りは必ず聞かれます。今現在、自分の置かれている状況がどんなに厳しい状況にあっても、毎週の礼拝は、神様に招かれている祝福の場であることを覚えて、礼服を着て臨み、御言葉にとどまり続けながら歩みたいと願うものです。