説教要旨 「生きている者の神」 牧師 佐藤義子

/n[出エジプト記] 3章13-15節 13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。 /n[マタイによる福音書] 22章23-33節 23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。 24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。 26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。 27 最後にその女も死にました。 28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」 29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。 /nはじめに  本日の聖書にはサドカイ派の人々が登場します。彼らはイエス様に質問をしますが、その目的は自分達の「復活はない」という考えを論証する為に、そして復活を語るイエス様の矛盾を指摘し、イエス様が答えに窮する姿を期待して来たのです。彼らのような、自分達の権威を見せびらかす為、又、相手の社会的評価を引きずり下ろすことを目的に、悪意をもって質問する姿の中に、私達は人間にひそむ罪をみることが出来ます。そしてこの問答がイエス様のエルサレム入城後の十字架にかかられる週の出来事であり、あの手この手でイエス様を陥れようとする反対者達の勢いを見ます。 /nサドカイ派とは  彼らは主に祭司階級に属し、富があり、大祭司を選ぶ特権を持ち、保守的な人達でした。同じユダヤ教でありながらファリサイ派との大きな違いは、ファリサイ派が書かれた律法だけでなく口伝律法や習慣的規則をも重んじていたのに対して、サドカイ派の人達は旧約聖書の中でモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)だけをモーセの権威による書物として認め、そこに復活の記述がないことから復活はないと主張していました。復活を信じない=肉体が死ねば魂も共に死ぬ、との考えです。[ファリサイ派の人々は、ダニエル書やイザヤ書、エゼキエル書などを根拠に復活はあると主張し、復活を否定する者は来るべき世にあずかることは出来ないと主張。] /nレビレート婚  サドカイ派からのイエス様への質問は、モーセ律法の中にあるレビレート婚(申命記25:5以下に記述)を取り上げて、復活の矛盾をつくものでした。それは夫に死なれた妻が子供がなく残された場合、夫の兄弟がその妻をめとって子孫を残さなければならないという規定です。サドカイ派は、レビレート婚を適用すると復活の時はこの女は誰の妻になるのかと質問しました。レビレート婚を定めた律法を否定するのか、それとも復活はないとの自分達の主張に同意するのか、どう答えるのかを試したのです。 /nイエス様のこたえ  イエス様の答えは明快でした。「あなたたちは、聖書も神の力も知らないから思い違いをしている」。  ある神学者は、「今日のキリスト教の世界においても、この二つの欠乏(聖書を知る事の欠乏と神の力を知る欠乏)ははなはだしく、大体において考え方がサドカイ派の人々と同じたぐいである」と言っています。クリスチャンにとって聖書を知ることと神の力を知ることは不可欠です。聖書だけを知って神の力を知らない者は、聖書の文字に捕われて神様の力の自由な活動を見ることは出来ませんし、逆に神様の力を知っているけれども聖書を知らない者は、神様の力がどの方向に働いていくのかわからず悪の力と混同することが起こります。 /n「復活の時には天使のようになる」  復活の時は、誰の妻とか誰の夫とか、人間が誰かに属している形で神の前に立つことはないことをイエス様は教えられました。コリントの手紙15章には「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」とあります。サドカイ派の一番の問題は、復活はないと主張する根拠がこの世の延長としての死後の世界を考えていたからです。(中略)私達には知らない事・わからないことが多くあります。それは、私達が創られた存在、被造物だからです。創ったお方(全知全能の神)がすべてをご存じです。私達は「聖書も神の力も知らないまま思い違いをする」ことがないように、聖書をよく読み、神の力を知る真の信仰の道(それは同時に祝福への道)へと導かれたいと願うものです。最後に、コリントの手紙2章をご一緒に読みたいと思います。