説教要旨 「福音の力」 倉松功先生(もと東北学院院長)

/n[詩篇] 71:1-8 1 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 2 恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 3 常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 4 わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から/悪事を働く者、不法を働く者の手から/わたしを逃れさせてください。 5 主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 6 母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。 7 多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。 8 わたしの口は賛美に満ち/絶えることなくあなたの輝きをたたえます。 /n[ローマの信徒への手紙] 1章16-17節 1 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 2 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 /nはじめに  「福音」という言葉は良い知らせ・Good News といわれるものです。ロ-マの信徒への手紙の冒頭には、福音とは「御子イエス・キリストに関するもの」(3節)と記され、マルコ福音書には「神の子・イエス・キリストの福音」(1:1)と記されています。「・・の」は所有格ですから、イエス・キリストの持っている福音=イエス・キリストご自身の福音、であり、福音はイエス・キリストと切り離すことが出来ないだけでなく、主イエス・キリストご自身が福音であると理解して良いと思います。 /n福音をイエス・キリストに置き換える  「私は福音を恥としない。福音は・・」という言葉を「私は主イエス・キリストを恥としない。(なぜなら)主イエス・キリストは、・・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(16節)と読みますと、主イエス・キリストがもっと具体的に私達に迫ってくると思います。 /n救いをもたらす神の力  この言葉はイエス・キリストの内容、イエス・キリストがどういう御方であるかを最も簡潔に語った言葉ではないかと思います。「救い」という言葉は、一人一人違うのでよくわからない言葉です。その人がどういうふうに救われたか、その人の救いがどうなっているのか、その人の救いがどのように起こったのか、わかりません。実際、福音書を読みましても「中風の患者が救われた」「ヤイロの娘が救われた」と具体的にありますが、それぞれ状況が違い、その人の生きている中でどういう救いが起こったのか外からはなかなかわかりません。そういう中で福音書には、「罪よりの救い」「死の体からの救い」「命を救う」との表現が多いのではないかと思います。具体的に一つの例を見ていきたいと思います。 /nザアカイの例(ルカ福音書19章)  「今日、救いがこの家を訪れた。」(9節)。(「今日、救いがこの家に起こった」と訳すこともできる。)この言葉は、主イエスに向かってザアカイが示した態度を主イエスがご覧になって語った言葉です。 それはザアカイの「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)します。又、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」という告白に対してでした。ザアカイは徴税人で、同胞のユダヤ人からローマの占領軍の為に税金を集める仕事をうけ負っていました。徴税人は家族の生活の為、税金を上乗せして集めていましたから、人々からは罪深い男と見られていました。その彼が「半分を貧しい人々に施します」と告白したのです。これは大変具体的な告白です。「新しい人になろうとする」「これまでと違った生活をしようとする」その力一杯のザアカイの生活の中で出来た、「新しい人になること」を決意している告白の言葉であるといえると思います。 /n悔い改め  「誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」この言葉は、疑わしい生活の中にあったザアカイの持っていた罪の意識(これでは駄目だ。やむを得ないかもしれないけれど、これではダメという罪の自覚)を含んだざんげの気持が入っている悔い改めの言葉だと思います。新しい生活への決意、それはざんげの言葉と一緒になってザアカイから主イエスに告白の言葉として告げられたものです。 /n「今日、救いがこの家に来た」  この前後の関係を見ると、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」との主イエスの言葉があります。ザアカイのざんげは、この主イエスのザアカイに対する熱い心(愛といっても良い)が、告白をうながしたことは間違いないでしょう。「今日、救いがこの家に来た」と、救いをもたらした主イエス、そこに「福音・救いの力」というものが表れていると見ることができるように思います。「福音」というのは人間を新しくする。「新しくする」というのは主イエスによってもたらされる神の救いの力によって「新しくされる」。そこに福音が表れる。力である主イエス・キリストがそこに立っておられる、来ておられる、ということです。 /n「福音には、神の義が啓示されている」(17節)  「福音=主イエス・キリストには神の義が表れている。明らかに示されている。」といえます。「キリストにおいて明らかにされた神の義」とはどういうものであったでしょうか。それを一言で説明しているのが讃美歌262番「十字架のもとぞ いと安けき、神の義と愛の合えるところ(一緒になっている)」です。この神の義は、福音のもとに表れる(正義がそこに現れる)、或いは、悪を裁き罪をこらしめるということにとどまらず、神の義と愛が一緒になっている。つまり神の義がイエス・キリストに表れるということは、敵をも愛し、罪をも赦す。そういう愛、救いの力と同時に神の義が表れている。それがイエス・キリストに表れた神の義でしょう。 /nザアカイに見る神の義と神の愛  別の見方をすれば、イエス・キリストにおいて神の義と愛があらわれているということがザアカイに見た救いに具体化されている、といえないでしょうか。ザアカイの「四倍にして返す」というざんげ・・それはまさに、神の義が直接ザアカイの生活の中に反映しているともいえましょう。そして「財産の半分を施す」は、キリストの愛に基づく新しい生活への歩みを示しているといえましょう。神の裁き「正義」というものと、「神の愛」によってうながされた人間の在り方、というものがザアカイに反映しているといえます。「福音に神の義が表れる」ということはそういうことです。実際、「主イエス・キリストにおいて神の義が表れる」ということは大変重要な言葉であって、宗教改革はこの言葉から始まりました。ルターは詩編71篇の2節をロマ書1章17節のこの言葉を媒介にして理解し、それによって宗教改革へとうながされました。 /n「恵みの御業(みわざ)によって助け、逃れさせてください。」(詩篇71:2)  口語訳聖書はこの個所を「あなたの義をもって私を助け、私を救い出して下さい」と訳しています。つまり原語は、神の「義」とも「恵み」とも訳される言葉です。宗教改革は「神の義」がイエス・キリスト(福音)に表われる時に、罪人である私共を赦して義として下さる「神の愛」が表れる、と理解することから始まりました。それは神の愛、恵みの業が神の義とも訳されると同じように、聖書全体を通した神の救いの力を表現した言葉です。 /n「それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(17節後半)  17節前半は、イエス・キリストにおける事柄、後半は私共に対する主イエス・キリストに表れた福音との関係について語っています。「神の義は信仰を通して実現される」。ここに私共の立つ立場、イエス・キリストへの私共の対し方が出ていると思います。福音が主イエス・キリストである。主イエス・キリストに神の義が表れている。そのイエス・キリストに対する信頼、と理解することが出来ます。ザアカイはイエスキリストを信頼した。「ぜひ、あなたの家の客になりたい」と言ったイエス・キリストを受け入れた。「私はあなたを迎えるのにふさわしくない」という言葉は出ていません。「罪を赦してザアカイを受け入れ客となる」イエス・キリストを素直に受け入れた。信仰とは信頼です。17節後半は「初めから終わりまで信仰を通して、福音であるイエス・キリストは私共の中に受け入れられていく。それは主イエスに対する信頼に他ならない。」といえます。キリストにおいて明らかにされた神の義は悪や罪を裁くと同時に罪人への愛を示している。それが救いの力です。 /n「正しい者は信仰によって生きる」  「正しい者」とは主イエス・キリストを信頼することによって、救いの力を信頼することによって正しい者とされた者です。主イエス・キリストは私共に(丁度ザアカイの時のように)近づいてこられます。「二・三人集まる所には私もその中にいる」(マタイ18:19)といわれるように、御言葉を通して私達に迫ってくる主イエスです。そういう主イエスによって呼び起こされるのが主イエスに対する信頼です。信頼である信仰によって新しくされる。信頼によって私共は生涯を歩むことがゆるされている。そのことがハバクク書に「神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)と記されています。ここでは「正しい者は信仰によって生きる」と書いています。決して私達は初めから正しいわけではありません。誰一人、初めから正しい人はいないのです。キリストが近づくことによって、救いの力によって正しい者とされるのです。それはキリストに対する信頼によって生きることです。それを「神に従う人は信仰によって生きる」と書いているのです。